イノウーの憂鬱 (43) 抵抗勢力
通常であれば4 月1 日付の人事異動は3 月第一週には発表されるが、今年は例年とは異なるパターンで通知されることになった。夏目課長がシステム開発室課長兼務を解かれる通知は3 月第二週に通知されたが、これに驚いた社員はあまりいなかった。大竹専務がシステム開発室に課した勝負とその結果は、社内に広く知れ渡っていたからだ。だが、3 月第四週に追加された通知には大抵の社員が驚きの声を上げたことだろう。
「新規開発事業準備室を新設し、斉木システム開発室室長を兼務室長とする」というのが3 月22 日に発表された異動通知だった。
ぼく自身も驚きの声を上げた一人だ。マリも同じだったらしく、通知を受け取った5 分後にはTeams で連絡してきた。
「イノウーさん、知ってました?」
「いや、知らなかったな」
「新規開発事業準備室って何ですかね」
開発事業、と銘打っているからには、ジョイントベンチャー構想のことだろうが、すでにプロジェクトチームが動いているはずなのに、新たに部門を新設するのはどういうことだろう。
その疑問は、2 時間後になって、ようやく連絡が取れた斉木室長によって明らかになった。
「今のプロジェクトチームは、大竹専務の独断で進めていたんだけど、勉強会的な意味合いが強かったんだよね。それだと、どうせすぐに取りやめになるんじゃないか、みたいな意見が多くて、なかなか真面目に進まなかったんだよ」
すでに多くの人から類似の質問をされたらしく、斉木室長はまだ午前中だというのに疲れた表情だった。
「部門を作ったのは、大竹専務の本気度を示すためってことですか」
「そういうこと」
「言ってくれてもよかったんじゃないですか」マリが恨みがましい声を上げた。「木名瀬さんは知ってたんですか?」
ビデオ会議に参加していた木名瀬さんは黙って首を横に振った。
「黙ってたのは悪いと思ったんだけどね」斉木室長は苦笑した。「大竹専務から口止めされていたからさ。ごめんね」
「どうして口止めされたんですか」
「それがねえ」斉木室長は似合わないため息をついた。「社内の抵抗勢力が意外に強力でね。事前に漏れると、ただの反感が反発になっちゃうかもしれない、という懸念があったんだよ」
ぼくたちは一斉に頷いた。斉木室長の言う抵抗勢力の存在は、プロジェクトチームが発足して以来、システム開発室のメンバー全員に対する圧力として感じていることだった。
ソリューション業務とパートナーマネジメント業務で、十分な給料がもらえるだけの収益が上がっているというのに、なぜ、利益率の低い開発業務などに手を出さなければならないのか、という声などはまだましな方だ。この会社が受託開発事業から撤退して10 年以上になる。そのことを残念に思っている人は少数で、「あんな下流の仕事に手を出していたこと自体が黒歴史だ」と公言する人もいる。ましてや、そこに回帰するなどとんでもない、というわけだ。
「開発業務って言ったって」マリが呆れたように言った。「別に全社を挙げてやるって言ってるわけじゃないし、ジョイントベンチャーですよね。別会社じゃないですか。何が気に入らないんですか」
「受託開発イコール下流の仕事ってイメージが、うちの会社じゃ主流だからねえ」斉木室長は肩をすくめた。「うちに限らずエースシステムなんかもそうだけど。ブランドイメージに傷がつく、と思ってるんだよ。特に営業部あたり」
実際、プロジェクトチーム発足について社内の部課長向けに説明を行ったとき、最も強硬に反対意見を表明したのは、営業部だったそうだ。ただでさえコロナ禍で営業が苦戦しているのに、わざわざ会社の名前に傷をつけるようなプロジェクトを始めるとはどういうことか、と迫ったのだ。以前、木名瀬さんが、大竹専務が音頭を取っている以上、システム開発室は当面安泰、という意味のことを言っていたので、ジョイントベンチャー構想についても、同じレベルで考えていたのだが、そうではなかったようだ。
プロジェクトチームで議論が続いているジョイントベンチャー構想では、開発業務の主体は参加するベンダーになるにしても、少なくとも当面の間はマーズ・エージェンシーがリードする形で受注を求めざるを得ない。そのこと自体に拒否反応を示す社員が少なくないのだそうだ。
「青山でしたっけ」マリが言った。「児童相談所を作るってなったとき住民から反対運動が出ましたよね。土地の資産価値ガーとか、治安ガーとか。あれを思い出しました。自社で開発をやるって、そんなに恥ずかしいんですかね」
「大竹専務に裏切られた感もあるんでしょう」木名瀬さんが言った。「あれだけ開発業務を拒否していたのに、一転して推進する立場に変わったんですから。いろいろ陰口も叩かれています。システム開発室に買収されたんだろう、とか」
ぼくのところに届いた陰口はそんなものではなかった。システム開発室の二人の女性のどちらか、または両方が、色仕掛けで大竹専務を籠絡した、という意味の誹謗中傷が耳に入ってきている。木名瀬さんとマリにも届いているかどうかはわからないが、マリは性格上、そんな噂を聞いたら激怒して噂の源を突き止めようとするだろうし、今のような冷静な顔でいられるとも思えないから、まだ聞いていないと考えて間違いないだろう。木名瀬さんは耳にしたとしても、直接的な被害を被らない限りは騒ぎ立てるようなことはしない気がする。
言うまでもないことだが、大竹専務は無条件にジョイントベンチャー構想に賛成しているわけではない。想定される事業計画についてはミリ単位で精査したし、利益率に関しては全く妥協を許さなかった。最初の数年は赤字覚悟で、などという甘い計画でも出していたら、構想自体を白紙に戻すことも辞さない構えだ。その態度は今でも変わっていない。木名瀬さんは毎日のように大竹専務とビデオ会議で打ち合わせをしていて、ぼくやマリも何度か同席させられている。サードアイの東海林さんも有益な助言をくれてはいるが、大竹専務の信条は「計画は大胆に、実行は慎重に」のようで、神経質なほど細部をチェックし続けている。やるからには絶対に失敗など許さない、と無言で圧力をかけているようだ。こちらの方が、営業部からの反対などよりも、よほど恐ろしいぐらいだ。
「営業部が反対するのはわかるんですが」ぼくは誰にともなく訊いた。「マネジメント部はどうなんですか?」
「反対多数の状況は変わっていません」木名瀬さんが答えた。「むしろ営業部よりも強く大きい声かもしれませんね」
パートナーマネジメント本部は、パートナー企業、つまり下請け企業の管理が主要業務だ。パートナー企業の中には、マーズ・エージェンシーのような中間業者もいるがベンダーも多い。マネジメント部に属する社員の多くは、言葉に出すことは少なくても、実装を行うベンダーに対して優越感を抱いている。大竹専務が進めるジョイントベンチャー構想は、マーズ・エージェンシーの一部が実装を手がけることになるため、その優越感が揺らぐのでは、という不安なのだろう、と木名瀬さんは説明した。
「同じ会社の社員として恥ずかしい限りですが」木名瀬さんは眉をひそめた。「マネジメント部の社員が持っている優越感は、自分たちはプログラミングなどやっていないし、やる必要もない、という前提に起因するものです。ジョイントベンチャー構想は、その前提を崩すことになります」
「そこまで拒否感がひどいとしたら」ぼくは考えながら言った。「たとえ準備室という一部門になったとしても、抵抗勢力が矛を収めるとは思えないんですが。大丈夫ですか?」
矢面に立つ斉木室長を心配しての言葉だったが、当の本人はそれほど深刻そうな顔ではなかった。
「まあ何とかするよ。幸い、4 月からは管理職もテレワークが認められているからね。画面越しに何か言われたって、物理的に被害を受けるわけじゃないし」
一般社員は希望者のほとんどがテレワーク勤務に切り替わっていたが、部門責任者は出社して万が一に備える、という体制が続いていたが、ようやく来年度から緩和されることになった。政府がテレワークを推進していることもあったが、一番大きな理由は、1 月から2 月にかけて、マーズ・エージェンシー社内でも6 名の陽性者が出たことだ。入院が必要になるほどの重症者は一人だけだったが、この事態は改めて新型コロナに対する恐怖を呼び起こすことになった。
マリがクスクス笑った。
「それに関して言えば、伊牟田課長に感謝ですねえ」
「そういうことになるのかなあ」斉木室長は苦笑した。
伊牟田課長の名前が出たのは、陽性者のうち3 名がマネジメント三課の社員だったからだ。課員間の結束が固いマネジメント三課は、トップの伊牟田課長に誘われるまま、仕事終わりに飲み会やカラオケに行っていたらしい。3 名の感染が判明したのが同時期だったことから、いわゆる集団感染が発生したことは間違いなく、伊牟田課長を含めて14 名の課員全員がPCR 検査を受けることになった。伊牟田課長は課員に口止めしたそうだが、隠し通せるはずもなく事実が発覚した。
減俸などの処分はなかったが、それは社員規程が現在のような感染症蔓延を想定していなかったからに過ぎない。伊牟田課長はマネジメント部の岸川部長と大竹専務から強く叱責された。そのためかどうか、それまでジョイントベンチャー構想に対して上げていた否定的な発言は一時停止している。
「とにかく4 月になって準備室が動きだせば、さすがに表立って反対もできないよ」斉木室長は楽観的な口調で言った。「他部門の業務を妨害するのはうちじゃ御法度だからねえ」
マリは納得したように頷いたが、木名瀬さんは同意の声を発しなかった。何らかの懸念材料があるのだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
準備室新設に対する反応は、翌日、思いもかけない方向からやってきた。それは、エースシステムのビジネスマーケティング課データ管理グループ清水さんからのオンライン会議の要求、という形を取った。
清水さんとは、m2A の機能拡張や修正などの件で、定期的に連絡を取っていたが、2021 年になってからはその頻度も落ちていた。ぼくは何か忘れていることでもあったかな、と思いながらTeams のビデオ会議に入ったが、清水さんの用件はm2A のことではなかった。
「実は」短い挨拶の後、清水さんは言った。「御社に4 月から新しい部門が新設されると聞きまして」
「ああ」ぼくは驚きながら頷いた。「はい、そのとおりですが」
「実装を行う部門だそうですね」
事業統合したとはいえ、別の企業でもあるエースシステムに、どこまでジョイントベンチャー構想について明かしていいのかわからず、ぼくは言葉を探したが、結局、曖昧に答えた。
「まあ、そういうことになりますが」
「なるほど」清水さんは、カメラの視界に入っていない誰かに対して頷いた。「これは弊社の公式な見解ではないのですが、懸念があることをお伝えしておいた方がいいと思いまして、ご連絡させていただいた次第です」
「懸念ですか。それはどういった点で......」訊き返そうとしたぼくは、あることに気付いて言葉を切った。「あの、私よりも、もっとその件に詳しい人間とお話しいただいた方がいいのではないでしょうか」
「もちろん」清水さんは真剣な顔でぼくを見つめた。「いずれその段取りを付けることにはなると思います。ですが、まずは、井上さんの話をお聞きしたいんです」
「私はいちプログラマに過ぎず、会社の経営や方針にタッチする立場ではないんですが」
「信用度の問題です」
「信用度ですか?」
「弊社には取引先の評価基準が設けられています。相手企業の資本や実績、株主などを評価するシステムです。御社にも同様の仕組みがあると思いますが」
「ありますが」使ったことはないが、あることは知っている。
「それとは別に」清水さんは声を潜めた。「これはあまり社外に知られていないことなのですが、担当者を評価するシステムもあるんです。その人物がビジネスを共に行う相手として信頼に足るかどうかを、一定の基準で評価し、点数を付けます。知らせない理由はおわかりかと思いますが」
ぼくは頷いた。見知らぬところで採点されていると知って、快く思う人間はあまりいないだろう。
「その評価システムによれば、今のところ、マーズ・エージェンシーさんの中で、井上さんが最高得点です。これはm2A の実績によるものが大きいのですが、別の要素もあります」
「と言いますと?」ぼくは他に自分がエースシステムに評価されるようなことがあったかな、と首を傾げながら訊いた。
「井上さんの前職はサードアイシステム株式会社でしたね。弊社内ではサードアイさんの評価はかなりの高得点です。何度か仕事をさせてもらった実績に基づく結果です」
「そうなんですね」自分が褒められるよりも誇らしい気持ちだった。「技術力には定評がありますから」
「いえ」清水さんは少し笑った。「技術力は確かに重要ですが、それ以外に重視する要素があります。それはウソがない、ということです。意外に思われるかもしれませんが、弊社では人間として信頼するに足るか、という点がかなり重視されます。サードアイさんは自分を安売りすることが少ない。確固たる技術力に裏打ちされてのことでしょうが、これまで仕事をさせてもらったどのエンジニアの方も、正しいと思ったことは、元請けである弊社の意見に反してでも主張されています。これはかなり得がたい資質と言えるんです」
「......」
「その薫陶を受けた井上さんであれば、弊社に正しい情報をいただけるのではないか、と思い、とりいそぎ連絡させていただきました」
対面して言われていたら赤面していたかもしれない。ネット経由であることを感謝しつつ、ぼくは咳払いして訊いた。
「どういったことでしょう」
「弊社に寄せられた情報によれば、御社は現在のパートナーマネジメント業務を大幅に縮小し、代わりに開発部門を大規模に新設するということです。これは事実でしょうか?」
あまりに誤差が大きすぎる情報を告げられて、ぼくはしばらく言葉を発することができなかった。その顔を見て、清水さんは納得したように頷いた。
「やはり事実ではありませんでしたか」
ようやく言語機能を回復したぼくは、それが事実ではないことを告げた。ただし詳細については上長の許可がないと話せないことも付け加え、問い合わせ先として斉木室長と大竹専務の名を上げた。
「ありがとうございます。もちろん正式な形で、上の方から御社に問い合わせはさせていただきますが、その前に事実を知っておきたかったので」
「仮にですが」ぼくは訊いた。「先ほどのような計画が事実だったら、御社としてはどのような対応になるんでしょう」
「猛反対したでしょう」清水さんは即答した。「弊社の事業計画に、自社でプログラミングなどの実装業務を行う予定は、過去も現在も未来にもあり得ませんから。事業統合した御社に対しても、その方針を貫くよう、強く勧告することになったはずです」
予想された答えだったので、ぼくは驚かなかった。目的を達成した清水さんは締めの挨拶を口にしかけたが、ぼくは非礼を承知でそれを遮った。どうしても訊いておかなければいけないことがある。
「御社にさっきの情報を寄せたのは、うちの誰でしょうか」
清水さんは躊躇った。
「情報源は秘匿する、というのがこういう場合の基本ルールだと思いますが......」
「悪意のある情報であってもですか」ぼくは言った。「このような誤情報は、御社と弊社、両方の利益を損なうことになりかねませんよね。その場合でも保護されるべきとお思いですか?」
清水さんはまた横を向いた。画面外の誰かと、かなり長い時間をかけて話し合った末、ようやく向き直ると言った。
「早急に御社の経営層の方に、先ほどの真偽を確認することにします。その結果、井上さんの言葉が真実であると証明されたら、情報提供者についてお知らせする、ということでどうでしょう?」
ぼくは了承し、挨拶を交わして、ビデオ会議は終わった。
それほど長く待つ必要はなかった。その日の夕方、再びビデオ会議の画面に現れた清水さんの目には怒りの色があった。
「確認できました。とにかくほとんどは」
「よかった。それで......」
「去年の6 月、確か、雨の日でしたか」清水さんは空を見据えながら言った。「井上さんとその他の方々が来社され、打ち合わせを行いましたね。憶えておられますか」
「もちろんです」
「その打ち合わせが終わったとき」清水さんはぼくを見つめた。「私が最後に井上さんだけに言ったことも?」
「はい」
「井上さんが知りたがっているのは、その人物です」
ぼくは丁寧に礼を言い、失礼にならない程度に急いで通話を終えた。そのままTeams で斉木室長に連絡する。まだ会社にいた斉木室長は、ぼくの話を聞くと小さく頷いた。
「わかった。ありがとう。後はこっちで片付けるよ」
その声には今まで聞いたことがないような冷酷さがあった。ぼくは通話を終えた後、一時は上司だった人間の運命を想像して、思わず身震いした。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
14 蛇の舌
匿名
次から連れて来るなのあの人か…
匿名
マーズ社、本当にしょうもない社員ばかりで震える
匿名
「後はこっちで片付けるよ」
斉木室長、平素は爪を隠してますが、大事なところではきっちり落とし前をつけてくれそうなカッコよさ。
匿名
転職後2年足らずで最高評点が取れる会社って…
匿名
抵抗勢力弱すぎ…
匿名
清水さんの隣にいるのは、某上級SEか…と妄想。
匿名
「意外に思われるかもしれませんが、弊社では人間として信頼するに足るか、という点がかなり重視されます。・・・これまで仕事をさせてもらったどのエンジニアの方も、正しいと思ったことは、元請けである弊社の意見に反してでも主張されています。これはかなり得がたい資質と言えるんです」
エースってこんなに公明正大な会社だったっけ・・・
匿名
人形使いの件で高杉さんが認識を改めた結果…なのですかね。
匿名
昨日のアクセスランキング、本話と蛇の舌でワンツー…
匿名D
なんか営業部がガンのような。
ブランドを傷つけるって、10年前には社員を人身売買するような
やり方を推し進めておいて、どのクチが言うんでしょう。
役割柄、自分たちは客の側と錯覚してたりするんでしょうか。
それにしてもソリューションとマネジメントですか。
イ牟田口氏や夏目氏みたいなのが跋扈しているような状態で、
どんな商売のやり方をしているのでしょう。
開発を下に見るような連中は、契約を右から左に移すときに、
自分の利益を抜くことしかしてませんけどね。(事実もとい偏見
藤井秀明
自分が誰かから情報を流されエースから圧力を掛けられたせいで面子を潰されたから、今度は自分が逆の立場になろうってことですか。
まぁ、「アホはアホなりに考えてんのやな」とでも言いますか・・・
匿名
コメ1さんが有能すぎて震える。
探す手間とトラフィックが減らせました。
ありがとうございました。
匿名
テヘッ
匿名
当該通報者の運命やいかに!
しゅう
感想遅くなりました
エース社内でサードアイが評価されているという一文を読むだけで
ほっこりできますよね
匿名
同感です。
「承認くん」案件、くぬぎ市案件でのあれやこれやが思い出されて…