筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

ここじゃないどこかへ

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 取り返しのつかない失敗をすると、もう地球上で自分の居場所がなくなったような気分になって怖いのですが、悩みも、悩んで悩んで悩み抜いて、いっそ突き抜けてしまえば、答えはあっさり出るものです。学歴ごときで命を落としていたら、いくら命があっても足りません。たとえ死ぬとしても、先にもっともっとやれることはあるはずです。

【当時、どうしようもなかった気管支喘息】

 14歳から15歳にかけて。もともと、北九州市で6歳から公害病認定患者だったので、気管支が生まれつき弱く、風邪をすぐにこじらせるケースがありました。マラソンをすれば、途中で倒れてテオフィリン(気管支拡張剤)の点滴を受ける、すぐに扁桃腺が腫れて発熱する、などといった具合でした。まだ、良い抗生物質や、抗アレルギー剤が出回っていなかった頃のお話です。

 現在では血液を測定さえすれば、IgE抗体を測ってアレルギーの強さを知り、また、何アレルギーかが特定でき、どんな薬を呑めばいいのかがはっきりしているのですが、当時の医学はそこまで進んでいませんでした。

 当時の我が家は、私立高校を併願できるような経済状態になく、あくまで公立高校単願、という前提でお話が進んでいたのですが、ろくに運動もせず(できず)、漢方療法も失敗し、喘息の発作をコントロールすることもできないまま、いよいよ高校(この年の新設校)の試験の当日を迎えることになりました。

 試験当日、会場となった高校で、僕は気分の悪さを訴えて、あらかじめ保健室での受験を余儀なくされていました。そこで、間が悪く、喘息の発作を起こしたのだから大変です。鉛筆を握るどころか、急性の呼吸困難に襲われて「ち、父親に、き、吸入器を持参してもらってください……」と試験担当官に言い、急遽、自家用車でかけつけた父親が、AC電源で動くコンプレッサーと、吸入液、硝子製の吸入口(ネブライザー)を持ってきてセッティング。「コフー、コフー、ぜいぜい、ぜいぜい……」

 それを見た担当試験官たちの「こりゃもうダメですな」「ええ、無理そうですね」というひそひそ話がこちらにも丸聞こえで……。試験の成績や、内申点は良かったのですが、僕にとっては初めての挫折らしい挫折を味わうことになりました。そう、その年新設された県立富里高校、実はスポーツを中心とした学校だったのです。

【私立高校を併願していなかったため】

 それはもう、高校を落ちたショックというか、それまで自分なりに積み上げてきたプライドがガラガラと音を立てて崩れていく様子は、傍目にも目も当てられない状態。お日さまが見られない、郵便局員さんの顔をまともに見ることができない、家から出られない、部屋から出られない、最悪、ベッドから出られない……。当時、病院の神経科で「自律神経失調症」の診断が下ったのはそのときでした。今ではあまり使われなくなった「ハルシオン」を呑んでひたすら寝ていました。

 それよりも何よりも、例えば来年、近所の普通科を目指せば、どこかの高校には「同い年の先輩」がいることになるわけです。そんな奴に向かって「誰々先輩」と言えるはずもなく、果てしなくプライドが傷つき、ひたすらムカつきながら考えて、考えた挙げ句に出した結論が「全県区の学校」という選択肢でした。ここじゃないどこかへ行けば救われる……。そう思ったのです。その時点では、この際、工業科でも商業科でもどちらでも良かったのです。

【ここじゃないどこかへ】

 一度落ち込むと救いようがないのですが、一度光を見いだすとこんなにもポジティブになれるものかと自分でも思いました。千葉県立千葉工業高校に、コンピュータを学ばせてくれる学科がある。それは昭和61年当時では珍しかった「情報技術科」でした。これならばいけそうだ。パソコン大好き人間の僕は奮い立ちました。

 それを受けて、当時の中学の担任 M先生が、卒業生であるはずの僕を、放課後や夏休みに学校へ招いてくださり、数学のスパルタ特訓をしてくれました。スパルタといっても、情熱のあるスパルタだったので、それなりに我慢ができ、勉強の理解も進みました。

 数学は、イマジネーションで解く国語や社会と違って、「解法パターンの反復練習」という意味だということを教わり、どちらかというと「アタマだけでやるスポーツのようなものだ」という印象を受けました。問題を、ひたすら繰り返し解く。それまでコンピュータ任せにしてきた数学が、より一層分かるようになりました。

 やがて試験を迎えます。試験は順調に進みました。ただ、数学は及第点で、国語・社会・英語のみで偏差値をつり上げ、偏差値60の千葉県立千葉工業高等学校 情報技術科に無事入学を果たすことができました。足の遅い周回遅れのランナーが、何とかようやくゴールできたわけです。高校の合格発表に自分の番号が出てきた時、担任のM先生が一緒にいてくれました。感動の一瞬です。溜飲が下がった一瞬でした。

 後日、中学校へ行った際には、普段滅多に泣かない理科のH先生が、涙目で僕を迎えてくださいました。なんでも、僕の1年後輩の男子生徒S君が、受験を苦に、東関東自動車道へ飛び込んで自殺したので、担任のH先生は、よけいに涙目になっていたのでしょう。受験で成功したはずなのに、難関校に現役合格を果たしたというのに、勿体ないことを……。

(またまたパソコンの話題へと続きます)

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