「小損を取る」(14) 実践編その4:電車に乗ったとたん小走り(反面教師)
今回書くことは私見です。いつも私見のような気もしますが…(爆)
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「小得」をがっつり取りにいく行動のうちもっともわかりやすいのが、まだお年寄りともいえなそうな妙齢の男女が、電車に乗り込んだ途端目の色を変えて一人分だけ空いてるスペースに向かって小走りする光景…
60歳前後でしょうかねぇ…
小走りできるということは、足腰は丈夫な証拠ですな(笑)。
席をゲットぉ!した後は、お尻をぎゅー!ぎゅー!と割り込ませ、両隣を物理的心理的に威嚇しながら(苦笑)座ります。
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これが女性複数人になるとさぁ大変。一人が特攻隊として目の色変えてまず座り、バッグをどかっと隣において席取り。「ここ!座れる!」と電車の中で大声。
映画館ですかここは(苦笑)。
そして照れ隠しなのかわかりませんが席を取った後「ふふっ」と謎の微笑み。なぜそこで笑う?
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それで静かにしてくれれば別にかまわないのですが…やけに通る声で、降りるまでエンドレストーク。しかもその内容がほとんどグチ、文句のオンパレード。
対象は旦那、子供、嫁、ご近所、政治家、タレント、最近のニュースetcなんでもござれ。
電車に乗ってる時間の最初から最後まで、よくもまあ会話をネガティブなネタだけで埋め尽くさせられるもんだなぁ、と。
で、聞いてると、実は会話が成立していないことが多い。つまり、言葉のキャッチボールじゃないんです。双方が勝手に好きなことをしゃべり合ってるだけ。
ちなみに私、盗み聞きしてるわけじゃありませんよ(笑)。声が大きいので聞こえてきてしまうのです。
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で、何を言いたいのかというと、こういった「電車で小走り」な方々は例外なく
- しかめっつらで不機嫌そう
- 文句ばっかり
なので、幸せそうにはみえません。
みえないどころか、実際幸せではないのでしょうし、残念ながら死ぬまでずっとそうなのだと思います。
私は通勤や移動の電車、バスで20年ほどフィールド・ワークした結果として(笑)、がつがつと「小得」をとりにいくクセのある人間は幸せにはなれない、と結論づけました。
日々小さな「得」をがつがつと取っているにもかかわらずなぜ彼らは常に不機嫌なのか?なぜ周りの人たちあるいは世の中に対して文句ばっかり言ってるのだろうか?
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その理由のひとつめは、何度も書いているとおりで世の中バランスなのですから、日常のいたるところで小得をとりにいけばどこかでがつんと「損」がやってきます。
そしてそういう方々は、その損の経験を誰かれかまわずしゃべり倒してストレス発散するわけですが、しゃべっているうちにその損の記憶が強烈に刻み込まれてしまい、日々ゲットしているはずの「小得」のほうはすっかり忘れてしまいます。
自分でも気づかぬうちに行っている自己洗脳です。しかも日々続けている(悪しき生活習慣)ためにどんどん洗脳が強化されていくという… コワいですね~
こういうヒトたちは常時軽く不機嫌な表情で固定されます。一瞬笑ってもすぐに元に戻ります。まぁ仮面のようなものですね。そして周りには同じような仮面をかぶった仲間が集まっているので、不機嫌が常態になっている状況がおかしいとは思わなくなります。
仲間がいて、傷のなめ合いをしているので、たぶん不機嫌であってもそれなりに居心地がよいのです。
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ここ数年の私の人生は真逆で、私は日常でルーティンとして取りにいっている小損は完全に忘却してしまいますが、そのおかげでたまに発生する小得を忘れてしまうことなく、じんわりと幸福感を得ることができます。
私の場合、まだ修行が足りないのか(笑)常に笑顔でいることなどできませんが、不機嫌の仮面はつけておらず(つける必要がなくなった)常にすましています。ですので、不機嫌の仮面をかぶった人たちは周りにうろうろしていますが、私を警戒しているのか(苦笑)寄ってくることは少なくなりました。
まわりにどんなタイプの人間が集まっているか、は人生を決定的に左右しますからね…
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もうひとつの理由は、他人を差し置いてまず自分が(得を)、というスタンスの人はそりゃ幸せにはならんでしょっていう…
ふつうに考えればそうだよねー、と。
とある行為をすることにより自分にも小得があり、まわりも得する(あるいは具体的な得がなくとも嬉しくなっちゃうとかほっこりするとか)であれば、よいのです。
でも自分は得をする、結果他人は軽く損をする、という行為を、というか、その行為を行っている自分を、肯定しちゃダメなんだと思いますね。
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ちなみに、この高度資本主義社会のなれの果ての国、日本限定の話ですけどね。他の国ではどうかわかりません。日本以外住んだことないので…
他人を蹴落としていかないと生命の危険にさらされるような、優しさなぞ微塵も通用しないような国や地域もあるのでしょう。あー日本でよかった(笑)。
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心の中で、そういうふうに「自分だけが得したい!」とか「周りを蹴落としてやる!」とか考えるのは別にかまわないと思うのです。心というのは自分の中の「解放区」なわけですから、解放区で善人ぶってなんていられないじゃないですか。
そこで日常的に部下や上司や姑や伴侶までも殺している方もいるでしょうし(苦笑)。それに比べたら「自分だけ得したい!」なんていう欲求はカワいいものです。
問題なのは実際そういう行動をしちゃっている方、ということですね。
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昔ならばお年寄りにカテゴライズされてもよさげな年齢層の方々が未だ健脚である、という事実は、世の中的には素晴らしいことであり、電車を利用する人たちの中には、「小走り」もできないたとえばもっともっとお年寄りの方とか、小さい子供とか、子連れのママさんとか、妊婦さんとか、足が悪い方とか…たくさんいますよね。
あるいはたまたまそのときに、ちょっと体調悪いな…電車座れるといいんだけど…と考えながら乗ってくる方もいるはずです。年齢は関係なく。
つまり、席に座るべきかどうかってのは早い者勝ちじゃないでしょう、と。もっとも「足の遅い」ヒトたちこそが、優先して座るべきなんじゃないでしょうか。
なーんてことは、当然、私より年輩の方々は、言わなくともわかっているもんだと思っていたのですが、どうやらそうではないらしい、と… 残念。
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小得をがめつく取りにいったところでまったく幸せになれないのであれば、逆に小損を取っていったほうがよい、というのは私の経験則です。発想の転換ですね。
そしてそれはかなりうまくいっている自負があります。
幸せになれますよ、と断言することは決してできませんが、可能性は段違いに上がりますよ、と。
小得をとりにいくクセのある方は、あわせて小損はとらない(とれない)。なぜなら、その瞬間瞬間の損得勘定で動いているからです。「小損」はすべて拒否してるから、取れるわけがない。
実は私も同じ(損得勘定で動く)なのですが、私の場合はできる限り「ちょっと損」のほうを意識して選ぶようにしています。