くだらない試行錯誤の価値
■ただどこに置くかだけかなんだが
最近、Linuxへのソフトインストールがマイブームです。ソースコードからインストールする時に、たいがいどこにインストールするか? というオプションをつけてインストールするのだが、このオプションが気になって仕方がない。
どこの場所にインストールしても、きちんと設定すれば機能的には大して変わりません。なので、このインストールオプションの詳細を知ったところで、実質的な利益はほぼない。
■で、案の定トラブった
まぁ、たいしていじる必要のない設定をゴリゴリいじるものだから当然、変なところにファイルができたりする。しかも、起動スクリプトが動かなかったりと、普通に動くようになるまで苦労した。
結果としては、希望どおりのパスにインストールできて、普通に動いたただけだった。休日の趣味でやってるから笑い話で済むが、仕事でやったら、確実に怒られるだろうな。
■アホなことをやって得たこと
たぶん、動かすだけを目的として見れば、「アホか!」の一言で一蹴されるかもしれない。
しかし、この一見アホみたいな作業をやることで、得たものは多かった。インストールしたソフトの起動するプロセスやら挙動、普段あまり気にしないような設定内容の意味などを、実際に動かしたり、調べたりして理解できた。
かっこよく言えば、深みが出た。本に書いていないような知識や、Webにも出てないような知識やノウハウを得ることができた。
一見無駄っぽいが、いろいろ試行錯誤した結果、普段何気なくやっている設定の意味がよく理解できた。
■ダイレクトに得られないもの
1つ、目的があったとする。達成するには、必要な知識がいくつかあったとする。
ここで1つ問題です。この必要な知識を与えれば、目的は達成できるだろうか。
“Yes”と答える人は多いだろう。しかし、私は“No”だと思う。
まず、必要な知識を与えたとしても、納得がいかなければ別の知識を調べ出す。よく現場で見かけるのは、納得させるのでなく、説得して理解させたと思っているケースです。本人が納得してないので、どうしても薄っぺらになる。知恵に昇格しないんですよね……。
納得を生かすための試行錯誤は無駄じゃない。成長のための起爆剤だと思う。本番でミスが許されない分、他の部分でしっかりミスして学んどく必要があるんじゃなかろうか。