「小損を取る」(15) 「すがすがしい」だけは貪欲にとりにいきましょう。
今回は「すがすがしい」という感情を特別扱いする、ということについて書きます。
この歳になると、「すがすがしい」は万能だなあ、としみじみ思いますね…
だいたい毎朝、すがすがしく一日を始められることができれば、人生それでいいんじゃないの?と思います。まぁそれが難しいんですけどね。
すべてをそこに注力してみるのもいいかと。
◆「すがすがしい」と「小損を取る」
まず、「すがすがしい」と「小損を取る」との関係についてですが、小損をとる行為というのはけっこう、「すがすがしい」につながるんじゃないかと思っています。
すべてがそうだとはいいませんが…
言い方を変えると、自分にとって得なほうをがめつくとっていくとうしろめたい感情に苛まれませんか? 「うしろめたい」はオーバーかもしれませんが少なくともすがすがしくはないような気がします。
ですので、日常で何か決断や選択をする際には、損か得かを考えるよりもいっそのこと、どっちが気分が良いか?で考えたほうがよいのかもしれませんね。
あるいは、どちらの選択が、それを行うことでより「気分がどんより」しそうかで判断し、そちらを選ばないようにするとか。
♯人生って実はほとんど自分が決断、選択していることばかりです。最初からこうしなければいけないことになっているとか、政治的に決まっているとか、不本意ながらこうせざるをえないとか、そういうことってあんまりないんですよね。
損をとる、って一見、気分がどんよりしそうなものじゃないですか。ところがけっこう、逆なんですよね。たとえば、なかなか混んでる電車で目の前の席がひとつ空いてしまい、物理的に座らざるをえなくなってしまったとき(そういうことって、たまにありますよね)など、座れてラッキー(得)どころかなんだかどんよりとした気分になります(笑)。
逆に障害対応が終わって朝、家に帰るときとか、へとへとなんだけれど、お年寄りがいたら条件反射で席を立って譲ると、すがすがしい気持ちにはなりますよね。
あ、ちなみに「大損」を選んじゃいけませんよ(笑)。大損はまったくすがすがしくないです。どころか「忸怩たる思い」に苛まれますので、大損を取るのはやめましょう。
あと、相手にお礼を言われたり、感謝される/されないとすがすがしさは関係ありません。というか、関係性がないことが望ましいです。
そりゃお礼を言われたら「嬉しい」ですが「すがすがしい」とは別な感情です。相手のリアクションを求めるのであればそれは「得」をとりにいっているということです。このあたりは機会があったら詳しく書きます。
◆「すがすがしい」と「快」と「得」
「すがすがしさ」っていうのは結局「快」の一種ですよね。いや一種どころか最上、極上の快なのではないかと…
甘いものを強く欲したときにチョコレートを食べたりとか、お腹が空いているときにおいしいものを食べたとか、仕事終わりにビールを飲んだとか、そういうのも確かに「快」ではあるのですが…
あの「すがすがしさ」というのは、そういうのとはレベルが違うような気がしています。
面白いなあと思うのは、飲食によって得られる「快」は、「快」と「得」とが、イコールですよね。
でもすがすがしさは違うんですよね。どちらかというと「快」と「損」とに相関関係があるという… このあたりはもっと研究しなければならないなーと思っています。
◆「すがすがしい」と健康
以前はずーっとエンジニアライフで健康について書き連ねており、記憶がおぼろげですが当然「すがすがしい」にも言及していると思います。
「すがすがしい」とは健康の上位概念でもあるような気がしています。このあたり話すと長いのですが、ざっくりいうと心・身ともに健康+アルファということです。
私たちがふだんなにげなく口にする「健康」はどうしても身体寄りですからね。
私は10年前と比べてホントに健康体になりました。がおそらく、「すがすがしい」というあの「快(感)」を得たいがために、健康体に身体を修正していったのではないかと思います。まずは身体が健康でないとはじまりませんので。
後から考えてみると、そう思えるという話ですが…つまり健康になることそのものが目的ではなかったという。
それとあわせて、10年ぐらい前から良質な生活習慣を継続しているのも「すがすがしい」を貪欲にゲットするためです。
私にとっての「すがすがしい」は損とか得とかを超越して、大得すらはるかに超えた「超得」ですね。私の人生そのものと根源的にリンクしてくるものなので、これは大事にしたいです。
長くなってきそうなので続けます。