鼠と竜のゲーム(7) 起訴猶予
タカシのT署での生活は、当初の緊張感がすっかり抜け落ち、怠惰なサイクルで回っていくようになっていた。
取り調べは相変わらず小林警部補によって続いていたが、双方ともに手詰まりといった感があった。警察側は新たな追及材料を見つけることができず、タカシも言うべきことはすべて話したと考えていたので、取り調べは以前に聴取した内容を、だらだらと反復するだけになっている。実況見分以来、佐伯警部補は姿を見せず、プログラムの解析を進めているのか、タカシと同じようにやるべきことはやったと考えて、それっきりになっているのか、まったく状況がつかめない。小林警部補に聞いてみても、「聞いとくよ」と言うだけで、答えが返ってきたためしがなかった。
6月10日、タカシは再びは藤沢区検察庁に連れて行かれ、前回と同じ丸山検事による取り調べを受けた。今回の丸山検事の取り調べは、起きてしまったことではなく、そもそも起こさないようにすることはできなかったのか、という仮定の話に終始した。
「君はホームページ作成会社の社長だね」
「ホームページばかり作っているわけではないですが」
「じゃあ、何をやってる会社なの?」
「半分ぐらいは、業務系システムの構築です。下請けや孫請けばかりですけど」
「……ともかく、ネットとかには詳しいわけだね。少なくとも私なんかよりは詳しいんだろう?」
あなたの1000倍ぐらいは詳しいと思いますよ、と言いたいのを我慢して、タカシはおとなしく答えた。
「そう言えるかもしれませんね」
「じゃあ、ああいうアクセスをやったら、相手のサーバが停止するかもしれないとは思わなかったのかね?」
「いいえ」タカシは勢いよくかぶりをふった。「まったく思いませんでしたね」
「でも君は、以前の取り調べで言ってるね。えーと……」丸山検事は、画面を見ながらカーソルキーを押していた。「……ああ、これだ。“図書館サーバに負荷をかけないように、リクエストの間隔を十分に取るようにしていた”。これは確かに君の供述だね?」
「はい、確かに言いましたが」
「つまり、君は自分のプログラムを実行したら、図書館のサーバを止めてしまう可能性がある、と認識していたということになるんじゃないのか」
そう来たか。タカシは苦笑した。
「そういう可能性をなくすために、対策を講じていたんです」
「ふーん。その対策が不十分だったんじゃないのかね」
「そんなことはありません」タカシは少しムッとした。「警察の技術の人も、私のプログラムを見て、問題はないと言っていましたよ。読んでないんですか? 明らかに図書館のシステムの方に問題があるんですよ」
「でもねえ」今度は丸山検事がムッとしたようだった。「君のプログラムのような連続したアクセス、普通の利用者がする? しないよね。図書館の方だって、そういうやり方は想定してないよ」
「ええ、まあ、確かに、普通の人はそういうやり方をしないと思いますが……」
「だったら君にまったく責任がないとは言えないんじゃないかね」
あまり自分に責任がないことばかり強調するのも、身勝手な人間に思われて不利かもしれない。そう考えたタカシは少しだけ譲歩することにした。
「まあ、まったく責任がないなんて言うつもりはありませんし、図書館の人に迷惑をかけたのなら申しわけないと思います。でも、その大きな原因は、どう考えても図書館のシステム側にあるのは間違いないと思うんです」
「またそれかね」丸山検事はうんざりした顔になった。「自分の責任を回避しようとしているとしか思えないんだがね」
「そんなことは考えていません」ともすれば感情に支配されそうになるのを、何とか抑えつけながらタカシは主張した。「私はただ自分は十分な対策を講じた、と言っているだけです」
「そう言うのは自由だがね。図書館に迷惑をかけておきながら、どうして反省のかけらさえ見せないのか理解に苦しむね」
T署の小林警部補とは違って、丸山検事はタカシにまったく悪意がなかったとは考えていないようだった。HTTPプロトコルやコネクションの知識がゼロに近いくせに、どうしたらそこまで自信が持てるのか、タカシにしてみればそれこそ理解に苦しむところだった。
「1つ聞きたいんですけど、そのベンダさんは、原因をちゃんと調査してるんですか?」
お前の知ったことではない、とか、捜査状況を被疑者に言えるわけがない、という反応が返ってくることを半ば覚悟しての質問だったが、丸山検事の答えはやや歯切れが悪いものだった。
「ああ……した、と聞いているがね」
「本当はしてないんじゃないですか?」タカシはここぞとばかりに追及した。「自分たちに都合の悪いことは隠して、私に責任を押しつけようとかしてるんじゃないですか?」
「そんなバカなことがあるわけないだろうが」
少し強い口調でそう言われ、タカシは口を閉じた。確かに何の証拠があるわけでもない。
その日の最後に見せられた調書は、前回と内容がほとんど同じだった。末尾に署名をしながら、タカシは内心、この検事さんはこうやって時間をつぶすことで給料をもらってるんじゃないかと首を傾げた。T署での取り調べも含めて、何か新しい事実が発見されたということはまったくないのだから。
1週間ほど前、勾留延長が認められ、留置場で過ごす期間がさらに10日間増えたと聞かされたのだが、タカシはそれほど失望しなかった。検察は必ず勾留延長を申請するもので、裁判所は100%に近い確率で認めるものだと聞いていたからだ。そのときも、心の中の大部分を占めていたのは、これ以上、何を捜査することがあるのだろうか、という疑問だった。
タカシは果てしなく続くかに思われる、進歩のない取り調べにうんざりしていたが、同時に不安でもあった。図書館サーバが停まった原因は、タカシにしてみればゼロによる除算がエラーになるのと同じぐらい明白なのだが、そう思っているのはどうやらタカシ1人であるらしかった。
ネットへ接続する環境に接することはできなかったが、六法全書を始め、法律書や判例集はいくらでも借りることができたので、タカシは暇つぶしも兼ねて、それらを調べてみた。ネット関係での偽計業務妨害の判例はあまりなく、有罪になっている例は、さらに数が少ない。それでも、タカシの事件が偽計業務妨害罪を構成するようなものではないことはわかった。自分自身のことなので、そう思いたいだけなのかもしれないが、できるだけ客観的に振り返った上で出した結論だ。
タカシが怖れている可能性は、すでに「絵」が描けていて、警察も検察も、それを前提に捜査しているのではないか、というものだった。
丸山検事は、普通の利用者がプログラムを使った連続アクセスなどしないだろう、と言っていた。スクレイピングやクローラの仕組みについて知識のあるエンジニアなら、プログラムを使おうが、人力でF5キーを連打しようが、同じ現象を発生させることができると分かる。だが、そこまで知識のない人ならどうだろうか? 事件の概要を聞けば、こう思うのではないだろうか。
あるプログラマが自作プログラムで図書館に大量アクセス?
そうしたら図書館サーバが落ちてしまった?
それはそのプログラマのせいに違いない
なんかコネクションがどうとか言ってるが責任逃れだろう
悪意がなくても、責任は取らせるべきだ
タカシは、司法関係者がそこまで短絡的であるはずがない、と思っていたし、石田弁護士も起訴まではいかないだろうと言っていたので、理性では自分の無罪を確信していた。だが、夜、房の中で横たわっているときなど、唐突に猛烈な不安が襲いかかってくることがあり、それを払いのけることができなかった。
取り調べでの自分のちょっとした態度や、説明の仕方などが誤解されてはいないか……コネクションの説明が上から目線で検事が不快に思ったのではないか……自分に責任がないことを強調しすぎて逆に犯意と見なされたのではないか……今後、類似の犯罪を抑制する見せしめとして有罪判決が下るのではないか……。
一度、考え始めると、不安はどこまでも複利計算で増え続けていくようだった。
どんなことにも終わりがある、という言葉をタカシが唐突に実感することになったのは、6月14日のことだった。朝食後、小林警部補にいきなりこう告げられた。
「今日、釈放になったよ」
瞬間、何を言われたのか分からず、タカシはポカンと口を開けたまま、小林警部補の顔を見つめた。少し遅れて、釈放の言葉の意味が脳全体に染みわたり、歓喜が沸き起こった。
「本当ですか!」
「ウソついてどうするよ。釈放だよ」
タカシの口から、思わずため息が出た。その様子を見ながら、小林警部補は続けた。
「今回はね、あんたは図書館に迷惑をかけたわけだけどもね、自分の罪を認めてるし、プログラムに問題があったことも認めてるわけなんでね、検察が起訴猶予と判断してくれたってことだ」
その言葉が引っかかり、タカシは顔をしかめて聞き返した。
「プログラムって、図書館システムのことですか?」
「いや、あんたのプログラムだよ、もちろん」小林警部補は当たり前だろうと言いたげに目を見開いた。「捜査対象はあんたなんだからね」
「じゃあ、私が言ったコネクション解放漏れの問題はどうなったんですか?」タカシは聞いた。「ベンダの方は調べてもらったんですか?」
「それはあんたとは関係ないよ」
結局、そっちは何にも調べなかったわけか。タカシの心に徒労感が生まれたが、取りあえずは釈放の喜びの方が大きかった。
「じゃあ、これで無罪放免というわけですね」
「ん? いや、無罪じゃないからね」小林警部補はタカシの言葉を訂正した。「起訴猶予ね」
「え、無罪とどう違うんですか?」
「無罪ってのは罪が立証できなかったことだろう。起訴猶予は、被疑事実は明白なんだけども、まあ起訴するのは見送るか、ってこと」
つまり相変わらず、タカシは図書館に対して偽計業務妨害罪に相当する攻撃行為を実施したと思われているのだった。
「要するに、有罪ってことですか」
「いやいや、全然違うでしょう」小林警部補は笑った。「有罪ってのは、起訴されて判決が出て決まるわけだからね」
「じゃあ前科が付くというわけではないんですね」
「付かないよ、もちろん。ただし、こういうことがあったっていう記録は残るからね。また何かやったら、その記録が参照されることになるし、その場合は検察の取り調べにも影響するから、注意することだね」
自分の無罪が立証されたわけではない、というのは、タカシにとってはすっきりしない結末だったが、ここで、小林警部補に文句を言っても仕方がないだろう。それよりも、今は一刻も早く自宅に帰り、妻と息子に会いたかった。
「起訴猶予って、その猶予の期限はあるんですか? 執行猶予みたいに」
「ないよ。起訴猶予ってのは、不起訴の理由の1つだから。例えば1年以内に何かやったら、起訴されるとかそういうことはないよ」
「そうですか……」
「もっともね」小林警部補は真面目な顔で続けた。「検察審査会が、やっぱり起訴相当とか判断すれば、また捜査が始まるね」
「検察審査会?」
「そこで新しい証拠がみつかったりすると、起訴になることもあるといえばあるね」
タカシはどきっとしたが、小林警部補は安心させるように、軽く笑った。
「それはいつかの陸山会事件みたいに有名な場合ね。あんたみたいな軽いので、そこまでやるほど、検察もヒマじゃないから安心していいと思うよ。じゃ、手続きするからちょっと待ってて」
2時間後、タカシは釈放された。21日ぶりの自由の空気だった。
(続く)
この物語は事実を基にしたフィクションです。実在する団体、個人とは一切関係ありません。また司法当局の捜査方法などが、現実のそれと異なっている可能性があります。
コメント
nanasi
編集さん校正してないんですかー!
毎週期待してるだけに目立っちゃいますよー!
名無し元PG
「勾留延長が認められ~」の件ですね。ほぼ同じ文章が繰り返されてます^^;
abs
同じ文面が二度。
あれ...俺、疲れてる...?
とか、真面目に考えてしまった。
bel
あと、多分
×試しがない
◯例(または様)がない
ですね
とおる
間違いが多いとうことでなにかあったのでしょうかね。
『傲慢と偏見』の最終話のコメント欄の書き込みと関係があるのでしょうか?
通りすがり
> bel
Googleで"した試しがない"で検索
約 462,000 件 (0.19 秒)
espre
「試しがない」は間違いとは言えないのではないかと思います。
試しがない、例がない、どちらも使いますよね。
いつもはスルー
ためしがないという表現は当然あります。
ためしの表記として、例し、験しは使えるが、試しはこの用例では不適切という指摘では?
いつもはスルー
辞書ひきました。。。
試し、験しはだめ
例、様はOK
結局まんまbelさんの指摘のとおりみたいです。
混乱させてすいません。
匿名
> 通りすがり 2012年11月 5日 (月) 10:43
> Googleで"した試しがない"で検索
> 約 462,000 件 (0.19 秒)
Googleで"うる覚え"で検索
約 1,040,000 件 (0.24 秒)
通りすがりさんの論法で数だけを根拠にするなら、"うる覚え"も正しいことになってしまいますね。
"うる覚え"は検索結果のトップに誤用の指摘が出てくることがありますから、間違いとわかるかもしれませんけど。
bel
ひらがなに修正されてますね。
よく考えたらこれが一番いいですね。
例だとレイってよんじゃうし。
"試し"はもちろん正しい日本語だと思いますが
その場合は文字通り"こころみ"、"試行"という意味に
なるんじゃないかなーと思いまして。
名無し
ほんとだ、指摘された部分がこっそり修正されてますねw
名無しさん、belさん、ご指摘ありがとうございます。
編集部の方からメールをもらったのですが、仕事中は、コラムの編集ができないので、とりあえず場所を指定して修正してもらいました。お礼が遅くなりました。
とおるさん>
そのコメントはもちろん読みましたが、このコラムの誤字とか段落の重複とは関係ないです。
月曜日公開なのですが、公開前には編集部のチェックが必要なので、木曜日の夜にはアップして連絡をしています。例のコメントは土曜日に投稿されているので。
私事ですが先週の木曜日は、バタバタしていて、ちょっと推敲が低かったようです。汗顔の至りです。
ほまらら
警察のレベルが上がってくれないと、あまりコメントする余地がないですねw
橋の上でジャンプしたら橋が崩れた。
→ジャンプしたら橋に負担が掛かることは判っていたはず
→普通の人は橋の上でジャンプなんかしない
→従って、橋が崩れたのはジャンプした人の責任である。
こういう論理ですわな。
将来は、アプリケーションの堅牢さにも、
建物の建築基準と同じく一定の基準を課すようになるかもしれませんね。
なかじー
とおるさん>
高慢と偏見で、何か粘着な人がからんできてますね。
staticおじさんの同類っぽいな。