ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (26) 審判の日

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 評価者チームの3 名は、翌日には規定通りにレビュー評価報告書を提出した。報告書がシステム開発室のメンバーに対して開示されたのはずっと後になったが、その必要はほとんどないぐらいだった。数年ぶりに実施されたコードレビューということで、その過程と結果は、全社員の好奇と興味の的となっていた。そのため"your eyes only"のはずの報告書の内容は、関係者ではない社員の間にも広く共有されたのだ。システム開発室のメンバーで最初にその内容を知ったのは、社内に独自の情報網を持つ木名瀬さんだったが、ぼくやマリも大きなタイムラグなしで、それぞれ別のルートから同等の情報を入手することができた。
 レビュー評価の結果は、「評価D 開発環境および技術力に重大な疑問点が認められるため、改善を強く勧告する」というものだった。この報告書自体に強制力はないが、現実的に無視することは難しい。スケジュールの遅延や大規模な不具合などが発生したとき、勧告を無視したことが明らかになれば、戒告や譴責の対象になるからだ。
 伊牟田課長はレビュー評価が定まった後も、しばらくの間は、ダリオスにもマギ情報システム開発にも言及しようとしなかった。定例ミーティングでも、会社からの連絡事項を事務的に伝達するだけで、耳になじんでしまったオヤジギャグすら影を潜めていた。表面上は平静を維持していたが、内心では様々な葛藤が渦巻いていたのだろう。いつもなら、どうでもいい話を1 時間以上続ける定例ミーティングが、20 分弱で終わったことが証左だ。無関心を装ってはいても、余計なコードレビューなどを提案した奴らの首を絞め、火あぶりにしてやりたい、と思っていても不思議ではない。
 マギ情報システム開発に出しておいたいくつかの宿題は、結局、提出されなかったが、誰も気に留めていなかった。ぼくとマリは、翌週に迫ったm2A 運用開始に向けて、やることが山のようにあったし、斉木室長と木名瀬さんも、それぞれの用事で多忙のようだった。本来なら催促すべき立場の伊牟田課長は、コードレビューの話題すら避けているようだったから、もちろん何のアクションも起こしていない。
 月が変わり、9 月1 日、m2A の稼働日を迎えた。もちろん現行版のダリオスがマーズ・エージェンシー側の出入口となる。ぼくとマリは、早朝7 時に出社し、稼働準備作業を行った。最初に行ったのは前日分までのデータをCSV 形式でダウンロードし、エースシステムに転送する作業だ。エースシステムで待機している清水さんから受領とインポート完了の連絡をもらった後、m2A を起動するcron を設定した。ダリオス自体には手を加えられないので、m2A は5 分間隔で起動しデータベースから差分データを送信するバッチ処理となっている。バッチ処理が正常に実行され、ログに送信件数ゼロ件が記録されたのを確認した後、続けてテスト送信フェーズに移った。マリがダリオスにログインし、あらかじめエースシステム側と決めた受注データと発注データを入力していく。入力が終わると、清水さんに入力完了の連絡を入れる。5 分後、ぼくたちは送信ログを、清水さんはデータが登録されたことを、それぞれ確認、報告し合った。次にマリが入力したデータの引き戻し処理を実行し、また5 分の経過を待つ。双方のシステムでステータスがキャンセルになったことを確認して、一通りの確認作業は、無事、完了となった。
 「8 時33 分」マリが時計を見ながら大きく伸びをした。「予定通りっすね」
 「何度もシミュレーションしたかいがあったね」ぼくもほっと一息ついた。「ま、とりあえずは第一段階クリアだ」
 「あとは実際に営業とかマネジメントの人たちが入力して、それが届けばオッケーってことっすね。じゃ、あたし、ちょいとコンビニでブレックファストでも買ってきます。イノウーさんのご希望は? コーヒー? 紅茶? それともあたし?」
 「コーヒーとサンドイッチと何か甘いもの」
 マリは陽気な笑い声とともに出ていった。その直後、木名瀬さんからTeamsで連絡が入った。木名瀬さんは挨拶の後、早朝作業のぼくたちをねぎらってくれた。
 「それで問題はありませんか?」
 「今のところありません」
 「前日までのデータも無事に送信されたんですね?」木名瀬さんは確認した。
 「正常に登録できたと、清水さんから連絡がありました」ぼくは目をこすりながら答えた。「あとは午前中いっぱいぐらい、送受信状況を監視して問題なければ完了です」
 「よろしくお願いします」木名瀬さんは言い、クスクス笑いながら付け加えた。「火曜日でよかったですね」
 事前に何度も本番データのコピーでテストしていたので、致命的な不具合などがないことは確認済みだったが、本番環境ではどんな問題が発生するかわからない。清水さんと相談した結果、今日の午前中は、双方でリアルタイムの監視をすることになっていた。そのため、さすがの伊牟田課長も定例ミーティングを実施するとは言わず、システム開発室に姿を見せることもなかった。木名瀬さんはテレワーク勤務だった。
 9 時に業務が開始されると、一時的に緩んでいたぼくの心は再び臨戦態勢に戻った。幸いなことに、緊張状態を維持しながら送受信状況をモニタしていたが、問題と呼べるような事象は発生せず、ぼくの張り詰めていた心も、少しずつほぐれてきた。一度だけ内線電話が鳴り、ダリオスが遅い気がするんだけど、そっちのせいじゃないか、と問い合わせがあったが、気のせいだったらしく、すぐに解消したとの連絡が入った。
 ぼくがようやく一山越えた、と落ち着くことができたのは、11 時を過ぎた頃だった。ぼくは清水さんに電話して、リアルタイムの監視体制を解除することを提案し、清水さんも了承した。
 『ところで御社では受発注管理システムのリプレースが予定されていますよね』電話の向こうで清水さんが心配そうに訊いた。『そっちはいつぐらいになりそうですか?』
 「ダリオスですか」ぼくは課長席を見ながら答えた。「それがまだ確定できなくて。本来なら14 日にテスト開始だったんですが、諸事情で延期になりそうです」
 伊牟田課長などの立場では、9 月14 日にテスト開始と決定した以上、マギ情報システム開発に対しては、開発要員全員を徹夜させてでも期日通りに完成させろ、と言いたいところだろうが、現実的にあと二週間では不可能だ。いまだに新システムのテーブルレイアウトすら来ていないため、システム開発室としてもm2A の新ダリオス対応に着手することができない。
 『聞いています』清水さんが言った。『コードレビューで問題が発生したそうですね』
 「誰からお聞きになりました?」
 『まあ、いろいろ』その声に躊躇いが混入した。『こんな話をするのは、御社の受発注管理システムは、弊社にも大きく関わってくるからです。データ連携で不具合が発生するようなことがあれば、私の責任になります』
 新ダリオスの稼働に合わせてm2A の改修は必要になるが、送受信するデータ項目は同じなので、テーブルとのマッピングを変更するだけだ。もちろんテストは必要だが、そこまで大きな不具合が発生するとは考えにくい。
 『とにかく、そちらの進捗も、定期的に共有していただければと思います』
 了解して電話を切ると、話を聞いていたらしい斉木室長が訊いてきた。
 「問題はない? ダリオスの話をしてたみたいだったけど」
 「リプレースすると、m2A に影響出てくるので、ちょっと心配しているみたいです」
 「ふーん」斉木室長は関心なさそうに答えた。「エースは失敗を嫌うとこだからね」
 「それは、この会社も同じだと思いますけどね」
 あはは、と斉木室長が笑って、この話題は終わりになった。
 木曜日は定例ミーティングが実施されたので、システム開発室の全員が顔を揃えた。さすがにマギ情報システム開発の件で、何か決定が出てもいい頃だ。何も言及がなければ、こちらから訊いてみるか、と思っていたら、伊牟田課長の方からその話を持ち出した。
 「ダリオスリプレースの件だけどな」伊牟田課長は天気の話でもするような口調で告げた。「いろいろあったが、このまま続投ってことになったから。よろしくメカドック」
 「あの」ぼくは驚いて発言した。「コードレビューの評価報告書は考慮されなかったんでしょうか」
 「あ? もちろんしたに決まってるだろうが」
 「評価D ですよ。下から二番目でも続行ですか。何の改善案もなしでですか」
 「いちいちうるせえな、お前は」伊牟田課長はぼくを睨み付けた。「総合的・俯瞰的に判断して、続投を決めた」
 「その理由は教えてもらえないんですか」
 「なんでお前にいちいち教えなきゃならん? 分をわきまえろ」
 呆れたぼくに変わって、マリが噛みついた。
 「うちの指摘事項への回答がいまだに来てませんけど」
 「回答もらうような問題じゃないだろ」鼻で笑うような声だった。「マギ側がどうするかって問題だ。本来、うちがあれこれ言うような問題じゃないわな」
 「だって......」
 「あのなあ」この話にうんざりしていることを公言しているように、伊牟田課長は大きくため息をついた。「ダリオスのリプレースはマギの仕事だわな。そのやり方に口を出すのはおかしいだろ。うちは納品物として新ダリオスシステムをもらって、マギは開発費用をもらう。そんだけだよな」
 「契約の話ではなくて」ぼくは反論した。「このままでは、納品物の品質そのものに不安があると言っているんです」
 「そんなの実際、受け取ってみなきゃわからんだろうが」もはやぼくの方を見もしないで伊牟田課長は答えた。「それにどんなシステムだって、多少の不具合はつきものだわな。バグがあったらテストで消し込んでいけばいいじゃんか。そのためのテストだろ」
 「そういう問題ではないんじゃないですか」
 「じゃ、どういう問題なんだ」
 「表面上は動作していても、いえ、しているように見えても、ソースレベルの品質が悪いと、不具合の発生率も上がるし、メンテナンスコストも高くなります」
 「イノウーくんよ」伊牟田課長は、またわざとらしく嘆息した。「お前、うちに来てもう1 年になるんだろ。いいかげん、そういう下流の発想から脱却できんもんかねえ。なんでオレたちがメンテナンスコストなんか気にしなきゃならんのよ。それはベンダーの仕事やろが。専務も言っとったじゃろ。うちは納期と価格を決めるだけ。その範囲内で納めるのはベンダーの問題やんか。どういう方法で納めるのかは、うちが知ったこっちゃねえわな」
 「本当に保守もマギに任せるつもりなんですか」
 「そう言わんかったか?」伊牟田課長は小さく手を叩いた。「はい、これで終わり。以後、この話はせえへんからな。オッケー牧場?」
 論破した、とでも思ったのか、伊牟田課長は楽しそうに宣言した。ぼくは口から出かけた反論を呑み込まざるを得なかった。斉木室長と木名瀬さんも、何も言わなかった。
 結局、コードレビューは何の役にも立たなかったのか、と思ったぼくだったが、次の火曜日に事態は動いた。
 「今日のミーティングは中止です」出勤したぼくに、木名瀬さんが告げた。「エースシステムと緊急オンライン会議になりました。準備できたら会議室に来てください」
 「エースとですか」ぼくは何か問題あったかな、と思いながら訊いた。「議題は何でしょうか」
 「昨日の夜、エースシステム側から要請されたようです。内容は聞いていません。私は先に行って、お茶の準備をしています。マリちゃんが出勤したら、一緒に来てください」
 ほどなく出勤してきたマリと会議室に急ぐと、すでに多くの席が埋まっていた。システム開発室の全員、財務課の越中谷課長、IT システム管理課の戸室課長、その他、先日のコードレビューで評価をしてくれた3 名だ。ぼくたちは木名瀬さんの隣に座るように指示された。ぼくたちの前にも、ちゃんとペットボトルのお茶が配られている。喉が渇いていたぼくは、マスクを外して一口いただいた。
 「なんすかね」マリが囁いた。「この顔ぶれだとダリオス関連ですかね」
 それ以外にあり得ない。ぼくが頷いたとき、大竹専務と伊牟田課長が入ってきた。それを見た越中谷課長がタブレットを操作し、テレビ会議用液晶テレビにTeams のビデオ会議呼び出し画面が表示された。呼び出し先は「エースシステム 本城様」となっている。先方は待ち構えていたらしく、すぐに応答があり、画面が切り替わった。本城さんと清水さんがこちらを見つめている。
 「お世話になります」本城さんが言った。「急なことで申しわけありません」
 越中谷課長が答えようとしたとき、伊牟田課長が先に口を出した。
 「どうもお世話になっております。今日はどういったご用でございますか」
 「実は」清水さんが答えた。「御社で進められている受発注管理システムのリニューアルについて、懸念すべき事実が耳に入ったので、急遽、お話を伺いたく会議を設定させていただきました」
 「ダリオスでございますか」伊牟田課長は驚いたように言った。「再構築の開発は順調に進んでおりますが。順調すぎるぐらいでございまして」
 伊牟田課長は意味もなくヒョッヒョッヒョッと笑ったが、清水さんはニコリともしなかった。
 「再構築を担当しているベンダーはマギ情報システム開発だとか」
 「そうでございますが」
 「どういった経緯でマギ社を選定したのか伺えますか」
 伊牟田課長は笑顔を消し、越中谷課長と戸室課長を交互に見たが、どちらも「決めたのはそちらだ」という視線を返したので、仕方なく答えた。
 「それは総合的・俯瞰的な判断によるものでして......」
 「具体的には?」
 「それはその......」伊牟田課長は詰まったが、すぐに笑顔を浮かべ直した。「たとえば開発費用とかスケジュールなどでございます」
 「先日、コードレビューが行われたそうですね」
 「よくご存じで」伊牟田課長はヘラヘラと答えた。「さすがでございます」
 「レビューの結果、かなり悪い評価が出たとか」
 今度こそ、伊牟田課長の顔から笑みが消えた。誰が知らせたんだ、と詰問するように、ぼくたちの顔を見た後、テレビに向き直った。
 「まあ悪いといっても、それほどでも......」
 「A からE の5 段階でD 評価だったそうですね」清水さんは冷ややかに答えた。「御社では最高がE 評価で最低がA 評価なんですか」
 「そんなことはありませんが......」
 「マギ社は決して良質なベンダーとは言えません。弊社の某プロジェクトで、孫請けだったか曾孫請けだったかで使ったことがあるのですが、諸事情で今では出禁になっています」
 「出禁ですか?」
 思わず大きな声を出してしまい、全員がぼくを見た。ぼくは小さく頭を下げると、声を落ち着かせて訊いた。
 「理由をうかがってもよろしいですか」
 「諸事情です」清水さんは繰り返した後、付け加えた。「ただ、技術力が決して高くはなかったことが一因にあるとだけは言っておきます。なぜ、そのようなベンダーを選定したのかをお聞かせ願いたいです」
 「ですから総合的......」
 「できれば具体的な話でお願いできますか」
 「たとえば」伊牟田課長はゴクリと唾を飲み込んだ。「コストなどの面から......」
 「決して安くはない金額で契約されていますね」清水さんは指摘した。「年間保守料も高い。その割には、保守契約の範囲が狭すぎるため、何らかの改修を行えば、さらにコストがかさむ結果になりますね。その点をどうお考えでしょうか」
 「なぜ......」
 金額まで知っているのか、と訊きかけたのだろうが、伊牟田課長はそれどころではない、と気付いたらしく言葉を切った。
 「他にも技術力を考慮してですね......」
 「スキルは高くないと言いました。現に御社のレビューでも、同じ結果が出ています。一体、何をもって技術力を評価されたのでしょうか」
 珍しいことに伊牟田課長は言葉を発することができなかった。気の毒に感じたのか、それとも話してもムダだと見切ったのか、別の人間の名前を呼んだ。
 「井上さん」清水さんは、やや声音を丸くして訊いた。「正直なところ、マギ社の実力をどう評価しますか? 正直ベースでお答えいただけますか」
 その言葉に、伊牟田課長はハッと顔を上げ、それから懇願するようにぼくを見た。言語化されなくても、その願いはよくわかったが、ぼくのいかなる立ち位置からでも応えることはできない。ぼくは目を逸らした。
 すると伊牟田課長は表情を変え、ぼくを憎々しげに睨んだ後、声を張り上げて訴えた。
 「お待ちください。井上はまだ入社して日も浅く、うちの会社のことをよくわかっておりません。弊社のベンダー選定プロセスは複雑で、一般社員にはその知識も権限もございませんです。ですから、もう一度、社内で調整しまして、後日、社としての正式な回答をお伝えいたしますので......」
 「あいにくですが」清水さんは顔をしかめた。「そのようなお役所的な見解ではなく、技術者としての意見を聞きたいんです」
 「ですから井上にはその権限が......」
 「ですから御社の公式な見解ではなく、プログラマとしての井上さんのご意見を伺っているんです」清水さんは苛立ちを隠そうともしなかった。「申しわけないのですが、伊牟田さんのご意見は、今現在、必要としていないんです。井上さん、いかがですか」
 伊牟田課長がぼくの視線を捉えようとしきりに合図してきたが、ぼくはそれを無視した。
 「レビュー評価報告書の通りです」ぼくは答えた。「一プログラマとしての見解ですが、マギ情報システム開発のスキルは、少なくとも、担当している三津橋さんのスキルは高いとは言えません」
 「ありがとうございます」清水さんは頷いて隣を見た。
 「ええとですね」本城さんが話し出した。「事業統合したとはいえ、本来であれば御社の社内システムにまで、弊社があれこれ言うのは筋違いのことです。しかし受発注管理システムに不具合があれば、それは弊社にも影響が及びかねないという懸念があります。もちろん強制力がないことは百も承知ですが、弊社としては、ダリオスの再構築のベンダー選定を見直すことを、強く勧告せざるを得ません。これは弊社全体の意思であるとお考えいただきたい。後ほど、正式な勧告を文書でお送りいたします」
 マーズ・エージェンシー側の出席者は、咳払い一つしなかった。伊牟田課長の顔は見えるだけでも蒼白だ。
 「ご意見は承りました」それまで発言しなかった大竹専務が口を開いた。「弊社として、その勧告を重く受け止め、適切かつ迅速な対処をお約束いたします。ご心配をおかけして申しわけありません。深くお詫びいたします」
 大竹専務は立ち上がると、深々と腰を折った。
 「ご理解を得られて幸いです」本城さんは満足そうに言った。「それでは、今日のところはこれで。お忙しいところ、ありがとうございました」
 ビデオ会議が終了した途端、伊牟田課長は立ち上がって喚いた。
 「お前ら!」その歪んだ顔はシステム開発室のメンバーに向けられていた。「何、ふざけたことしてやがるんだ!」
 「何のことですか」斉木室長が肩をすくめた。「うちは何も」
 「お前らしかいねえだろうが。報告書をエースにもらしやがっただろう」
 「お忘れかもしれませんが、報告書はまだシステム開発室に開示されていません。来ていない報告書をどうやってエースに渡せるんですか」
 伊牟田課長は虚を突かれたような顔になった。全員が内容を熟知していたとはいえ、この時点では報告書の現物は、正式な形ではシステム開発室のメンバーに届いていない。
 「営業担当の社員だとエースともやり取りしていますから」戸室課長が呆れた口調で言った。「そっちから話が行ったんじゃないでしょうかね」
 「じゃ、じゃあ、あれはどうだ」伊牟田課長はすぐに叫びを再開した。「なんでエースがマギとの契約内容を金額まで知ってたんだ。あの契約は、システム開発室と財務課しか閲覧権限がないはずだ」
 「うちは知らんよ」越中谷課長が真っ先に否定した。「データの印刷でも閲覧でも、管理者に通知が来るからね。マギとの契約を閲覧した奴はいないね」
 「やっぱりお前らしかいねえじゃねえか」伊牟田課長はぼくたちに指を突きつけた。「そこまでしてオレを......」
 「伊牟田さん」木名瀬さんが落ち着いた声で言った。「何か忘れていませんか」
 「何」伊牟田課長は木名瀬さんを睨んだ。「何のことだ」
 「9 月1 日にイノウーくんたちが、早朝出勤して、何の作業をしたのかご存じですか」
 「あ? エムツー何とかの作業だろうが。それがどうした」
 「手順書とチェックリストと一緒に共有しておきましたが、目を通されていますか」
 「何の話をしてるんだ! 今はそんな作業の話など......」
 「二人がやった中には、過去分の受発注データをエースシステムに転送する、という作業があります。過去分といっても、ステータスが未完了のものに限定されますが。マギとの契約内容は、当然、受発注システムに登録されています。まだ完了していないので送信対象ですね」
 伊牟田課長は頭を強打されたような顔で木名瀬さんを見た。木名瀬さんは淡々と続けた。
 「その作業の最終承認者は課長です。つまりエースシステムに、マギとの契約内容の詳細データが渡ったことに対する責任者は、伊牟田課長ご本人ということになりますが」
 ガタッと大きな音が会議室に響いた。伊牟田課長がパイプ椅子に座ったのだ。崩れ落ちた、という表現の方が正しいかもしれない。そのままテーブルの表面を凝視している。その姿は、セオデン王から追放された蛇の舌を想起させた。
 「もういい」大竹専務がやや大きな声で言った。「越中谷さん、ダリオスの再構築は、財務課の仕切りだったな」
 「はい」越中谷課長は頷いた。
 「再構築はいったん凍結にする。問題ないな?」
 「ありません。ただ、下請法対応などもあって、あまり先延ばしにはできませんが」
 「わかっている。近いうちに、改めて指示を出す」
 そう言うと大竹専務は、打ちひしがれている伊牟田課長に蔑むような一瞥を投げると、そのまま会議室を出ていった。
 翌週、9 月14 日。2 つのお知らせが全社員に通知された。一つめはマギ情報システム開発との契約が正式に解除となったことを知らせるものだった。社員のほとんどは、この通知を気にもしなかったに違いない。多くの社員にとって、ベンダーとの契約解除など日常茶飯事だからだ。驚きと興味を持って受け止められたのは二つめの通知だ。それは、9 月末日をもって伊牟田課長のシステム開発室課長兼務を解く、との人事連絡だった。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(22)

コメント

匿名

あれま伊牟田さん退場早っ。
飛田さんの時の首藤さんだっけ?みたいに復活すんのかな。
ラスボスは大竹専務で確定?

匿名

白川さんのお墓へお参りに行ってきます

匿名

今日もイノウーの憂鬱読んでからの小説家になろうでファンタジー冒険もので現実逃避ですか?
この給料泥棒が

匿名

イノウーとマリのコードレビューのおかげで
マーズはハズレを引かずに済んだ事を
大竹専務はどう考えているのだろう。

社益になったと大局的に見るか、
メンツ潰されたと見るか。
いずれにせよ、自らのポリシーは変わらんでしょうね。

hir0

大竹専務がサルマンかな
アイゼンガルドを潰しましょ

匿名

別に伊牟田氏に同情とかはないけど、彼の置かれた状況を考えると胃がキリキリしてきそうw

yupika

>今日もイノウーの憂鬱読んでからの小説家になろうでファンタジー冒険もので現実逃避ですか?
>この給料泥棒が

待て待て、ファンタジーは指輪物語だけと決めているものだけがこの小説をよんどるんや。
俺はここからマンガワンの「空母いぶき」を無料ライフで読む。
わかるか?憂国だよ。

匿名

いつも楽しく拝見させて頂いています。

耳に入れる、というのは相手に聞かせる時の慣用句なので、別の表現が良いのではないかと思います。

匿名

「よろしくメカドック」って
このギャグわかる人って結構年だよね
( ´∀` )

匿名

>今日もイノウーの憂鬱読んでからの小説家になろうでファンタジー冒険もので現実逃避ですか?
>この給料泥棒が

この人何と戦ってんのw

匿名

>それともあたし?

この女、メンタルつえーな・・・

匿名

あとは木名瀬さんの旦那を56せば仕込み完了か…。

匿名

リーベル G さんの小説にしては(?)、良い方向に話が進んでいるw

tako

次に大竹専務が選んでくるのはハウンドとかいう優秀な国際企業で・・・

mori

伊牟田ざまあ。半沢直樹っぽい回でしたね。
斉木さんと木名瀬さんが動いてた感。

リーベルG

匿名さん、ご指摘ありがとうございます。
確かに、この文脈で「耳に入れる」は変ですね。

匿名

貧乳のくせに強気なマリちゃん好き

匿名

「コーヒーとサンドイッチと何か甘いもの」

z

横浜市内に優秀なベンダーがあるらしいよ

匿名

斉木室長の飄々ぶり、さすが。

夢乃

>木名瀬さんは淡々と続けた
最後、句点(。)が抜けてます。
 
> 「前日までのデータも無事に送信されたんですね?」木名瀬さんは確認した。
はわわ・・・白川さんもだったけど、木名瀬さんも敵に回しては駄目な人だ・・・

リーベルG

夢乃さん、ありがとうございます。抜けてましたね。

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