人形つかい(14) 冬がやってくる
月曜日。零号デモの2週間前。
睡眠のおかげで、蓄積していた疲労を少しは減らすことができたようだった。ぼくは少なくともうわべだけでも人間らしさを取り戻したような気分で、エースシステムの開発室に入った。
入った途端に、何か違和感をおぼえた。その正体がすぐには分からなかったが、いつものようにライズの人たちとあいさつを交わしたときに判明した。リーダーの石川さんがいないのだ。
――珍しく休みかな。
石川さんはライズのリーダーという立場からか、会社が徒歩で数分の場所にあることからか、毎日、真っ先に開発室に来ているのが常だ。休むときには、必ず前日に予告していた。
自分の席に座ると、先に来ていた東海林さんが、困惑した顔で言った。
「石川さん、しばらく来られないってさ」
「え?」
「インフルエンザかもしれないらしい」
そういえば今朝のニュースで、流行の兆しとか何とか言ってた気がする。
「そうですか。それは心配ですね」
「うん? ああ、いや、確かに石川さんは心配なんだが、おれが気にしてるのは別のことだよ」
「なんですか、それは?」
東海林さんは「今に分かる」と言っただけだった。
数分後、急ぎ足で開発室に入ってきた橋本さんは、石川さんの健康を心配する言葉をいくつか並べた後、残りのスケジュールについて言及した。
「ライズさんの営業の方にも確認したんですが、替わりの要員をアサインするのは難しいとのことです。それで、石川さんの担当分については、ライズさんの中で分担できそうですか?」
ライズのエンジニアさんたちは困惑した顔を見合わせた。ぼくが東海林さんの指示で変更仕様書を消化しているように、彼らも石川さんが効率よく振り分けることで、急増する修正に対応していたようだった。その石川さんの替わりを務められる人が誰もいないのだろう。確かに、ぼくが見ていた限りでは、ライズさんの中でマネジメント能力があると思われるのは石川さんだけで、後の人々は優秀なプログラマではあっても、管理者タイプではない。
原田さんがおずおずと口を開いた。
「すみませんが、少し分量を減らしてもらうわけにはいかないでしょうか?」
「それはできません」
きっぱり言った橋本さんだったが、もともと無理なことを言っているのは分かっていたのだろう。少し考えていたが、やがて顔を上げると、なぜか東海林さんの顔を見た。
「東海林さん、お手数ですが、ライズさんの分を少し引き受けてはもらえませんか?」
「冗談でしょう」というのが東海林さんの答えだった。「自分の担当分だけで手一杯ですよ」
「そうですよね……」橋本さんは肩を落とした。「では、せめて、石川さんがやっていた実装の割り振りだけお願いできませんか?」
今でも建前上は、実装担当の割り振りはエースシステム側が行っていることになっていたが、実質的には東海林さんや石川さんが裏でアサインし直していた。高杉さんはどうだかしらないが、少なくとも橋本さんは知っていて黙認していたようだったが、今や公然と認めたようなものだ。それだけ、エースシステム側にも余裕がなくなってきているということなのだろう。
橋本さんの必死の要請を、東海林さんは反射的に断りたいような表情を浮かべたが、何か考え込むように視線をさまよわせた。
「そうですね。それぐらいなら何とか。石川さんにはお世話になっていたことだし」
ぼくは驚いて東海林さんの顔を見た。とてもじゃないが、そんな余裕があるとは思えない。
「よかった」橋本さんの表情が少し明るくなった。「では、そういうことでよろしくお願いします」
橋本さんが出ていった後、東海林さんはぼくの方を見た。
「そういうことだから、今日、明日ぐらいはできるだけ1人でやっててくれ。修正を最優先でな。取りあえずお前に割り当てられた機能だけでいいが、できそうならおれの分も頼むよ」
「はあ……」われながら情けない声だった。
「大丈夫、できるから」東海林さんはそう言うと、ライズのメンバーに向き直った。「じゃあ、取りあえず、今上がってきている修正の一覧をプリントアウトしてきてください。それから、皆さんのこれまでの実装担当の一覧と……」
ぼくは自分の席で担当分の設計書を開いた。日曜日に充電したエネルギーが、70%ぐらい放出されてしまったような気分だ。これからは東海林さんに助けてもらう時間が減るかもしれない、と考えると、暗澹(あんたん)たる気分にしかならない。
ぼくは石川さんの病状回復を心から祈った。石川さんの健康を心配してではなく、自分のために。どうかただの風邪でありますように。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぼくの――利己的な――祈りも空しく、石川さんはA香港型インフルエンザだと診断され、会社からは少なくとも7日間は出勤を禁じられたとのことだった。疲労の蓄積によって抵抗力も落ちていただろうから、完全復帰にはもう少しかかるかもしれない。
東海林さんは1日かけて、ライズの担当分の未実装機能の概要を読み、火曜日から割り振りを行った。東海林さんにしても、実はほとんど当てずっぽうに近かったのかもしれないが、ライズのエンジニアさんたちは、指揮官不在の不安から解放された安堵の表情で東海林さんの指示に従っていた。
ランチのとき、ぼくは不満を――小声で――口にした。
「ああいうことは、エースさんの仕事じゃないんですかね」
「建前はそうでも、現実的にはありえないだろ」東海林さんは食事中だというのに、何かのプリントアウトに目を通していた。「実装経験のない橋本さんには無理だろうし、高杉さんがそんな仕事をやるとは思えないからな」
「そもそも、どうして引き受けたんですか?」
「何も分かってない人間がやるより、おれがやった方がマシだろう。例えば橋本さんが仕切ったりしたら、多分ライズさんの担当分は完成しないよ」
「……」
「前にも言ったかもしれないが、とにかく、おれはもうここの仕事を、さっさと終わりにしたいんだよ」東海林さんはカレーを食べ終えて、グラスの水を一気に飲み干した。「そのためにできることは何でもやるってこと」
「まあそうなんでしょうけど。こっちも大変なんですよ」
月曜日から再開された総合テストのフィードバックとして、火曜日の午前中から変更仕様書の発生が再開した。しかも、だんだん数が多くなってきている。火曜日だけで、ぼくの未実装機能数は、14にまでふくれあがっていた。
もはや効率などを考えている余裕もなく、ぼくは片っ端から修正を消化していく作戦に出ていた。
「悪いけど何とかしてくれ。おれは忙しい」
――その、何とかが問題なんだけどなあ。
水曜日になると事態はさらに悪化した。ミーティングで高杉さんがこう言ったのだ。
「総合テストチームからの報告だと、修正依頼への対応が遅すぎて、テストにならないそうです」高杉さんはぼくたちをじろりと見回した。「もう少しスピードアップしないと、全体のスケジュールが遅れていくことになることを忘れないでください」
あまりにも無慈悲な言葉だった。ぼくは怒りを感じるより先に、果てしない脱力感と虚脱感に襲われてしまった。
東海林さんが、高杉さんの正気を疑うような顔で発言した。
「お言葉ですが、こんなぎりぎりになってから、ガンガン変更仕様書を起こしているのはエースさんの方じゃないんですか?」
「それがどうかしましたか?」高杉さんは自分が理不尽なことを言ったとは、露ほどにも疑っていないようだった。「開発初期より、後期になってから修正が発生するなど、当たり前のことではないですか」
「当初の予定になかった追加仕様も発生していますが?」
「よくあることです。もう少し、開発プロセスというものを勉強なさってください」
「開発プロセスの問題ではないと思いますが」
「そうですね。では、実装のレベルが低いためと言い換えましょうか?」
「実装のレベルが低い、というのは、どの部分を指しておっしゃっているんでしょうか」東海林さんは険悪な表情で訊いた。「後学のために、ぜひ教えていただきたいものです」
「言わなければ分かりませんか?」
「分かりません。何しろ、この年までプログラマをやっているものですから」
東海林さんの言葉に含まれる揶揄を感じ取ったのか、高杉さんは眉をひそめた。
「これだけ修正が発生していること自体が、何かを物語っているとは思わないのですか?」
――いやいやいや、何か物語っているものがあるとしたら、実装じゃなくて設計のレベルの低さだとは思わないのか?
ぼくは心の中で、高杉さんに毒づいた。ぼくより遠慮のない東海林さんも、きっと同じ意味のことを言葉にしたかったのだろうが、そこで橋本さんが割って入った。
「あの、今はそういうことを議論している場合ではないと思いますが……」
「分かってないわね」高杉さんは橋本さんに噛みついた。「こういうことは、責任の所在を明確にしておく必要があるのよ。特に上流工程で全体を管理しているときにはね」
「はい、すみません」
「まあいいわ。時間がないのは事実だし」高杉さんはぼくたちに向き直った。「それで、今後は修正、新規を問わず、実装のリミットを設定させていただくことにします」
「リミット?」ぼくは思わず訊き返した。
「そうです」高杉さんの冷酷な視線が、レーザーのようにぼくたちをなぎ払った。「ユニットテスト完了までの期限です。いつまでもダラダラ時間をかけられても困りますし、総合テストの都合上、優先して完了していただきたい修正もありますから」
「それを守れなかったらどうなるんですか?」東海林さんが訊いた。
「守っていただきますよ」高杉さんは妖しく微笑んだ。「何があってもね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高杉さんに欠けているものがあったとしても、実行力や決断力でないことだけは確かだ。ミーティング終了の2時間後には、進ちょく表の未実装機能に、完了期限が表示されるようになった。
ひとしきり完了期限を眺めた東海林さんはつぶやいた。
「これ、難易度で決めてるわけじゃないな」
「どういうことですか?」
「高杉さんが言ってただろう、総合テストの都合上とか何とか。多分、総合テストのスケジュールに合わせてあるんだろう」
ぼくは進ちょく表を見直した。確かに、処理フローの順に完了期限が設定されているようだ。
「厄介ですね。このA01F018なんか、変更項目が13カ所もあるのに、明日の朝一番になってますよ」明日、A01F018が含まれる処理をテストするということだろう。
「じゃあ、それから片付けなきゃならんな。変更仕様書を出してくれ」
ぼくはため息をついた。東海林さんが効率を考慮して決めてあった実装の順番は、全部破棄せざるを得なくなったわけだ。ぼくが楽しいクリスマスを迎えられる可能性は、ゼロによる除算が成功するよりも低くなってしまった。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。似たような行動や言動があったとすれば偶然の一致でしかありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
BU-SON
いつも楽しく拝読させていただいております。
面白い!
感情移入しそうですが高杉さんのキャラは強烈です。
イライラして手が震えそう(笑
自分が間違っていることに、すべての人間が気付ける事はないですが、
高杉さんには気付いて欲しい。
いつぞやのコメントにもありましたがドラマ化希望です(^ー゚)ノ
ヤミ
今回もおもしろいですね><
東海林さんと高杉さんのやり取りは、さすがにおいおいという感じでしたが、東海林さんの気持ちはよくわかります。
高杉さん、今回のスケジュールの遅延は、上流工程の問題ですよと自分も暗にいいたくなりました。
次回、楽しみにしてます。
くらにさん
>「開発初期より、後期になってから修正が発生するなど、当たり前のことではないですか」
>「当初の予定になかった追加仕様も発生していますが?」
>「よくあることです。もう少し、開発プロセスというものを勉強なさってください」
それを少しでも防ぐよう修正にはねない代替案をステークホルダーとネゴるのが、プロマネの腕の見せ所というか存在価値ではないだろうか?
顧客のいいなりになって仕様変更受けまくっても、プロジェクト潰れてモノが出来上がらなければ、結局顧客に損害を与えて元も子もない、ということを理解できなければ、もう一段上のキャリアには進めないだろうね。
kurihara
いよいよもって高杉が牟田口化してきたな。
契約か何か知らないが、やれと言ってできるならコストはともかく納期オーバーなど誰も起こさない。
そんなことも経験したことがないなんて、高杉は相当運のいいやつだったんだろう。というか、いよいよもって打つ手がなくなってきた時、お前たち無能は全員銃殺だぁ!と喚く無能なチェーカー高杉の泣き顔が今から想像できる。
いっそのこと東海林氏ぶちきれ→高杉から退場命令→残ったメンバー涙目→橋本レベルUP!高杉下克上の展開希望。
tmp
バグだらけのフレームワーク、コーディング出来ない奴の
へぼ設計とそれを通した社内レビュー体制。ギリギリまで
上がってこないバグレポ。エースシステムダメすぎだろ(笑)。
これら全ての責任を下請け実装担当者になすりつけ、
絞り上げて開発期間を短縮するテクニックに長ける高杉さんが
エースのプロマネになっているのはある意味必然。
泣きすがり
面白い反面、小職が10数年前に経験していた(日常だった)ままなのですかね?(現在は別のことをやっておりますので)
日曜日はカジュアルウェアで行けることだけが楽しみ(?)でしたね。最後に取った休みはいつだったか…という状況が普通でしたよ。
当時はメンバ対して、かつメンバも、「だろう」「ようだ」という言葉が出ないように気を付けていました。バックグラウンドがはっきりしないマテリアル(書類等含む)は、使えませんし、使ってはなりませんから。
・・・とは言え、それが100%できる環境に無いことが、こういった状況を生み出す(それこそ)バックグラウンドなのですよねぇ。
あうあうあー
文章が冗長すぎる。
創作なら、もっと読みやすくできないでしょうか。
思わず「3行で」といいたくなる。
登場人物や組織名など、固有名詞が多すぎるのも問題。
もっとシンプルにしたほうが面白くなるしスピード感も出る。
HOPE/
夢中になって、一気読みしました。
文章のテンポも絶妙です。おもしろい。
デスマになりかけているあの独特の雰囲気が伝わってきます。
次回も期待しています。
あ
東海林が舐められてるだけだろ。ここで食い下がらなくてどうするよ。営業を笑えんぞ。