筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

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 今回は、ある意味、僕の強運と、ある種の悲しみをお伝えしなければなりません。単独機としては世界最大の犠牲者を出した、日航機123便のお話です。もしかしたら、乗り合わせていたかもしれない、と思うと、今でも背筋が凍る思いがします。

【日航機123便と新幹線の僕と携帯ラジオと】

 「大阪の実家に帰らせていただきます」。頑固一徹の父親の横暴に耐えかねた母親が、僕を連れて急に大阪へ行こうと言い出したのです。僕はてっきり夏休みの観光旅行だと思い、うわあ、新幹線に乗れる、おばあちゃんたちに会えるといった、天然丸出しの無邪気さでした。ところが、母親はなぜかのっぴきならない苛立たしさを全身に漲らせていて、子供にはその怒りがどこから来るものなのかが全然分かりませんでした。

 当時、田所は15歳。昭和60年(1985年)8月9日、下りの新幹線で来阪したのでした。宿泊先は旧ホテル阪神(西梅田)でした。3泊4日の滞在予定でした。その間、母親がどういう会話をしたのかは不明でしたが、伯母の「あんたら一体どうしたん?」という声がなぜだか印象的でした。

 8月12日、国鉄立花駅(兵庫県尼崎市)から新大阪駅まで普通電車に乗りました。僕は、魔が差したのか、いつもは立ち寄らない新大阪駅のキオスクで、1100円のポケットAMラジオを衝動買いしたのでした。「また、あんたはしょうもないもん買うて!!」と母親に怒られたのですが、欲しいものはどうしても仕方がないので、自腹を切って買いました。新大阪駅の構内でご飯を午後5時に食べて、午後6時台のひかり号で東京を目指したのでした。南側の窓側に陣取った僕は、先程のAMラジオを点けてみました。一番感度が良い(音声出力が大きい)AM放送局は、NHK第1放送だということを何となく知っていたので、地域によって頻繁に変わる周波数にもだいたいチューニングが出来ていました。

 浜松を過ぎた辺りで、不意に聞こえたNHKのアナウンサーの声が、いつになく緊張していました。臨時ニュースの模様でした。「番組の途中ですが、東京のスタジオより臨時ニュースをお伝えいたします。東京航空交通管制部によりますと、午後6時過ぎ、日航機123便、羽田発伊丹行きの機影がレーダーから消えたとのことです。なお、機影が消えた地点は長野県の山中であると思われます。繰り返します……」という第一報を伝えたのでした。

 当時の新幹線0系には、車内ラジオも、電光ニュースもない状態でしたので、日航機123便の事故の第一報を知っていたのは、おそらくラジオを聴いていた僕だけでした。子供心に、大変なことが起こっている、と感じました。「なあお母さん、羽田発伊丹行きの飛行機の機影が消えたらしいよ」と伝えると、母親は無言でうなずいていました。

 母親は本来、飛行機が大好き。今から思えば、もし、出発日時が遅れていたら。もし、羽田発の飛行機を選んでいたら。そう考えると、背筋が凍る思いがします。午後11時、国鉄成田駅から富里市の自宅に帰宅した僕たちを待っていたのは、テレビの臨時ニュースを食い入るように見つめていた父親の姿でした。ふと僕らを振り向くと、こう言いました。

 「お前ら、大阪行きの飛行機が、いま大変なことになっちょるぞ……」

 犠牲者のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

(次回からは情報技術にかかわる記事です つづく)

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