私の彼はプログラマ (終)
「どうして、たかが一企業の」イノウーが訊いた。「いちシステムの脆弱性対応ごときで、そんな話になる? 実は国際的重要システムだったりするのか?」
シュンは仕事を続けたそうな顔を向けたが、イノウーが譲りそうもないのを見て取ると、ため息をついた。
「おじちゃん、プログラマやって長いんだよね」
「長いというほどではないけど、まあ、それなりに」
「一個のアプリケーションの寿命ってどれぐらいだと思う?」シュンはそう訊くと、答えを待つことなく続けた。「モノによっては、作った人の想定を超えて長生きすることもあるんだよね。このシステムもそう。少しずつ形を変えて、プラットフォームも変えて、長い間使われ続けることになる。特殊な分野に特化してるアプリだから、広く世間で有名になるとかってことではないんだけどね」
「ことになるって」マリは笑った。「君、もしかしてタイムマシンで未来から来たの?」
「まさか。精度の高い予測の結果ってだけ」
「......」
「ぼくが属してる、えーと......組織は、ある目的のために、そんなソフトウェアを収集し、組み合わせて、作った人が想像もできないような用途で使ってるわけ。これもそのひとつ」
「敵っていうのは?」
「それ、今重要? 国際テロ組織でも異星人でもネオナチでもヴォルデモートでも何でもいいじゃん。とにかく、このアプリの信頼性を落としたい集団がいる、ってだけで十分だろ」
「もしかして」マリは思いついて言った。「Log4Shell って、その敵が......」
「おばちゃん、鋭いね。その可能性が高い、って考えられてるよ。この時期を狙ってゼロデイ攻撃かけてきたぐらいだからね」
「脆弱性に時期は関係ないんじゃないの」
「クリスマスは、敵の攻撃の可能性が高まる時期なんだよ」
「敵の正体は何でもいいけど」イノウーが頭をかきながら言った。「修正したはずのソースを元に戻すようなことができるんだったら、何をやってもムダじゃないかと思うんだけどな」
「そっちはもう手を打ったはずだから」
「どうして最初からやっておかなかったのかな」
「重要度と緊急度はそれほど高くなかったはずだったんだ。放置しておくのはリスクがあるから、って程度だって、誰もが考えてた。だから、ぼくみたいな子供が対応を任されたんだけど」
「急に重要度が上がったってわけ?」マリは訊いた。「誰かが見積を間違えたの?」
「ううん」シュンは首を小さく横に振った。「ぼくたちは、そういうことでは滅多に間違えない。だから驚いてるんだよ。考えられる可能性は、この短い時間での改修で、アプリケーション自体のクオリティが急激に向上したってことかなあ。だから予測曲線における重要度も上がった」
「イノウーさんの高度なスキルのおかげですね」
マリは軽口を叩いたが、意外にもシュンは頷いて同意した。
「うん、それは確かだと思う。コーディネータがちゃんと仕事したってことだろうね」
「コーディネータ?」イノウーが首を傾げた。
「おじちゃんにこの件をアサインした人だよ」
「ぼくの知り合いかな」
「たぶんね」シュンはその話題に深入りするのを避けるように、短く答えた。「それより、急いでこの改修を終わらせないといけなくなったんだ。今日は寝る暇ないよ」
「そんなことじゃないかと思ったよ」イノウーはため息をついた。「どうして毎年、クリスマス前にはプログラミングな日々が続くんだろうなあ」
「お気の毒さま」シュンは大人びた口調で言った。「一つだけ言えるとしたら、今日のプログラミングは、おじちゃんがこれまでやった中で一番重要なものになるかもしれないってことだよ」
「世界が終わるから?」
「まあね」
「その話も聞きたいね」
「これが終わったら話すよ。話せたらね。その時間があったらね」
シュンがそう言ったとき、またドアが開いた。さっきの女性が顔を出し、大きめのカバンをシュンに手渡すと、すぐに姿を消した。シュンはカバンを開いて中を確認すると、それをそのままマリに差し出した。マリは反射的に受け取った。
「なにこれ」
「ノーパソ」シュンはデスクに戻りながら言った。「セットアップは済んでるはず。開発環境も入ってるから。PC 1 台で、交代でやってちゃ間に合わない」
「2 台あるけど?」
「おばちゃんも手伝うんだよ。ほら、急いで急いで」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
シュンの言った通り、3 人は寝る間もなく、システムの改修に取り組まざるを得なくなった。途中でシオリから結果を確認するLINE が入ったので、マリは「今日は泊まることになった」とだけ返信した。シオリは詳しい状況説明を求めて、怒濤のようなトークを送りつけてきたが、既読スルーで放置しておくしかなかった。着信音はミュートにしてあったが、頻発するバイブ音にたまりかねたシュンが文句を言った。
「ねえ、仕事中だってことわかってる? おばちゃん、映画の上映中でも平気で着信確認する人?」
「ごめんね」
マリはスマートフォンを機内モードに設定したが、イノウーはキーを叩きながら気を遣ってくれた。
「さっきの友だち?」
「そうなんです。心配して連絡くれてるので」
「そういう友だちは大切だね」
「高校からの腐れ縁で」マリはスマートフォンを放り出すと、ノートPC のモニタに向き直った。「向こうは今日も明日も明後日もデートだってのに。あたしはこんなところで、あ、いや、イノウーさんの部屋がどうこうって意味じゃないんすけど、地味に仕事してるのかなって、ふと疑問に思ってしまって」
「まあまあ」イノウーは慰めるように言った。「これが片付いたら、ご飯でもおごるから。ボーナスも出たし、多少、高いところでも」
「お金のことなら心配しなくていいよ」聞いていないようで、ちゃんと耳を傾けていたらしいシュンが口を挟んだ。「アーカ......えーと、うちの組織が全額負担するから。予約の取れない店でも、席は用意できると思うし」
「ありがとう」イノウーは笑いながら礼を言った。「でも、それは遠慮しておくよ。大事な人との食事ぐらい、自分でなんとかするから」
大事な人、というフレーズにマリが感動する間もなく、シュンが皮肉な口調で返した。
「あんまり仕事の役には立ってない気がするんだけどね」
マリは反論できなかった。日々、鍛えられているとはいえ、Java プログラミングにおいて、マリはまだまだイノウーの足元にも及んでいない。
「君には大事な人がいないの?」とがめる様子はなく、むしろ穏やかな口調でイノウーは訊いた。「家族とか友だちとか」
シュンは虚を突かれたようにイノウーを見た。
「おじちゃんには関係ないじゃん」
「関係ないね、確かに」イノウーは頷いた。「ぼくが言いたいのは、大事な人、大切な人の基準は人によって異なるけど、少なくともぼくにとっては、メリットがあるかないかじゃないってことだよ」
「じゃあ」シュンは手を止めて、椅子ごと向き直った。「おじちゃんの大事な人の基準って何?」
「いなくなることが怖いと思える人、かな」
シュンは反抗的に鼻を鳴らすと、黙って椅子を元に戻し、コーディングを再開した。マリはイノウーに囁いた。
「引用元は、やっぱり指輪物語?」
「いや、昔の歌の歌詞」
「あたしがいなくなると怖いすか?」
「怖いよ」
「それは、つまり、フロントのエンジニアがいなくなるからって意味ですか」
照れ隠しから、マリは冗談っぽく訊いたが、イノウーは真面目に答えた。
「木名瀬さんがいなくなって気付いたことがあるんだ。大切なものは、失って初めてその価値に気付く、とか言うけど、木名瀬さんがいなくなったとき、不思議なことに、本当に失いたくないものはマリちゃんだってことがわかった。マリちゃんが会社を辞めることを想像してみたら、何というか、ひどく悲しい気持ちになった。木名瀬さんのことは、今でも忘れられないし、大切な人であることには変わりがないけど、それ以上にマリちゃんが、ぼくにとって重要な存在になってた」
マリはこみ上げてきた涙をこらえ、何とか笑みを浮かべた。
「気付くの遅すぎっすよ」鼻をすすりながら呟く。「じゃあ、とりあえずチューでもしときます?」
「おい、そこのバカップル」うんざりしたようにシュンが怒鳴った。「手が止まってる」
二人は目を合わせて笑うと、それぞれのモニタに向き直った。
そのとき小さな電子音が聞こえてきたので、マリは反射的にスマートフォンに目を向けた。機内モードのままだ。顔を上げると、シュンがポケットから小さなスマートフォンを取り出したところだった。シュンは画面を確認すると、マリを見た。
「おばちゃんの友だちが下に来てるんだって」
そう言いながら画面を向けてくる。マリはそこにシオリの顔を見いだした。
「ああ、既読にもならないから心配して来てくれたのか」マリは苦笑した。「仕方ない、顔見せてくるか」
マリが立ち上がると、イノウーが笑った。
「本当にマリちゃんのことが心配なんだね」
「まあ、中学校からの付き合いですから。ちょっと行ってきます」
イノウーは頷いてモニタに目を落としたが、すぐに眉をひそめて顔を上げた。
「高校からじゃなかった?」
「え?」
「その友だち。さっき高校からの腐れ縁だって言ってたけど」
「いえいえ中学ですよ」
その会話を聞いていたシュンが、不意に立ち上がると、マリに駈け寄った。
「その友だちの名前は?」
「え? 名前はシオリだけど......」
「名字は?」
「名字?」
「シオリさんの名字だよ」シュンはスマートフォンを握りしめて訊いた。「わからない?」
「わからないはずないでしょ。あたしの親友よ。ちょっとど忘れしてるだけで......」
「どこに住んでる?」シュンは矢継ぎ早に問いを投げかけた。「出身は? 結婚は? 仕事は?」
「なによ、住んでるのは......」マリは口ごもった。「住んでるのは、えーと......」
マリは茫然となった。シオリのことが何一つ思い出せなかった。一番の親友のはずなのに。美人で性格もいいのに、なぜか男と長続きしない。何度も相談に乗って飲み明かしたという記憶はあるのに、交わした会話の内容や、飲んだ酒の種類がどうしても思い出せない。中学校からの付き合い、それとも出会ったのは高校だったのか、それさえはっきりしない。いや、そもそも、あたしにシオリなんて友だちが......本当にいたのか?
シュンがスマートフォンに向かって何か言いかけたとき、部屋のドアが開いた。今回はぶち破られた、という表現がふさわしい開き方だった。イノウーが息を呑んで立ち上がった。金属製のドアが、ノブを中心に大きく内側に歪んでいる。
「笠掛え」叫びながら、シオリが部屋に入ってきた。「なんで返信寄こさないのよお」
本能的にマリは後ずさった。その生きものは数時間前にマリが会ったときと同じ姿形をしていたが、もはや、それをうまく使いこなすことなど考えてもいないようだった。整った顔の双眸は、片方が奇妙なほど大きかった。
「笠掛のやってることってさあ」そいつは酔っ払いがくだを巻くような、舌っ足らずの声で喚いた。「それって、いつか、人間を滅ぼすことに手を貸すってことにならんとも限らないんだよお。せっかくのイブイブじゃんかよお。そんなしごーとなんか止めて、おいらと楽しいことやろうよお」
イノウーの手が後ろから伸び、マリの肩を掴んで後退させた。ジリジリと接近してくる生きものから、マリを守るように立ちはだかる。手には栓を開ける機会がなかったスパークリングワインが握られている。相手に叩き付けるつもりだろう。奮発してちょっと高いの買ったのに、とマリの心に、場違いすぎる思いが浮かんだ。
「かさかけ」生きものが手を伸ばしてきた。「一緒に楽しいことやろうよお。うちら親友じゃんか」
生きものの左目が、握りこぶしほどに膨れあがっていた。口も両頬まで大きく広がっている。口の中には、歯も舌もなく、ただ深淵のような闇がどこまでも続いていた。闇の奥に何かが蠢いているのが、マリには見えた。植物のようでもあり、動物のようでもあり、鉱物のようでもあった。一片の慈悲も、わずかな温かみもなく、あくまでも異質なそれは......
マリは無意識のうちにイノウーの身体に両腕を回していた。イノウーも震えていたが、そこから伝わってくる優しい温もりが、マリの正気を維持する源だった。
生きものがキッチンに上がってきたとき、歪んだドアの向こうに新たな人影が二つ出現した。男性が一人、女性が一人。女性はさっきノートPC を届けに来た人だ。男性の方は中年で、どこか見覚えのある風貌で......
「え」イノウーが驚愕で震える声を上げた。「東海林さん?」
それで思い出した。サードアイの東海林だ。イノウーが師と慕うベテランエンジニアで、マリも何度か顔を合わせたことがある。どうしてこんなところにいるのか。
東海林はイノウーたちを認めて軽く頷いたものの、ほとんどの注意力は、シオリとして認識していた生きものに向けられていた。女性の方が手にしていた小型のスマートフォンで、素早く何かを操作した。東海林は頭に装着したヘッドセットで誰かと話しながら、似たようなタブレットを叩いている。どうやらソフトウェアキーボードで何かを入力しているようだ。
「星野さん」東海林は冷静な声で女性に呼びかけた。「どうぞ」
星野と呼ばれた女性は、スマートフォンのケースをパタンと閉じると、生きものに接近した。生きものは緩慢な動作で振り向き、手を伸ばしかけたが、星野はバレエダンサーのような身のこなしでかわすと、ATM のスロットにキャッシュカードを挿入するように、スマートフォンを生きものの口に突っ込んだ。
マリは目を疑ったが、次に起こったのはさらに信じられない出来事だった。生きものの輪郭が不意にぼやけたかと思うと、全身に細かいグリッドが生じた。3D モデルのポリゴンのようだ、と思ったとき、生きものは無数の立方体へと瞬時に分解された。立方体はさらに微細な立方体へと分裂し、やがて跡形も無く消滅した。
「完了です」東海林はヘッドセットに報告した。「少しばかり時間もらってもいいですか」
イノウーとマリが茫然と立ち尽くす横を、シュンが何事もなかったような足取りで通り抜け、東海林に話しかけた。
「コーディネータが現場に出てくるなんて規程違反なんじゃないですか?」
「すまんな。そっちの二人のプログラマは知らない仲じゃないからな。ほんの少しだけ話をさせてもらうよ。星野さんは先に戻っていてもらえますか」
星野は頷いて、イノウーとマリを一瞥すると、視界から消えていった。それを見送った東海林はイノウーに言った。
「巻き込んですまなかったな、イノウー」優しい声だった。「こういうことにはならないはずだったんだが」
「一体、何がどうなってるんですか」イノウーは混乱した顔で言った。「さっきのあれは......」
「悪いが、詳しく説明している時間はないんだ。俺自身、巻き込まれたようなものだからな」
「巻き込まれたって......一応、訊きますけど、これってジョイントベンチャーと、何か関係あるわけじゃないですよね?」
「ないない」東海林は笑った。「疲れているかもしれないが、仕事を終わらせてくれないか」
イノウーは何か言いかけたが、すぐに諦めて頷いた。
「わかりました。年明けにでも詳しく教えてもらえると思ってていいんでしょうね」
「可能ならな」東海林はヘッドセットからの呼びかけに耳を傾けながら言った。「すまないが、もう行かなければ。今日、明日は大忙しだよ。あ、このドアはすぐに交換させるから」
そう言い置いて、東海林は慌ただしく去って行った。シュンはドアの外までついて行き、東海林と何か話していたが、すぐに戻ってくるとイノウーとマリに言った。
「とりあえず一安心だよ。この建物が消滅する可能性はなくなったから」
「どういうこと?」ようやく声が出せるようになったマリは、震え声で問い詰めた。「安心って何よ」
「あまり考えない方がいいんじゃないかな」
「そういうわけにはいかないの」マリはシュンに詰め寄った。「さっきのあれ、口の中に何かがいた。すごく、なんていうか、暗くて冷たい何かが......」
「へえ」シュンは新たな興味をおぼえた目でマリを見上げた。「あれが見えたんだ? ちょっと意外だな。案外、そっち方面の素質があるのかもね」
「いいから」マリは声を高めた。「説明して!」
「わかった、わかったよ」シュンはなだめるように手を振った。「でも頼むから仕事しながらにしてよ。危険は去ったけど、このアプリの重要性は変わらないんだから」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝日が差し込んで来た頃、ようやく改修作業が終わりに近付いてきた。一通りのコーディングが終わり、テストを走らせている間、シュンはようやく説明を始めた。
今から何年か後の話なんだけど、と、シュンはおとぎ話を語って聞かせるように言った。AI とその周辺テクノロジーに対する反対運動が複数の国で発生する。AI が人間の労働者の職を奪う、というよくある危機論が発端だ。最初はSNS 上での、少し過激な議論に過ぎなかった運動は、やがてAI を開発・活用する企業への不買運動から、物理的な破壊活動へと変化する。同時期に制御系にAI が組み込まれた自家用車や飛行機による事故が世界中で頻発したため、数年後には世界的なAI 技術の破壊、放逐活動へと発展した。AI 技術者の多くが暴力を恐れて身につけた技術と知識を捨て、企業や研究所はAI 技術の永久的な放棄を宣言せざるを得なくなった。この一連の出来事は、セカンド・ラッダイトと呼ばれることになる。
「それによって」シュンはテスト結果に目を走らせながら言った。「AI に限らずIT 技術全体が白眼視されるようになる。プログラミングも同様にね。うちの組織には優秀なプログラマが必須だから、プログラマの社会的地位を向上させようと、慎重に計画してきたんだけど、それが一気に無に帰すことになる。メンテナンスが必要な重要なインフラが、いくつもダウンし、先進国でも政情不安から暴動が起きたりする」
「それも未来予測?」
「そうだよ。その結果、ぼくたちが必要なリソース、つまり敵と戦うためのプログラマが確保できなくなって、敵との戦いに負けそうになる。そういう予測」
「この改修とどう関わってくるの?」
「このアプリケーションは、将来、うちの戦略に欠かせないモジュールになるはずなんだ。順調にメンテナンスが続けられれば、の話だけど。Log4Shell のおかげで、メンテナンスに大きな遅れが生じれば、戦略に大きな影響が出る。敵との戦いは劣勢を強いられることになって、ついには人類は滅亡への一歩を踏み出すことになる。世界の終わりさ」
シュンはEnter キーを叩き、ふーっと息を吐いた。
「これで終わりだ。世界の終わりは回避されたと思う。少なくとも、このアプリが発端となるのはってことだけどね」
言い終わると、シュンは2 台のノートPC を元のカバンにしまい、イノウーのデスクトップPC でマウスを何度かクリックした。
「痕跡を残しておくわけにはいかないから、ソースは消させてもらった。復元ソフトなんか使っても無駄だからね。じゃあ、ぼくは帰るから、後は二人でごゆっくり」
シュンが立ち上がったので、イノウーは不思議そうに訊いた。
「え、それだけ? 機密保持の書類にサインとかいらないの?」
「いらないよ」シュンは面白そうに答えた。「なんで?」
「今の話を、ぼくたちが誰かに話すとか、SNS とかにアップしたりしたら、まずいことにならない?」
「そんなことはしない、いや、できないよ」
「そんなにぼくたちを信頼してるってこと?」
シュンはクスクス笑った。
「そうじゃなくて、あと20 分もすれば、二人は今の話も、さっきの出来事も、全部忘れてるから」
言い知れぬ恐怖がマリの胸の中を満たした。
「え、ちょっと待って。忘れるって全部?」
「全部」シュンは頷いた。「ぼくが出ていってから、5 分もすれば強烈な眠気が襲ってくるはず。1 時間ぐらい寝たら、記憶がきれいにクリアされてる。別に痛くないから心配いらない」
「あたしとイノウーさんが気持ちを確認しあったことも?」マリは上ずった声で訊いた。「それも忘れるの?」
シュンは顎に手をあてて考えた。
「そういうオペレーションと関連性が薄い感情はどうかな。人によるんだと思うよ」
「人によるって」
「本当に強い想いなら、もしかすると残ることもあるかもね」シュンはカバンを持ってドアに向かった。「じゃあまた......じゃないか、もう会うこともないと思うけど元気でね」
「待って」
マリが呼び止めると、シュンは足を止めた。
「あたしたち、世界を救ったのよね?」
シュンは大きく頷くと、子供らしい笑顔を見せた。
「それは確かだよ。誇りに思っていい。短い時間だろうけどね」
マリはイノウーと手をつないだまま、シュンが出て行くのを見ていた。
「イノウーさんがプログラマでよかった」マリは微笑みながら言った。「世界を救ったんすよ、あたしたち」
「その記憶もなくなるらしいよ」
「それは別にいいんですけどね。あのクソ生意気なガキが言ったじゃないですか。短い時間でも誇りに思えれば」
「確かに」
「もう一つ、あたしが誇りを持って言えることがあります。何だかわかりますか?」
「さあ」
「私の彼はプログラマ、ってことです」
やがて二人は床に座り込み、急激に眠りの世界に引きずり込まれていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1 時間後、二人はほぼ同時に覚醒した。まだ手をつないだままだった。先に目を覚ましたイノウーが状況を理解しようと頭を振っていると、マリがもぞもぞと身動きし、ゆっくりと目を開いた。目の焦点がイノウーに合ったとたん、マリはイノウーの首に抱きついて囁いた。
「忘れてなかったわ」
(了)
みなさま、よいお年を。コロナ禍が一日でも早く収束することを願います。
コメント
匿名
東海林さんと星野さんがっつりになってて草
のり&はる
控えめに言ってエロいっス
サルーン
毎度旬なネタを上手にまとめて来ますね。
今年も楽しませてもらいました。
匿名
忘れてなかったわ
ってことは、
忘れされられる
ってことも覚えてるってことでしょ?
チームS誕生の瞬間かな。
匿名
イノウーかっこよすぎ。胸が温かくなる物語をありがとうございました。良いクリスマスと年末になります(なりました)ように。来年も楽しみにしています。
h1r0
もう私の負けです
マリちゃんのことはイノウー、君に任せます
世界を救ってくれてありがとう
お祝儀払うので結婚する時は連絡お願いしますね
かず
>この建物が消滅する可能性はなくなたから
なくなったから
楽しく読ませていただきました。次のお話も楽しみに待っています。
リーベルG
かずさん、ご指摘ありがとうございます。
as
やー、じーんとくる話でしたね!
…年明けにでも詳しく教えてもらえると思ってていんでしょうね」
口話体としてはこれもアリそうだけど、キャラクターの普段から推測するに、
「…いいんでしょうね」
でしょうか?
へなちょこ
うん、クリスマスにはこれですよね。
今年も世界を救ってくれてありがとうございました。
匿名
まさかの合流…
並行世界の一つ、シュンがもっと早くアーカムに合流していた物語、かな。それとも同名の?
マリちゃんはヤツらにすでにマークされていて大変だなー
夢乃
読点が重なってます(、、)
東海林さんとアツコさんも取り込まれたなら・・・この先、肉体派部隊(?)や巫女との合流も期待できるのかな・・・? それはないか・・・
やわなエンジニア
記憶を消せてもへこんだ状態のドアが残ってたら意味がないですから、1時間で何事もなかったかのようにドアを交換してもらったのか気になります。
『夜の翼』の方でも物理的な存在の書き換えは難しいって話がありましたから、同じドアをどこかから調達してくるんでしょうかね。
「この型のドアはメーカーが生産終了していて在庫もないそうです」「どこか別のマンションから持ってくるか?」みたいな話が裏であったりして
……この直後に爆発炎上して証拠隠滅しませんよね?!
リーベルG
asさん、夢乃さん、ご指摘ありがとうございます。
匿名
おー、そうか。
クリスマス前後の記憶がない自分は、もしや世界を救っているのかも。
匿名
(1)を読み始めたときには、マリちゃんが背中から触手が生えてる系の女に改変される話かなーと思ったけど、違ったようでよかったよかった^^
noon
タイトルと言い、イノウー告白のセリフと言い「愛おぼ」ですよね?
qph
「忘れてなかった」てことは、忘れるかも知れないって事を覚えてるわけで、そこは辻褄が合わない気がするけど、面白かったです。
匿名
個人的には「唯一覚えていたのがイノウーと ”気持ちを確認しあったこと” を忘れるかも知れない」で、それが何故かは覚えていなくて、その上で「忘れてなかったわ」なのかなぁと。
皆様良いお年を。
育野
あけましておめでとうございます。今年も楽しい作品を期待しています。
「忘れてなかった」の解釈,12/30の匿名さんの読んでなるほどと思いました。
私の最初の解釈は「なぜか記憶操作が効かなかったマリちゃんが『エージェント』側に回って活躍する伏線」
でした。
# ラノベの読み過ぎかも