【小説 愛しのマリナ】第五話 逃亡者
エレベータを降りた慶太は、実際の作業場所がどこにあるのか訊かされていないことに気付いた。
そう言えば、面談を担当した荒川は作業場所がどこかということを具体的に慶太に伝えていなかった。
どこに行くべきか迷っていると、背にしていたエレベーターの扉が開き、続々とプロジェクトメンバーと思しき人々が出てきた。
それらの人々は無言で慶太を避けて行く。
そして、慶太の正面にある部屋の扉に向かって行く。
整然と皆、セキュリティカードをかざし部屋の中に入って行く。
それらの人々は、昨日慶太が面談で入った部屋とは対面にある会議室に入って行ったのである。
慶太はこの会議室が臨時の開発室として、あてがわれているのだろうと思った。
エレベータ付近でいつまで突っ立っていても仕方がない。
そこで慶太はそれらの人々の後ろに付いて行き、悪いとは思いながらも共連れの形で、元会議室であり今開発室である部屋に入った。
雑然とした開発室に入ると、まずは昨日の面談を担当した荒川を尋ねることにした。
その荒川が始業のベルが鳴っても現れない。
慶太はオフィスの隅で立ち尽くしたまま、気まずい思いをしていた。
その姿を「誰だこいつという」視線を向けながらプロジェクトメンバー達が通り過ぎていく。
その中に荒川がいた。
「おはようございます」と慶太は挨拶をしたが、荒川は気付かない振りなのか、本当に気付かなかったのか、定かでは無いが素通りし、突き当りにある喫煙室へと消えて行った。
(何て失礼な奴だ)
慶太はそう思ったが、辛うじて言葉には出さなかった。
そういえば、このオフィスにいる人間たちは押しなべてうつむき加減で挨拶や無駄話が無い。
一言で言うと活気がないのである。
淀んだ空気が場を支配し、下手なことを言うと藪蛇になるということを恐れているようで、誰も言葉を発しない。
これが、デスマーチの雰囲気か......と慶太は思った。
その時、慶太の横を、先ほどエレベータホールでそわそわしていたヨレヨレスーツ男が通り過ぎて行った。
まるで亡霊のようにスーッと現れ、喫煙室から出て来たばかりの荒川の方に向かって行った。
「おっ、逃亡者が戻って来たか!」
荒川は虐めても許される玩具を見つけた子供のように、無邪気な声を出した。
「......はい......、すいませんでした」
慶太は、その会話から、このヨレヨレスーツ男が例の逃亡者だということが分かった。
さっきエレベータに乗らなかったのは、ここに来る踏ん切りがつかなかったからか。
「おい、あんたのところの逃げたやつ、戻って来たぞ!」
悪趣味な笑いを浮かべた荒川が、慶太を手招きで呼んだ。
(何だよ、俺がいたの気付いてたんじゃねえかっ、嫌なやつだ)
慶太は心の中で悪態を吐きながら、荒川の方に向かって行った。
「あれ、もう一人の若いのは?」
「すいません、森本は体調不良で......」
「ふーん......」
荒川は顎に手をやりながら、何か考え込むような姿勢を取り、こう言った。
「あんたのとこの会社は、逃げたり休んだり、仕事する気あるのかね。あんたも大丈夫? あんまり休むと金払ってやんないよ」
何も落ち度がない慶太は、面識のない自社の元外注社員(今、会ったばかりだが)と、一緒に仕事したことも無い若手社員のせいで、自分までも馬鹿にされ悔しかった。
しかし、慶太は何も言えなかった。
失うものが何もない者と違い、守るべきものが沢山ある慶太にとっては、軽々しく怒りをぶつけることなどもっての他だった。
「みんな! 土田さんが帰って来たぞ! まあ今日で最後だけど。勇気を出して戻って来た土田さんには最後の仕事として、机の中と返却物の整理をしてもらおうかな!」
荒川は周り聞こえるような大きな声で土田に指示した。
それを聞いたフロアのメンバーは、一斉に土田の方を見た。
「あの人......、逃げた人じゃない」
「ほんとだ......、よく来れたよね。ここに」
プロジェクトメンバーと思しき女性二人が、土田を指さしてひそひそと話し始めた。
それが周囲にも伝播し、フロアはざわつき異様な熱気を帯びて来た。
土田は顔を赤くしてうつむいてしまった。
負い目のある人間を周囲のさらし物のようにし、それをもって逃げたことによるスケジュール遅延の落とし前をつけようとする荒川のやり方に、慶太は怒りを感じる前に背筋がゾッとするものを感じた。
土田は自分が使っていた机に行き、引き出しを開け中の整理を始めた。
それを見届けた荒川は、慶太のほうに向き直ると、仕事の指示を出した。
「早速だけどさ、パソコン用意したから自分の開発環境をセットアップしてくれないかな?」
「土田さんのやつはもう無いんですか?」
「あれは、うちの会社のやつが使ってるから、新規にセットアップしてよ」
「はい......」
これから開発作業を行うためのマシンとメディア、開発環境構築手順書一式を渡された慶太は、早速マシンのセットアップに取り掛かった。
しかし、開発環境構築手順書に載っている以下のミドルやソフトウエアについて、
Eclipse
Jdk
oracle11g xe
apache
実際のメディアに入っているものと、開発環境構築手順書ものとで、バージョンがことごとく異なっている。
「あの、すいません。メディアのバージョンが手順書より古いんですが」
「あ? 何言ってんの? 手順ちゃんと読んでよ。俺が作った手順なんだから間違いないって」
「いや、ここ見てくださいよ、メディアはoracle10xeなのに手順は11xeです。どこかから落として来ればいいんですか?」
「あ、ほんとだ。これ手順が間違ってるよ。置き換えて10xe入れて」
「え!? 10gはもうサポートされてないんですよ。それで開発してるんですか?」
「単体テスト環境だからバージョンは、ぶっちゃけ何でもいいよ」
慶太は自分の非を認めようとしない荒川に、これからの仕事のやり辛さを予感せずにはいられなかった。
時計が十時を回るころ、荒川の方を見た。
土田が、パスケースやセキュリティカード、設計書などの書類一式を荒川に返却しようとしていた。
荒川が何も言わず、隣の空いてる机にそれを置けと顎で指示した。
土田はそこに返却物一式を置くと、礼をして開発室を出て行った。
声を掛け辛いのは分かるが自分に一言も挨拶せずに出て行った土田を、慶太は失礼な奴だと思った。
だが、しかし......慶太は思った。
(面と向かったところで、いったい何を話せばいいのか......)
(このプロジェクトがどうだったかということでも訊けばいいのか......)
(このプロジェクトをマシに過ごす参考情報が手に入るとでもいうのか......)
すぐにそんなことには意味がない、と思った。
逃げた土田から、このプロジェクトをどう感じたかを訊いたところで出てくるのは、どうせ荒川への呪詛や愚痴だけだろう。
であれば、このプロジェクトに踏みとどまらないといけない慶太にとっては、そんなものは時間の空費でしかない。
そんなことよりも、訊きたいのは
「この先どうするんですか?」
という、もっと野次馬的なことだった。
慶太だって、何度も仕事から逃げ出したいと思ったことはあった。
それが出来なかったのは、仕事に対するプライドや家族への思いが歯止めになっていたからだ。
土田にだって何かそれに等しいものはあっただろう。
しかし、それを捨ててまで一線を越えた--その時の心理を知りたいと思った。
逃げたい、逃げたい、と思って、一度も逃げることが出来なかった、もしくはこれから逃げることがあるかもしれない慶太にとって、それを成しえた土田がこの先どうするのか?
ということは、とても興味があった。
(当然、うち(ダイナ情報サービス)との外注契約は切れているわけだから、仕事はどうするのか?)
(こんな辞め方をして、意外に狭いこの業界で、すぐに転職先はあるのか?)
(それとも、まったくの異業種に転職するのか?)
おそらく、慶太よりも十歳は年上に見える土田にとってこの経歴は、次の職を探すうえで痛いものになるだろう。
そして、これを受け入れて今、どう生きようとしているのかが知りたいと思った。
慶太は気付いたら、開発室を飛び出していた。
エレベータホールに土田はいなかった。
つづく