「小損を取る」(18) 実践編その6 【夏休み特別篇】スーパーでの所作
更新が滞っておりました。毎年夏は全体的に稼働を減らしており...
仕事柄、夏休みというのはとりません(とれません)が、気温が上がり始めると自分の「一生懸命さ」というストロングポイントを意図的にセーブし、身体に休息を与えるようにしています。
さて、今さっきスーパーにいってきたときに思いついたことを、ばーっと書いてみますね。No推敲で。
けっこう大事なことだと思いますので...
◆
大きなスーパーだとレジがいくつか並んでいますが、お会計前に、どの列に入るかを、数秒で、真剣に考えます。
これは、けっこうエンジニアのみなさん、やりますよね? いちばん早く会計できるのはどこだろうか?と。
検討要素としては、待ちが何人か、というのは当然ですが、それぞれの買い物カゴの品数の多さも重要ですし、あとは店員さんの動作をチラ見して、ベテランかどうか判断するというのも重要です。
まぁあと理系が好きそうな判断材料はたくさんあるんですけど...たとえあ買い物カゴがいっぱいであっても、同じ品ばっかりだったらスキャンして「*6」とかやればいいわけなので、早く済みますよね。
いろいろ考えて(数秒の間に!)同じぐらいの2つの列に絞り、あとはカンを信じるのみ。決めたら、さっとそこに入ります。
あとは、動かないことです。
そこに入ってから、いろいろ起こりますよね。たとえば前の前のお客さんのひと品がぜんぜんスキャンできなくて手打ちになるとか、いってみれば渋滞発生ってとこです。
そこで、そのへんのオバチャンとかだとイライラ、そわそわし始めて、ふらふらっとレジを移ったりしますね。移った先で、早く列がはけて会計が済んだときなど、誰も見てないけどドヤ顔してます(笑)。
でもそんなに、移って良いことはあんまりないんですけどね。
たとえばとなりのとなりのレジが自分の想定外でさくさくと進んでいるときなど、ちょっと移りたくなりますが、かたくなに動かないようにします。
なぜならば、そこが自分が「信じた」道だからです。
どんなシチュエーションでも、どんな小さな決断でも、自分が信じたことに対してはブレないほうがいいです。
◆
さてやっと本題に近づいてきましたが... まさにこれが「小損を取る」の第一歩なんですよね。
ところが!これだけじゃダメなんです。小損を余すところなく取りきるにはどうしたらよいか?
それは、イライラしないこと。可能であれば、にこやかでいること。それが難しいのであれば、ただすましているだけでよいです。私も10年ぐらい前はヒドかったです。こういうケースではどんどん列を移動していってましたし(苦笑)、隣がさくさく進んで自分の列が渋滞してるときは周りに聞こえるように舌うちとかしてましたし(懺悔)
つまり「受け容れる」ということなんですね。
自分の信じた道が、実は少し回り道だった、と...(回り道っていってもスーパーだったらせいぜいたったの5分といったところです) それをただ感情を交えず受け容れるだけ。「ああ、そうなのね」と、それだけです。
ベテランじゃないパートの方とかだと、やっと自分の番がきたときとか、「お待たせして申し訳ありません」とかいってくれたりしますが、そういうときは本心から「いえいえそんなことないですよ」「大丈夫ですよ」と、言ってあげることです。なぜなら、その渋滞レジに並んだのは私自身の判断なのであって、店員さんが私に謝罪する理由は実はどこにもないからです。だから、無用な謝罪を否定する必要はあるでしょう。「あなたは特に謝る必要はないのだ」と。
これで「小損を取る(取りきる)」が完了ということです。
◆
で、こういうことを続けるとどうなるか? いきなり自分に運が向いてくる、なんてことは絶対にありません。そんなムシのいい話は、ないです。
それは、今まで何度も言い方を変えて書いてきたつもりです。
ただし、地道に続けているとどうなるかというと(数か月単位)、超越的存在、神的存在が、私の運命を差配してくれます。
あ~ここは信じなくてもいいですよ。信じてほしいですけど(笑)
差配っていうのはどういうことかというと、私の認識範疇外で、私になるべく悪いことが起こらないようにしてくれるということです。ですので、私はそれには気づかない。本来起こるべきであった悪いことが、起こらないというだけなので、気づきようがありません。
そのフェーズが終わり、さらに淡々と小損を取る(取りきる)ことを続けていると(年単位)どうなるかというと、やっと自分に運が向いてきます。
というのは嘘です。(爆
たかが1年でそんなにうまくいくはずがありません。ただし、何が起こるかというと、イライラが減ります。イライラはなくなりはしませんけどね。
イライラが減るのは、当然なんです。神的存在が知らぬところでせっせと差配してくれてるわけですから、イライラさせるようなことが間違いなく減っているからです。
ですのでここで、やっと!気づかなければならないのです。あれ?なんか最近...自分の生活(というか人生)変わってきてね?と。
ここで自分の心境に変化がなければ、終了~です。神的存在もたぶん「差配」をやめてしまうでしょうね。
でここからが重要なんですけど、この時点で能動的に「感謝」の念を持つこと。持たなければいけないんです。自分の生活の中でなんとなく悪いことが減ってきたということに。
誰か、ではないけれど何者か、超越的存在が、そうしてくれているのだということに。
その「感謝」の方向性は、基本的には自由なんです。天に感謝しようがお天道様だろうがアマテラス云々だろうがブッダだろうがイエスだろうが。
でも、私でなくて先達のうちの多くは、そもそも「祖先」に感謝しろといっています。私もそれに賛成です。
そしてですね、よく蝋燭の灯で例えられるのですが、蝋燭の灯はいくら分け与えても減らない、とかそういう話に引き付けて、「感謝の灯」がともったら、それを、「家族と親」に分け与える必要も、あるんです。
ここは、自由ではないです。必須なんですよね。
◆
やっと!ですよ。感謝の念を具体的に、現存している家族や親にあらわされるようになったら、そこでやっと、運が向いてきます。カンタンにいうと、「悪いことが起こらない」から、「(少しずつ)良いことが起こる」に変わってきます。
神的存在は、小損を取ることを継続的に続けていれば、自分が知らないところでの「差配」は続けてくれます。
繰り返しますが、信じなくてもいいですから。読み進めてはほしいですが(笑)
でも実は、"Life is a state of mind."(映画"Being there"の〆の台詞)とはよくいったもので、良いことが起こっているわけではなくて、良いことの萌芽は昔っから至るところにあったのですよ。
出来事に対する解釈が変わっただけなんです。
なぜ解釈が変わった(変えられた)か?というと、それは、ノイズが減ったからなんです。神的存在の差配によって、以前と比べていわゆる「ムカつくこと」(これがノイズ)が減っているので、出来事をありのままにみることができるようになっただけなんですよね。
◆
ここまでは、たぶん自力で自分の人生を変えられるのですが、ここから先はたぶん、どうにもならないところです。と、私は思っています(いろんな考え方がありますけどね)。
つまり...自分の人生で少しずつ、小さな、良いことがぽつぽつと起こり始めると、そこまでいった人は、人生を好循環させることができるようになります。それはぜんぜん難しいことではなくて、そこまでいった人はそこまでのやり方を踏襲すればいいだけです。
ですが、そこで慢心すると「ふりだしに戻る」です。
慢心も怖いのですが、よからぬ出会いがあり、他人に慢心「させられ」て、ふりだしに戻ってしまうこともありますね。
まぁでもふりだしに戻ってしまったらまた最初からはじめればいいだけの話ですが...
さきほど「どうにもならない」と書きましたのは、その「良いこと」の出現方法、その規模、内容等です。そこはコントロールできない。
んーわかりやすく書くと...たとえばお金持ちになりたいというわかりやすい思いをもってることがいたとして、その人に対して起こる良いことが、「家に帰るとただいまといってくれる人がいる」「家族とあたたかい食卓を囲める」とかね。
「良いこと」には違いないのですが「私の思う幸せじゃない!」とか思ってしまうと...「ふりだしに戻る」になっちゃうんですよねー
あるいは、こつこつと仕事を頑張ってきたおかげで役職が上がって、昇給した、と。家族も喜んだ、と。
「でもぜんぜんお金持ちじゃない」と思ってしまうとかね。あるいは、奥さんがそう思ってしまうというのもかなり不幸になる可能性の高いケースなのですが。
◆
良いことというのは、小さな良いことが断続的に死ぬまで続いて、「あー幸せな人生だった」というふうに続くかもしれないし、なんか激動の良いことがドカンとくるかもしれないし(1回で終わり)、そこはコントロールできないんです。
だからあんまり、ヘタに自分の人生に「期待」はしないほうがいいですね。人生が好転し始めても「受け容れる」というスタンスは変えないほうがいい。
期待しないというのは、要は人生で具体的な目標をイメージしないほうがいい、ということです。
いや...なんといったらいいのかな。具体的な目標を持っても別にいいんですけど(それは自由ですから)、もっと柔軟に...それに固執しないということです。
「べき」とか「ねばならない」とか、そういうのはできるだけ自分のマインドからdeleteしていく、と。
このあたりの私の考え方はいわゆる「引き寄せの法則」とは真逆なのかもしれないですね。引き寄せの法則ってまず具体的なイメージありきですからね。「こうなりたい!という自分が具体的にイメージできなきゃ、なれるはずはないだろう?」と。
まあそれも一理あるんですが、それはビジネスで実践することが可能だと思います。仕事で思う存分発揮してください(笑)。
それはなぜかというと、(これも重要ですよ、若い方)ビジネスというのは、予測可能な未来は存在するという前提で皆仕事しているからです。
それはですね、顧客とSIer、末端のSE、PGなどが皆で抱えている共同幻想なのです。
その幻想を揺り動かし、つき破る人間が現れないかぎり、その幻想はそのまま現実となります。(だから空気を読まない人間は徹底的に排除される)
その共同幻想のベースとなっているのが「お金」なんですけどね。顧客は相応のお金を払って、素晴らしき未来(刷新されたシステムとか)をつくってほしいとSIerに託す。
システム屋はその原資をもとに未来のシステムをつくりあげる。
言い方を変えるとビジネスではお金が介在しないと予測可能な未来は出現しないんです。
◆
なりたい自分を強くイメージ(仕事でいえば要件定義かな?)してそれを実現させていくということは、まさに未来は予測(コントロール)可能であることを全肯定しているということですよね。
ところが、人生においては未来はコントロールできません(と私は思います)。
少しキツい言い方をすれば「人生はビジネスほど甘くない」ということ。
我々がコントロールできるのはとにかく、今の自分のルーティンだけなんですよね。あ、それと思考も。
我々は、自分がコントロール可能な対象を良いほうへ良いほうへ絶え間なく改善していくしかないのです。
そうすれば未来はきわめて高い確率で「良いほう」へ向かうでしょう。でも「良いほう」といったって...なんのことかわからないですよね(笑)
今の自分を良いほうに変えれば未来の自分もほんの少しだけ良いほうに変わるのは自明なのですが、どんな感じの「良い」なのかをコントロールすることは不可能ですし、コントロールすべきではない。
なりたい自分を強くイメージするというのは、未来をコントロールしようとする試みなんですよね。これをやろうとすると「べき」「ねばならない」が発生してしまうんです。これが発生してしまうとさっきも書きましたが、せっかく雨風しのげる家があり、家に帰れば家族がのんびりくつろいでおり(概ね健康)、夕食を囲むことができるという幸せ(良いこと)が眼前にあるのに、その幸せをスルーしてしまう可能性が高まってしまうんですよね。
◆
さて... こういうことを書いて、読んでいただくと、読んだ方はどう感じるかというと、3つの反応に分類されます。
- 反論、批評、キレるなどのネガティブ系
- 完全スルー(読み終わったそばから忘れる)
- 納得、賛成、賞賛などポジティブ系
この3つしかないのです。つまり、やってみる、真似してみる、などの行動系の反応はゼロです。ちなみにポジティブ系な方も、そこから行動に移行することは、一旦はありえません。(「こんどやってみようっと」と思った時点で二度とやらないので、終了~です)
これを読んでいる方は、いってみれば交通事故のように(苦笑)この文章に「ぶつかった」わけですから、これを斜め読みして即行動に移すことは絶対にありません。
行動を起こすためには、実はいろいろな仕掛けが必要であり...
まぁいってみれば、行動を起こせる身体とマインドになっていなければなりません。
ですので、これを読んでいただいた方のうち3人ぐらいは、「納得」や「賛成」してくれたと思いますので、この文章がその3人の方のマインドの深くに潜行し、ほんの少しでも行動を起こせる身体とマインドを形成する一助になれば幸いです。
ただしそれにはけっこうな時間がかかります。
◆
ふ~
1時間ぐらいで一気書きしました。誤字脱字はご放念ください。