無と無駄について
前回、(私の考える)「無」の4要素について列記しました。
瞑想、休む、眠る、そして闇です。
今回は5要素目、ではなく、実は「無」と相反する要素である「無駄」について書きます。
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無駄とは、たとえば「だらだらと~する」とかそういうことです。行為そのもの、あるいはモノなどを指すことにします。
すきま時間ができるとすかさず、目的もなくスマホをながめてしまう、という行為が最近やり玉に上がったりしますが、確かにあれは無駄かもしれないですね。あとはだらだらとテレビを見るとか。
でも人によっては、生活に欠かせない重要な行為なのかもしれません。つまり、ある人にとってそれは「無駄」なのかもしれませんがある人にとっては「余裕」なのですね。
そしてそれはスタティックではなく、ある人にとってとある行為が超無駄なこともあれば、時には「余裕」として生活に潤いをあたえることもあります。
大掃除を始めた途端に過去の想い出のアルバムに浸ってしまう甘美な時間が実は超無駄であるように(笑) そして〆切間近になると部屋の掃除を始めてしまうように(笑)
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上述した無の4要素のうちの3つの行為、すなわち瞑想(静かな時間)、休む、眠るが見事に現代の大都市圏の働き盛り世代に足りておらず、もうすぐ社会問題化しそうな勢いなのですが
もしかしてもうなってる?
なぜ足りないかというと「無駄」がまんまとこの3つの「無」を喰ってしまっているからなのですね。
「無」というのは空気や水と同じように、ほとんど意識はしていないけれど人間にとって絶対に必要なものであるにも関わらず、それをないがしろにして「無駄」なことばかりしているということです。
つまり、「無」とは決して「無駄」ではないのです。
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無は必要ですが無駄は不要です。世の中には無駄なモノも必要なのではないか、といった言説も確かに聞きます。が、それはたぶん「余裕」のことなんですよね。
ちなみに、無駄なモノも必要であると上から述べてる方々って100%、電車の中で若者がみんなスマホとにらめっこしているという「無駄」には苦言呈しますから。で電車の中で若者が本を読んでいると賞賛するんでしょう。移動時間を「無駄にしてない」ということでね。
「余裕」は、どちらかというと「無」に近い概念です。ただし完全にイコールではありません
たとえば、リビングのサイドボードにお父さんのコレクションの置物がおいてあるとして、それがでんと置いてあるのはお父さんにとっては「余裕」であり、他の家族数人にとってはガラクタ、すなわち「無駄」なのです。
お母さんは「掃除しずらい」と思っていることでしょう...
そしてどちらにとっても生活必需品でないことは間違いないのです。その置物がある日突然無くなったとしても、困ることはありません。
また、その置物はふだんお父さんの視界には意識的に入ってきません。つまり、溶け込んでいるのです。すなわち、無です。それが、奥さんや子供にとっては毎回目障りなものとして必ず目に入ってきます。なぜなら、無でなく無駄だからです。
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続けます。