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イノウーの憂鬱 (51) 学習プラン

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 JV 準備室が設立されたのは4 月1 日だが、当初、その活動実態が社内に共有されることはほとんどなかった。活動といっても、当初は参加ベンダーの選定や条件などの事務作業ばかりで、共有すべき事項が少ないためだろう、と思っていたが、後日、斉木室長から明かされたのは、社内の抵抗勢力を刺激しないため、意図的に露出を控えていたという理由だった。実装を専門に行う別会社を、マーズ・エージェンシーが音頭を取って設立するというコンセプトそのものに対する拒否反応は、いまだに根強いものがあったからだ。JV 準備室に配属となった社員も、その空気に同調するように積極的に発言しようとしなかった。
 その方針が変わったのは、5 月にはいってからだ。社長の辞任をできるだけ秘密にするという事情のため、大竹専務の指示によって、週に一度の活動内容報告が全社に通知されることになった。グループウェアにアップされる1 ページのPDF ファイルだけ、という簡素なものだったが、アクセス数はかなりの数に上ったようだ。その多くは否定的な視線だったのかもしれないが、ジョイントベンチャー構想が、マーズ・エージェンシー社内に一陣の風を巻き起こしていることは確かだった。
 JV 準備室は週に一度、定例のミーティングを行っていたが、これまでシステム開発室から参加していたのは、斉木室長以外では、ジョイントベンチャー構想の提唱者である木名瀬さんだけだった。だから、ぼくがJV 準備室のメンバーが揃っているのを見たのは、7 月1 日が初めてだった。

 システム開発室 斉木室長
 総務課 篠崎
 IT システム管理課 湊
 営業四課 多賀谷
 広報課 友成
 マネジメント二課 下園係長

 メンバーは、各部門から広く、ということで、大竹専務や斉木室長が指名したのではなく、各部門長に一任されたようだ。結果として若手社員が多くなった。おそらく誰も立候補しなかったので、部門長が文句を言いづらい若手社員に押しつけた、というところだろう。仕事で関わったことがないのは、営業四課の多賀谷さんぐらいだが、彼にしてもぼくと同年代だ。
 この日は、JV 準備室に新しいメンバーが追加投入されたことで、改めて今後の方針についての打ち合わせが行われるため、開発部門であるシステム開発室は全員が参加を求められていた。木名瀬さんはリモート参加だが、ぼくとマリは久しぶりに出社している。
 10 時5 分前、ぼくが会議室に入ると、シノッチや湊くんが手を挙げて挨拶してきた。多賀谷さんは目礼してきたが、下園係長と友成さんは顔を上げたものの、すぐに視線を逸らしてしまった。
 下園係長は、以前、コードレビューを行ったときの評価者の一人だった人だ。コードレビューでは一言も発言しなかったので、どんな人なのかはわからない。友成さんは、夏目課長がシステム開発室の管理者だったときに、広報課との親睦会で顔を合わせている。木名瀬さんとぼくに関する根拠のない噂について、好奇心いっぱいで質問してきたことだけで記憶に残っている。そのときの印象は良いものではない。友成さんがどこか決まり悪そうなのは、それを自覚しているからだろうか。
 新メンバーの一人、夏目課長が急ぎ足で入ってくると、友成さんは嬉しそうに立ち上がって寄っていき、しきりに何か話しかけ始めた。話が合う相手がやっと現れてくれた、と言わんばかりだ。そういえば会議室に入ったとき、シノッチと湊くんは斉木室長と小声で話していて、下園さんと多賀谷さんも近くで聞いていたが、友成さんだけは座ったままスマートフォンをいじっていた。溶け込んでいなかったのかもしれない。
 夏目課長と友成さんが話を続けながら座ったとき、最後の一人が悠々と現れた。伊牟田課長補佐だ。室内の会話が一斉に停止する。非友好的な空気が醸し出されたな、と思ったとき、下園さんが立ち上がると、伊牟田さんに近付いて親しげに話しかけた。伊牟田さんも大げさに歓迎する素振りで答えている。社内に伊牟田さんの「人脈」が一定数存在しているのは知っていたが、どうやらマネジメント三課に限ったものではないらしい。もしかするとコードレビューで下園係長が発言しなかったのは、伊牟田さんに忖度した結果だったのかもしれない。
 「揃ったようですね」斉木室長が言った。「それでは始めましょう。まず、知っての通り、本日付で新しいメンバーが増えています。自己紹介を、と言いたいところですが、まあ、知らない人はいないと思うので省略しますか。では、本日の議題ですが......」
 「ひとつ、よろしいかしら」
 遮ったのは夏目課長だった。斉木室長は小さく頷いた。
 「ジョイントベンチャーのコンセプトは」夏目課長は立ち上がると話し始めた。「開発を専門に行う組織、ということですね」
 今さら何を、と言わんばかりに、斉木室長はまた頷いた。
 「集客プランは何か決まってるの?」
 「顧客のですか? まずはうちの会社が受注した案件を下請けするところから始めるのが妥当ではないかと考えていますが」
 「マージンを取られるわけでしょう」
 「事実上、子会社のようなものですから、優遇してもらえるよう交渉はできます」
 「それでも軌道に乗るまでは、利益率が低くなるのよね」
 「あの」シノッチがおずおずと手を挙げた。「何を仰りたいんでしょうか?」
 「篠崎くん」夏目課長は眉を吊り上げた。「今は君が発言する番じゃないでしょう。口を挟まないでもらえるかな」
 シノッチは何か言おうとしたが、その前に斉木室長がのんびりと、しかしやや強い口調で答えた。
 「お言葉ですが、ここでは役職や年次による上下関係には関係なく、平等な立場で発言できるルールになっているんです」
 「はあ?」夏目課長は侮辱的な暴言でも聞いたように身体をのけぞらせた。「そんないい加減なことが許されるとでも......」
 「これは」今度は斉木室長が遮った。「大竹専務......失礼、大竹社長が決めた方針です」
 夏目課長は驚いた表情を浮かべ、それから慎重な声で訊いた。
 「社長が? それ、本当?」
 最後の疑問符が向けられたのは、友成さんだった。同じ課の部下なら望む答えを返してくれる、と考えたのかもしれないが、友成さんは頷いた。
 「あの、本当です。最初にそう決められました」
 夏目課長はしばらく友成さんを見つめていたが、やがて仕方がない、というように肩をすくめた。
 「わかりました。つまり私が言いたいのは、集客のために広報課が役に立てるかもしれない、ということです。知っての通り、広報課には、集客のためのノウハウが多く蓄積されているの。まずサイトに広告を出して、何人かのIT ジャーナリストに声をかけて......」
 「ありがたいですが遠慮しておきます」
 今度こそ、夏目課長は絶句した。
 「ちょっと斉木くん」夏目課長は怒りの混じった声を斉木室長に向けた。「上司の話は最後まで聞くのがマナーではないかしら」
 斉木室長は一瞬、天井を仰ぎ見てから視線を戻すと、静かに言った。
 「先に説明をしておくべきでした。元所属の職位は、JV 準備室では適用されません。ここの責任者は私なんですよ。不本意かもしれませんが、JV 準備室に限っては、夏目さんの上司は私、ということになります」
 「それは今まで、課長職の人間がいなかったからでしょう。私が来たからには私が......」
 「組織の体制に疑問があれば社長にどうぞ」面倒になってきたのか、斉木室長は投げやりに答えた。「とにかく従来型の集客方法を採用するつもりはないので。今後、その話は持ち出さないでいただけると助かります」
 夏目課長はマスクの奥で罵声か何かを呟いたようだが、認識できる音声としては、「わかりました」と言っただけだった。斉木室長は頷いて続けた。
 「本日の議題ですが、納品物のチェックについてです。湊くん、新しく参加したメンバーと、システム開発室の二人のために、先週までに決まった体制について簡単に説明してもらえるかな」
 指名された湊くんは頷いてタブレットを操作しながら説明を始めた。ジョイントベンチャーではプログラマ、テスターという職種を区別しない。全員がプログラマでありテスターで、繁忙の度合いによってどちらの作業も行うことになる。
 「......そのため、全員が両方の作業に習熟する必要があります。その体制でうまく回るかどうかを確認する方法が、本日の議題になっていました」
 「湊くんはどう思う?」
 「先週も提案が出ましたが、シミュレーションをやってみるのが一番だと思います」
 参加者の何人かが頷いた。
 「本日、システム開発室の二人に来てもらったのは、そのためです」斉木室長がぼくとマリを見た。「もし、ここのメンバー全員がプログラミング言語を何か勉強するとしたら、何がいいかな」
 ぼくが答える前に、夏目課長が必要以上に大きな声で割り込んだ。
 「ちょっと待ってよ」夏目課長の声は震えていた。「全員って言った? 全員って、私も入ってるの?」
 「例外はありません」斉木室長は素っ気なく答えた。
 「私にプログラミングなんかをやれって言うわけ?」
 「プログラミング"なんか"? 今、私たちが相談しているのは、プログラミングを専業とする会社を設立する話ですよ。それに、うちにはプログラミングを専門に行う部門があり、今、この席にも参加してもらっているんですがね」
 「あ、いえ」夏目課長はぼくを見て、慌てたように首を振った。「失礼。でも、私にプログラミングなんて無理よ」
 「やってみなければわかりません」
 「文系だし」
 「ぼくだって文系です」ぼくは苦笑しながら言った。「IT 業界には文系のプログラマなんて、掃いて捨てるほどいますよ。それはともかく、初心者ならPython より型宣言が明確な言語の方がいいかもしれないです」
 「Java ?」斉木室長が訊いた。
 「そうですね。もしくは......」ぼくは考えた。「いっそVBA とか」
 「なるほど。じゃあ、初心者向けに基礎が学べる教材を探すか、作るかしてもらえるかな」
 「ゴールはどのあたりに設定すればいいんですか」
 「イノウーくんレベルに、とは言わないよ。まあ、期間は一週間の勉強で、自力でWeb アプリケーションのマスタメンテ系画面が作れるぐらい」
 「DB からむと少し範囲が広くなるので、なしってことでいいですか」
 「任せるよ。それから笠掛さん」
 「え、はい?」急に指名されたマリは驚いたように顔を上げた。「なんですか」
 「HTML の方も必要なので、そっちは笠掛さんにお願いしてもいいかな。そっちも一週間ぐらいで」
 「ああ、はい、わかりました。webpack とかは使わない方向でいいですよね」
 「任せるよ。さて、それができ次第......」
 「あのさあ」それまで黙っていた伊牟田さんが、いきなり口を開いた。「俺はそれ免除してもらえるかなあ」
 斉木室長は呆れたように、元上長の顔を見た。
 「例外はない、とさっき言ったはずですが」
 「んー、でもさあ」伊牟田さんは他人事のようにのんびりと答えた。「俺、そういうの苦手だからさ」
 「ちょっと伊牟田さん」夏目課長が鋭い声で言った。「苦手で免除なんかできるわけないでしょう。私だって苦手だけどやらされるんですよ」
 「そりゃあ、夏目さんは頭いいから」伊牟田さんの言葉には自己憐憫が溢れんばかりに盛り込まれていた。「そんなのチョチョイのチョイでこなすんでしょ、どうせ。でも俺はみんな知っての通り、仕事できないおじさんだからさ。そういうのは他の人に任せるよ。そういうことでヨロシク」
 全員が呆気にとられて見つめる中、伊牟田さんは頭の後ろで手を組んだ。
 「あーあ、なんか、こんなところに流されちまってさ。もう、なんかやる気ないんだよね、俺。俺は人との交渉とか、接待とか、そういうのが好きなんだけどなあ。そういう方面で力を発揮した方がいいと思うんだよね。シモちゃんもそう思うよねえ」
 シモちゃん、と呼ばれた下園係長は、斉木室長と夏目課長を交互に見た後、仕方なさそうに頷いた。
 「伊牟田さん」湊くんが軽蔑を隠そうともせず言った。「あなた、ここに何しに来たんですか。交渉とか接待って、誰と話をするつもりなんですか」
 「さあね」伊牟田さんは曖昧に笑った。「誰かいるでしょ。クライアントでもベンダーでも」
 人事課付だった3 ヵ月間も、この人を変えることはできなかったらしい。ぼくは哀れみと怒りを等分に感じた。人に得手不得手があるのは確かだから、事実かどうかはともかく、伊牟田さんがプログラミングが苦手だと思うことを責めるつもりはない。腹立たしいのは、この人がそれを克服するために何の努力もしていないことだ。努力をしてみようとする素振りさえ見せようとしないことだった。プログラミングに限った話ではない。パートナーマネジメント業務についてもそうだ。課長職にあったにも関わらず、その仕事は質が低く、改善する努力が皆無だ。それでいて、自分の弁舌には自信があるらしく、いざとなれば舌先三寸で相手を丸め込めると思い込んでいる。
 「クライアントやベンダーとの交渉なんて、まだ先の話です」斉木室長は驚嘆すべき忍耐を見せた。「そのときになれば、そっちの方面で力を発揮してもらうことになるかもしれません。それまではさっきも言った通り......」
 「だからさあ、さっきから言ってんじゃん、そういうのは苦手なんだってばさ」伊牟田さんも譲ろうとしなかった。「勘弁してよ、もう。俺のことは放置しておいてくれればいいからさ。別に誰の迷惑にもならんよねえ」
 可能ならそうしてやりたい、と誰もが思ったことだろう。だが、大竹社長と斉木室長は、牧野前社長の意向を律儀に守るつもりでいるようだ。JV 準備室に席だけ用意して、オヤジギャグ製造機として遇するのは、その意に沿ったとは言えない。
 斉木室長がなおも語を継ごうとしたとき、夏目課長が耐えかねたように手を挙げた。
 「伊牟田さん」夏目課長は怒りのためか、常より早口だった。「そんなに交渉に自信があるなら、私を説得してみてください」
 伊牟田さんは虚を突かれたように夏目課長の顔を見た。
 「はあ? 説得?」
 「そうです。自信あるんですよね。テーマは、そうですね......私はうちの会社に開発部門は不要だと考えています。伊牟田さん、得意の交渉スキルで、社内の開発部門が必要だと考え直すように説得してみてください」
 ぼくとマリは驚いて顔を見合わせた。社内の開発部門とはシステム開発室のことだ。夏目課長がよりによってこの場で持ち出したのは、単にディベートの材料としてなのか、それとも他に意図があるのだろうか。
 「何を言い出すのやら」伊牟田さんは笑った。「そんなの、何言われてもノーって言えばいいんだから、交渉にもならないじゃん」
 夏目課長はニヤリと笑うと、持っていたビジネス手帳から白紙のページを破り取ると、何か書き付けてから、折りたたんだ。
 「私を説得できるポイントを書きました」そう言いながら、紙片を指す。「伊牟田さんが交渉の中で、それを口にしたら交渉成立ってことにします」
 「いやあ、フェアじゃないなあ、それでも」
 「その程度の説得もできないのに」夏目課長はおそらく意図的に嘲笑するように言った。「交渉を専門にやるつもりですか。そういう人を世間一般では給料泥棒と呼ぶのでは?」
 「挑発したってダメだよ」伊牟田さんは、わざわざマスクを外して、舌を出してみせた。「そんなことしたって、俺には何の得もないじゃんか」
 「いや、面白いですね」斉木室長が裁定を下すように言った。「やってみてください。見事、夏目さんを説得できたら、プログラミング学習は、私の権限で免除としましょう」
 「そう言われてもねえ......」
 「それすらやらないなら」斉木室長は伊牟田さんの薄笑いを無視した。「社長に報告して、指示を仰ぐことになりますが。社長はある理由から、伊牟田さんに人事課付から抜け出すチャンスを提供しているんです。報告すれば、それを断念するかもしれません。これから定年退職まで、ずっと人事課付のままでいいなら、それでも構いませんが」
 「なんだよ」伊牟田さんは表情を変え、低い声で虚勢を張った。「俺を脅迫してるのかよ。たかが室長なのに、社長直轄のプロジェクトに抜擢されたぐらいで偉くなったつもりか」
 「つもりではなくて」斉木室長は乾いた声で笑った。「このJV 準備室の中では偉いんです。実際に。さあ、時間がもったいないですよ。どうするんですか?」

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(11)

コメント

匿名

〉木名瀬さんとぼくに関する根拠のない噂について
全く根拠が無いわけではない件

匿名

だんだんイムッチを応援したくなるから不思議

ロコ

斉木室長、飄々としていてスゴイなー
自分なら無理 キレそう

匿名

完全に仕上げのボスラッシュがはじまったな。

z化まぞく

噂自体には根拠ないでしょ
実際は当たらずも遠からず…ってとこだけど

VBAの型宣言はあまり明確じゃない気もするな…w
内部的には明確だけど、意識して宣言してる利用者少なさそう(偏見)

匿名

大竹新社長がJVすっぱりやめないの不思議

匿名

斉木室長、先週までケンガンアシュラの山下のイメージだったのに、突然のリーガルハイの堺雅人になったw

匿名

相変わらず最高に不快な人物で草

ゆんろん

>溶け込んでいなかったのかもしれない。

融和、という漢語が当てはまる状況かと思うので、漢字で書くなら「融け込む」なのかも知れませんね。溶解と融解はどっちも「とける」なのでややこしいですが。

匿名

VBAは確かにプログラミング始めるのであれば、
環境構築が一番簡単だから初心者におすすめだよね。
ただ、型については、明示的にもできるから、Variantを極力使うなって
制約をかければいいんじゃないのかな?

匿名

毎度おなじみの夏目vs伊牟田、今回はどう転ぶか!

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