もしも上野動物園のニホンザルがドラッカーを読んだら
■良いコラムは、時を隔てて読むと良さが分る
一時期、ドラッカーが流行った。もちろん私は読んでいない。ドラッカーも読んでいない私が、なぜドラッカーについて話そうかと思ったか。それは、エンジニアライフの過去記事を漁っていてあずKさんの書いた
ドラッカーの言う「真摯さ」とは何かを考えてみた
という記事を見つけたからだ。
何がいいかというと、「真摯さ」というものに対して、素直に分らないという立場から丁寧に掘り下げて分りやすく解説してくれているところだ。非常に分りやすく良いコラムだと思う。
■そこで今日の本題
まぁそんなことで、私は真摯なニホンザルというものが見たくなった。真摯なニホンザルって、どんなものだろうか。考えただけでわくわくする。サル山で足を組んでドラッカーを読んでいるのだろうか。さぞかし凛々しいニホンザルなんだろう。
もちろん、そんなニホンザルがいたらYahooニューズやねとらぼが大騒ぎだろう。もしかしたら東スポなんかで「真摯なニホンザル、サル山を制す!」なんて一面記事に載るかもしれない。かつて世の中をにぎわした人面魚を凌駕する話題性をたたき出すことだろう。
■で、何に対しての真摯さ?
問題はそこだよ、明智君。ニホンザルが真摯さを学んだとして、何に対してその真摯さを発揮するのだろうか。餌のバナナを真摯にこうのだろうか。ボス猿に真摯さで挑むのだろうか。まぁ、周りのサルはきっとキーキー叫んで終わるだけだろう。
ここで1つ私たちは学ばなくてはならない。動物には真摯さは通じない。真摯さの通じない人の中で真摯さを学ぶことは、まさにこの真摯なニホンザルと同じような状況になるだろう。
■これを人間に当てはめる
これは真摯さに限らないかもしれない。例えば、真摯さという精神的な働きを理解できない人たちの中で、真摯さを身に付けた人がいたとしよう。たぶん、周りは変なヤツと思うかもしれない。場合によってはつまはじきにされるかもしれない。
周りが理解できないレベルであれば、人は動かない。私はそう思う。きっと動くのは運命だろう。真摯さに限らず、より偉大な考え方を実践すれば、人間よりもっと大きなもの。きっとそういうのが動くんじゃないだろうか。慈愛とか利他心とかそういうのも同じだ。
真摯なニホンザル。それは、動物という垣根を超えて人の心を動かすだろう(ただし、どう動くのかは人による)。それは、真摯さが人の概念でありサルを超えた概念だからだ。もはやただのニホンザルではない。超(スーパー)ニホンザルだ。
人の中にいるから、人の理論しか通じない。それが二流だ。人の中にいて、人を超えた概念を身に付ける。それが一流だ。