ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (27) 引き際

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 9 月30 日までの間、伊牟田課長はシステム開発室のメンバー全員に様々な雑務を命じた。全社員の検温データのグラフ化、テレワークにおける勤務時間の増減グラフ、rivendell の全ソースのステップ数一覧など、不要不急かつ手間のかかる作業ばかりだった。最初は、残りの数日間で、可能な限りの実績を積み上げるために焦っているのか、と多少は同情的な目で見ていたが、やがてそうではないことがわかってきた。
 「笠掛さんさあ」9 月第三週の木曜日、定例ミーティングの後、伊牟田課長は不機嫌そうにマリを呼びつけた。「この有休って何?」
 「は?」マリは戸惑った。「何って月曜日の有休申請ですけど」
 「んなこたあわかってるわ。何で有休取るのってこと」
 「えーと、どういう......」
 「だからさ。普通、会社休むなら理由があるわけだよな。申請フォームに何のために備考があるのか考えたことあるか? 普通は、理由書くだろ、理由を」
 これまであらゆる勤怠申請を機械的に承認してきた人の言葉とは思えない。マリはムッとした口調で答えた。
 「今まで何も書いてませんでしたけど」
 「今までは今まで。とにかく理由書かないと承認できんな」
 マリは困った顔でぼくを見た。斉木室長は何かの用事で席を外していたし、木名瀬さんはエミリちゃんの具合が悪いとのことで、ミーティングもリモート参加だった。ぼくはキーボードを叩く手を止めて言った。
 「有休取るのに理由は不要ですよ」
 「はあ?」返ってきたのは嘲るような声だった。「何言っちゃってんの。部門長が承認しないと有休は取れんだろうが。お前さん、そんぐらいのことも知らんのかいな」
 「それはシステム上の話ですよね」ぼくは丁寧に説明した。「有休取得は労働者の権利です。理由は必要じゃありません」
 「お前なあ、生半可な知識を振り回すんじゃねーよ。管理者にはな、時季変更権ってのがあんだよ。理由があれば有休の日をずらしてもいいことになってんの。何でその日に休み取るのかわからなきゃ、その判断ができんだろうが」
 「あの」ぼくは小さく首を横に振った。「何か誤解してませんか」
 「ああ?」伊牟田課長はぼくを睨んだ。「なんだと」
 「理由が必要なのは時季変更権を行使する方ですよ。多人数が同じ日に年休取得して事業の遂行を妨げるとか、その人じゃないとわからない重要な処理がその日にあるとか、そういうことです」
 伊牟田課長とマリは、目を丸くしてぼくを見つめた。
 「詳しいですね」マリが囁いた。
 「社会人ならこれぐらい常識」
 ぼくは答えたが、それは伊牟田課長に聞かせるためのウソだった。実際、勤続年数の長い会社員でも、年次有給休暇は上司の許可がないと取得できない、と思い込んでいる人は一定数存在する。ぼくが多少の知識を持っているのは、以前に某企業の人事システムのリニューアル案件にアサインされ、有休付与ロジックを丸ごと押しつけられた経験があったからだ。そのとき必要な法令などを調べたのだ。
 伊牟田課長は少しの間沈黙していたが、やがて薄ら笑いを浮かべた。
 「理由ならあるわさ。笠掛さんにはマネジメント三課の去年の残業時間の日別グラフ作成を命じるつもりだからな。これ、立派な理由だわな」
 そんなの理由になるか。
 「じゃあ、ぼくが今からやりますよ」ぼくは立ち上がると、手を差し出した。「データをもらえますか」
 「いやいや、今はデータがないからな。月曜日の午後に生データを人事からもらうことになってる」
 「だったら月曜日にぼくがやります」
 「オレは笠掛さんにやってもらいたいんだわ」
 「時季変更権は濫用していいものじゃないんですよ」面倒になってきたぼくは、少しぶっきらぼうな口調で指摘した。「使えるのは、使用者、つまり会社側が、シフトの調整とか業務プロセスの見直しとか、まず改善できることをやった上で、どうしてもって場合だけです。単にみんな忙しいからとか、人が少ないから、なんてのは理由になりません。何なら人事課に確認してみますか」
 「......」
 伊牟田課長は憎々しげにぼくを見たが、効果的な反論を思いつかなかったらしく、フンと鼻を鳴らした。
 「できへんちゅうなら、もうええわ」
 そう吐き捨てると、伊牟田課長はシステム開発室を出ていってしまった。ぼくたちは揃ってため息をついた。
 「ありがとうございました」マリは頭を下げた。「助かりました」
 マリが有休を取得したい理由は想像がついていた。マリは生理痛が比較的重い方らしく、これまでもピークの日は休みを取っていた。マーズ・エージェンシーには、生理休暇という休暇区分がなく、女性社員には年次有給休暇に12 日間がプラスされている。何年か前まではあったのだが、生理休暇が申請されるたびに「女子はいいよな」のようなセクハラ認定すれすれの嫌みを言う管理職が数人いて、耐えかねた女性社員たちが団結して抗議したため、現在のような形式になったそうだ。
 「何とかならんすかね、あれ」マリがぼやいた。
 伊牟田課長が、ぼくたちの工数をムダに消費するだけの作業命令を乱発しているのは、どうやら単なる嫌がらせであるらしい、ということに気付くのに、それほど日数は要しなかった。その原因の一端はぼくにもある。コードレビューの一件は、伊牟田課長が「仕事のできない人」であることを、社内の公式見解として広めることになっていた。それまでは、他の社員の功績にさも一役買ったような印象操作と、本部長・部長クラスに媚びへつらうことで、それなりのポジションを維持してきたが、一気に本性が露呈した形だ。システム開発室が、エースシステムとデータ連携の件でやり取りしていたため、自分がリードしているように見せかけようとしたのが裏目に出たのだ。
 「そう長いことでもないんだけどね」
 「どうですかね。この前、三課の人からも、余計なことしやがって、とか言われましたよ」
 類似の言動は、ぼくも受けている。意外なことに、マネジメント三課の課員の間では、伊牟田課長の評価は決して悪くなく、むしろ親しみやすく面白い上司だと思われているらしい。そのためか、伊牟田課長の「嫌がらせ」には、マネジメント三課も積極的に加担していた。先ほどのグラフ作成の件もその一環だろう。
 「余計なことをしたのは伊牟田さんなんだけど」ぼくはキー入力を再開した。「システム開発室の正義は、三課の悪って図式だから、もうどうしようもないなあ」
 伊牟田課長がぼくたちに業務上の指示を出すことは、その内容が意味のないものであっても、課長としての権限のうちだから、拒否することはできない。斉木室長は、自分を通してくれないか、と言ってくれたが、伊牟田課長はそれを無視して、頭越しにぼくたちをこき使っていた。
 「あの人」マリがモニタに向き直りながら呟いた。「立つ鳥跡を濁さずって言葉を知らないんすかね。アメリカの大統領だって、選挙に負けたら、勝った方に電話かけて敗北宣言するそうじゃないですか。それぐらいやれば、少しは見直すのに」
 自分のメンツを保つことしか考えていない人間に、そんな殊勝な心がけを期待してもムダだ。そう論評しようとしたとき、斉木室長が戻ってきた。妙に足取りが重い気がする。
 「お」斉木室長は課長席を見ながら訊いた。「伊牟田さんは?」
 「さっき出て行きました」
 「そうか。あー、二人とも、ちょっといいかな」
 ぼくたちは頷いて手を止めた。
 「すぐに耳に入るだろうから、知らせておくよ。ここの管理者なんだけど、来週にも辞令が発表される」
 「ええ、また誰か来るんですか」マリが露骨にうんざりした声で嘆いた。「前みたいに斉木さんがボスでいいじゃないかと思うんですけど」
 「まあ、上の意向だから」 斉木室長は固有名詞を口にしなかったが、"上"が大竹専務を指しているのは明らかだ。
 「それで」ぼくは訊いた。「伊牟田さんの後を襲うのは誰なんですか」
 「広報課の夏目課長」斉木室長は短く応えた。
 なるほど。斉木室長が気鬱そうな理由がわかった。以前、夏目課長と斉木室長は、営業部で上司と部下だったと聞いている。詳しくは知らないが、何らかの因縁があるらしい。少なくとも斉木室長が、夏目課長のことを毛嫌いしていることは確かだ。斉木室長は、大抵の逆風なら柳に風と受け流す人だから、嫌悪感を明確に意思表示するのは珍しい。その希有な一例が、夏目課長だった。
 「何かと仕事に口を挟んでくると思うけど」斉木室長はため息混じりに言った。「うまくやってくれよな」
 「幸か不幸か」ぼくは言った。「伊牟田さんでかなり免疫ができてますから」
 「広報課と兼務だから、あまりこっちには顔を出さないとは思うんだけどね」
 「そんなことより」マリが訴えた。「伊牟田さんの無茶ぶり、何とかならないですか」
 「言ってはいるんだけどねえ。ま、月末まで、もうちょっと辛抱してよ」
 「マネジメント三課も総出で、うちに嫌がらせしてるみたいなんですけど」
 「うーん、実害はない......とは言えないか。でも、よその課だからぼくに何の権限もないからなあ」
 「システム開発室の男子は、"でも"と"だって"は禁止らしいですよ」ぼくは木名瀬さんの言葉を伝えた。「まあ、確かに大した実害にはなってませんが」
 その言葉が間違っていて、伊牟田課長の嫌がらせがさらに根深いものだったことを知ったのは、9 月も残すところ2 日間となった翌週の火曜日だ。
 その日は斉木室長は昼前から外出、木名瀬さんはエミリちゃんの具合がまた悪くなったため休みだった。伊牟田課長はミーティングを10 分で切り上げた後は、まるでシステム開発室に興味をなくしたように顔を見せていない。おかげでぼくとマリは静かな環境で仕事を進めることができていた。
 13 時過ぎ、同期の社員とランチに出たマリが、いつもの陽気さとは真逆の暗い顔で戻ってきたので、気になったぼくは理由を訊いてみた。
 「何でもないです」マリは明らかに無理しているとわかる笑顔を浮かべた。「ちょっと意見の相違でモメて」
 それ以上は聞かなかったが、仕事を再開しても、マリがどこか気もそぞろになっているのは明らかだった。何度もぼくをチラチラと見ている。そのくせ視線が合うと慌てて目を逸らす。ぼくとマリの関係について、同期の社員にからかわれでもしたのだろうか。
 15 時5 分前に、ぼくは作業を中断した。5 分後にIT システム管理課とm2A の冗長化について打ち合わせが予定されている。ぼくはマリに声をかけた。
 「じゃ、行ってくる」
 「はい、行ってらっしゃい」マリは笑顔で返したが、すぐに気がかりそうな声で訊いた。「打ち合わせって誰が出ますか?」
 「戸室課長と湊くんだと思うけど。なんで?」
 「いえ、ちょっと訊いてみただけです。気にしないでください。すいません」
 気にするなと言われると逆に気になるが、打ち合わせに遅れてまで問い詰めるようなことでもない。ぼくは会議室に足を向けた。
 会議室には一足先に湊くんが入っていて、スマートフォンで誰かと通話していたが、ぼくの顔を見るとすぐに切った。
 「おつかれさまです」
 「おつかれさま」ぼくは座った。「そういえば、今日、笠掛さんとランチした?」
 「はあ」湊くんは頷いた。「同期で都合が付いた奴らで。どうしてですか?」
 「何かモメたみたいだったから、ケンカでもしたのかなって思って」
 「いえ、特には」
 そう言った湊くんは、ぼくの顔を見もしなかった。わかりやすい反応だ。
 「なあ」ぼくは一押ししてみた。「本当に何もなかった?」
 湊くんは少し躊躇ってから、逆に訊き返してきた。
 「笠掛は何か言ってました?」
 「言ってたら訊かないよ」
 「じゃあ、ぼくからは何も言えません。すいません」
 タイミング良く、戸室課長が「遅れたかな」とか言いながら会議室に入ってきたので、ぼくは追求を諦めた。マリが話したくないのであれば、それなりの理由があることだろう。
 「おつかれさま。あ、イノウーくん、夏目さんのこと聞いたか」
 「はい」ぼくは頷いた。「どうせ兼務なら、戸室さんが来てくれればよかったんですけどね」
 「いやあ、私なら打診されても断るよ」
 「えー、どうしてですか」笑いながらぼくは訊いた。「そんな扱いにくい部署ですか」
 「自覚しとらんのかな。システム開発室は、今や、全社員がその一挙手一投足を注視してるんだぞ。そんなプレッシャーの中で、管理者をやる自信はないねえ」
 「どうして注目されてるんですか?」ぼくは真剣に訊いた。「たいした実績も歴史もないのに」
 「m2A が無事に稼働して、受発注データが共有されて以降、ソリューションもマネジメントも、これを機会にエースシステムとのコネクションを持とうと、我先にとビジネスマーケティング課に売り込みかけてる。ところが、先方はなんて言ってきたと思う?」
 「さあ」
 「システム開発室を窓口にしてほしい、と言われたんだとさ。信頼できる実績を上げたエンジニアがいるのがそこだから、ということだ」
 「......知りませんでした」
 m2A で仕事をしたことで、清水さんの信頼を得られたのだろう。一技術者としては嬉しいお言葉だったが、ありがた迷惑でもある。裏を返せば、ソリューション業務本部もパートナーマネジメント本部も、どちらもまだビジネスパートナーとしては信頼できない、と言われたのと同じだからだ。
 「夏目さんは大喜びだろうな」ぼくの内心に気付くはずもなく、戸室さんは続けた。「あの人は野心家だから。システム開発室の管理者になった暁には、その立場を最大限利用して、エースシステムとパイプを作ろうとするぞ。せいぜい振り回されんようにな。さて、本題に入ろうか。冗長化だったか」
 湊くんが頷き、液晶テレビにネットワーク構成図を表示させたので、ぼくも頭を会議モードに切り替えた。m2A の冗長化は、エースシステム側から対応の要望があった案件で優先度が高いものだ。せっかく得た信頼を損ねるわけにはいかない。
 一時間弱の打ち合わせが終わり、会議室を出たぼくの背後から、一人の社員が声をかけてきた。少し前に話題に登った人物だ。
 「あら、イノウーくん」夏目課長は上機嫌そうだった。「何、会議?」
 「おつかれさまです」ぼくはこういうときに便利な言葉を返した。「はい。m2A の件で」
 「もう知ってると思うけど、10 月からよろしくね」
 「こちらこそ、よろしくお願いします」
 「m2A ね。いろいろ教えてもらわなきゃね。いずれ時間作るから」
 「はい。では」
 システム開発室に戻ろうとしたぼくを、夏目課長は呼び止めた。
 「ところで聞いたわよ、木名瀬さんのこと」
 「え?」ぼくは顔だけでなく、身体全体で向き直った。「木名瀬さんのことって何ですか?」
 「あ、もしかしてまだ聞いてなかった?」夏目課長は楽しそうな笑い声を上げた。「社内で結構、ウワサになってるんだけどなあ」
 「何のことですか」
 「知らないならいいわ。わざわざ耳に入れるようなことじゃないし。時間取らせて悪かったわね」
 今度はぼくが夏目課長を呼び止めた。
 「気になるじゃないですか。教えてください」
 「私じゃなくて、伊牟田さんに聞いたら?」ぼくの態度を面白がっているような顔で夏目課長は言った。「どうやらあの人が発信源みたいだから。じゃ、私も会議だから」
 今度こそ、夏目課長は足早に去っていき、ぼくはその後ろ姿を茫然と見送るしかなかった。
 木名瀬さんに関するウワサ? 何のことだろう。そう思ったぼくは、マリのことを思い出した。もしかするとマリの妙に落ち着かない態度は、そのウワサを同期から聞いたせいだろうか。
 ぼくは急いでシステム開発室に戻ろうと歩き出したが、反対側から、何人かがソーシャルディスタンスなど気にもかけずに固まって歩いてくるのが目に入った。反対側の壁に寄ろうとしたとき、その集団の先頭が伊牟田課長であることに気付いた。後に続いているのは、マネジメント三課の課員たちだ。
 伊牟田課長と不愉快な仲間たちは、何かの話題で盛り上がっているらしく、廊下の端から端まで届くような笑い声を響かせていた。一番声が大きいのは、もちろん伊牟田課長だ。伊牟田課長は壁に貼り付くように立っているぼくに気付くと、オヤジギャグの披露を中断して寄って来た。
 「よお、イノウーちゃん」伊牟田課長は含み笑いをした。「元気ですかあ? あれ、元気ないか、んん? いかんなあ。じゃあ、いち、に、さん、ダー!」
 最後のかけ声と同時に、伊牟田課長は両手を高く突き上げた。呆れたことに、三課の課員たちも唱和しながら同じポーズを取っている。ぼくが黙っていると、椛沢という同年代の太った社員が舌打ちした。上司と足並みを揃えるように、こいつも鼻出しマスクだ。
 「おい、ノリわりいな」
 「そりゃ失礼」ぼくは嫌悪感をこらえながら答えた。「芸もないプログラマなんでね」
 「まあ、そーだろうな」椛沢は風船がしぼむときのような声で嘲笑した。「なにしろ、あんたんとこは木名瀬さんがあんなだから......おっと失礼」
 脇から別の社員がつついたので、椛沢は言葉を切った。もっとも悪びれた様子はないから、失言したのではなく、それを装ってぼくをからかっているのだろう。
 「木名瀬さんが何だよ」
 「さあねえ。そりゃ、あんたが一番知ってるんじゃねーの?」
 ぼくは椛沢を相手にするのをやめて、もうすぐ上司ではなくなる人に向き直った。
 「何か、木名瀬さんに関する妙なウワサを流しているそうですが、本当ですか?」
 「ええ、オレがあ?」伊牟田課長はわざとらしく驚いたふりをした。「はてさて、何のことやらわかランドマークタワー」
 三課の課員たちは、M-1 グランプリの決勝ステージにふさわしいような爆笑と拍手で、伊牟田課長を讃えた。伊牟田課長がシステム開発室の課長兼務を解かれれば、この人のオヤジギャグを耳にする機会はぐっと減るわけだが、少しも残念に感じなかった。
 「伊牟田さん」ぼくは言った。「おとついの日曜日、9 時のドラマはご覧になりましたか。最終回でしたよね」
 「何? ああ、もちろん見たともよ。それがどしたん?」
 「どうでした? 面白かったですか」
 「面白かったに決まってるだろ」
 「ぼくも見ました。社会人として学ぶべきことがたくさんあったと思うんですが、どうですか。そう感じませんでしたか」
 「ん? まあそうだな......」
 「ですよね」ぼくはマスクを片側だけ外して、ニヤッと笑ってみせた。「頭取も常務も大臣も見事な引き際でした。人間の尊厳が表れていた、美学と呼ぶべきものを見せてくれた。そう思いませんか?」
 「......」
 「逆に幹事長や弁護士は無様でしたね。最後にジタバタあがいて。あんな最後は卑屈でみっともない。そう思いませんでしたか? ぼくは思いました」
 「おい、イノウー」椛沢が詰め寄った。「あんた、何が言いたいんだ?」
 「ソーシャルディスタンス!」ぼくはぴしゃりと言い、椛沢の接近を阻止した。「引き際の話をしてるんだよ。引き際を間違えた人間ほどみじめでみっともないものはないなあって話だよ。もちろん特定の個人を指してるわけじゃない。あくまでもドラマの感想と、そこから学んだ教訓だ。何か悪いのか」
 「あんたなあ......」
 「伊牟田さん」ぼくはマスクを直しながら言った。「前の職場で尊敬する先輩が言ってました。メンツで仕事するな、プライドで仕事しろと。仕事に対してプライドを少しでも持ってる人間なら、去り際にあたって無様に職場をかき回したりしない。そう信じてますよ」
 伊牟田課長の視線が、怒りか、戸惑いか、ひょっとすると後悔だったかもしれない感情で不安定に揺さぶられていた。そのとき廊下にいる人間が、ぼくと伊牟田課長だけだったら、真っ当な人間らしい言葉を引き出すことができたかもしれない。だが、伊牟田課長が口を開く前に、忠臣椛沢が全てを台無しにした。
 「プログラマごときが、プライドだとかって笑わせるよな」椛沢は本当に笑い声を上げた。「システム開発室なんて、もうすぐ潰されるに決まってるじゃねえか。あんたらなんて、単なる便利屋に過ぎないんだよ。外部に頼むより手軽で安いからってだけの理由だろ。誰もあんたらなんかに期待してねえっての」
 ぼくは肩をすくめて、椛沢を含む集団に背を向けた。これ以上は何を言ってもムダだろうし、言いたいことは口にした。だがシステム開発室に向かって足を踏み出したとき、椛沢の悪意の塊のような罵声が背中に投げつけられた。
 「あんたらのとこの木名瀬だってな」飛沫が背中にかかりそうな大声だった。「浮気して旦那に愛想尽かされて別居状態だって話じゃねえか。次はお前を狙ってるらしいぞ。ババアの枯れかけた色気に引っ掛からねえようにせいぜい気を付けな! それとも、もう手遅れでメロメロかよ」
 ぼくは身体の向きを変えた。頭では冷静にその言葉の真偽と出所を問い質すつもりだった。根拠のない誹謗中傷は口にした人間の品位を落とすだけだ、と言ってやるつもりでもあった。だが、そんな理性を、爆発的に燃え上がった感情が駆逐した。気が付いたとき、ぼくは椛沢の胸元に掴みかかっていた。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(21)

コメント

匿名

+   +
  ∧_∧  +
 (0゚・∀・)
 (0゚∪ ∪ +
 と__)__) +

匿名

アメリカの大統領だって、選挙に負けたら、買った方に電話かけて敗北宣言するそうじゃないですか。
買った方に → 勝った方に

匿名

〉選挙に負けたら、買った方に電話かけて
票を買った方に…ってんならあながち間違っていない気が…(笑)

匿名

ぼくは答えたが、それは伊牟田課長の聞かせるためのウソだった。
→伊牟田課長に? 違ってたら申し訳ありません。

匿名

本当にセクハラやばいなこの会社…

匿名

出た!夏目課長。

夢乃

「メンツで仕事するな、プライドで仕事しろ」と言っていたのは確か五十嵐さん・・・作中に出ていないだけで東海林さんあたりも言っていておかしくない台詞ですが。(いや、どこかに出ていたかな?)

匿名

途中でサードアイに変わったメンバーにイノウーくんいたとか?

匿名D

夏目女史が出てきましたか。
伊牟田グチ氏はわかりやすい無能でしたが、
こちらの方はどんなタイプか楽しみです。


それにしても穏やかでないのは大竹専務では?
自分の方針を、エース直々から否定されたようなものでしょうに。

リーベルG

匿名さん、ご指摘ありがとうございました。
「勝った方に」
「伊牟田課長に」
でした。

匿名

椛がつく登場人物は嫌な奴

匿名

田熊の椛山さん…

匿名

嫌な会社だなあ
こんなの経験してるのか想像してるのか…

匿名

あと数手で詰む相手にわざわざ二歩打つとは、イノウー阿呆ですなぁ…

匿名D

大竹専務がこれをシステム開発室を潰すネタに使うのか、
と最初に考えましたが、
それどころか、イノウー君の進退問題まで進みそうですねえ。

匿名

イノウー君よ、サードアイに戻ろう…

匿名

ほんと程度の低い会社だなぁここ。。

匿名

土壇場のイノウー君を救うのは茅森課長だったりして

匿名

>「ソーシャルディスタンス!」ぼくはぴしゃりと言い、椛沢の接近を阻止した。

これ、駅なんかで無理くり狭いところを追い越そうとしてくるやつなんかに対して
今年言ってみたい台詞ナンバーワンだわ。
まあ言っても止まるかどうかは疑問だが・・・

匿名

「ときとして精神論が効率より優先されるんです。井上さん、確かまだ試用期間ですよね。スムーズに辞めるなら今のうちです」

「どうです? 辞めたくなりましたか?」


今なら言える、
辞めます!!

匿名

「ソーシャルディスタンス!」

呪文っぽくてかっこいいw

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