鼠と竜のゲーム(8) リブパック・クロラ
T市立図書館事件について、最初の数日間は続報を追いかけていたものの、少なくともネット上に目立った新情報が上がってくることがなかった。ネット上での議論も次第に沈静化していた。Twitterや、2chでは継続的にさまざまな意見が交換されているものの、新たな事実が出てこないので、単に似たような見解がループされているだけでしかなかった。
ぼく自身、日々の業務の忙しさにまぎれて、この事件のことばかり考えてはいるわけにはいかなかった。ネットから得られる情報に進展がない以上、何の行動を起こすこともできない。東海林さんや川嶋さんは、すでにこの事件に対して興味を失いつつあるらしく、話題にしようともしなかった。ぼくが先輩たちの立場なら、最初の1日で記憶から消し去っていたに違いない。そうなっていなかったのは、多少なりともT市立図書館事件に関わりがあることと、逮捕されてしまった倉敷さんが、果たして無事に無罪放免となるのか、もし有罪になるならどのような罪に問われることになるのかが、気になっていたからだ。
6月の中旬から下旬にかけては、担当していたシステムのトラブル対応のため、深夜近くまでの残業の日々が続いていた。そのため、ぼくがその情報をネットから拾い上げたのは、少し日数が経過した後だった。6月末に近いある日の夕方、対応中のシステムの仕様について顧客からの回答を待っている間、ぼくはふと思い立って、T市立図書館事件を検索してみた。
一番最初に、「逮捕された男性、不起訴に」というリンクがあったので、ちょっと驚いてクリックしてみた。リンク先は、Slashdot.jp 内のページだった。
詳細が本人から 部門より
先日、T市立図書館のウェブサイトに4万4千回アクセスした男が業務妨害容疑で逮捕されたという事件があったが、その後逮捕された男性は不起訴処分(起訴猶予処分)となったそうで、本人が事情を説明するサイトを立ち上げている(T市立図書館事件のまとめ)。
男性は問題となったT市立図書館のヘビーユーザーであり、図書館の新着図書ページが使いにくかったために図書館のWebサイトをスクレイピングして自分用に使いやすいデータベースを作成することが目的だったとのこと。また、サーバ側の負荷も考えてクロールする頻度等を決めたとのこと。おなじみタカミス先生のコメントなどを含むTogetterまとめはこちら。
同様の内容の記事が、デジタルITなどいくつかのニュースサイトに掲載されていた。
不起訴、ということは、裁判にすらならなかったか。まあ、当然だろうなあ、と少しほっとしたものの、起訴猶予処分、という単語が気になった。検索してみると、「犯罪事実が認定できた場合」「嫌疑不十分な場合」などいろいろあって、これだけでは具体的にどうだったのかが分からなかった。
きっと証拠不十分ということで、釈放されたんだろうな、と考えながら、倉敷さんが立ち上げたというサイトに飛んでみた。
リブパック・クロラ
マスコミ報道だけでは分からないT市立図書館事件
まだ、立ち上げて日が浅いらしく、いろいろな部分が「作成中」となっていたが、本人が逮捕から釈放までの体験をかなり詳細に記述していて、思わず時間を忘れて読みふけってしまった。
リンクやトラックバックもいくつかあり、それらをたどって見てみると、すでにネット上では活発な議論が交わされていることが分かる。それらの大多数は、やはり「この程度で逮捕はおかしい」という意見に集約されるものだった。
ネット上では「リブパック・クロラ」のサイト名から、倉敷さんのことをクロラ氏と呼ぶことが、いつのまにか定着しているようだった。
ぼくはさらに主にTwitterを中心に発言されている、さまざまな意見を読んでいった。中にはこの問題をSQLの知識不足に直結しているエンジニアや、表現の自由の問題を論じている人など、ちょっと的外れじゃないかと思う人も一定数は存在していたが、あまり相手にされていなかった。
リンクの中に、前に見た産業技術総合研究所の高村ミスズさんのブログがあったので飛んでみると、相変わらず熱心にこの問題を検証しているようだった。また、デジタルITの神代という記者も、警察関係者や検察官への取材を行い、その経過をTwitterで報告し、多くのフォロワーを集めていた。
また、クロラ氏が書いている「図書館システムにデータベースコネクションの解放漏れのバグが存在するのではないか?」という推測については、同業者らしきネットユーザーから、多くの同意の声が上がっている。
問題となっているT市立図書館のシステムが、五堂テクノロジーサービスが開発した図書館業務パッケージ<LIBPACK-IV>であることは、とっくに周知の事実となっていて、非難の矛先はそちらにも向けられていた。
電話、という単語で、ぼくは先月かかってきた五堂テクノからの電話の件を思い出し、城之内さんを少し気の毒に思った。今頃、きっと問い合わせのメールや電話が殺到しているのではないかと想像したのだ。五堂テクノのホームページを開いてみたが、特に、この件についてのニュースリリースやコメントなどは載っていなかった。
「これで一段落……かな」
ぼくは小声でつぶやいたが、たまたま給湯室からマグカップを手に戻ってきた川嶋さんの耳に届いたらしい。川嶋さんは方向を変えてぼくの席に歩いてきた。そのとき、ぼくが実装していたのは、川嶋さんがメイン担当の業務システムの一部だったから、一段落の意味を誤解したようだ。
「なに、もうできちゃった?」
「あ、すいません」ぼくは川嶋さんにモニタを見せた。「前に教えてもらった、T市立図書館の事件のニュースを見てたんです」
「ああ、あれね」川嶋さんはうなずいた。「この前、釈放されたんでしょ」
「さすが。知ってましたか」
「その手のニュースはRSSを受信するようにしてるからね」
「教えてくれればいいのに」
「なんで? そんなに興味あったの?」
「いや、その、やっぱり多少なりとも自分が関わったシステムのことですから」
「そっか」
「これで片付いたってことですかね」
「そうかなあ……」
川嶋さんは小首を傾げて、紅茶を口に含んだ。この人はこういう仕草がちょっと可愛らしい。
「図書館からも五堂テクノからも、公式に何も言ってないでしょう?このままネットで批判する声が増えていけば、何らかのコメントを出さざるを得ないでしょう。その内容によっては、またどっかで炎上するかもね」
「なるほど……」
「あと産総研の高村女史、あの人は簡単に終わりにしないと思うよ。たぶん」川嶋さんは何かを考えながら言った。「こういう問題はとことん追求する人だから」
「そうらしいですね。デジタルITの記者も取材を続けてるみたいですしね」
「ふうん。じゃあ、そのうち、デジタルITに記事が出るかもしれないね。第一報は朝日だったし」
そう言うと川嶋さんは自分の席に戻っていった。ぼくも自分の仕事に戻ることにした。
川嶋さんの予測は正しく、この事件は、2カ月後のデジタルITの記事によって大きな転換点を迎えることになる。しかし、この件にうちの会社が巻き込まれていくことになるとは、さすがの川嶋さんも想像すらしていなかった。
(続く)
この物語は事実を基にしたフィクションです。実在する団体、個人とは一切関係ありません。また司法当局の捜査方法などが、現実のそれと異なっている可能性があります。
コメント
通りすがり
ミミズさん女性だったのかw
野次馬
高慢と偏見、まだコメント欄のやり取りが続いてる。
ここまで話題になるのもある意味スゴイ。
あー
>SQLの知識不足に直結しているエンジニア
あーあの人ですね。
でじゃ
来週から責任のなすりあいが始まるわけですね、わかります。