理屈ではなく知るということ
▪️子供を見ない親
この前書店に行った時、たまたま子供連れの親が来ていた。物珍しい本がたくさん積んであるのだ。子供の好奇心もリミット・ブレイクを発動してることだろう。鼻息荒く分かりもしない専門書を眺めていた。
そんなお子様に母親が一言。「もー、⚪︎⚪︎ちゃん、こっち来なさい!」そして、子供に歩み寄ってベシっと一撃。そして何故だか、子供は親に着いていくどころか、本に手を伸ばす。「何やってるのよ、それ高いのよ!」母親、またここでベシっと一撃。「あなたに分かるはずないじゃない!」と声を荒げる。子供、涙目だ。
「おーい、⚪︎⚪︎子、行くぞーーー」と親父の一声。母親、本を手にした子供の手を叩いて、力技で引きずっていく。もちろん子供は大泣き。父親は、何やってるんだよという表情だ。母親はぐずる我が子に激おこぷんぷん丸。ベシベシど突くはど突く。強引に我が子を黙らせて書店を後にしていった。
▪️結局子供は何をしたかったのか
この一部始終を不審者のごとく横でみていたのだが、子供 は何をしたかったのだろう。どうやら、放ったらかしにされたので関心が本にいったようだ。
で、なぜ親が呼んだのに子供は言うことを聞かず に本に手を伸ばしたのか。その場を離れる前に本の中身を確認したかったようだった。確認してスッキリしてからその場を離れたかったようだ。
真意はどうだか分からない。子供は親の思うような理論では動かない。だが、よく観察すると、子供たちは彼らなりの理由付けで行動している。大人の理屈に合わないので、理由として認識できないだけだ。
▪️些細な風景に見る逃されたチャンス
まぁ珍しい光景ではないと思う。だが、この光景を見て私はものすごく勿体無いと思った。なぜ勿体無いかを説明していこうと思う。
まず、この親。十年くらいたって子供が大きくなったら、必ず子供に勉強させようとするだろう。だが、専門書を眺めていた我が子を思いっきり否定した。学習に対する好奇心を一つ潰したわけだ。ここでもし五分、トイレに行ってウンコするくらいの時間でも子供の話を聞いてあげたらどうだろう。親として有益な気づきを得られたかもしれない。
もしこの子が十年後、すごく勉強していて専門書を欲しがったとしたら、きっと親は賢い子だと嬉々としたかもしれない。専門書に手を伸ばした時点で、「難しそうな本だねー、でも、⚪︎⚪︎ちゃんお勉強頑張ったら分かるようになるかもよ!」くらい気の利いた一言でも出れば、その場も険悪にならなかっただろう。あわよくば学習意欲に繋げられたかもしれない。
▪️似たように仕事でも多くの物事が見逃されている
実はこういう勿体無いことは、業務でも頻繁に起きている。洞察力は大事だと思う。エンジニアという考えることが多い業種でも、本で読んだ知識や理屈に頼り過ぎていては洞察力は伸びない。ものを深く観察する訓練を意図的に行う必要がある。
プロジェクトを成功させる方法にしても、上手くコードを書く方法にしても、言葉に表せない部分というのはある。ついでにいうと、言葉に表したとしても、理解出来るレベルの人にしか理解できない。条件によっても適用する方法も変わる。
洞察力がなければ、言葉にできない部分を理解したり、条件の組み合わせを見抜いたりできない。今回出した子供の例だってそうだ。これが部下に対しての対応にそのまま当てはまる。相手を見てもいないのに言うことを聞く筈がなかろう。
洞察力は気づきを得るための能力だ。正解を得るための能力ではない。コードの書き方のように、学べば何かができるようになる。そういう類の能力でもない。身につけたとしても、言葉で表現するのは難しい。だからこそ、見落としがちになる能力だと思うのだ。
コメント
仲澤@失業者
本屋さんに並んでる商品は汚したり壊したりするといけいないですからね。
海や山に行って昆虫とかカニとか魚とかを見せてあげた方が安全かもしれません。
もちっと大人になったら
"神これを創り給へり蟹歩む"(山口誓子)
とかでしょうか。