ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (終) バトン

»

 「なあ、イノウーよ、あいつ何とかならんもんかな」
 そう言ったのは、ぼくの尊敬する先輩、サードアイの東海林さんだ。「あいつ」という代名詞が指しているのは、システム開発室の新入社員、青柳さんのことだ。
 「何とかと言われても......」ぼくは語尾を濁し、生ぬるくなったビールを一口含んだ。
 「話はしたのか」
 「しました」ぼくは答えた。「一度ならず何度も」
 「でも」東海林さんは焼き鳥を口に運びながら断定した。「効果はない」
 「残念ながら」
 青柳さんとの面談は、スキルチェック研修中も、その後も、複数回にわたって実施している。東海林さんの言う通り、いずれも効果は見られなかった。
 斉木室長にも相談してみたが、「イノウーちゃんが実装レベルの話をしてダメなのに、私の言うこと聞くわけないじゃない」と突き返されただけだった。斉木室長としては、プログラミング要員は一人でも多い方にこしたことはなく、細かいことを突くな、と言外に匂わせているようでもある。
 厄介なのは、青柳さんのスキルが低いわけではないことだった。システム開発に携わってきた年数はぼくよりも多いので、標準的なノウハウは持っているし、相応の自信もある。実際、研修では誰よりも早く課題をクリアしたし、他の新人の相談に乗ってさえいた。
 研修の最終日、ぼくは特に注意して青柳さんのコーディングを見ていた。変数名を3 文字にするクセが目に付いたが、スキルとは関係ないのでスルーした。1 行を80 文字以内で改行したり、コメントをほとんど書かなかったり、デバッグ用なのかSystem.out.println() をやたらに入れるのも、後でコーディングルールを指示すれば済むことなので口を出さなかった。ん? と思ったのは、メールアドレスの妥当性チェックのロジックを書いているときだった。
 「青柳さん」ぼくは声をかけた。「それ、メルアドのチェックですよね」
 「え、はあ」答えた青柳さんの声は不機嫌の一歩手前だった。「そうですが」
 「そのバリデーションは青柳さんが書いたんですか?」
 ぼくが指したコードは、メールアドレスとして与えられた文字列を、@ で分割し、それぞれの文字の妥当性をチェックする、というものだった。
 「前の会社で使っていたやり方ですが何か」
 「それだとアルファベットと記号しか有効にならないです。GMail は日本語なんかもlocal-part に使えるようになってるので、エラーになりませんか」
 「日本語って」青柳さんはバカにしたように笑った。「そんなのまだ使ってる人いないんじゃないですか」
 「普及してるかどうかは問題じゃないので」ぼくは冷静に答えた。「commons-validator のEmailValidator 使ったらどうですか」
 「んー、私の経験から言うとですね、そういうわけわからないライブラリより、自分で作った方が信頼できるんですわ。前の会社で何年も使ってて実績ありますから」
 「いや、でもですね......」
 「やだなあ、そんなにこだわるところですか、これ」ぼくに、というより、他の新人に聞かせるように、青柳さんは声を高くした。「要はどっちを信じるかってレベルの話でしょう。今回はこれでいいじゃないですか」
 「そういう話じゃないんですよ」張り合ったつもりはなかったが、気付くとぼくも声のボリュームを上げていた。「ぼくがcommons-validator 使ってくれって言ってるんです。それに従えないんですか」
 言ってから、しまった、と思ったものの、もう遅かった。青柳さんは周囲を見回し、仕方ねえな、とでも言いたげに笑うと、肩をすくめた。
 「わかりましたよ。そこまで言うなら、それ使いますよ。ええと、何でしたっけ?」
 呼吸を整えて、ぼくはスペルを教えた。周囲の新人たちが意味ありげな視線を交わし合っている。彼らの目にどう映っているかはだいたい想像がつく。経験の浅いぼくが、経験豊富な青柳さんに対して、立場を利用した難癖をつけている、といったところだ。青柳さんは年長者の余裕を見せて、大人の態度で妥協してみせたことになる。
 研修が終わってから、ぼくは青柳さんを引き留めた。
 「いろいろなやり方はあるのは当然ですが」ぼくは慎重に言葉を選んだ。「ぼくや笠掛さんがスタックしてきた、うちの会社での実績もあるんですよ。前職の経験を尊重しないわけではないんですが、まずはうちの方針に沿って開発してもらえないでしょうか」
 青柳さんは殊勝に頷いたが、後から思えば、早く解放されたいための見せかけだったのかもしれない。他の新人は会議室から出ているので、自分の優位さをアピールする必要もない。
 この人をこのままインストルメンタリティに出していいものか、と悩んだが、斉木室長はとにかく頭数を揃えるのに必死だったし、新しくシステム開発室の管理者になった茅森課長は、技術的な問題には首を突っ込もうとしなかったので解決の役には立たなかった。とにかく、スキルは水準をクリアしていたし、「何となく気に入らない」という理由で採用した戦力を遊ばせておくわけにはいかない。ぼくは4 月になるのを待って、他の新人と一緒に青柳さんをインストルメンタリティに送り出した。
 東海林さんから電話がかかってきたのは、その日の午後だった。
 『イノウー!』東海林さんは珍しく感情を露わにしていた。『なんであいつがここに来てるんだよ』
 「あいつって?」
 『青柳だよ、青柳』
 「えーと」ぼくは受話器を握り直した。「青柳さんなら、新規採用した一人ですが何かありました?」
 初日は顔合わせと現況説明だけで、実際にコーディングを開始するのは来週のはずだ。今日一日ぐらいは何も起こらない、と考えていたのだが。
 『......そうか』東海林さんが舌打ちする音が聞こえてきた。『イノウーはFCC のことを知らなかったんだったか』
 「FCC って青柳さんの前の会社ですよね。それがどうかしたんですか?」
 『いや、業務上の秘密ってやつだから、ちょっと言えないんだがな。その......』東海林さんは言い淀んだ。『あいつだけ返品するわけにはいかないかな。一緒に仕事をしたくない......いや、できるとは思えない』
 「お知り合いだったんですか?」
 『前に、あるプロジェクトで一緒だったってだけだ。詳しくは言えない』
 「スキルチェックはしたんですが......」
 『そういう問題じゃないんだがなあ』東海林さんは唸った。『ああ、いや、すまん。人が足らないのは確かだからな。くそ、打ち合わせの時間だ。邪魔してすまなかった』
 東海林さんは慌ただしく電話を切った。ぼくは何も起こりませんように、と祈りながら受話器を置いたが、神様が他の重大事で多忙らしく願いはかなわなかった。新人が実装に参加しはじめた翌週から、斉木室長経由でトラブル報告が届き出したのだ。その全てに青柳さんがからんでいる。
 インストルメンタリティでの受託開発は、斉木室長がジェネラルマネージャという立場で総指揮を執るが、実装面では参加ベンダーの中から選ばれた東海林さん他数名が方針を決めていくことになっている。新会社設立と同時に受注したプロジェクトの要件定義は、すでに東海林さんたちの手で進められていたが、斉木室長はマーズ・エージェンシーからのプログラマも、その意志決定に参加させるべきだと考えていた。成果物のクオリティは重視すべきだが、コスト度外視で時間外労働ばかりが膨れあがるような開発を進められても困るからだ。斉木室長が要件定義チームに入れたのは、当然のごとく一番経験が豊富な青柳さんだった。
 斉木室長にしてみれば、マーズ・エージェンシーの社員を要件定義チームに入れたのは、ベンダーのプログラマたちに対する一種のブレーキング以上の意味はなかったはずだ。その意図を伝え忘れたのか、青柳さんが拡大解釈したのか、とにかく青柳さんは要件定義チームに過剰な干渉を行ったらしい。
 「何というか」斉木室長は渋面で言った。「別に害になるとかではないんだけど、打ち合わせ中なんかに内容の意味を、いちいち確認するらしいんだよ。販管費って言ったら、普通は販売費および一般管理費のことだよね。そりゃあ、世界のどこかには販管費というのは、別の意味で使ってる業界があるかもしれないけどさ。営業管理ツール構築の打ち合わせをしてるときに販管費って単語が出てきたら、100 人が100 人、販売費および一般管理費だって理解するものだよ。それなのに青柳さんは、誰かが販管費と口にするたびに、それは何の略ですか、とか訊くらしくて。全員が苛立ってるんだ」
 見かねた東海林さんが穏やかに注意したところ、青柳さんは、自分はマーズ・エージェンシーの社員だから、あなたたちの何倍も重い責任がある、という意味の言葉を返したそうだ。
 一度、話をしてくれないか、との言葉に、それは斉木室長の役割ではないか、とも思ったが、プログラマとして採用している以上、ぼくにも責任の一端がないとは言えない。ぼくは渋々了承したが、その機会を見つけられずにいる間に、またもや青柳さんはトラブルを起こした。今度は実装レベルの話で、疑いの余地なくぼくの守備範囲だ。
 準備期間の間に、東海林さんをはじめとするベンダーのプログラマ数人によって、Java とPython、JavaScript の共通モジュールが用意されていた。たとえば、金額や件数などの数値項目のバリデータや、小数点付数値の四捨五入/切り捨て/切り上げ、カンマ編集といったよく使うツール、SQLAlchemy のコネクション初期化クラス、日本語の半角・全角変換ユーティリティなど、どんな開発現場にでも存在するものばかりだ。検討にはぼくやマリも一部、手を貸しているが、さすがに業界のベテランが揃っているだけあって、洗練されたコードばかりで大いに勉強になっている。
 青柳さんがケチをつけたのは、その共通モジュール群だった。オープンソースのライブラリは信頼できない、ラムダ式は読めない人がいる、リスト内包表記は間違いやすい、などと論評した挙げ句、自分が前職で使っていた関数を使おう、と言い出したのだ。
 東海林さんたちは一蹴してしまうようなことをせず、公平な目で青柳さん提供の関数群を確認した。その結果、動作はするものの、例外に対するトラップが甘いケースがあるなど、あえて置き換えるほどのクオリティではない、との結論に達し、その旨を青柳さんに伝えた。
 ここで青柳さんが怒り出したり、マーズ・エージェンシー社員であることを理由に採用を強行したなら、話はもっと単純だっただろう。だが、青柳さんは、不服そうな顔をしたものの、東海林さんたちの結論を受け入れ引き下がった。東海林さんが、ぼくを居酒屋に誘ったのはその直後のことだ。
 「それで余計なことを言わなくなってくれればよかったんだがなあ」東海林さんは手を挙げて、ビールのお替わりをオーダーした。「何日か経って、今度はテーブル設計に口を出してきたんだ」
 「テーブルですか」ぼくは枝豆を口に放り込んだ。「どんなことですか」
 「テーブルの主キーは、設計基本方針で決めた一つだ。お前も知ってるよな」
 「ああ、はい。テーブルの主キーは一つのサロゲートキーだけにする、ってやつですね」
 「あいつは、そんなのはムダだから、ナチュラルキーにすべきだ、と主張しやがった。複合主キーもありってことだ」
 システム開発室では、そこまでこだわらず、複合主キーもたまに使っているが、それは単に手を抜いているだけの話だ。仮に「テーブル設計基準書」のようなドキュメントがあり、「主キーはサロゲートキーのみとする」とでも書いてあれば素直に従っただろう。
 東海林さんにしても、サロゲートキーに執着しているわけではない。ぼくがサードアイに在籍していた頃は、東海林さんが複合主キーを定義しているのを見たこともある。文化も実績も違う複数ベンダーが集まってシステム開発を行う以上、それぞれのやり方で設計やコーディングをしていては齟齬が生じる可能性があるので、最低限の統一ルールは必要だ。短くない時間を費やして決めたルールに、後から入ってきた青柳さんが口を出すのはおかしい、と言いたいのだ。誰もが認めるほど卓越したスキルを有しているわけでもないのに。
 「もちろん俺たちはあいつに説明したさ」東海林さんはうっかり嫌いなピーマンの丸焼きでもかじったような顔で言った。「サロゲートキーに決めた理由をな。あいつがテーブルの主キーについて一家言持っているなら、それはそれで刺激的な議論になったかもしれんが、あいつときたら、あ、そうですか、であっさり引き下がるんだからな。要は自分の存在をアピールすること自体が目的で、共通モジュールだの主キーだのは、どうでもいいんだよ」
 似たようなことが何度か続き、東海林さんの苛立ちは急速に蓄積していた。だが、実害が生じたわけではないので、ジェネラルマネージャ、つまり斉木室長に抗議することもできず、代わりにぼくが鬱憤をぶつけられる羽目になっているのだ。
 「前にも訊いたんですが」メニューから揚げ物を選びながら、ぼくは首を傾げた。「青柳さんとは、何があったんですか」
 「前にも言ったが、業務上の秘密があって、詳しいことは言えないんだ。ある種の裏切り行為があった、とだけ言っておくかな」
 「裏切りですか......」ぼくはプログラマができる裏切り行為って、どんなことだろう、と考えた。「納期を守らなかったとか、そんなレベルじゃなさそうですね」
 「そんなことじゃない」
 それ以上の詳しい事情は聞けない、と思わせる口調だった。ぼくが頷くと、東海林さんは焼き鳥の竹串を揚げ出し豆腐に突き刺した。
 「イノウーに愚痴っても、状況が一気に変わるわけじゃないことぐらいはわかってるんだがなあ」
 ぼくはマーズ・エージェンシーから、インストルメンタリティにプログラマを派遣する責任者という立場なので、青柳さんに話をすることは可能だ。だが、話をしても効果がないだろう、と諦めかけるぐらいには、青柳さんというプログラマのことがわかってきている。仮に「主キーにはサロゲートキーを使ってください」と命令したところで、青柳さんは「はい、わかりました」と答え、次の日には別の自己アピールの項目を見つけるだけのことだ。
 「まあ、とにかく」東海林さんは気を取り直したように笑った。「何とか受け流しながらやっていくしかないか。タスクをアサインしないわけにもいかんし、人手は足りないからな」
 「すいません」
 「お前が謝ることじゃない。こっちこそ、すまなかった。よし、この話は終わりにして、もっと面白い話をしよう。イノウー、お前、彼女ができたんだってな。てっきり暗い本に出てくる、背中から触手が生えてる系の女にしか興味がないのかと思ってたから、実にめでたい話だ。詳しく聞かせてもらおうか。俺からサードアイのみんなに報告しておくから、正確に話すんだぞ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 JINKYU のリニューアルは当初の予定より遅れ、6 月になってようやく経営管理部による受入テストフェーズを迎えた。インストルメンタリティ関係の業務でぼくやマリの時間が削られたこともあるが、何度かのテストサイクルのたびに、人事課や財務課から、あれこれ追加要望が出たためでもある。
 インストルメンタリティの受託開発は、設立時に受注したプロジェクトがほぼ片付け、休む間もなく、次の案件が入ってきていた。いずれもK自動車関連企業がエンドユーザだ。斉木室長と営業が奮闘した結果だが、中にはインストルメンタリティにサードアイの東海林さんが参加している、ということで、わざわざ依頼してきた企業もあった。
 規模が大きな案件もいくつかあり、インストルメンタリティとしては、早くもプログラマの増員が必要になっていた。各ベンダーはすでにギリギリの人数を送り込んでいるため、その手配はマーズ・エージェンシーに委ねられることになった。つまり、システム開発室に、ということだ。
 茅森課長と斉木室長、それに伊牟田さんが、心当たりのエンジニア系の転職サービスや、人材派遣会社に声をかけてくれた。伊牟田さんは、正式な所属はいまだに人事課付のままだが、株式会社インストルメンタリティが設立され、JV 準備室が解散しても、何となく斉木室長の補助者のような立場を続けている。
 数日おきにプログラマの履歴書や職務経歴書がぼくとマリの元に届き、ぼくたちは精査に追われた。職務経歴書の記述は華々しいが、いざ面接してみると大規模プロジェクトに参加したといっても仕様書の作成ばかりでコードを一行も書いたことがない人とか、Java の経験者といってもAWT やSwing などのGUI ばかりやってきた人など、お祈りメールを送信しなければならない場合もあった。タプルとリストの区別がついていないような、単純にスキルが足りないプログラマもいる。将来的には、インストルメンタリティ側でトレーニングを行うことも構想としてはあったが、現時点では余裕がないため、即戦力となる人材を選定せざるを得ない。インストルメンタリティは、高品質なシステム開発を看板の一つに掲げているので、その点で妥協ができないのだ。
 大手の人材供給サービスを当たり尽くした茅森課長たちは、中小のサービスにも声をかけ始めた。それらの会社の担当者と顔を合わせて詳細を聞き取る、という作業も、システム開発室に回ってきた。どんな人材を抱え込んでいるのかは、ホームページの記述やメールだけでははっきりしないことが多いからだ。ぼくは一次ヒアリングをマリに任せ、マリが見込みあり、と判断したサービス会社とだけ会うようにせざるを得なかった。
 6 月のある日、いつものように新規の人材派遣会社との初顔合わせに出たマリが、かなり短い時間で戻ってくるなり「イノウーさん、お願いします」と言ってきたので、ぼくは少し驚いた。
 「早いな」ぼくは書きかけのソースを保存しながら訊いた。「よさげな会社?」
 マリは頷くと、既定の取引先会社シートを渡してきた。会社名と訪問者の名字が記載されている。
 「B・オーシャン・エクスプローラーズ株式会社」ぼくは社名を読んだ。「B はブルーのことかな。次回のヒアリングの日程はいつ?」
 「いえ」マリはかぶりを振った。「まだお待ちなんです」
 「え、まだ会議室にいるの?」ぼくは急いで立ち上がると、マスクと名刺入れを掴んだ。「じゃ、ちょっと行ってくるか」
 システム開発室を出ようとするぼくの肘を、マリが掴んで囁いた。
 「ちゃんと戻ってきてくださいね」
 問い返す前にマリは自席に戻っていったので、ぼくは小首を傾げながら会議室に急いだ。
 会議室のドアを開けると、先方の担当者が立ち上がった。その顔を見たぼくは、呼吸と鼓動を停止させた。
 「木名瀬さん?」
 スーツ姿で立っているのは、まぎれもなく木名瀬さんだ。大島、という担当者名が木名瀬さんの本名であることに、ぼくは今さらながら思い至った。
 「井上さんですね」木名瀬さんは真面目くさった顔で近付いてくると、名刺を差し出した。「B・オーシャン・エクスプローラーズの大島と申します」
 ぼくは機械的に名刺を受け取ったが、茫然となったまま、木名瀬さんの顔を見つめたままだった。
 「あの」数秒後、木名瀬さんが微笑みながら言った。「座ってもよろしいですか? よろしいですね」
 木名瀬さんはアクリル板で仕切られたテーブルの反対側に戻り、目顔でぼくにも同じ行動を取るように促した。ようやく我に返ったぼくは、向かい合う椅子に腰を下ろした。落とした、という方が正確だったかもしれない。テーブルの上には、マリが出しておいてくれたらしいペットボトルのお茶が置かれていた。ぼくはキャップを引きちぎるように取ると、中身を喉に流し込んだ。
 「え、木名瀬さん、どうして?」
 「そんなに驚くことですか?」悪戯っぽく笑うと、木名瀬さんはマスクを外してぼくの顔を見つめた。「私は人材派遣会社に再就職する、と言ったと思いますけどね。そこの営業担当として、今日、マーズ・エージェンシーさまを訪問しているんですよ」
 「なるほど」ぼくはもう一口、お茶を飲んだ。「なるほど」
 マリも言っておいてくれればいいのに。そう考えた途端、木名瀬さんは、ぼくの心の内を読み取った。
 「マリちゃんには口止めさせてもらいました。サプライズの誘惑に勝てなくて。驚かせてごめんなさい」
 「確かに驚きました。危うく生ける屍と化すところでした」
 「それはこちらも同じです」木名瀬さんは短く笑った。「まさかシステム開発室がまだ残っているとは。てっきりイノウーくんも、マリちゃんもジョイントベンチャーの方に出向しているものだとばかり思っていましたから」
 「まあ、いろいろあったんです」
 「そのようですね。ところで」木名瀬さんは拗ねたような声で言った。「私は、また会えて嬉しい、みたいな言葉を期待していたんですが、まだ聞いていませんよ」
 「起きろ、トゥックの阿呆息子が、とでも言えばよかったですね」ようやく頭の暖気が終わったぼくは、言い返した。「もちろん会えて嬉しいですよ。当たり前じゃないですか。お元気でしたか?」
 ぼくたちはしばらくの間、本来の目的を放り出して、近況報告をしあった。木名瀬さんはマーズ・エージェンシーを退職して、すぐに現在の会社の立ち上げに関わり、現在は営業部門の一人として忙しい日々を送っているという。エミリちゃんも新しい保育園でたくさん友だちができ、ぼくのことなど口にするどころか、思い出しさえしなくなったようだ。
 「インストルメンタリティの話は、私の耳にも入ってきています」木名瀬さんは嬉しそうに言った。「まずは上々のスタートを切れたようで、多少なりとも携わった人間としてはホッとしたところです。それでプログラマが足りなくなったんですね?」
 ぼくが頷くと、木名瀬さんはタブレットを取り出して、すぐに紹介できる人材数名のプロフィールを説明し始めた。首都圏のベンダーでプログラマとして経験を積んできた人ばかりで、コロナ禍でリストラされそうになっているか、給与が大きく下がったため、転職を希望している、ということだ。
 「転職のマッチングもやってるんですね」
 「IT エンジニアに特化していますけどね。営業部の部長が昔、IT 業界にいたそうで、そっち方面にいろいろ人脈があるんです。おかげで転職サイトに登録されていないような、優秀なエンジニアの情報が入ってきます」
 「へえ。それは貴重な方ですね」
 「インストルメンタリティの件にも興味があるようで、一度、ご挨拶に行きたいと言っていました。マリちゃんに聞いたところ、マーズからのプログラマ派遣はイノウーくんが責任者だそうですね。連絡するように言っても構いませんか?」
 「もちろんです」
 「では連絡させます。棚橋という名です」
 棚橋? どこかで聞き覚えのある名字だ、記憶を辿ったぼくは、大竹社長から聞いた過去の話を思い出した。同一人物だろうか。連絡があり、フルネームが判明したら、大竹社長に話をしてみよう。
 「当面は私がインストルメンタリティさまの担当、ということになります」木名瀬さんはタブレットを閉じた。「うちの会社の名誉にかけても、紹介するプログラマは一流どころを揃えるつもりです。紹介して終わりではなく、アフターケアにも対応させてもらいます」
 ぼくは心から感謝した。また木名瀬さんと仕事ができることも嬉しい限りだ。
 「もっと早く来てくれれば」ぼくは言った。「最初からトップガンを用意できたのに、と思いますよ」
 「しばらくは都内で、社長の義理がある企業の件でかかりきりだったんです。最近になって、やっと他に手を広げる余裕ができてきたところで。どうしました? 採用したプログラマがスキル不足だったりしたんですか」
 「スキル不足、ということではないんですが」
 ぼくは、A さんという呼称で、青柳さんのことを簡単に説明した。開発現場に不要な波を立て続けているのは、ある意味でスキル不足よりも深刻な問題だ。
 「そういう人はいます」1 円の利益にもならないのに、木名瀬さんは真剣に相談に乗ってくれた。「いっちょかみ、と言うんですか、何にでも口を突っ込んでくる人ですね。話を聞く限り、技術的にこだわりがあるというわけではなく、自分の存在自体を主張すること自体が目的なんですね」
 「どう対応したらいいのかわからなくて」ぼくはつい弱音を吐いた。「インストルメンタリティでの様子を聞くと、自分の担当分や、指示されたタスクは、特に問題なく達成しているので、水準以上のスキルはあると思うんですが」
 「伊牟田さんと同じですね」
 「伊牟田さんですか?」木名瀬さんの言葉に、ぼくは思わず訊き返した。「でも伊牟田さんは、その、仕事ができない人ですけど、A さんはそんなことはないんですよ」
 「そうではなく、自分の居場所を確保するのに必死、ということです。A さんが前に勤めていた会社は倒産したそうですね。職を失う、というのは、平時でも相当なストレスとなります。ましてや今は、こんなご時世です。ストレスどころか恐怖です。家族がいれば、生活費や住宅ローン、子供の学費など、生活の質に直結する問題ですから。そんな中、やっと決まった再就職先で、一日でも早く、確固たるポジションを得ようとするのは不自然ではありません。伊牟田さんは、無能なのを自覚していて、おやじギャグに代表されるコミュニケーションスキルによって人脈を築き上げることで、自分の居場所を守ってきました。A さんにとっては、プログラミング技術で人より抜きん出ていることを示すことが、その手段なんでしょう」
 「普通に仕事をしてくれればいいのに」
 「そう納得させるのは、他の誰でもなく、イノウーくんの仕事だと私は思います」木名瀬さんの口調は少し厳しい響きだった。「普通に仕事をしているだけではダメだ、と思わせる何かがあったのではないですか?」
 思い当たる点としては、東海林さんが青柳さんと、過去に接点を持っていたことだ。東海林さんはスキル不足や実装時のミスなどでは滅多に怒りを見せない人だ。その反面、努力を怠っている人や、仕事に対して不誠実な態度で臨んでいる人には、おそろしく冷酷に接する。何があったか知らないが、東海林さんは青柳さんに対して、いまだに負の感情を抱いていて、それを隠そうともしていない。青柳さんが誰の得にもならない自己アピール行動を続けているのは、東海林さんに対する恐怖心からだろうか。
 そう言うと、木名瀬さんは軽やかに笑った。
 「なら簡単な話ですね。イノウーくんが話をすべきは、A さんではなく東海林さんです。A さんに対する態度を改めてくれ、と言うだけで解決かもしれませんよ」
 言うは易し、だ。
 「そんな自信はないんですが......」
 「それはイノウーくんの問題です」木名瀬さんは冷然と断った。「私の出る幕ではありませんよ」
 「たとえばなんですが、木名瀬さんから話してもらう、というわけには......」ぼくは肩を落とした。「いかないですよね、やっぱり」
 「当たり前です。イノウーくん、私はマーズ・エージェンシーでやるべき仕事は全てやりきったと思い、イノウーくんとマリちゃんに後を託して退職したんです。バトンは渡したんですよ。オリンピックでリレーの日本チームは、残念ながらバトンミスで途中棄権となりましたが、イノウーくんとマリちゃんには、しっかり渡っていると信じています。私の最後の思いをムダにしないでもらいたいですね。そんな人を、大事なエミリの結婚相手候補として認めるわけにはいきません」
 その言葉を聞いて、木名瀬さんがマーズ・エージェンシーに戻ってくることは、もうないんだ、と心の底から実感することができた。
 「システム開発室のことはお前さんたちが自分で解決しなければならぬ」木名瀬さんはおどけた口調で、朗読するように言った。「それこそお前さんたちが今まで仕込まれてきたことなんじゃ。お前さんたちにはまだわかっておらんのかな? わしの時は終わったのじゃよ」
 「失言でした」ぼくは頭を下げた。「わかりました。もう一度、東海林さんと話をしてみます。だからエミリちゃんとのことを認めてください」
 ぼくたちは笑った後、仕事の話に戻った。木名瀬さんが提示してくれた候補者の中から、条件に合いそうな数名を相談しながらピックアップした。対象者との面談日程等は、最優先で調整する、と木名瀬さんが確約してくれて、打ち合わせは終わった。
 「そうそう」木名瀬さんは打ち合わせ中、電源を切っていたスマートフォンを取り出した。「今後の連絡用に、LINE を交換しておきましょうか。エミリがいにょうーの顔を見たいと言い出すこともあるかもしれませんし」
 「喜んで」ぼくたちはLINE ID を交換した。「たまにはプライベートな相談にも乗ってください」
 「マリちゃんとのこととかですね。わかっていますとも」木名瀬さんはカバンを掴んで立ち上がった。「別料金で。友だち価格にしておきましょう」
 「また来て下さい。仕事抜きでも。みんな喜びます」
 「機会があれば」木名瀬さんはマスクをかけた。「お前さんたちはだいじょうぶうまくやってのけるじゃろう。ではさらばじゃ。親しい友人たちよ! まだしもこれが最後ではないが、さらばじゃ」 
 笑い声を残し、見送りを断って、木名瀬さんは帰っていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 システム開発室に戻ると、マリが不満そうな顔を向けてきた。
 「ずいぶん遅かったじゃないですか」
 「ごめん。久しぶりに話が弾んで」
 「そうでしょうとも」マリは頬を膨らませたが、すぐに吹き出した。「とにかく、また木名瀬さんと一緒に仕事ができるってことですね」
 「前と全く同じではないけどね」
 木名瀬さんから託されたバトン。それを生かすも殺すも、ぼくたち次第ということだ。責任は重い。
 「ふー、疲れた」大きな声で言いながら、外出していた斉木室長が入ってきた。「おつかれ。あ、そうそう。さっき、そこで木名瀬さんによく似た人を見かけたんだよ。木名瀬さんが持ってたのと、そっくりなバッグを持ってたなあ。世の中には似た人がいるもんだねえ」
 ぼくとマリは顔を見合わせると、揃って笑い声を上げた。

 (了)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 いわゆるコロナ禍が始まって、早くも2 年になろうとしています。中には生活や仕事に大きな変化があった方もいると思います。最近(2021 年11 月下旬)では、感染者数も大幅に減り、小康状態にあるようですが、もはやコロナ禍前の世界には戻らないのかもしれません。一度壊れたハンプティー・ダンプティーはもとのかたちに戻すことはできない、とは、ハインラインの「人形つかい」の言葉ですが、まさにそのとおりです。
 「イノウーの憂鬱」は、当初、10 章ぐらいの予定で、単にコロナ禍で変わってしまったエンジニアの日常を、いくつかのエピソードで描くだけのつもりだったのですが、なぜか1 年以上もだらだらと続けてしまいました。お付き合いいただき、コメントを寄せてくださった方々にお礼を申し上げます。特に大きなテーマを設定したわけでもありませんし、明確なゴールを決めてもいませんでした。強いて言うなら、抗うことができない大きな波に翻弄されたとき、プログラマはプログラマのままでいられるのか、というところでしょうか。
 本文中にイノウーや木名瀬さんが引用する形で、「指輪物語」のセリフ等が出てきます。作者が愛読しているのは旧訳版で、引用も主にそちらからですが、固有名詞などは新訳版のものを使っていたりします。混乱された方がいるかもしれないので、念のため。
 これから冬がやってきます。クリスマスや冬休み、バレンタインデーなど心沸き立つイベントの季節ですが、各種感染症が活発に動き出す時期でもあります。みなさま、どうか、健康に留意してお過ごしください。
 それでは、またいつかお会いしましょう。

Comment(32)

コメント

匿名

棚橋さん!

h1r0

1年間楽しんで読み進めました
ありがとうございました
お疲れ様です

匿名

木名瀬さんの会社を立ち上げた人も、過去の作品に出てきた人なのだろうか。

匿名

木名瀬さんの会社を立ち上げた人も、過去の作品に出てきた人なのだろうか。

サルーン

連載お疲れ様でした。
最終回なのにここから話広げてどうすんだ?と思いましたが、良い着地点でした。
読者も含めて東海林さんを絶対視してたので、第三者からでないと気付き難い視点でした。色々参考になります。

匿名

お疲れ様でした。

次回作をゆっくり待っています。

匿名

お疲れ様でした。
青柳さんの件は蛇足な気がしますが、着地点としては良く楽しめました。
また次の作品を心待ちにしております。

匿名

棚っちのことがずっと気がかりだったので良かった!!

匿名

青柳さんの部分は次へ続くんじゃないの。
少なくともこの後クリスマスには今年も「ある」と期待してる。
お疲れさまでした。

匿名

いにょうー、このロリコンめ!

匿名

「てっきり暗い本に出てくる、背中から触手が生えてる系の女にしか興味がないのかと思ってた」

匿名

更新お疲れ様でした。
ひんぬーマリちゃんがしおらしいのもよきかな。

匿名

青柳さんは心理的安全性が得られていないので虚勢を張って自分の価値アピールをしているということなのね

h1r0

次はイノウーの結婚式でお会いしましょう

匿名

お疲れ様でした!
今回の物語でも、毎週充実した月曜日を送ることができました。

クリスマス、ということはアーカム案件が発生する頃合いですね~

のり&はる

棚橋さんが「営業」というところがね。PGを幸せにしてくれる営業さんなんだろう。きっとそうだよなぁ。

匿名

連載お疲れ様でした!

いやぁ、心沸き立つイベント楽しみだなぁ(棒)

匿名D

お疲れさまでした。


木名瀬さん、さすがの存在感ですねえ。
切り捨てておしまいにしないところなんか。


さて次は、イノウーの胃袋耐久試練エピソードでしょうか。
楽しみにしています。

匿名

おつかれさまでした!
次回作も楽しみにしてます!

ゆう

>そうではなく、自分の居場所を確保するのに必死、ということです。
なるほど、そういう見方があるんですね。
自分も多分東海林さんと同じ態度取るだろうなーと思うので、
目からうろこです。
 
棚橋さんも胸の裡を整理し前に進んでいたようでよかったです。

匿名

おかげでなんかしらんが指輪物語読み始めたわ

粥村住人

お疲れさまでした。
最終章の内容と引用がマッチしていて爽やかな読後感でした。
まさに木名瀬産はガンダルフの役回りでしたね!

個人的にもピピンとガンダルフの再会のシーンは大好きなのでほのぼのしました。

匿名

お疲れ様でした!今回も楽しく読ませてもらいました。次作をお待ちしています。

匿名

青柳さんの件も、それなりに合理的な線で収束しそうでよかった

匿名

伊牟田さんの扱いとか、作者さんのやさしさを感じて、すごく好きです。敵役が破滅して終わる物語ばかりじゃ嫌になりますから。この後青柳さんにも救いがあるんだろうか

匿名

棚橋さん、エンジニアには戻ってなかったのか。

かず

執筆お疲れさまでした。
月曜日の楽しみがなくなるのが残念です。

次回作も楽しみに待っています。

にんにん

完走おめでとうございます。執筆お疲れ様でした。
気が早い話ではありますが次回作を楽しみにお待ちしております。


今回はマリちゃんのいじらしさにグッときました。
気づけばリーベルGさん作品からたくさんの行方が気になるカップルが生まれてますね。

マサル・クミ(『罪と罰』)
ナルミン・ブラウンアイズ(『ハローサマー、グッドバイ』)
川嶋さん・草場さん(『魔女の刻』)
そしてイノウー・マリ(+ 木名瀬さん?)


今年のクリスマスプレゼントはいかに?

匿名

アーカムシリーズの続きが読みたいです

じぇいく

ニューノーマル?のエンジニアのリアルな日常、楽しく読ませていただきました。
いわゆる大手ベンダーサイドのお話は初めてですね。
組織の中で重きを為すにつれて纏わりつくマネジメント業務の魔の手にイノウーの絡め取られつつありますね。
それが周囲からのポジティブな評価の結果であるところが、このジレンマの難しいところです。
短編と次回作、将来課長や部長になったイノウーの物語も期待しております。

じぇいく

ニューノーマル?のエンジニアのリアルな日常、楽しく読ませていただきました。
いわゆる大手ベンダーサイドのお話は初めてですね。
組織の中で重きを為すにつれて纏わりつくマネジメント業務の魔の手にイノウーの絡め取られつつありますね。
それが周囲からのポジティブな評価の結果であるところが、このジレンマの難しいところです。
短編と次回作、将来課長や部長になったイノウーの物語も期待しております。

匿名

更新がないと寂しいね

クリスマス、年末年始ネタはあるかなあ

コメントを投稿する