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【小説 愛しのマリナ】第四話 恋的なやつ

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「彼、私の下でこの前まで働いてたけど、仕事が溜まってても定時で帰るし、無断欠勤もしてたんだから」

 真里菜はカンパチの刺身を醤油に浸しながら言った。
 
「そうなんですか?」
「私の言うことも聞かないし、まあ、そんなに忙しいプロジェクトじゃなかったからよかったけど、お客さんも見かねて契約停止してきたの」
「そのことは社長は知ってるんですよね?」
「もちろん、そのことは私からも社長に話したし、それを知ったうえで、大沢君の下につけたんだと思うよ」

 慶太は、それを聞いて、少し社長に不信感を抱いた。
 社長は森本のことを、前のプロジェクトを首になった何て言っていなかった。
 あのざっくばらんな社長にしてみれば、ちょっと言い忘れたくらいのことなのかもしれないが、慶太にとっては重大ことだった。
 真面目な慶太をして、社長が「わざと隠してたのでは」と勘繰られても仕方のないことだった。
 そんな問題児と一緒に、これからデスマーチに向かうことになるとは。
 
「慶太君......森本君のことで気になることがあったら、私に訊いて。彼と一緒のプロジェクトにいた経験から、少し分かることもあるから」

 酔いも手伝ってか、真里菜は慶太のことをいつの間にか「慶太」と名前で呼ぶようになっていた。
 酔ったトロンとした目の真里菜女史にアドバイスを受けた慶太は、結婚以来久しく忘れていた恋という感情に身が震えた。
 妻子ある身の慶太にとってそれは禁じられた恋であった。

 二時間ほどの飲み会を終えた三人は居酒屋を出た。
 
「じゃあなー、大沢。仕事が辛かったら連絡しろよー!」

 社長が軽い社交辞令を挨拶代わりに置いていくと、駅の方に向かって去って行った。
 それを見届けた真里菜は、慶太の真横に来てこう言った。
 
「ねえ、二人で飲み直さない?」

 慶太は迷った。真里菜と飲みたい気持ちが無性に沸いていたからだ。
 それは今朝、妻との少し険悪なやり取りがトリガーになってい無いと言えば、嘘になる。
 さらに、明日から始まるデスマーチという現実が、余計にその思いを加速させた。
 全ては、妻と仕事、そういった色々なことから現実逃避したい、と願う感情に他ならなかった。

 いや、それは三割ほどの感情で、本当は

「真里菜と一緒に居たい」

 心の九割がその感情で占められていた。

 その時、慶太のスマホが鳴った。
 スマホを手に取り確認すると、ゲームアプリの通知だった。
 パスワードを解除した時、待ち受けに映し出された娘の幼い顔を見て、慶太は我に返った。
 家に帰ろうと思った。
 
「ごめん、今日は帰ります。明日からまた忙しくなるし」
「......そう、じゃまたね」

 真里菜は伏し目がちになり、寂しそうな横顔を夜のネオン街に向けた。


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 家に帰った慶太は、娘の希優羅とアニメ「小さなプリンセス ソフィナ」ごっこをして遊んでいた。
 慶太は執事の役で、希優羅がソフィナの役である。
 庶民の出であるソフィナは優しい姫だが、わが娘は生意気と言うか、まるで言うことを聞かない。
 
「今週の土日、友達と旅行に行くの。慶太に希優羅をお願いしたいんだけど、仕事休めるよね?」

 キッチンで洗い物をしながら妻の響子が訊いてくる。
 
「うん、多分大丈夫だと思う......」

 慶太は突然で身勝手な依頼だと思った。
 しかし、普段家事、育児を任せてしまって負い目のある慶太は、ついそう答えた。
 
「どうしたの、浮かない顔して」
「いや、明日から忙しいというか、しんどい仕事になるんだ」
「え? 前の仕事終わったばっかりじゃない。有給も取れないの? 社長にちゃんと楽な仕事に回してって頼んだ?」
「うん、頼んだよ。でも、何だか急に逃げた人がいてその替わりでさ......」

 響子は洗い物の手を止め、振り返ると尖ったような声でこういった。
 
「なんで、あなたがその人の尻拭いみたいなことをしなけりゃならないの!? 関係ないじゃない。前の仕事だって毎日夜遅かったのに......何であなたばっかり!」
「仕方ないだろ、その逃げたやつは、うちの会社の社員として行ってたんだから」
「この前も友達と旅行に行けなかったのよ。希優羅を頼もうと思ったのに。あなたが有給取れなかったから行けなかったじゃない。それに私もそろそろ仕事に復帰したいのよ!」

 響子は娘を保育園に預けて自分は仕事に復帰し、かつ、送り迎えを慶太と分担したいと考えているようだ。
 その考えを切望すればするほど、自分のしたいことがままならないのは、夫の理不尽なまでに忙し仕事のせいだと思うようになっている。
 
「ヴええええええん!!!」

 希優羅が、慶太と妻の険悪な雰囲気を敏に感じ取り、泣き始めた。
 そのお陰でこの泥仕合は水入りとなり、とりあえず次に持ち越しとなった。


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 朝、目覚ましよりも早く起きた慶太は、
 
(とにかく、いっちょやってみるか!)

 心の中でそうつぶやいた。
 元来、暇よりは忙しいほうが好きな質である。
 一晩眠って、体力も多少回復した慶太は、会社のため社長のためにこの案件を達成して見せることを自分に言い聞かせるように気合を入れた。


 慶太はブレインズ情報システムへ向かった。
 始業時間は九時、昼休みは十二時から十二時五十分まで、終業時間は五時半。
 ただし、これは残業しなかった場合の時間であり、この通り行くとはまず期待できなかった。
 ブレインズ情報システムが入居しているビルの一階はコンビニエンスストア「サークル・セブン」が入居している。
 そこで慶太はお茶とガムを買い、エレベータホールに向かった。
 エレベータホールには四人の男女が、エレベータを待ってる様子だった。
 このビルにはブレインズ情報システムのほかに数社ほど入居していて、中には大手企業の支社の名前もあった。
 
(このエレベータを待つ人の中にも、同じプロジェクトの人がいるのかな)

 そう思った慶太は、辺りをざっと見渡した。
 営業マン然としたパリッとしたスーツとピシッとした髪型の男は、同じプロジェクトじゃないような気がした。
 それは、連日連夜終電で帰っている人間が、ここまで身だしなみを整える時間が朝あるとしたら、寝ることを選ぶからだ。
 掃除のモップとバケツを持った、名札に「外山」と書かれた初老の女性は、きっとここのビル管理会社に雇われた清掃員だろう。
 事務の制服を着た若い女は、どこかの会社の経理部か何かか?
 ヨレヨレのスーツを着て、疲れ切った顔で何だかそわそわしながら頭をしきりに掻きむしっている男は、同じプロジェクトの人間かもしれない。
 エレベータが着て、待っていた人間が一斉に乗り込んだ。
 だが、意外にもヨレヨレスーツはエレベータに乗って来なかった。
 慶太を含む四人を乗せたエレベータは各階で一人ずつ降ろすと、四階に着くころには慶太ひとりになっていた。


 四階に着いた慶太は、ブレインズ情報システムの入り口の前で、森本を待つことにした。
 腕時計の針は、八時五十分を示していた。
 五分前行動が基本の慶太は、森本が五分後に来るか来ないかを自分の中で賭けていた。
 
  ・森本が八時五十五分になる前に来たら

   →響子にお土産を買って帰る


  ・森本が八時五十五分過ぎて来たら  

   →電話で真里菜に森本がどんな奴だったか訊く

 それは森本が時間にルーズだということを見越しての、都合のいい賭けの設定であった。
 卑しくも慶太の心は、八対二で真里菜側のほうに転んでほしいと思っていた。
 
 その時、慶太の携帯が振動した。
 それは電話ではなく、LINEのメッセージ通知だった。
 
「今日は体調不良のためお休みします」

 森本からのメッセージだった。
 
「無断欠勤もしてたんだから」

 慶太は真里菜の言葉を思い出した。
 初日から眩暈がした。
 そして、賭けはどちらの側にも転ばなかった。
 「休んだ場合」という条件を網羅していなかったのは、エンジニアとして抜けがある。

つづく

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