「小損を取る」(19) 「すがすがしい」とゴミ拾い
半年ぐらい前かな?ゴミ拾いについて書いたのですが、ゴミを拾う、すなわち、自分の周辺環境がキレイになっていくというのは、とてもすがすがしいです。
そう、私は、自分がすがすがしくなりたいがためにゴミ拾いを続けています。
言い方を変えると、自分がゴミを拾うことにより社会貢献をしているなどとは微塵も思いません。あくまで自分の快のためにやってます。
でも、世の中には社会貢献のためにゴミ拾い(昔流行った言葉でいうところの「美化運動」)をしている方がたくさんいますね。
社会貢献の手段としてゴミを拾っている方々にとっては、ゴミを拾うという行為そのものは不快なんじゃないでしょうかね。つまり...
社会貢献をしてる!という自分は快で、その手段であるゴミ拾いは不快。
で、ゴミ拾いをして街がきれいになったところで、すがすがしさはそれほど感じないのでしょう。
そして、社会貢献のためにはオーディエンスはゼッタイに必要。評価はされなければならないんです。だから、アピールも必要になってきます。
労働と「仕事」の関係に似てるような気がしますね...
労働は、労働そのものが快であることはあり得ません。快は労働の対価としてもらえるお金のほうにあります。
仕事とは仕事そのものが快です。(そうあるべきです)
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私は、ゴミを拾って自分の周辺がきれいになればそれでいいので、オーディエンスは不要です。人に評価されるためにやっているのではないです。
礼を言われたいわけでもないです。
どころか、人は見ていてほしくない!(笑)
恥ずかしいから!
と言いながらも誰かは見ていてほしいとか、「お天道様」や「神」の類は、ちゃんとみてくれている...とかそういうことも考えてないですね今は。昔は少し、思ってましたが...
つまり、善行に対して「報い」を求めたいという、抑えがたい気持ちがありました。
昔は。
今は、ないと思ってます。なぜなら、ほぼほぼルーティン化されたからです。そんなことを考える前に身体が動くし、ゴミを拾う行為が終わったらそのこともすぐ忘れてしまいますので。
◆
あ、そうそう、社会貢献としての清掃活動をしている方々と私との大きな違いは。
私は、ゴミがあるところに出張っていくことはないです。100%、受動的。あったら(あるのを見つけたら)拾う、と。
清掃を「活動」としている方々は、ゴミがなければ意味がない。「こんだけ拾ったぞ!貢献したぞ!」とアピールしたいわけですから。
ですので、ゴミがあるところに出張っていく。
そしてもうひとつは、計画性ですね。私はもちろん、計画はないです。でも「活動」というのは計画はMUSTでしょう。来週の日曜は●●に行くから集合、とかね。
そして、ゴミを拾いにいくはずが、なぜかなるべく人が集まりそうなところをセレクトしたりして。
このあたりの相違は、大事だと思っています。