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無と無駄について(2)

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 前回は、現代の働き盛り世代に絶対必要なはずの「無の行為」が「無駄」によって浸食されている、といったようなことを書きました。

 さて繰り返しになりますが、行為としての「無」ということで前回前々回挙げたのが、瞑想(静かな時間)、休息、睡眠の3つです。

 この場合の「無」は要は「無産」ですね。何も産み出していませんので(傍目には)、生産性はゼロカウントです。

 「無」は(あたりまえですが)「有」ではありません。ですので、「無」意味を連想してしまうことが多いのかもしれませんが、「無」は「有」よりもむしろ「有意義」なのです。

 現代人はやたらと24時間を有(つまり予定)で埋めようとするんですけど、ほとんどが実は「無駄」だったりします。残念!

 しゃかりきになって無駄な予定を増やすぐらいなら上に列記した「無」を少し増やしたほうが間違いなく幸せになれます。増やし過ぎてもそれはそれで問題なのですが。

 ぶっちゃけ、みなさんがやってる仕事も半分以上無駄なんですよ。もちろん私の仕事も無駄がゼロではありませんけども。

 私20年以上SEの生態観察してますけども(苦笑)、もう笑ってしまうぐらいみんな無駄なことやってます。そして、現場のSEも薄々それに気づいているはずです。

 まぁでも、自分のワークが無駄だろうがそうでなかろうが、同じく給料をもらえるのだからそれでよいのです。それどころかどんどん自分のワークを「無駄化」させて残業を増やし残業代をとりにいったりします。もしくは自ら無駄化させて残業が多いと不満を漏らしたりします。

 おっと、この話を始めると長いのでやめておこう(笑)そのへんを私は批判しているのではなくて、生産性による完全歩合にならなければ絶対に変わっていかないSEの習性であり、極論すればそれはSEに与えられた権利のひとつなのかもしれません。

あるいは観点を変えると、個人単位の生産性向上/業務効率化施策であるともいえますね

 長時間通勤も間違いなく無駄なんですよね。それはなぜかというと、「長時間通勤を一種の『余裕』であると考えている人間がほぼほぼいない」という意味で無駄なんです。

 もっと具体的にいうと往復の通勤時間に対して給料をもらえませんよね? という意味でも無駄といってよいかもしれませんね。

 そして、超満員電車に揺られての長距離通勤は、気付かないうちに心を蝕んでいきます。ということは、身体にとってマイナスなのですから、「無」の行為をしていたほうがよいに決まってますよね。

 と、私なぞは思ってしまうのですが、ちなみに長距離通勤も含め、自分の環境を最終的に選択しているのはすべて自分ですから... SEのみなさんが長距離通勤、長時間労働、不健康な生活、等自ら選択しているわけですから(それを望んでいる/いないは関係ない)私含めた周囲はそれを尊重せざるをえません。

 もしその環境を変えたいと思うのであれば、周りは尊重という名の傍観をしているわけですから、黙っていても周りが助けてくれる可能性は0%なので自ら動く他ないわけです。

 ところがこれがですね、会社に行きたい!会社で仕事をしたい!と強く思えるようになれば、オセロで土壇場で大逆転して真っ白になるように、無駄が有意義に変わっていくのです。

 あとは、同僚とか上司とか部下とか、好きでもない人との飲み会とか超無駄ですよね。

 その理由は長距離通勤と同じなんですよ。長時間拘束されるのに給料もらえない、どころか持ち出し!

 次の日仕事であれば午前中の生産性だだ下がり! 次の日休日であれば、前日痛飲してしまうと半日以上棒にふります。その時間のロスがどんだけ無駄かと...

それがどんだけ無駄か、といくら力説しても響かないとは思いますけども...なぜなら、反論のテンプレートがすでに用意されているので。

 そして、飲みが続くと気付かないうちに心を蝕まれる...どころか心を蝕まれていることを気付かせないように会社組織に洗脳されているわけです。コワいコワい...

 これも、同僚や上司が好きな人、尊敬する人、一緒に飲んで語りたい人なのであればまったく変わってくるんです。その時間は無駄ではなくなり、有意義なコミュニケーションの時間になります。

でも、なるべく深酒はしないほうがいいと思います...(笑)

 ざっくりいえば仕事が好きになれば会社に「奉納」している労働時間も、往復の通勤時間も、業務後の飲みも、人生において無駄な時間ではなくなります。

 つまり言い方を変えれば、給料をもらうために自分の貴重な時間を差し出しているからといってそれが有意義な時間であるとは限らないということ。

 仕事を好きになる、というのは、自分の人生を有意義にするための、数多あるソリューションのうちのひとつとして、常に頭の片隅においておいて損はないと思います。

ただし、それがすべてであると考えるのはキケンです。たとえば、ものすごい高報酬なのであれば別にその仕事を好きにならなくとも多くの人にとっては有意義たりうるわけで。

 人間って、自分が一番拘束されている「仕事」が有意義なものである(すなわち、無駄ではない)と思い込みたいものなんです。

 昔だったら、労働の対価で受け取るお金により自分と家族を養い、役職が上がることにより社会的地位を得、それによりマイホームのローンを返済し...といった一元的な価値観によりたとえその仕事が嫌でも有意義であると思い込むことはできたのですが、これからの時代は仕事をイヤイヤやってると生産性が頭打ちになるので、成果を残しずらくなり、楽しそうに仕事している人間に追い抜かれ、それまでの努力がすべて無駄に...なんてことになりかねません。

 それどころか最終的には職を失う、なんてことになったら、それはもはや屈辱でしょう。

 たとえ、イヤイヤ仕事しながら定年を迎えることができたとしても、高い確率で自分の人生なんだったんだと虚しく振り返ることになりそうですし...ストレスで身体のどこかは悪くなってるでしょうしね。

そもそも我々世代、定年なぞあるんかいと(苦笑)

 という意味ではキビしい時代なのかもしれませんね。

 なんだか、いつものごとく脱線。長くなってしまったので、まとめ。

 1日24時間を、「無」の時間プラス、(自身にとって)有意義な時間だけにするのが理想。

 「無駄」な時間はいらない。世間一般でいう、好意的に受け取られている無駄な時間とは「余裕」のことであって無駄ではない。

 これからの時代、週に数十時間拘束される仕事が、自身にとって無駄だとしたら、致命的。なのだが、残念ながらIT業界のSEは無駄な仕事をしている方が非常に多い。

一概に本人のせいにはできない。業界体質もあるので...

 週168時間のうち、多くの人にとってもっとも多くを占める仕事は、意識して、絶対に、自身にとって有意義なものにする必要がある。オセロで白にひっくり返していくように。

 (半ば無理やり)仕事を有意義なものにするための、ひとつのソリューションは、仕事を好きになること。

 ただしソリューションはそれだけではない。

時間があったらお考えください。

 今仕事が楽しい方、仕事がしたいから満員電車に乗って通勤するのが苦じゃない方は、今の時代かなりイケてます。これからも長く、楽しく仕事を続けていけるよう、健康に留意し「無」の時間を少しずつ増やしていきましょう!

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