ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (50) 最後の願い

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 牧野社長が「隠れた名店」と絶賛するだけあって、絶妙なタイミングで出される料理は、どれも絶品だった。ぬる燗で供された一般には流通していないという日本酒も、鼻に抜ける香りがフルーティで舌を優しく愛撫してくれた。「日本酒はちょっと苦手で」と言っていたマリでさえ、気が付くと杯を重ねている。
 鴨と銀杏の串を口に運びながら、牧野社長はマーズネット時代の苦労話を静かに語っている。本人にとっては人生の大半を捧げた会社だ。懐かしくもあり、寂しくもあるのは確かだが、そこを去ることについては全く未練はないようで、ぼくは密かに安堵していた。
 もっとも、ぼくが初めて今回の件を提案したとき、牧野社長の精神は、今のような穏やかな状態とは真逆だった。しばらく絶句した後、眉をひそめてぼくの顔をまじまじと凝視したものだ。こいつはカルシウムかSAN 値が大幅に不足してでもいるのか、それとも、昼間からアルコールを摂取しているのか、と考えていたに違いない。表には出さなかったが、怒りに似た感情もあったのかもしれない。同席していた大竹専務は「お前の発案だからな」とでも言いたげに、黙ってぼくを見ているだけだった。
 「それは冗談か何かでしょうか?」
 「いいえ」胸骨が折れるかと思うぐらい激しい鼓動を感じながら、ぼくは何とか平静な声を出した。「本気です」
 「ちょっと待ってください」牧野社長はマスクをずらしてお茶を一口飲んだ。「確認させてください。まず私が社長を辞任する」
 「はい」
 「会社も辞める」
 「そうです」
 「その上で、ノヴァ・エンターテインメントに転職する」
 「そのとおりです」
 「イノウーくん」牧野社長は呆れたように腕を組んだ。「私は君に、ジョイントベンチャーでゲーム開発を行う方針について、検討してくれとお願いしたはずですね。私の進退ではなく」
 「新しい会社でゲーム開発はできません」ぼくは断言した。「ビジネスアプリケーション開発とでは、必要とされるスキルが完全に違いますから。JV 準備室は企業システムの開発を前提にして進められています」
 ジョイントベンチャー構想は、大竹専務の指揮のもと急ピッチで進んでいる。すでに内々ではあるが、周辺のめぼしいベンダーに声をかけていて、何社かからは、前向きな返事をいただいてもいた。ゲーム開発を行うなどと発表したら、せっかく手を挙げてくれたプログラマたちは、そのほとんどが背を向けてしまうだろう。
 「ランニングコストの問題もあります。社長が想定されているような大規模な有料オンラインゲームの開発には、長い期間がかかるそうです」
 これは古里氏にも確認したことだ。最低でも1 年。ゲームによっては2、3 年かかることも普通にある。リリースまでの間、多くの開発要員の人件費は、一方的な持ち出しとならざるを得ない。ビジネスアプリケーションなら、工数とスケジュールの都合でリリースする機能の調整が可能だ。一次開発として発注処理機能とマスタメンテ画面、二次開発で受注機能と下請法対応、のように。ゲームの場合はそうはいかない。「オープニング画面と基本属性設定はあり、プレイヤーがオープンワールドを自由に移動できるが、倒すべき敵も探索すべきアイテムもまだない」というゲームには、誰も課金してくれない。
 「資金なら融資を受ければいいですよ」牧野社長は反論した。「うちのメインバンクに私がお願いします。現に今のジョイントベンチャーだって、銀行から融資を受けることで進めているはずですね」
 「それは新会社が、企業システムの開発を専門とする計画で、その業務に経験豊富なベンダー企業が多く参加するからです。さらに言うなら、マーズ・エージェンシーという企業の存在自体が担保になるからではないですか? 仮に新会社の事業計画を、これまで何の実績もないゲーム開発として提出したら、融資が断られないまでも、大きく減額されることはあり得ると思いませんか」
 「そんなことは......」
 大竹専務が咳払いして、初めて口を開いた。
 「その件ですが、銀行の融資担当に確認しました。事業計画を大きく変更する場合、審査はやり直しになります。仮の話として、エンターテインメント事業を匂わせてみたところ、かなりの拒否反応が返ってきました」
 「......」
 「ということは」ぼくは感謝の印に大竹専務に一礼して続けた。「当初よりも大きく減った資本金で、開発要員をゼロから採用し、ビジネスアプリとは全く異なるスキームに基づく体制を整えなければなりません。うちの会社の人間は、誰もゲーム開発に関するノウハウを持っていないので、経験のあるディレクターをコンサルとして、もしくはプレイヤーとして採用する必要もありますね」
 「得てしてその手のプロは、高くつきます」大竹専務が補足してくれた。「開発体制が軌道に乗るまでどれぐらいでしょう。半年か一年、もっとかもしれない。年俸だけでもコストがさらに増えることになりますな」
 「しかし、ノヴァさんが、私の企画を評価してくれれば......」
 「いえ、ノヴァさんが評価して"くれるかもしれない"のは、社長が作った設定であって、うちのゲーム開発能力ではありません。仮に、ノヴァさんが企画を採用してくれたとしても、ゲーム開発そのものを、実績が全くない新会社に発注するとは思えません。うちの評価基準だって、今年できたばかりのベンダーに、1000 人月規模のシステムを丸ごと発注したりはしませんよね」
 「スキルは獲得することができます」
 「確かにできます」ぼくは同意した。「ただし、時間をかければ、という条件が付きます」
 牧野社長は椅子に背を預け、デスクの上で両手を組み合わせ、しばらく沈思黙考した。
 「なるほど」数分後、社長は変わらない穏やかな口調で言った。「試してみてもいないのに、マイナス要因ばかりに目を向けているのは何事ですか、と言いたいところですが、きっと君たちは現実的なリスクを綿密に考慮してくれたのでしょうから、それは尊重しなければなりませんね」
 ぼくは内心安堵した。
 「ありがとうございます」
 「しかしながら」牧野社長は身を乗り出した。「そのことと私の転職がどうつながってくるのか、よくわかりませんね。新会社でゲーム開発を行うことが、仮に、あくまで仮にですよ、不可能だとしても、なぜ、私が一から立ち上げ、心血を注いで成長を見守ってきた、従業員241 名、年商350 億の企業の代表取締役社長を辞任しなければならないんでしょうね」
 「それは」ぼくは大竹専務に顔を向けた。「大竹専務の理念に従ったまでです」
 「私の?」大竹専務は戸惑ったようにぼくを見た。「いったい何の話だ」
 「大竹さん、以前に仰ったじゃないですか。この会社の社員全員に幸福になってもらいたいと」
 「確かに言ったが......」
 「社長だって社員の一人ですよ」ぼくは社長に向き直った。「ぼくはプログラマです。この仕事が大好きです。危ないヤツだと思わないでほしいんですが、キーボードを叩いてコードを生成しているだけで、脳内にセロトニンやらオキシトシンやらドーパミンが生成されるんです。もし違っていたら本当に申しわけないんですが、社長にとっては、ゲームの設定を考えているときが、同じなんじゃないでしょうか」
 「む......」
 「もしノヴァさんに、社長の企画が採用されたとします」ぼくは牧野社長の目を正面から見つめた。「でも、うちの会社はもちろん、新しいジョイントベンチャーでも開発はできません。となると、ノヴァさんは実績のあるデベロッパーに開発を依頼します。そうなったら社長には何が残りますか? 原作料としていくらかが振り込まれ、完成したゲームのクレジットに、企画・原案として名前が載るぐらいなものじゃないですか?」
 「......」
 「それに、いったん、設定を使用する権利をノヴァ側に渡してしまえば、以後、社長は手も口も出すことができなくなるのは確実です。もしかするとノヴァ側は、売り上げや話題性、中毒性を重視して、ガチャや萌えやエロを要素として取り入れるかもしれない。たぶん進捗ぐらいは知らせてくれるでしょうから、社長は自分がうちの会社と同じぐらい心血を注いで作ってきた設定が、ズタズタにされるのを黙って見ているしかできないんですよ。それでもいいんですか?」
 牧野社長はまた考え込んだが、今度の時間は短かった。
 「私がノヴァ・エンターテインメントに転職すれば」社長は自分の言葉を噛みしめるように口にした。「ゲームの製作過程に関与する機会がなくもない、ということですね」
 ぼくと大竹専務は揃って頷いた。
 「ですが懸念点があります」牧野社長は指摘した。「転職といっても、ノヴァ側が受け入れてくれるものでしょうか。私はもう60 を過ぎています。目だって良くないし、腰痛と痛風に悩まされています。ゲーム開発についてはもちろん素人です。本来なら定年を迎えているような人間を、ノヴァは必要としないのではないですか?」
 「先走って申しわけないですが、ノヴァ側には打診済みです」
 もちろん古里氏の一存で決められることではないので、彼の上長と、最終的には人事部長まで出てきたが、何とか話をまとめることができた。古里氏が提出する企画がノヴァ内の企画会議で通ったら、という条件付きではあるが、牧野社長をプランニング部門の契約社員として採用することに同意してくれたのだ。古里氏がゲームの基本となる、星系や惑星の設定を大幅に増加させる必要性を説明し、原案を一番知り抜いている人間が参加することで、リリースまでの期間を大幅に短縮することができる、と強く主張してくれたおかげだ。決して好きにはなれないタイプの人間ではあるが、仕事に対する誠実さは信頼してもよさそうだった。
 「ただし」ぼくは躊躇いながら付け加えた。「待遇は決してよくはありません」
 牧野社長は非正規雇用でシフト制の勤務となる。時給は応相談ということだったが、神奈川県の最低賃金である1,012 円をやや上回る程度にしかならない、と言われている。賞与はないし、正社員に比べると福利厚生も落ちる。
 「もちろん、最終的には社長の意志で決まります」
 そう話を終えると、牧野社長は二度頷いてから、考えさせてください、と言った。ぼくたちは社長室を辞したが、システム開発室に戻った途端、再び社長に呼ばれることになった。ぼくたちが廊下を歩いているわずかな時間で、牧野社長はセカンドキャリアの選択を決定したのだ。
 それからの展開は早かった。牧野社長は他の3 人の役員に意志を告げ、ノヴァ・エンターテインメントの面接を受け、エースシステムをはじめとする株主へ挨拶に出向いた。そして7 月1 日付での転職が決まった後、牧野社長は後任人事について自らの希望を伝えた。大竹専務を次期社長にすることである。
 最初、大竹専務は固辞した。3 人の取締役の誰かが代表になる方が、立つであろう波風を最小限に抑えることができると考えたからだ。だが、有田、楽木、鈴木の3 人は、いずれもその任を受けようとしなかった。それどころか、牧野社長の辞任と同時に退職する意志を示しさえした。最終的には牧野社長の説得もあって、3 人ともマーズ・エージェンシーに留まることになったが、後で大竹専務はぼくだけに打ち明けた。
 「どうやら彼らも、牧野社長の夢を持て余し気味だったようだな」
 牧野社長がいつかゲームを自社で作る、という夢を追い続けている間、3 人の役員は応援し協力してきた。だが、3 人とも、夢は夢のままであって、決して具現化することはない、とわかってもいたのだ。もし牧野社長がマーズ・エージェンシーで代表取締役を続け、遠くない将来に年齢や病気などの理由で引退していたら、ついに夢がかなうことはなかった、と失望したまま会社を去ることになっていただろう。そうなる前に、少なくともゲーム開発の一端に携わっていられる道が提示され、そちらに踏み出す決断を下せたことで、同志だった3 人は肩の荷を降ろしたようだ、と大竹専務は話してくれた。
 心配されたのは、株主総会までのどこかで、社長の交代が社内に漏れてしまうことだったが、大竹専務に抜かりはなかった。意図的にジョイントベンチャー構想の活動を派手に行い、毎週のように進捗を全社に通知することで、社員の注意を惹きつけていたのだ。システム開発室も全面協力したが、誰もが内心はいつ露見するかとビクビクしていたことだろう。その重大任務も、今日の株主総会が無事に終了したことで終わりを告げた。緊張から解放された反動からか、全員が大いに食べ、飲んでいる。
 「それにしても」マリがすっかりご機嫌な様子で言った。「秘密を人に言えないのがこんなに苦しいとは思いもしませんでした。あたしなんか、もう、同期とのリモート呑み、全部、断ったんですよ」
 「そんなに口が軽いんですか」社長も上機嫌で訊いた。
 「いえいえ、普段は貝のように口が固いです。マーズ・エージェンシーで最も秘密を守る女、笠掛マリと呼ばれています」
 「聞いたことないですね」木名瀬さんが笑った。「そんな二つ名は。でも、考えてみれば、今回の話は古里さんがマリちゃんの元カレだったから、スムーズに進んだことも事実ですね。陰の功労者だと言ってもいいでしょう」
 「だから、元カレじゃないって言ってるじゃないですか」
 「古里さんの何がそんなにNG なんですか? 悪い人ではないと思いますが」
 「確かに」マリは首肯した。「悪い人ではないですよ。仕事もできる人だと思います。性格だってルックスだって、まあ合格点の範囲です。タバコも吸わないし、粗暴なところもなく、ケチでもないです。でも、そんなポイントを全て帳消しにするぐらいの欠点があるんです」
 「それはなんですか?」牧野社長が訊いた。
 「ナルシストなんですよ、あの人は」マリは顔をしかめながら暴露した。「一度だけ、どうしても断り切れなくて、飲みに行ったことがあるんです。それなりのレストランで。高いシャンパンで乾杯したとき、なんていったと思います?」
 「君の瞳に乾杯?」ぼくは思いついて言ったが、マリは首を横に振った。
 「君の瞳に......映った僕に乾杯、ですって」
 全員が――控えめな声で――笑った。
 「それで席を立ったんですか?」
 「まさか」マリは野菜のかき揚げを口に運びながら言った。「食べるだけは食べましたよ。二軒目は遠慮してさっさと帰りましたけど」
 コースは終わりに近付いていた。盛りそばを食べ終え、デザートのそば粉のアイスを待っていたとき、牧野社長が居ずまいを正した。
 「大竹くん、それにシステム開発室のみなさんに、最後に私から一つだけお願いをしてもいいでしょうか。本日いっぱいは、まだ私が社長ですから、最後の命令と言ってもいいかもしれませんが、お願いということにしておきます」
 「もちろんです」大竹専務が頷いた。「何でも仰ってください」
 「新しいジョイントベンチャーで使ってもらいたい人間がいるんです」
 「誰ですか」
 「伊牟田くんと夏目くんです」
 意外な固有名詞に、ぼくたちは顔を見合わせた。どちらもシステム開発室の兼務管理者となり、それぞれの事情でその任を解かれることになった人物だ。二人ともプログラミング業務に対する理解度が低く、システム開発室を自分の職務経歴上の一行としてしか見ていなかったのは明白だ。伊牟田課長にいたっては、JV 準備室設立に関して誤情報をエースシステムに流すことまでしている。反射的に拒否感が出てしまったのも無理はない。
 「みなさんの怒りは理解できます」牧野社長はぼくたちの顔を順番に見た。「ですが、私は会社の都合で人を切り捨てるようなことだけはしない、と決めて経営をやってきました。自分が好きな人間、自分が使いやすい人間だけでは、組織は行き詰まる、と考えているからです」
 「その方針は理解しています」大竹専務が頷いた。「そこは私も継承したいと思っていますが......しかし、夏目くんはともかく、伊牟田もですか。こういう事は言いたくないですが、あいつはメリットよりも、デメリットの方が上回ると思います。無能ですから」
 伊牟田元課長の処遇は、4 月1 日付で課長から課長補佐へ降格となり、人事課付のままで変わっていない。通例であれば、何らかの不祥事等で人事課付になった場合でも、長くても三カ月を経過した後は「禊を済ませた」とみなされ、降格前と同等の職位に復帰するのだが、伊牟田元課長の場合は、受け入れ先の決定に難航しているらしい。
 「仕事の能力は低くても」牧野社長は無能という点は否定しなかった。「人望はある人です。私の耳にも届いていますが、マネジメント三課では、伊牟田くんの復帰を熱望しているらしいではないですか」
 その噂はぼくも聞いていた。マネジメント三課の課員が中心となって、伊牟田元課長の復帰を求めて運動しているらしいが、コロナ禍で会社の上の人間との対面がなかなかかなわないこともあって、実を結んではいないようだ。
 「人望があるといっても」大竹専務は渋面を作った。「マネジメント三課だけのことですし......」
 「閑職のまま放置しておく、というのは、産業廃棄物を山奥に投棄するのと同じです。目に見えなくなっても、消滅したりしません」
 「......しかし、あいつを生かすといっても、何をやらせればいいのか」
 「大竹くん」牧野社長の目元が引き締まった。「伊牟田くんと話をしたんですか」
 「話ですか。いいえ。でも、彼がやったことは、エースシステム側からも事実だと確認されました」
 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」牧野社長は暗唱し、大竹専務を見つめた。「この言葉を知っていますか」
 「いえ」
 「調べてみてください」牧野社長は紙ナプキンを一枚取ると、ペンを出して今の言葉を書き付けた。「それから伊牟田くんと話をするんです。彼を生かす方法を、大竹くんならきっと見つけることができます。私はそう信じています」
 紙ナプキンを受け取った大竹専務は、大切に折りたたんでポケットにしまった。牧野社長は最後の希望を伝えたことで安心したのか、柔和な笑顔に戻った。その間に、デザートが配られていた。
 「さあ、難しい話はここまでにして、いただきましょう。このアイスは絶品ですよ。私は甘い物はあまり好みませんが、このアイスだけは別です」
 アイスを賞味しながらの話題は、やはりコロナ関係の話題だった。牧野社長は来週、第一回目のワクチン接種を受ける予定とのことで、副反応に対する不安を口にしていた。
 「少し前までは」牧野社長は言った。「副反応が怖くて、受けるのをやめようかと思っていたんです。でも、今は、来月からの新しい仕事への期待が高くて、ワクチン接種が待ち遠しいんですよ。コロナなんぞに邪魔されるわけにはいきませんからね」
 まだ接種券が届いてさえいないし、横浜市の接種状況を見ると順番が回ってくるのはかなり先になりそうなので、ぼく自身は悩む段階にまでいたっていないが、牧野社長の言葉を聞いたマリは接種を躊躇っている、と告白した。
 「別に陰謀論を信じてるわけじゃないんですけど、将来的なリスクは誰にもわからないじゃないですか。不妊とか」
 「まあ打つ打たないのは個人の自由だが」大竹専務はマリが重ねた杯を見ながら言った。「打たない奴らが外飲みで感染のリスクを高めるのは止めて欲しいもんだ」
 「あたしはそんなことしてません」マリは抗議した。「従姉妹が看護師で、感染の危険については、四六時中言われてますから。でも、大竹さんがそう言われるのもわかりますよ。たまに駅前とか行くと、コンビニの前で奇声上げてる奴らいますもんね」
 「自粛続きでもう限界なんですよ」ぼくも言った。「友だちに、仕事終わりに飲み屋に行くのだけが楽しみ、って奴がいるんですが、この前、LINE で話したら、行きつけの居酒屋が潰れたとかで、生きがいが消えた、って嘆いてましたから」
 「今の若い人たちは、そもそも家に帰らないらしいですね」牧野社長が言った。「ドラマを見に急いで帰る、ということもないんでしょう?」
 「レコーダーあるからリアタイしなくてもいいですし」マリが言った。「ドラマも面白いのないですから。アマプラとかネトフリですよ、今は」
 「スマホでも見られますしね」木名瀬さんも同意した。「朝ドラと22 時台のドラマはいくつか見てますが、見られなくても見逃し視聴の方法があるので困りません。それにマリちゃんの言うように、サブスクの方が面白いドラマはたくさんあります」
 「ふーむ。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが」牧野社長は納得したように頷いた。「私なんかテレビっ子だったから、少し寂しさも感じますね。昔は月曜9 時には街からOL がいなくなる、と言われたものです」
 「あ、それですよ」マリが何かを思いついたように手を叩いた。「それ、いいじゃないですか」
 「何がですか」
 「夜に街からOL がいなくなるってやつ。みんなが家に帰りたくなるようなゲーム、作ってくださいよ。本当はドラマだといいんでしょうけど」
 「ゲームって」ぼくはマリに言った。「それこそスマホでできるじゃないか。それにいつでもできるから、夜に家に帰る理由にはならないよ」
 「そんなの何とでもなりますよ。PC でしかできないイベントを夜だけ開催するとか、いっそゲーム機だけにするとか。とにかく、Z 世代が夢中になって、時間までに家に帰りたくなるような面白いゲーム、作ってください」
 「なるほど」牧野社長は面白そうに頷くと、また紙ナプキンを取って、何やら書き留めた。「いろいろ条件はありますが、発想は面白いですね。まあ、こんなゲームができるより先に、コロナ禍が収束していることを願いますが」
 ささやかな送別会を終えて店を出ると、牧野社長はぼくたち一人ひとりと固い握手を交わし、タクシーで帰っていった。それを見送りながら、大竹専務がぼくに訊いた。
 「イノウー、君、どう思う?」
 「ゲームの話ですか?」
 「違う。伊牟田と夏目のことだ」
 「ああ」ぼくは少し酔いの回った頭で考えた。「正直なところ、あまり歓迎したくはないですね。特に伊牟田さんは」
 「だろうな」
 「大竹さんはどうなんですか」
 「私は無能な奴は大嫌いだ」大竹専務は吐き捨てるように言った。「だが、牧野さんの言うことももっともだ。まずは話してみるさ」
 何の拘束力もないのに、前任者のお願いを律儀に遂行しようとするのが、大竹専務の人間性を顕著にあらわしている。牧野社長が大竹専務を後継者に指名したのも、そこを見込んでのことだろう。
 「それに産廃の話じゃないが、危ないものは、遠くに放置して忘れてしまうわけにはいかないからな。気付かない間に臨界に達して爆発されるより、目の届くところで監視しておいた方がいいのは確かだ」
 「でも」ぼくは首を傾げた。「伊牟田さんも夏目さんも、プログラミングなど下流の仕事、と思ってる人たちです。JV は開発業務専門の会社ですよ。役に立ちますか?」
 マーズ・エージェンシーよりも、はるかに専門性の高いジョイントベンチャーで、予算表とスケジュール表だけを手にして威張り散らそうとしても、猛烈な拒否反応に遭うだけだ。
 「立たないだろうな」大竹専務は認めた。「だから、まず慣れてもらうことにする」
 「と言いますと?」
 そう聞いたのは斉木室長だった。いつの間にか、木名瀬さん、マリと一緒に、ぼくの周囲に集まってきていた。
 「7 月1 日付でJV 準備室に配属させよう」大竹専務は面白いジョークでも披露するように言った。「これが私の社長としての初仕事だな」
 ぼくたちは呆気にとられて大竹専務改め大竹新社長の顔を見つめた。
 「せいぜい仲良くやってくれると期待してるぞ」悪魔的な笑みを浮かべながら、大竹専務はぼくたちの顔を見回し、古い映画のセリフで締めくくった。「これが美しい友情の始まりだな」

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(27)

コメント

匿名

俺たちの戦いはこれからだ!

こう

> 君の瞳に......映った僕に乾杯

これは、カウボーイビバップのアンディーの台詞から!?

ちゃとらん

> 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ・・・」
> ・・・
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」


名言ですね。
伊牟田さんをどう活用するのか…今までで一番の難関だと思います。


> 普段は貝のように口が固いです。
そう、火であぶれば、すぐにパカっと口をひらく…
私の中の名言です。

元哀T戦士

こうさん
全く同じことを思いました。
まさか、同志に遭遇するとは。
作者さんも、まさか同世代だったりして。

匿名

山本五十六教育語録だったか?

匿名

山本五十六の言葉が出てくるとは...

じぇいく

山本五十六の「やってみせ」が出てくるとは。
私も座右の銘のようにしている言葉です。
人の上に立つ立場の方には是非、「五誠」「男の修行」も併せて読んでいただければ。

匿名

たなっちも救われてくれ

ゆう

>自分が好きな人間、自分が使いやすい人間だけでは、組織は行き詰まる、と考えているからです
耳が痛いですね。
分かってはいるけれど、実行し続けるのはとても大変で難しいです。
こういうことを言える人の下で働いてみたいものです。

牧野社長をノヴァエンターテイメントにリリースしたのは、
マーズにとって損失だったのでは、、なんて思いました。

匿名

古里さん、別にナルシストじゃなく、単にカウボーイビパップが好きだっただけ、とか?

匿名

>俺たちの戦いはこれからだ!

それ、だいたい打ち切りのやつやんw

Marrivale Henry

本当の闘いはこれからだ(by アスカ・シン@ウルトラマンダイナ)を思い出したりしますね。

こう

> 君の瞳に......映った僕に乾杯

これは、カウボーイビバップのアンディーの台詞から!?

べる

>22 時代
これは「22 時台」ですかね。

藤井秀明

描写されるたび大竹さんの有能さが際立ってきますね。
やっぱり過去編は、そんな大竹さんですらも足掻きようが無かったってことなんですかね。
そして会社の体質自体は過去から大きく変わったわけではないですから、これからは新社長として、イノウー達と一緒にその辺りを切り込んでいくんでしょうか。

Marrivale Henry

本当の闘いはこれからだ(by アスカ・シン@ウルトラマンダイナ)を思い出したりしますね。

匿名

古里氏はナルシストだけど仕事は誠実なまま終わるのかな
設定だけ持ち帰ってパクリ騒動とかやらかさないでよかった

匿名D

なんかで人事の人が、自分が嫌いなタイプをひとり入れるようにしている、
と読んだことがあります。
同じタイプの人材ばかりだったら、弱点を補えないというのは現実だと思います。


モロやんのことは、問題の大部分は本人に帰するとはいえ、
じゃあ、彼の上の連中は口を拭って済ませられるのか、
といえば、そうは行きませんからね。
大竹新社長はリベンジの機会を示された、ということでしょうか。


山本氏は、史上最初に空母打撃群を構想しそして実現したという偉人ではありますが、
「泥棒だって帰りは怖いんだ。南雲はやらないだろうよ」で大減点なんですよねえ。

匿名

オッドマン仮説ですね

匿名

> 君の瞳に......映った僕に乾杯
私はライムスターが浮かびました

リーベルG

べるさん、ありがとうございます。
「台」ですね。

匿名

前半までの伏線の回収:伊牟田と夏目を同時に持ってくるとは恐れ入りました。二人を噛み合わせて、毒をもって毒を制す作戦?

なんなんし

オッドマン仮設にも前提があって
その他の道でスペシャリスト
なんだよね
無能はいらない

…ダジャレののスペシャリストか(´・ω・`)

匿名

どんな立派なこと言ってても社長交代という会社の一大事を通知1枚で済ませ社員に何の説明もせず本人トンズラはねーわ

匿名

2人のJV準備室に配属といっても、職位はどうなるんだろうか。
斉木室長>木名瀬さん(係長待遇)>いにょうー>貧乳 の
順番だから、どこになるのか不思議。
さすがに斉木室長の上にくることは無いと思うし、
今回の功労者ってことでいにょうーの昇進もありそうだしなぁ

横浜市民

美味しそうな食事と落ち着いた雰囲気が伝わってきます。
モデルのお店があったら是非行ってみたいですね。

匿名

>社長交代という会社の一大事を通知1枚で済ませ社員に何の説明もせず本人トンズラはねーわ

そうなんですか…
私は社長の交代はIRで知って、それっきりです。

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