筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

それが夢ならば

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 皆さん初めまして。インフラ系SEの田所稲造(HN)です。本名も田所なのですが、もう少し賢そうな名前です(え?)。

 このコラムでは、1970年生まれのN5200model05やZ80アセンブリ人間が、これから初めて情報技術者を目指す若者の皆さんに、生きていくためのメッセージなどをお伝えできればと思っています。

【はじめに】

 現在のように、まだ明確なキャリアパスや、メンタルヘルスや、インターネットやRDBすらなかった時代の人間の失敗談を含めて、お伝えできればと思います。例えば、親御さんのカネで大学に行けた人は、ご自身の努力もさることながら、親御さんの力も大きいわけです。まるできら星の如く、優秀な方がおられるこのコラム内にあって、工業高校 情報技術科の無頼で低学歴な人間の言うことですから、恵まれた方へのメッセージというよりも、どちらかと言えば恵まれない境遇の方へのメッセージを、生きることが困難な時代だからこそ分かち合おうというコラムです。楽しい読み物にしていくつもりですので、まったりと付き合ってください。

【2代目のお坊ちゃま社長になる予定を変更して……】

 今をさかのぼること昭和50年代に、父親の事業が、手形の裏書き(保証人詐欺)で失敗したので、借金取りこそ来なかったものの、北九州市 小倉の家はなくなり、追い立てられるように家を明け渡したのが9歳の春。東京 吉祥寺の父方の親戚を頼って、川崎市 宮前平に引っ越しました。その時点で父親の「九州グラスロン」は消えてなくなり、一族の「スラッグウール工業所」は新日鐵化学を経てやがてニチアスのものになり、現在では別な名前の会社になっている模様です。

 ですので、今頃父親の事業が成功していたら、鉄冷えの街で断熱材屋の2代目社長をつとめていたところです。いま思えば「継がなくて良かった……」と感じています。コンピュータに巡り会うこともなかったでしょうし、何でも電話とFAXで済ませているようなローテク人間になっていたと思います。

【何でも買い与えられていた甘ったれが、突然放り込まれた都会で】

 僕のような転校生も、地元宮前平の人間も、お互いまだ小学生ですから、悪気はないのでしょうが、まず方言を馬鹿にされました。北九州では机を「繰る」のに対して、宮前平では机を「かたす」と言いました。また、転校生をいじめてやれ、と考える子供は今も昔も、どこにでもいるものでして、のどかな九州テイストをかもしだしていた僕は格好のターゲットになりました。公園に呼び出され「何が気に入らないか知らんが、殴るなら殴れ」と言う僕に、遠慮会釈もなしに殴りかかってきて、3対1。ボッコボコでした。全身青あざだらけで帰宅した僕を、母が見るに見かねて小学校に相談しに行きました。結果、学級担任が「卑怯者、みんな彼に謝れ!!」ということで一件落着したのですが、都会というのはおそろしいところだと子供心に感じました。

【それが夢ならば】

 近所の医者の息子が「某大手中学進学塾」のたまプラーザ校に入校しているという噂を聞きつけて、母親が「同じところに行きなさい」と命じたのでありました。中学進学塾がどういう所かも知らずに。そこでは、トリッキーな問題ばかりが書かれたテストが毎日のように配られ、点数化され、Aクラス、Bクラス、いちばん出来の悪いCクラスといった具合に、実名でリアルタイムに序列化され、廊下に模造紙で貼り出されてゆくのです。これは子供心にプライドが傷つきました。

 最初はその医者の息子さんに合わせてAクラスで入学したのですが、夜更かし勉強しても追いつかず、喘息を出してまで頑張ったのですが、Bクラス、Cクラスと落ちていき、友達との溝も深まる中で、最後には宮崎台の駅でひとり泣き出す始末で、別の友達が声をかけてくれた時には「もう嫌だあああ」と泣き崩れて、なぐさめられ、結果、中学進学塾をあきらめざるを得ませんでした。その後「あら、そんな所とはつゆ知らず、ごめんねー」と母親が……。当時の進学事情を全然わかってなかったんですね……。

 進学塾がくれた校歌のレコードのB面には、小椋佳さんの「それが夢ならば」という歌が入っていました。マルコ・ポーロの冒険のエンディングのひとつですね。どんな時も、どんな人も、どんな事も、どんなものも、それが夢ならば――。

【大自然あふれる千葉県富里市で】

 当時、小学5年生。仮住まいだったので、たとえば埼玉 小手指や入間、横浜 金沢文庫、神奈川 本厚木など家を探し、実際に見に行きましたが、結果的に落ち着いたのが千葉の京成成田でした。当時のスローガンが「第二の田園調布を目指す日吉台ニュータウン」というのがキャッチコピーでした。第二の田園調布っていったい……。確かに「田園」はありましたが……。

 大自然あふれる富里市でしたから、宮前平とは全然違いました。教育としてはむしろ「身体を鍛えなさい、心身の調和」を目指していた模様で、確かに身体の鍛えられた生徒が、体育館のなわを、するすると昇って降りていく様を見るにつけ、全然違うなあ、僕にはできないなあ、という印象を受けました。

 ただ、小学校の勉強は、すでに連立方程式を勉強しているぐらい当時すごかったので、困ることはありませんでしたが、この時の油断が、後の「勉強嫌い」を生じさせる元になったんですね。油断は禁物です。

(つづく)

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