無駄と、「ゆとり、アソビ」との違い
このあたりで「無」という概念について深く考えていました。
そして、その頃の草稿が残っていました。
ですので、この草稿をベースに書き起こしてみたいと思います。
「無」についてはあまりに壮大であるがゆえに、前回まとめきれませんでした(汗)。さて半年経ちましたが今回はどうなるでしょうか。
それにしても「エンジニアライフ」の趣旨とは本当にほど遠くなってしまった(大汗)。
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私が子供の頃は、地方で育ったというのもあり、今の子供らと違い、本当に勉強はしていませんでした(笑)。
そして、ほどよく遊んでいました。毎日毎日泥んこになって~ みたいな、ありがちにカテゴライズされそうな子供の遊びはしていませんでした。毎日家に帰った瞬間にランドセルをほおりだして外に出る、とかいう行動パターンもなく、週のうち半分ぐらいは約束があるので遊びにいき、半分ぐらいは家にいました。
習い事は週に2回のそろばん塾と1回のピアノ、春~夏の終わりまでは少年団のソフトボール練習が、試合前でなければ2日に1回程度、試合前は毎日でした。オフシーズンは何もありません。
現代っ子に比べたら比較にならないぐらい予定が入っていません(笑)
とにかく家ではどヒマでした。独り遊びしたりテレビみたり。。。それらに飽きるとぼけーっと考え事をしていました。
いや、考え事じゃないな。妄想です(笑)。ひたすら妄想。
そういえば家にゲームというものがなかったですよね~
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一言でいえば「どヒマ」だった子供時代の私の行動ですが、すべて今の自分の血肉になっています。
何かをしたことも、何もしなかったことも、です。
ということは、子供時代は基本的に何をしていても無駄がないということです。
いくつか例外はありますが、それについては本題から外れるので今回言及しません
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ところが、皆さんよぉくご存じかと思いますが、オトナというのは無駄な時間だらけです(汗)
なぜそうなってしまうのでしょうかね? 同じ24時間を生きているのに。
それに、オトナになるほどに時間の使い方が上手になっていきそうなもんじゃないですか。スキルが上がるという意味では。
でも、まったくそうはならない。
歳をとると、何を食べても、水を飲んでも、贅肉になってしまったりしますが...(笑)
なんだかそれと似ているような気もします。
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子供の頃の経験がすべてオトナになってからの血肉になる、を敷衍してみれば、我々の今、ここの経験のうち、10年後自分の血肉になっているであろうものだけが「無駄ではない」と定義できると思います。
たとえばふつうに考えて、今身体によいものを食べるとか健康に気をつかった生活をするとか、あるいは仕事をする(お金を稼いで生活を維持する)ことも、このように定義すれば無駄ではないといえると思います。
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オトナになると、なんだかわかりませんがあれやこれややらなければいけないことがたくさんありますよね。
にもかかわらず、けっこう期限ギリギリまで何もせず、ぼーっとしてしまうのが常です。
私はそうです
という意味ではそのぼーっとしていた時間は無駄ですよね。
子供時代は、本当にやることがなく(笑)、だからぼーっとしていたのです。つまり、ぼーっとすることが、そのときその瞬間のやるべきことでした。やるべきことをやっているから、有益な時間だったのです。
続けます。