言語の歴史は人類の歴史。そして人類はコンピュータを言語で動かすようになった。

与えられすぎて逆に価値を見失う

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最近、NetFlixをよく利用します。非常に多くの動画をあの値段で提供するのは破格だと思います。レンタルDVDでTSUTAYAが街のレンタルビデオ屋を駆逐したように、今ではTSUTAYAが動画配信に駆逐されそうな勢いです。会社の帰りにDVDを物色したり、返却期限を気にしていたのも昔の話です。返却期限も気にせず、好きな時間に番組を選んで好きなように見れるのは凄いです。しかも、タブレットやスマホからでも利用できます。

ただ、非常に便利だけど作品をじっくり見なくなったようにも思います。作品が見たい放題なので、作品を吟味する前に観てしまいます。そういうことをやっていると、観た作品の記憶があまり残りません。また、ちょっとつまらないと思ったら最後まで観ずに途中で再生を止めてしまいます。ちゃんと最後まで観て作品を考えないので、話題のネタにもなりません。その結果、一つの作品を観たときの満足度が落ちてしまいます。

提供される作品の数、選べる自由度は格段に進歩しました。しかし、実質的な機会損失は多く発生しているように思います。私たちが失っている機会損失は、数値だけでは表せないワクワク感です。これだけ動画配信が一般的になってもDVDが売れているのは、物を購入したときのワクワク感があるからではないでしょうか。紙の書籍にしてもCDにしても同じです。そうやって手間をかけ、お金を払って購入すると、満足感が上がりやすいです。ただ、買った作品がハズレだと、ガッカリ感も上がるというリスクもあります。

小説、音楽、映像作品にせよ、そういうギャンブル的なやりとりも楽しみの一つです。理屈で言えば、高品質の作品をたくさん提供すれば満足度が上がるはずです。ただ実際は、作品に対するハードルが上がってしまい満足度はあまり上がりません。満足度に関しては人によって感じ方が違うので意見が異なるところでしょう。しかし、求められるもののハードルが上がったのは事実です。それだけ、私たちが多くのものを与えられないと満足しなくなったということです。

便利なサービスで何が変わったかといえば、私たちの感動を維持する燃費が悪くなったことかと思います。お店に入れば音楽であふれかえっています。通勤電車でも宣伝を兼ねたコンテンツが液晶画面で流れています。スマホで動画も音楽も欲しいだけ利用できます。与えられ過ぎてコンテンツに飽食気味です。与えられたコンテンツの分だけ、毎日が感動に満ちあふれている訳ではありません。むしろ、心が鈍感になって感動する力が失せているのかもしれません。つまり何が言いたいかというと、多くを与えられれば良いというものではないということです。

感動は、ギャンブル要素とトレード・オフで成り立っています。そして、数字で語れない要素で満ちています。

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