ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

約束の日

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 世の中には無数のプログラムが存在し、今、この瞬間にも新たなコードが無数の指から生成され続けているというのに、どうして自分の問題を解決してくれるプロダクトなりオープンソースなりがないのか、とマリは呪った。これだけICT 技術が発達しているのだから、大抵の問題は解決できるはずなのに。どうして手作りチョコレートを完璧に仕上げるロジックぐらい公開されていないのか。世界中のハッカーと呼ばれるプロフェッショナルな奴らも、事務的な業務用ライブラリばかり作ってないで、たまには、こういう身近な問題をクリアするプログラムぐらい魔法のように出してくれればいいのに......
 「それはちょっとばかし自分勝手ってもんじゃないの?」
 呆れた口調で言ったのは、友人のシオリだった。どうやら心の中だけで発したはずの呪いが、音声となって口から漏れていたらしい。
 「だいたいさあ」シオリは上品な仕草でホットココアをすすった。「あたし、忠告したよね。手作りチョコなんてやめとけと。溶かして、型に流し込めば何とかなる、とか甘い考えで手を出すと火傷するよって」
 「実際した」マリはぶすっと答えて、バンドエイドがベタベタ貼られた両手を差し出した。「テンパリングがあんなに危険極まりない作業だったとは。動画じゃ簡単そうだったのに」
 「その動画じゃ80℃までチョコを熱しろなんて言ってたの?」
 「そこはあたし流のアレンジっていうか......独自色を出して差別化しないと。イノウーさんはビター系が好きらしいから。焦がせば苦みが出るもんじゃん」
 「あほか。アレンジするのは基本をマスターしてからにしなよ」
 言い返すこともできず、マリはシオリの整った顔を見つめた。クリスマスの前、この友人と何かトラブルのような出来事があったような気がするのだが、どうも記憶が曖昧だった。先輩のイノウーへの想いが成就した歓喜が記憶野を占領し、他の些末な記憶を押し流してしまったのかもしれない。
 「そんで」気の毒になってきたのか、シオリは優しい声で訊いた。「諦めてお店で買ったのが、それ?」
 シオリの視線が向けられているのは、マリの隣の席に置かれたリンツの紙袋だ。
 「ううん、これは違う人用」
 「ほほう。しっかり予備も用意してるってわけか。やるじゃん」
 「あほか」マリは先ほど言われた言葉を返した。「父親用よ」
 「ああ」シオリは何かを思い出したような顔になった。「例のあれか」
 マリの両親は12 才のときに離婚した。親権が争われる事態にはならなかった。父親がマリを引き取る意志を示さなかったからだ。マリは旧姓に戻った母親と一緒に実家に戻った。祖父母は健在で、それなりの資産家だったため、生活に困窮することこそなかったが、マリが喪失感から立ち直るには、かなりの時間を必要とした。
 「高校のときからだよね、バレンタインデーにお父さんに会いに行くって儀式。まだ続いてたんだ」
 「まあね」
 「笠掛のことは大好きだけど、正直、そこだけは理解できんわ」シオリは怒ったように片方の眉を上げた。「詳しい事情は知らないけど、要するに笠掛とお母さんを捨てたんでしょ。あたしなら絶対許せんけどなあ」
 「許してないし、一生、許すことはないと思うよ。でも、嫌いになったわけじゃないから」
 「ふーん、お父さんは今、何やってるの?」
 「知らない」マリは短く答えた。「訊いたこともない」
 「まあ、新しい家族とかができてたとしても、知りたくもないか。これから会うんだっけ」
 「明日は平日だから」
 「お互い仕事か。で、彼氏の分はどうするの? 明日、渡すんでしょ」
 「材料はまだ大量に残ってるから、もう一度、手作りチョコにチャレンジしようかなと思ってるんだけど......」
 「買うっていう選択肢は」
 「彼女になってから、最初のバレンタインデーだし」躊躇いながらも、マリは主張した。「なんつーか、こう、心をこめました感を出したいんだよね。もらう方だって、その方が嬉しいじゃん」
 「それならいっそ、チョコじゃなくて、別の何かにしたら」シオリは提案した。「差別化できるよ」
 「何あげたらいいのかわかんない」
 「彼氏さんの好きなものぐらいわかるでしょうに」
 「本が好き。でも、本ってプレゼントしにくいんだよね」
 「何でもいいと思うけどな。何系が好きとかあるでしょ。ラノベがいいとか、BL がいいとか」
 「うーん、村上春樹とかじゃないんだよね」マリは眉間にしわを寄せた。「前に、次に引っ越すなら、ナイトランド・クォ何とかいう雑誌が置いてある本屋の近くがいいとか言ってたけど」
 「......やっぱり無難にチョコがいいかも」
 「だよね」マリは笑うと、時計を見てマスクをかけた。「じゃ、行くわ」
 「うん。健闘を祈る。彼氏の方ね」シオリも笑みを返したが、ふと思いついたように言った。「お父さんに訊いてみたら?」
 「訊くって何を?」
 「彼氏に何をあげたらいいのか」
 「年代も趣味も違うから、そういう方面では役に立たないと思うけどな。それにそんなに長話はしないから。じゃ、また」
 シオリと別れたマリは、次の待ち合わせ場所に向かうために、地下鉄の駅に急いだ。午後から降り出した雪は一向に止む気配がなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「お待たせ」
 マリは素っ気なく言いながら腰を下ろしたが、向かいの席を見て眉をひそめた。
 「去年も言ったけどマスクぐらいしなよ」
 マリの父親は、フン、と鼻を鳴らすと、わざとのように咳払いした。
 「そんなものは必要ないね。ウィルスなんか寄せ付けないからな」
 「そういう問題じゃなくて、世の中じゃ、もう当然のマナーになってるんだけどね」
 そう言ったものの、マリはそれ以上、非難の言葉を口にしようとしなかった。学生らしきウェイトレスが、水とおしぼりを運んできた。去年来たときにはいなかったので、アルバイトだろう。ダージリンを注文すると、ウェイトレスはちらりと向かいの席を見た。マリが「以上で」と言うと、ウェイトレスは頷いて去っていった。マリは距離が開くのを待って、マフラーとマスクを外した。
 父親との待ち合わせは、この古風な喫茶店と決まっていた。カフェ、ではなく、喫茶店だ。父親が母親とよくデートした、という店だった。駅から近く、大通りに面していて立地は悪くないのに、19 時という時刻で、ほとんどの席が無人だ。
 「元気そうだな」父親はマリの表情を窺いながら、探りを入れるように言った。「それに幸せそうだ。ボーイフレンドでもできたか」
 「わかるの?」
 「わかるさ」
 「父親だから?」
 「それもある」父親は得意そうに言った。「経験からわかることもある。俺はずっと人を観察してるからな」
 「それしかやることがないんでしょ」マリは冷ややかに言った。
 紅茶セットが運ばれてきた。オーダーを取った店員ではなく、初老のマスター自らがトレイを手にしている。マリがこの店を訪れるのは、年に一度なのだが、毎年、同じ時期、同じ時刻に来ているので、顔なじみになっていた。
 「お待たせしました」マスターはティーポットとカップを丁寧に並べ、その横に陶器の小皿を置いた。「サービスのガトーショコラです」
 「ありがとうございます」マリは笑顔を浮かべた。「毎年、楽しみにしてます」
 「ごゆっくり」マスターは小さな砂時計をひっくり返すと、一礼して去っていった。
 砂時計の砂が落ちるまで、マリも父親も言葉を発しなかった。父親が早くこの場を去りたいと思っていることはわかっていたが、マリはわざとゆっくり時間をかけて、紅茶をカップに注いだ。豊かな香りを楽しみながら。
 二口ほど飲んで心が落ち着くと、マリは持ってきた紙袋から、華やかに包装されたチョコレートを取り出して、テーブルの上に置くと、父親の方へそっと押しやった。
 「じゃ、これ」
 父親は頷いたが、手を伸ばそうとはせず、代わりに訊いた。
 「どんな男だ」
 「は、誰が?」
 「お前のボーイフレンドだよ、もちろん」
 「言い方。ボーイフレンドなんて今どき言わない」
 「そうなのか。まあいい。どんな奴だ」
 「同じ会社で同じ部署の人」マリはガトーショコラにフォークを入れた。「真面目で仕事ができる。少し運動不足でお腹に肉がついてきてるけど、肥満までは行ってない」
 「何の仕事だ」
 「プログラマ」
 「プログラマー?」父親は侮蔑の表情を浮かべた。「SE じゃないのか」
 「SE って何なの」
 「システムエンジニアに決まってるだろう」
 「IT のことなんかわかるの?」
 「わかるさ。俺だって昔は上場企業にいたんだからな。システム屋とも何度も仕事したもんだ。もちろんシステムエンジニアとな」
 「あのね」マリは父親を睨んだ。「システムエンジニアがプログラマより上、なんてことはないの。そういうバカバカしい固定観念が日本のICT 産業をダメにしてるんだからね」
 「日本はIT 先進国じゃないか」
 「そうじゃないことは、コロナ禍でバレちゃったでしょ。ワクチン接種予約のドタバタで」
 「そうなのか」
 「少しは世間のことに関心持ったらどうなの」
 「気が向いたらな」父親は横柄に答えた。「プログラマーのことなら俺も少しは知ってるぞ。たこ部屋みたいなところに押し込まれて、朝から晩までキーボードをパチパチやってるんだろ。責任はないかわりに権限もない。酷使されているのに給料は安い。違うか」
 「全然違う」マリはため息をついた。「いや、そういうところもあるのかもしれないけど、少なくともあたしやイノウーさんがやってるのは、そういう仕事じゃない」
 「どんな仕事だ」
 「エンドユーザの要件を訊いて、システムを構築して、テストして、リリースして、修正や機能追加があれば対応する」
 「それはSE の仕事だろう」
 「今は違うの」
 「プログラマーが要件定義?」父親は疑わしそうに訊いた。「まともにやれるのか」
 「プログラマは高度なスペシャリストなの。世界を救うことだってできるんだから」
 「世界を救う? いったい何の話だ」
 「え、あれ?」マリは首を傾げた。「何の話だろ。いや、とにかく、今はそういう時代なの」
 「マリがそう言うんなら、そうなんだろうな。それはそうと」父親は自分の知識不足を追求されるのを嫌うように話題を変えた。「母さんは元気か」
 「元気よ。春からは主任だかに昇進するらしいよ。一応、気になるんだ」
 「あたりまえだろう。もういい年なのに、まだ働いてるんだからな」
 「今は女性だって定年まで働く時代なの」
 「マリもそのつもりなのか」
 「それはわからないけど」
 マリは濃厚だがなめらかな口溶けのガトーショコラを、じっくりと舌の上で転がした。こういうのを作れるようになるには、どれぐらいの時間がかかるんだろう、と考えながら。
 「プログラマーなんて仕事は、長く続けるものじゃないだろう」父親は言った。「結婚は考えてるのか、そいつは」
 「そういう話はしたことない」
 「もう30 になるんだろう。そいつにその気がないなら別の......」
 「やめて」マリは静かに遮った。「節目節目で、ゆっくり少しずつ関係を深めているところなんだから」
 「節目ってなんだ」
 「クリスマスとかバレンタインよ」そう答えた後、マリはシオリに言われたことを思い出して顔を上げた。「一応訊くけど、お父さんはバレンタインデーにチョコレートをもらったことはあるよね?」
 「あるに決まってる」父親は得意そうにふんぞりかえった。「若い頃からモテたんだ。母さんから聞いてるだろう」
 「ええ、何度も」マリは声を高くしないように気を付けた。「それが離婚の原因になったこともね」
 「そのプログラマーの男には」娘の言葉を無視して、父親は続けた。「もちろん渡すんだろう」
 「チョコレートだとありきたりすぎだから」マリは事実の一部だけを口にした。「何か別のものにしようかと思ってるんだけど......」
 「ああ、それを何にするか迷ってる、ってところか」
 「そんなところ」マリは頷いた。「お父さんの意見を一応訊いておいたらどうかって、友だちに言われたから」
 「なるほど。さっき言ったように俺はモテた。2 月14 日の朝、会社に行くと、机の上にチョコが山積みになってたものだ」
 「そういうのマンガでよく見るけどさ。なんで後から持ってきた子は、そこにあるチョコをそのままにしとくんだろうね。あたしなら、全部回収してから、自分のだけ置くよ」
 「ホワイトデーのお返しが銀行口座を圧迫するほどだった。俺の頃は3 倍返しが当たり前だったからな」
 「自慢してるようにしか聞こえない」
 「だけどくれた相手は、そのほとんどが俺にとってはどうでもいい女ばっかりだった」
 「つまり義理チョコか」
 「あれは20 代最後の年の2 月15 日だった。14 日じゃなくてな。一人の女から連絡があった。その頃、関わっていた大きなプロジェクトで、調達管理か何かのネットワーク構築を担当していたSI 企業の、下請けだったか孫請けだったかの会社の事務員だ。もちろんアナリストやSE なんかじゃなく、プログラマーですらなかった。セールスエンジニアの補助みたいな立場だったかな。会議で2、3 回顔を合わせたが、名刺も交換していないし、直接、言葉を交わしたこともない。少なくとも俺の方に記憶はなかった。電話で名前を聞いたとき、誰なのか思い出せなかったぐらいだ。顔さえ浮かばなかった」
 その女性は何か業務上の用件を口にした。直接、渡したい書類がある、とのことだったので、父親は会うことを承知した。その日は接待があり、時間が取れるのは22 時過ぎになると伝えたが、相手はそれでも構わない、と答えた。
 「接待ってのは長引くものだ」父親は遠くを見つめながら言った。「おまけに次の店に行く、という空気になって断れなかった。約束のことを忘れたわけじゃなかったが、どうせ大した用件じゃないだろうと思って気にもしなかった。携帯を一人一台持ってる時代じゃなかったから連絡を取りようもなかったしな。結局、約束の場所には行けなかった」
 「うわ、最低男」
 「次の日の朝、俺は出勤途中にふと思い出して、約束の場所に寄ってみた。待ち合わせ場所は新宿の喫茶店だった。ちょうどここみたいな雰囲気の店だ」
 「なんで寄ったの?」
 「さあ、どうしてだろうな」父親は考え込むように腕を組んだ。「どこかに約束を破った、という罪悪感があったのかもしれんな。だから、とにかく足を向けた、という事実を作ることで、罪悪感の解消を図ったのかもしれん。あるいは単に二日酔いで朝を食わずに出てきたから、モーニングでも食べるのもいいかもしれない、とでも思っただけだったのか。もう憶えてない。とにかく俺はその喫茶店に入った。店に入ると、すぐにその女が視界に飛び込んできた。一番、奥の席でコーヒーを飲んでいた」
 「つまり」マリは確認した。「前の夜にお父さんがすっぽかした女性がいたってこと?」
 「そうなんだ。そのときまで、どんな顔だったのか全く憶えていなかったのに、一目でその女だとわかった。彼女は俺を見ると、嬉しそうに立ち上がって手を振った。俺は信じられない思いで向かいの席に座ったよ」
 「その女性はなんて?」
 「彼女は一言も俺を責めるような言葉を口にしなかった。来て下さると信じていました。そんなことを言ったな。まるで約束の時間が前の日の22 時ではなく、今朝の8 時だったかのように。それから、仕事の話というのが口実だったと打ち明け、恥ずかしそうにリボンをかけた箱を差し出してきた。14 日じゃなくてごめんなさい、と言いながら」
 茫然となりながらも、父親は礼を言って箱を開いた。ハート型のチョコレートが6 つ並んでいた。形はすこし歪んでいて、大きさも不揃いだ。手作りであることは一目瞭然だった。
 「どうして俺に? そう訊くと、彼女は微笑んで話してくれた。さっきのプロジェクト関係の会議でトラブル報告があった。俺も出席していた。彼女もいた。先輩セールスマンに押しつけられて、彼女が報告書を読み上げることになっていたんだ。若い女の参加者は一人だけだったし、トラブルで責められる立場だ。緊張してしどろもどろになっていた。何人かが面白がって、言い間違いを指摘したり、よく聞こえなかったからもう一度読め、なんてことを言っていた。そのとき、俺が、話が先に進まないからとにかく報告を聞こう、みたいなことを言ったらしい。別に彼女に助け船を出したわけじゃない。その後に、いくつも予定があったから、会議が時間通りに終わって欲しかったんだ。だが、それで場は静まり、彼女は報告を最後まで終えることができた。そのことをとても感謝していて、お礼がしたかった、というのが理由だった」
 「......それでチョコを?」
 「生まれて初めて手作りした、と言っていた。うまくできたかどうか自信がない、とも言っていたな。俺はその場でチョコを一つ口に入れたが、なるほど確かに素人が作った感ありありだった。やたらに甘いだけで、ボソボソしていた。14 日にもらったチョコと合わせて順位を付けるなら最低点だ。よくできているとはお世辞にも言えない。彼女自身、美人でも何でもない。正直に言うなら、仕事であっても一緒に歩くところを人に見られるのを躊躇するような容姿だった。それでも、その年に俺がもらった中では一番嬉しいチョコレートだったんだよ」
 マリは紅茶とガトーショコラを交互に味わいながら、続きを待ったが、父親の話は終わりのようだった。
 「それで、その感動的な話の教訓はなに?」
 「何をもらったか、ではなく、誰にもらったか、が重要だってことだ。その女性とは、仕事上でも、プライベートでも、それっきり会うことはなかったが、今でも忘れることはない。多少の失敗作だって、彼氏がまともな男なら、ちゃんと受け止めてくれるんじゃないか」
 「......え、ちょい待ち」マリは狼狽した。「失敗したなんて、あたし言った?」
 「それぐらいわかるさ。父親だからな。小さい頃からマリが台所に立つと、今度はどんな被害が発生するのかとヒヤヒヤしてたものだ。一度なんか、換気扇が修復不可能なまでに......」
 「そんなにひどくないと思うけど」根拠に欠ける反論を口にしたものの、マリはすぐに頷いた。「わかった。ありがとう」
 父親は頷くと、躊躇いがちな声で言った。
 「礼を言ってくれるなら、そろそろ俺を解放してくれないか」
 「解放?」
 「毎年のこれだよ。もう終わりにしないか」
 「それとこれとは別」マリは冷たく答えると、スマートフォンを出し、カレンダーアプリを開いた。「あたしが許す気になるまで、毎年、この待ち合わせは続くって言ったでしょ。えーと、来年は14 日が火曜日だから、12 日の日曜日に待ち合わせね」
 音が聞こえそうなほど、がっくりと肩を落とした父親を見て、マリはニヤリと笑った。
 「これはお父さんの罪滅ぼしだって納得したはずじゃない」
 「納得はしたがな。こんなに何年も続くとは思ってなかった」
 「自業自得」マリはマスクをかけた。「じゃ、これで。今日は徹夜でチョコレートを仕上げなきゃ」
 訴えかけるような父親の視線を無視して、マリは立ち上がった。マスターに会釈してレジに向かう。アルバイトの女性が、もの問いたげな視線をマリが座っていた席に向けたが、マリは消費税込みの硬貨を出して会計を促した。
 ありがとうございました、の声を背にドアを開けたマリは、最後に一度だけ席を振り返った。父親はうなだれたまま、テーブルの上に置いたままのチョコレートの箱を見つめている。マリは店を出た途端に震えた。雪はまだ降り続いている。マフラーを首に巻き付けると、マリは駅に向かって歩き出した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「マスター」トレイを手に戻ってきたアルバイトの学生は、興奮した口調を何とか抑えた。「何ですか、あのお客さん」
 「ああ、そうか」マスターは微笑んだ。「君は初めてだったか。あの子は毎年、この時期、この時間に来るんだよ。もう何年になるかな。だいたいバレンタインデーの前の土日だね」
 「知ってる人なんですか?」
 「知ってるのは、マリちゃんっていう名前ぐらいだよ。あの子のお母さんは、昔、この近くで働いていてね。常連さんだったんだ。恋人ができてからは、よくデートで使ってくれた。何時間も相手と話してたもんだよ。その恋人と結婚して、できたのがさっきの子だ」
 「でも」学生は気味が悪い、とでも言いたげに両腕をかき抱いた。「一人で何かブツブツ言ってましたよ。ちょっとおかしいんじゃ」
 学生はトレイに目を戻した。一人分のティーセットが乗っている。マスターは頷いて、トレイを受け取った。
 「ご両親が離婚された後、マリちゃんはバレンタインデーに、父親に会うことを承知させたらしいんだ。一度、訊いたことがあるんだ。許せないことをした父親と、どうして毎年、顔を合わせるのかって。マリちゃんはこれが、お父さんに対する私の復讐だと笑ってたな。自分とお母さんのことを、絶対に忘れさせないって。何年か前に、父親が事故で死んだ後も、同じ時期にこの店にやってくるんだよ。まるで自分が来続けることで、父親を成仏させないようにしているみたいに」
 「やっぱり変ですよ、それ。さっきちょっと聞こえちゃったんですけど、目の前に誰かが座っているみたいに会話してたじゃないですか」
 「あの子には見えているのかもしれないよ」冗談とも本気ともつかない口調で、マスターは窘めた。「いずれにせよ、お客さんにはそれぞれの事情ってものがある。あまり詮索しない方がいいね。誰かに迷惑をかけてるわけでもなし」
 「そもそもお客、いませんしね」学生はガラガラの店内を見回し、ため息をついた。「コーヒーも紅茶も手作りケーキもおいしいんだけどなあ。やっぱり今どきはスタバやドトールに流れますよね」
 「これぐらいが私にとってはちょうどいいんだよ」
 「そんなもんですか。あ、あのチョコレートの箱はどうするんですか? 言われた通り、おきっぱにしてきましたけど」
 「ああ、そのままでいいよ」
 「後で片付けるんですか?」
 「いや」マスターは首を横に振った。「実は、朝になるとなくなってるんだよ。いつのまにか」
 「は?」
 「一度、好奇心から、閉店後も店に残ってたことがあったんだけどね」マスターの表情は、学生の強張った顔とは逆に、面白がっているかのようだった。「ほんとに一瞬、目を離した隙になくなってたんだ。不思議だよね」
 「不思議とかそういうのとはレベチな気が......」
 「いるのかもしれないねえ、私たちには見えないだけで」
 いるって何が、と訊き返そうとした学生に、マスターは優しく笑いかけた。
 「さて、今日は閉めようか。この雪じゃ、もう、お客さんもこないだろうし」

 (終)

そういえば、今年のバレンタインデーは月曜日か、と気付いて、「イノウーの憂鬱」のマリちゃんのショートストーリーを書いてみました。みなさんは、どのようなバレンタインデーをお過ごしでしょうか。

Comment(23)

コメント

h1r0yuki

時別作品!
マリちゃん!

匿名

「焦がせば苦みが出るもんじゃん」…うーむ…

匿名

>どんな顔だたのか全く憶えていなかったのに、
顔だった
更新されてるかなと覗いてみたら!素敵な読み切りありがとうございました。

匿名

不意打ちの怖い話だった?

マスターはなぜ事故のことを知っているのか
この世界はアッチともつながっているので、つい勘ぐってしまうわ

匿名

サプライズのチョコのような良い小品でした。ありがとうございます。

匿名

マリっぺは良いキャラ

ななし~

シオリさんがしれっと出ていて吹きました!

匿名

ナイトランド・クォ何とかいう雑誌が置いてある本屋なんて、あいにく当地では見掛けません…

匿名

ひょっとしてちょっと前にいあいあされてしまったシオリさんも……。

匿名

>ナイトランド・クォ何とかいう雑誌が置いてある本屋
ラゾーナ川崎の丸善なら置いてあるぞ

匿名

お父さん、いままでpress enterに出てきたネームドキャラの誰かなのかなあと思ったら…ひえ

匿名

> 焦がせば苦みが出るもんじゃん

ホラーやん。

えどわーど

泣けた

CarlosR

Nightland Quo Lo tiene una librería con una revista llamada
Lazona Kawasaki Maruzen.

匿名

> どうして許せないことをした父親

どうしても ではないかと想像。

のり&はる

旧姓に戻った母親と実家に戻り・・・父親の姓がどっかできいたような名前で出てくるかと身構えてしまった。

リーベルG

匿名さん
「どうして」でいいんですが、わかりづらいところがあるので、少し語の順番を変えました。

匿名

料理は実験なので理系脳(?)っぽいマリさんが不得手なのが不思議で…

匿名

アレンジ癖が災いしているようで…

匿名

マリちゃん、やっぱクトゥルフ神話技能高そうやな。

とおりすがり

「約束の日」というタイトルの原題は何でしょう?

リーベルG

とおりすがりさん、どうも。
原題というか元ネタは、特にないです。

とおりすがり

「私の彼はプログラマ」の方はあからさま(笑)ですので、「約束の日」の方も何かあるのかなと思ってしまいました

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