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「小損を取る」(8) 8勝7敗

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 先日、人生とは概ねとんとんである、ということを書きました。良いことがあれば悪いこともある。悪いことが起こってもまたいつか良いことがある。

 ふつーに生きていれば、の前提ですが、損することもあるし得することもある。そして人間はなぜか損したことばかりおぼえている(苦笑)。

 ふつーの日本人の感覚として、何かとてつもなく良いことがあると、次の日車にひかれるんじゃないか?とうっすら考えたりしますがそれは「人生とは概ねとんとんである」と腹落ちしている証左ですね。

 で、今日何を書きたいかというと…

 確かにそれは、そうなんですけども、一般的にという意味では私も納得感あるのですが、私の人生という意味ではどうかな、と。

 もっとはっきりいうと、私は、私の人生は「とんとん」ではイヤなんです(爆)。

 死ぬ間際、人生をふりかえったときに「良いこともあったし悪いこともあったなあ」ではイヤなんです!ニュアンス的には「悪いこともあったけど、結局良いことのほうが多かったなあ」ぐらいを希望。

 だから、私は小損をとっているのです。そういう人生のエンディングにしたいがために、そのためにいちばん「間違いのない」アプローチがこの「小損を取る」だと今のところは確信できているので、そうしています。

 良いことばかりでなんら不満のない人生でした、までは望んでいません。だって、35歳ぐらいまでは、人生に対して不満ばりばりでしたし、不満なことはこれからもたくさん出てくると思います。

 いやそれ以前に、人生なんてプロジェクトと同じで大なり小なり問題解決の繰り返しですからね。不満、問題、事件は起こることがデフォルトなんですよね。

 扶養家族(子ども複数+老いた親まで)抱えてるとなおさらですよ。ホントいろんなことがありますよ。

 でもそれ以上に、ほんの少しだけ多く、楽しかったことや感動したこと、満足したことなどがあればいいんです。あるいは、問題や事件をオセロをひっくり返すように感動や満足に変えてしまってもいいのです。

 タイトルに書いた「8勝7敗」とはそういうことです。ただ、私のポテンシャル的には、8勝7敗(勝ち越し)を目標にするのすら実はおこがましく(苦笑)、52対48ぐらいの僅差の勝利で落ち着くのではないかな、とふんでいます。

 人生をとんとん以上に持っていく効果的な手法としてちょっと前まで考えていたのが、自分の人生で起こる「悪きこと」あるいは「どちらかといえば悪きこと」のうち、「どちらかといえば~」のほうを無理やり、「良きこと」あるいは「どちらかといえば良きこと」であったと思い込めばいいじゃん!と。

 人生の満足度とか幸福度(定性的な)を規定するのは結局自分のマインドですからね。だから思い込みでいいんじゃないの、ということで一旦整理はできていたのですが、いつの頃からか「なんかそれ違うんじゃね?」と思い始めました。

 いろんなところでよく言われている、というか、あまりにも短絡的に言われすぎているので、違和感を感じ始めているのだと思います。

 よくあるじゃないですか、仕事は楽しいと思えば楽しいもんだ(ガマンが足りんぞ!)、みたいな。それはもちろん一理あるのですが、そんなカンタンな話かよ、って思うんですよね最近。

 とにかく自分のスキルアップのために、カシコく自分の将来のことも考えて、石にかじりついてでも、ボロゾーキンのように耐えなければいけない数年間も、あるかもしれません。

 自分の飛躍的ジャンプアップのためであれば、ね。そういう時期は仕事を楽しいと思い込むスキルも必要かもしれません。

 でも、そういう機会ってあんまりないような気がするんですよね。ただのプロジェクトマネージメントの無能による丸投げとか… 真正ブラック企業に入ってしまったとか… そんなの楽しいと思えますか?楽しいと思い込んで仕事し続ける必要あるんですかね?

 ムダに疲弊するだけじゃないでしょうか。

 この話は本題ではないのでこれ以上の言及は避けますが(苦笑)、とにかく、どなたにも時間は有限なんですよね。だから、自分の時間を惜しみなく使う(与える)対象は慎重に吟味する必要がありますし、自ら吟味するスキルも必要なんじゃないかな、と、最近強く思います。

整理:人生の満足度とか幸福度を上げる手段のひとつとして、自分の持ってる有限な時間を「効率的に使った!」という達成感(満足感)が必要

 で話戻しますが、「どちらかといえば悪きこと」を「良きこと」あるいは「どちらかといえば良きこと」に無理やり「変換」するんじゃないんですよ。消しちゃえばいいんです。それが(たぶん)結論。

 前回、それと類似したようなことを書きましたが、特に「どちらかといえば悪きこと」は、感情を荒立たせないようにする。「日常の風景」化するということです。

 何か、ふつーに考えると軽くムカつくようなことが起こったときに、「感謝してます!」とかいってあたかも結果的に良い出来事が起こったかのように整理するのって、ムリありまくりですよね。

 んーひとつのたとえでいいますと、朝晩の電車に乗ってると、必ず他人とぶつかるじゃないですか? 場合によっては、けっこう強くぶつかって軽く痛みすら感じますよね。先方に悪気がなくとも。あるいは足踏まれるとか…

 私、ここ数年はなーんにも感じませんね。イライラすることもなく、SNSでうさばらしすることもなく(苦笑)、電車ではとにかく淡々と時はすぎていきます。

 ガマンも、してないんですよね。

 まぁいってみれば肩をぶつけられても「風が吹いたなー」ぐらいな(笑)? どん!とぶつかってこられても、なんか無機質な物体がぶつかってきたなー、と(笑)。

 相手に完全に悪意がある場合は別でしょうけどね。絡まれるとか…幸いにして、過去10年ぐらいはそういう経験はないです。

♯相手を一個の人間と思っていない、というのが正直なところかもしれない…(怖っ)

 だから、「なかったこと」と同じなんですよね。もしこれが、

 「発生」→「かるく痛いけど怒ってもしょうがないし、仕方ないな」→忘却ボックスへ

 というプロセスを発動させちゃうともうダメなんです。忘れたところで発生確定なんですよね。それと、こういうのってすぐたまっていきますので、いずれ「なんで自分ばっかりガマンしなきゃいけないの?ムキー!!」という感情となって立ち現われてきます。こうなってくると厄介です。

 このプロセスを発動させないためにどうするか、ですが、私がなんとなくできている理由は(といっても人間ですから、カンペキではないですけどね)、何度も書いているように日常で小損を取っているのが大きいのでしょう。

 でもそれだけではなくて、テレビから離れたのがとてもよかったような気がしています。テレビって「どちらかといえば悪きこと」をムダに増幅させる装置ですからね。(そして良きことはほとんど報道しないという…)

 あ、そういえば、逆の場合は別ですよ? 人生ではほんの些細な、ほっこりするような出来事が起こるじゃないですか。そういうときは意識化したほうがいいと思います。人間ってほんの些細なイヤなことはどんどん増幅させて心の中に「イヤなこと発生」とプロットするにも関わらず、なぜか、ほんの些細な良きことは完全スルーして忘却の彼方に追いやってしまいますからね。

 だから、SNSでもブログでもなんでもいいので、良きことだけ備忘的に記録していくとよいと思います。盛らないで、あっさりと。事実のみを。

 そして3年日記みたいにたまに読み返すのがベストです。良きことだけ記録してあるという「信頼」があれば、見返すのも気が重くないですよね。

 では続けます。

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