ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (22) 善悪の彼岸

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 今日は記念すべき日だ。この部屋に引っ越してきて以来、初めて1 日に女性が3 人も訪問してきた。既婚女性が一人、未婚女性が二人。そのうち一人はぼくの膝の上に座り、一人とはもう少し濃密な接触を行った。モテ期到来か。それにしても、誰もがソーシャルディスタンスという言葉を忘れてしまっているらしい。そもそもアポを取るという前提が抜けているのはなぜなんだ......
 「あの、イノウーさん?」
 マリの言葉でぼくは我に返った。思考のループ状態に陥っていたらしい。改めてマリを見つめた。半袖のシャツブラウスに膝丈のショートパンツで、両手にL サイズのレジ袋を下げている。
 「あ、ご、ごめん」ぼくはどもった。「っていうか、どうした、急に」
 「来ちゃいました」エヘヘ、と表現できそうな声でマリは答えると、恥ずかしそうにマスクを外した。「なんちゃって。あの、いきなりで申しわけないんすけど、ちょっとお手洗いを貸してもらっていいすか」
 ぼくは頷き、玄関からすぐのトイレのドアを指した。マリはもどかしげに靴を脱ぎ、レジ袋をぼくに押しつけるように渡すと、小走りにトイレに消えていった。
 リビングに戻り、テーブルの上にレジ袋を置くと、ぼくは思い出して時計を見た。16 時を少し過ぎている。木名瀬さんたちが帰った後、思いのほか、長い時間、思考停止状態でボーッとしていたようだ。
 マリはトイレから出てくるとリビングに腰を下ろした。
 「暑いっすね」マリは部屋を見回した。「さっき薬局行ったんですけど、イソジンとかうがい薬が全部売り切れで、入荷待ちになってるんすよ。どっかの知事がコロナに有効だとか何とか言ったせいですよね、きっと。あれ、本当に効果あるんすかね。あ、ユニクロのエアリズムマスク、もうすぐネットで注文できるようになるみたいです。並んでまで欲しくはないけど、ネットで簡単に買えるなら買ってみよっかなって思ってるんです。涼しいんですかねえ。だいたい、真夏のクソ暑いときにもマスクつけて出かけなきゃいけないなんて、こんな状態がおかしいっちゃおかしいんすけどねえ。いつまで続くんでしょうね。そういえば、エヴァの新作って、いつ公開になるんすかね。また1 年延期とかにならなきゃいいんですけど」
 マリはぼくに口を挟む間を与えたくないかのようにまくしたてた。こんなに陽気なキャラのマリを見るのは久しぶりだ。見ていると喉の渇きを感じたので、グラスを2 つ出して、ペットボトルの麦茶を注いだ。一つをマリの前に置くと、マリは嬉しそうな顔でゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干した。水分補給を忘れていたぼくも、同じ行動を取った。
 「ありがとうございます。うまいっす」マリはキッチンの方に顔を向けた。「さあて、ちょっとキッチンを借りますね」
 ぼくが何か言う前に、マリは軽快に立ち上がると、持ってきたレジ袋を掴んでキッチンの方に向かった。ぼくは慌てて後を追った。
 「結構、きれいにしてるじゃないすか」
 マリはデジャヴを感じさせる言葉を口にしながら、キッチンを見回した。コンロに置いたままになっているホーロー鍋に目を留めると、蓋を開けて中を覗き込んだ。
 「なんかうまそうっすね」マリはぼくは見た。「イノウーさんが作ったんすか?」
 「いや、違うけど......」
 「なんだ」マリは笑った。「やっぱり彼女さんがいたんじゃないすか」
 「いないって」ぼくは反射的に返した。
 「じゃ、誰が作ったんすか」
 「その......」
 ぼくは躊躇った。正直に話すのは気後れするが、ウソをつく必要もない気がする。
 「実はさっきまで木名瀬さんが来てて」結局ぼくは事実を言うことにした。「作ってくれたんだ。あ、もちろん、エミリちゃんも一緒に」
 「なんだ、そうだったんすか」マリは輝くような笑顔を向けた。「イノウーさんの手を心配して来てくれたんですね。もう冷めてますよ。冷蔵庫に入れておいた方がいいんじゃないすかね、これ」
 ぼくは頷き、ホーロー鍋をそのまま冷蔵庫に入れた。冷蔵庫が空に近いと、こういうときに便利だ。
 「そんなことじゃないかと思って」マリは自慢げにレジ袋を掲げた。「あたしも晩ご飯のデリバリーに来ました。メニューは豚肉の冷しゃぶサラダと、ニンニクたっぷりのレバニラ炒めです。できるまで向こうに座っていてくだせえな」
 「それはありがたいけど」ぼくは戸惑いながら言った。「夕食には、ちょっと早いんじゃ......」
 「2 時間ぐらいかかりますからね」マリは当然のような顔で言った。「お米ってあるんですか?」
 「そこの、そう、その棚の中だけど」
 「2 合炊いておきますね。じゃ、お仕事でもしててください。呼ぶまで決してこっちを見ないでくださいね」
 「......鶴の恩返しか」
 ぼくは首を振りながらデスクの前に戻った。冷しゃぶとレバニラ炒めに、なぜ2 時間もかかるのか、と疑問に思いながら。
 間もなくキッチンから、モンスターとバトルでもしているかのような騒々しい音が聞こえ始めた。ぼくはそちらを見たい欲求をこらえながら、モニタに目を向けた。
 モニタ上ではゲーム画面が一時停止状態で辛抱強く待っていた。そのまま終了をクリックして、会社のノートPC に切り替える。m2A のコーディングを進めておこう、とキーボードに手を伸ばしたが、脳がなかなか仕事モードに切り替わらなかった。すぐに木名瀬さんの顔が頭をよぎり、入力効率の悪さに拍車をかけるのだ。
 10 分ほど格闘した後、断念したぼくは手を止めて目を閉じた。自分の考えを整理しておかなければ、どこにも進めない、と気付いたからだ。
 まずは自分が木名瀬さんのことを好きなのか、と問いかけた。答えはすぐに出た。Yes だ。だが、その「好き」が一人の女性としてなのか、仕事の同僚としてなのか、という問いには、大きなクエスチョンマークしか得られなかった。
 よろしい、いったん、それは置いておこう。なぜ、自分が木名瀬さんを好きなのか、をもう少し分析してみる。
 社会人になって以来、多くの人と仕事をしてきた。様々な年齢や性格、スキルの持ち主がいた。思い返してみれば、あくまでも仕事の上でではあるが、関わることが嬉しい人と、そうではない人にカテゴライズしてきた。その基準が何か、と言えば、いい人であるかどうか、だ。
 もちろん善悪の基準は相対的なものだ。たとえばサウロンは、中つ国の人間やエルフやドワーフやホビットにとっては邪悪な敵でしかないが、オークの立場からみれば、自分たちを肯定し信頼し居場所を与えてくれる偉大なボスだろう。システム開発室のメンバーからみれば厄介な存在でしかない伊牟田課長も、もしかするとマネジメント三課の社員たちは、職場の空気を楽しく盛り上げてくれると歓迎しているのかもしれないし、事実、そのような話も耳にしたことがある。マネジメント三課の人たちから見れば、木名瀬さんなどは、正論ばかり口にしている面白みのない人間という評価になるのだろう。
 では、なぜ、ぼくは木名瀬さんがいい人で、伊牟田課長のことをそう思えないのだろう。
 サードアイに勤務していたとき、あるプロジェクトで、別のベンダーのプログラマとコーディングの方法について議論になったことがある。うるう年のチェックを、単に4 で割り切れるかどうかで済まそうとしていたことに気付いて指摘したぼくに、そいつは面倒くさそうに答えた。
 「あのさあ、次にそれが問題になるのって、西暦2100 年じゃん? そこまでこのシステム使ってるわけねえだろ」
 その言葉を聞いたぼくは、そいつを説得することが時間のムダだと悟った。自分ならば、そのシステムの寿命が次の世紀末まで使われないとしても、雑なうるう年チェックが残っているだけで、モヤッとするのだが、そいつはそうではないことがわかったからだ。
 おそらく、仕事をする人間は誰でも、どこかの時点で、無意識のうちにある選択をするのではないだろうか。たぶん、例のプログラマも、希望と意欲に燃えていた新人の頃なら、閏年のチェックという仕様に対して、(year % 400 == 0) or (year % 4 == 0) and (year % 100 != 0) の論理式を適用したコーディングを行っていたに違いない。それなのに年次を重ね、多くの業務を任されるようになり、手が回らなくなってきたあるとき、ふと妥協することを考えた。手を抜けるところでは積極的に手を抜いた方がいい、と。
 それを一概に責めることはできない。下請け、孫請けのベンダーでの並行業務は当たり前だし、その大変さは身をもって知っている。ただ、ぼくが尊敬している何人かのプログラマは、そのような手抜きをすることは決してなかった。彼ら、彼女らも、そのキャリアのどこかの時点で、そんなシーンに直面したことがあったかもしれないが、そこで手を抜く、という選択肢を採らなかったのだ。
 社内の人脈と口先だけの伊牟田課長も、もしかすると新人の頃は、彼なりの理想と正義を持って仕事をしていたのかもしれない。どんなものもその始まりから悪いということはない、とエルロンドも言っている。だが、頑張っても成果を出せないでもがいていたあるとき、ふと楽な方向に逃げてしまったのだろう。
 休職中の菅井先輩は、以前、飲み会の席で、伊牟田課長の話をしたことがある。マネジメント三課にいたある若手社員が、年に一度の評価面談の席で、仕事の進め方や、パートナー企業への対応について提案したことがあったそうだ。1 時間にわたって熱心に説明した社員の言葉を、伊牟田課長は気のない様子で聞いた後、その提案全てを却下した。現状のままで何か大きな問題があるわけではない、との理由からだ。失望した社員に、伊牟田課長は付け加えた。
 「もっと楽に生きようぜ」
 その社員はほどなく退職した。伊牟田課長に、というより、その存在を許容している会社組織に見切りをつけたのだろう。
 ぼくが木名瀬さんを好きな理由はそれだ、と思った。木名瀬さんも伊牟田課長もプログラミングのスキルはない。にもかかわらず、木名瀬さんをいい人だ、と思えるのは、自分で手を動かすことを厭わないからだ。命令や依頼をただ出すだけではなく、自分自身でもその能力を最大限に使って、ぼくが実装に専念できる環境を整備してくれている。事もなげに具現化しているので、つい見逃してしまうが、きっと見えないところでは奔走してくれているだろうし、ぼくたちには見せない苦労もあるに違いない。木名瀬さんも、手を抜く、という楽な道を選択しなかったのだ。
 だからか、と納得しかけたぼくは、いや、待てよ、と愕然と思い直した。つまるところ、ぼくが木名瀬さんを好きな理由というのは、いい人だからなのか。それは仕事における同僚としての好意であって、異性として見ているわけではない、ということにならないか。だとしたら、さっきぼくが木名瀬さんに取った行動は何なんだ。いい人だと思っている職場の同僚にキスなどしないのが普通だ。
 唸ったぼくは、また喉の渇きを感じた。時計を見て再び愕然となる。もう18 時まで10 分もない。テーブルの上に置いたままになっているペットボトルから、グラスにお茶を注ぐと、グッと飲み干した。生ぬるくなっている。
 意識の焦点が脳内から自分の部屋に戻ってくると、一気に現実世界が知覚に押し寄せてきた。キッチンからはマリが動き回っている音が聞こえてきていたし、部屋の外では相変わらずセミがやかましく鳴いている。
 ぼくはキッチンに背を向けたまま、また目を閉じ、今度は比較対象としてマリのことを考えた。マリも、ぼくの中ではいい人にカテゴライズされている。使うあてもないのに、フロントのスキルを維持していたことからわかるように努力を嫌わない。医療従事者の件では怒りを爆発させていたように、常識感もぼくと一致している。もし、今、マリが目の前に立って、ぼくを見上げていたら、その唇に触れたい、と思うのだろうか。もしそんなことを思ったとしたら、ぼくって単なる最低野郎じゃないだろうか......
 「イノウーさん?」マリの声がした。「寝てますか?」
 慌てて目を開くと、マリの丸顔が至近距離にあった。いぶかしげにぼくの顔を見つめている。
 「あ、ごめん。考え事してて」
 「そうすか。そろそろできますよ。お腹空いてますか?」
 「うん」そう言われて、ぼくは軽い空腹感に気付いた。「そこそこ」
 「じゃ、仕上げしてきます」
 マリはキッチンに戻っていった。コンロに着火する音に続いて、フライパンを五徳にぶつける豪快な音が響いてきた。マリは罵り声のような叫びをたまに上げている。
 「できました!」
 満面の笑顔とともに、マリがテーブルに並べたのは、予告通り、冷しゃぶのサラダとレバニラ炒め、茶碗に盛ったご飯と味噌汁だった。
 「ちょっと焦がしちゃいました」
 マリはペロッと舌を出した。ぼくは料理を茫然と見つめた。レバニラ炒めは「ちょっと」という控えめな表現では追いつかないほど、炭化した具材が大量に混在していた。冷しゃぶサラダのレタスとキュウリは、前衛芸術か何かのように多種多様な形状になっているし、添えられたミニトマトは、その大部分が破裂して中身が漏れ出していた。
 「いただきます」
 「......いただきます」
 ぼくは豚肉と野菜を取り皿に取り、軽くポン酢をかけてから口に入れた。形はともかく、ゆでた豚肉と生野菜なら誰が作っても外れはないだろう、と思ったのだが、その思い込みは口に入れた途端に覆された。
 「どうですか?」ぼくが食べる様子を見つめていたマリが訊いた。
 「うん」ぼくは顔色を変えないように努力しながら答えた。「変わった味だね。このサラダにかかってる黄色の液体はなに?」
 「蜂蜜と焼き肉のタレと塩麹とマヨネーズと辛子で作った特製ドレッシングです」マリは平然と食べながら答えた。
 「なるほど。こういうのが好きなの?」
 「いえ、これは初めて作りました。ネットでレシピを見て、あたしなりにアレンジしたんです」
 「アレンジね。うん、なるほど。何でもチャレンジするのは大切なことだよね」
 ぼくはお茶で舌をリセットすると、レバニラ炒めに箸を伸ばした。口に入れた瞬間、あらゆる味覚をかき消すほど強烈なニンニクの香りが口腔全体に拡散した。
 「おう」むせそうになりながら、ぼくは何とか平静を保った。「ニンニクがすごいね」
 「夏バテ防止に少し多めに入れときました」
 「多めって」ぼくは目立たないように、レバーの表面を覆っている液体を箸で除去した。「どれぐらい?」
 「チューブ一本ぐらいすね」
 「......チューブじゃないのも入ってるね」
 「やっぱし本物の方がコクが出るじゃないすか」マリは笑った。「あ、あたしはレバー苦手なんで、イノウーさん、全部食べていいっすよ」
 ぼくは皿を見下ろした。一番大きな皿に、レバーとニラが文字通り山盛りになっている。一般的な中華料理店でレバニラ炒めを注文したとしたら、大盛りにしても、せいぜいこの1/4 程度だろう。マリは、ぼくのことをフードファイターか何かだと思っているんだろうか。
 「ありがとう」ぼくは皿の上でレバーをあちこちに動かすことで、食べているという状況を演出した。「おいしいよ」
 ぼくはニンニク成分を中和しようと白米を頬張った。少し柔らかい気がしたが、いつも食べている味だった。味噌汁はインスタントのようで、こちらもまともな味だ。
 「今日はわざわざご飯を作りに来てくれたの?」
 ぼくが訊くと、マリは少し迷った顔を向けた。
 「実は、それだけじゃないんすけど」
 「というと?」
 マリは箸を置いて正座し、ぼくの目を真っ直ぐに見つめた。ぼくもそれに応じて箸を置いた。その口実ができた安堵は顔に出さなかった。
 「ここしばらく塩対応な態度取ってしまってすいませんでした」マリは頭を下げた。「社会人として反省してます。ホントに」
 「あ、いや」ぼくは慌てて答えた。「こっちもちょっと、その、配慮に欠けたところがあったかもしれないから」
 「いえ、イノウーさんは悪くないんです。あたしが勝手に期待して、勝手に自滅しただけですから」
 ぼくが反応に困っていると、マリは大きくため息をついた。
 「もうわかってると思いますけど」マリはぼくから目を逸らした。「イノウーさんのことが、その、あれだったんです。で、もしかしたら、イノウーさんも同じなのかな、って思い込んじゃってて」
 「......」
 「でも、違うんだなあ、って気付いたら、ちょっと気が抜けちゃったっていうか、脱力しちゃったっていうか......」
 「ちょっと待った」ぼくは制止した。「はっきりさせときたいんだけど、違うっていうのは、ピクニックのときのことを言ってる? ブルーレイを借りに家に来たいって言った......」
 マリは首を横に振った。
 「その前です」
 「っていうと?」
 「木名瀬さんとエミリちゃん。エミリちゃんと仲良くしてるイノウーさんを見て、あたし、わかってしまったんです。こう見えても、あたしは意外に鋭いんですよ」
 「どういうことかよくわからないんだけど」
 「イノウーさんは、木名瀬さんが好き」マリは文節を区切るようにはっきり言った。「木名瀬さんも、イノウーさんを悪くは思ってはいない」
 「......どうしてそう思った?」
 「見てればわかりますよ、そんなの」マリは呆れたように肩をすくめた。「ちなみに、斉木さんだって、同じこと思ってますよ」
 「斉木さんが?」
 意外な思いで問い返したぼくは、ふと、あることを思い出した。以前、雨の日に、エースシステム横浜へ訪問したときだ。ぼくとマリとの間に、冷たい空気が流れていることを心配した斉木室長が、まさかとは思うんだけど......と何か言いかけたことがあった。
 「いやいや、ちょっと待ってよ」ぼくは納得できない思いで反論した。「木名瀬さんのことは別に......」
 「自分で気付いてないだけですよ、それは」
 「でも、そんなに傍目からわかるほど、あからさまに木名瀬さんを好きだって素振りなんかしてなかったと思うんだけどね。現に湊くんなんか、むしろマリちゃんとじゃないかって......」
 「コロナのせいで、他の部署との行き来なんかなくなってるじゃないすか。打ち合わせもリモートばっかりだし。それじゃわかんないすよ。湊はあれで、結構、抜けてるところもあるし。でもシステム開発室にいるとわかるんです。イノウーさんは、木名瀬さんのこと好きなんだなあって」
 「尊敬はしてるよ。仕事のスキルは高いしね。それに頼りになるのも確かだ。だけど、それと恋愛ってのは違うんじゃないかな」
 「最初はあたしもそう思ってたんすよね」マリはまた嘆息した。「だから、あたしにもチャンスがあるんじゃないかって思ってたんです。でもですね、ピクニックの時、エミリちゃんを膝に乗せてるイノウーさん、すごく幸せそうだったし、嬉しそうでしたよ。それ見てたら、なんかピンと来てしまって。あ、そうだったのかって」
 「抽象的すぎてわからないな。それだけで、ぼくが木名瀬さんを女性として好きってことになる? どうして?」
 「こういうのは理屈じゃないんすよ。今まで、恋愛したことないんですか? 仕様書作って、コード書いて、テストが完了しないと、人を好きになっちゃいけないんすか。誰か偉い人も言ってるじゃないですか。恋はするもんじゃない、落ちるもんだって」
 一時間以上かけて必死で理由を探したというのに、理屈じゃない、という一言で片付けられてはたまらない。ぼくは反論しようとしたが、マリは構わず話した。
 「あたし、ちょっとばかり腹が立ったんすよ。いえ、正直に言えばかなり激おこカッコ死語ってやつでした。だって、相手は年上で子持ちの既婚者ですよ。そんな相手に恋したって成就するわけないじゃないすか。こう言っちゃ何ですけど、そんなに美人ってわけでもないですよね。同じ部署に、若くて可愛くてフリーの女子がいるのに、なんでそっちを見ないんだよ、何考えてんだよって。そんで、イノウーさんに冷淡な態度取っちゃって」
 「......」
 「もっと腹が立つのはですね」マリは目を伏せた。「あたし自身、木名瀬さんを嫌いになれないってことなんすよ。職場の先輩としても、一人の女性としても。最近はリモートで女子会やってるんすけど、やっぱりすごくいい人だし、優しいし、曲がってないし。仕事できるのは言うまでもないっすよね。かなわないなあ、って思っちゃうんです」
 話の内容はわかったが、マリが言いたいことがまだ掴めない。わざわざ敗北宣言するために、夕食を作りに来るだろうか。ぼくは木名瀬さんが言っていたことを思い出して訊いた。
 「もしかしてシステム開発室から異動したいとか思ってる?」
 「あ、木名瀬さんから聞きました? うん、それもちょっと考えたんすけどね、やっぱりそういうのは、あたしのキャラじゃないかなって思い直しました。今日、来ちゃったのは、その話なんですよね、実は。あ、冷めますよ。どうぞ、あたしのことは気にせず食ってください」
 「話が終わったらゆっくり食べさせてもらうから」ぼくはかわした。「で、その話って?」
 「あたしは、まだ諦めたわけじゃないんすよ」マリは高らかに宣言した。「これからJava もPython もバリバリ勉強して、業務もガンガンこなして、イノウーさんの右腕になってやります。そしたら、イノウーさんも、あたしの存在価値ってやつに気付いてくれるかもしれないでしょ」
 「今でも十分......」
 「役に立ってるって?」マリはぼくの言葉を先取りした。「そんなのがリップサービスだって、あたしにだってわかりますよ。現にイノウーさんが左手をケガしても、あたしにはサポートすることもできなかったじゃないすか。だから、イノウーさん、あたしを真面目に鍛えてもらえませんか」
 「鍛えるって......つまりプログラミングを?」
 「もちろんです。あたしも余計なことは考えずに、まず戦力として独り立ちできることを目指しますんで。イノウーさんは、血も涙もない鬼軍曹みたいに、あたしを指導していいですよ。いえ、指導してください」
 動機はともかく、期せずして、ぼくとマリの意図が一致したわけだ。
 「そういうことなら了解」ぼくは頷いた。「金曜日にm2A の単体テストが終わる予定だから、土曜日から始めるってことでいいかな」
 「あたしは今日の夜からでもいいんですけど」マリは冗談っぽい口調で言った。「ま、その手ですから。土曜日からで大丈夫です」
 「一応、言っておくけど」ぼくは念を押した。「何も約束はできないよ」
 「そんなのわかってますよ。はい。これであたしの話は終わりです。さ、どうぞ。ご飯に戻ってください」
 ぼくは観念して、目の前の大量の食物に立ち向かうことにした。これが乗り越えられる試練だといいのだが。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(24)

コメント

匿名

メシマズはやめとけ…

匿名

イノウー 妻夫木聡
木名瀬 篠原涼子
マリちゃん 内田理央
で読み替えて読んでます

匿名

「味噌汁はインスタントのようで、こちらもまともな味だ」

匿名

アレン死

匿名

木名瀬さんの声、読み切りの時から田中真弓あててたから混乱してる。

匿名

定石よりも間違った個性を優先する奴に碌なのはいない…。

匿名

サイコスリラーものを読んでる気分になってきたぞ・・・

ちゃとらん

>(year % 400 == 0) or (year % 4 == 0) and (year % 100 != 0)
400年に一回、後ろのor計算なしでtrue判定され、それ以外は必ず最後まで計算されます。

(year % 4 == 0) and (year % 100 != 0)or(year % 400 == 0)
にすると、and 演算でfalseの場合は、or以下も計算されますが、100年に一回は、後ろの計算なしでtrueに判定されます。つまり、こちらの計算式の方が処理速度が速くなります。


この、判定処理の並び順にこだわるかどうかを手抜きというかどうか難しいところです。さらに、判定ロジックをファンクション化すれば、さらに処理速度は落ちますが、プログラムの見やすさやバグは減ります。


私も、 (year % 4 == 0) だけで済ますことはありませんが、どこで止めるのかは難しい問題ですね。


ちなみに六曜(大安、仏滅のあれ)を計算式だけで求めようとすると、相対性理論を駆使した月の軌道計算が必要になります。さすがにこれは手抜きして、カレンダマスタに登録してもらうことにしました。(20年分は予めこちらで登録しておきましたけど)

匿名

閏判定の数値計算だけの処理が速度上のネックになるようなシステムはなかなかないと思うけど、
もしあるなら、100年後は動かないよという制限事項のもと(year % 4 == 0) だけで済ます。

ただ、実際「そこまでこのシステム使ってるわけねえだろ」は正しいと思うけど、
そのコピペがどこかで使われてる可能性はあるんじゃないかな。


andやorの前で理論値が確定した場合に後の式が評価されるかは実装による。C#とかでいう&&や||ならスキップされるが、&や|ならスキップされない。

匿名

こういうふうに、リーベルGさん流のフックを使ってくるとは。


あとイノウーね、
「木名瀬さんのことは別に......」
よくいいますわw

匿名

> andやorの前で理論値が
間違えた論理値

じぇいく

自らの心の在り方と行動が理解できない青年の独白。
そこはかとなく、漱石のような雰囲気も漂ってきましたな。

匿名

>エミリちゃんを膝に乗せてるイノウーさん、すごく幸せそうだったし、嬉しそうでしたよ。それ見てたら、なんかピンと来てしまって。あ、そうだったのかって

あ、そうだったのか(イノウーさんったら小さい子がお好きなのね)って・・・

育野

・うるう年処理について
充分な精度があるなら近似で済ませても良いんだけど,それを保証する手間を考えたら
正式に実装した方が早い気がする.
これから使うシステムだからって過去の日付を扱わないとは限らない.
見た目(実装)からは,近似式にしたのが検討の結果なのか単なる手抜きの結果なのか判断できない.
うっかりトラブルになった時困りそう.
(というか,未だにその手の処理はライブラリ化されてないのだろうか)
# マリさんが必要以上に火を通すタイプのメシマズでちょっと安堵(夏場の生レバーはかなり怖い)
## 一人暮らし始める娘への親のセリフ「食材はよーく焼きなさい,よーく煮なさい」は何のマンガだったか

匿名D

なーんか、一周回ってなんとやら、ってかんじ?


メシマズにもいろいろあるけど、平気で食えてしまうというのは、
メシマズの中でも始末が悪い部類に入ると思う。


ところで、なんかイノウーがにぶいみたいな評価だが、
木名瀬さんも十分ににぶいということなんじゃ無かろうか。


ところで特訓てどこでやるんだ?
マリちゃんがイノウーの家に日参するのだとしたら、
食事担当も兼任することになるんだろうか・・・。

夢乃

>「そこまでこのシステム使ってるわけねえだろ」

そう考えていたからこそ、2000年問題や2038年問題が発生した(する)のではなかろうか。

匿名

伊牟田出てくるとストレス溜まるからこっちの路線がいいです

匿名

鼠と竜のゲームの最終回とかでも思ったが、
イノウーは父性というか子供を持つ事/家庭を持つ事に対する
憧れがあるんじゃないかなぁ。

なんなんし

〉夢乃
それはちょっと理由が違う
単にスペック制限からくる
最初からの制限事項

匿名

>これから使うシステムだからって過去の日付を扱わないとは限らない.
そうですね。結局のところ、そのコードがどこまでの範囲で使われうるのかということですね。


C#ならIsLeapYear(年)


>そう考えていたからこそ、2000年問題や2038年問題が発生した(する)のではなかろうか。
こっちは、そもそも問題自体を認識してなかったパターンもありますね

二十面相

甘い、甘いぞ明智君。
「2000年まで使われるわけがない」と甘くみていたからこそ、19100年になったのだ。

明智

そうは言うがな二十面相君、君の面相カウンタはchar型だったぞ

二十面相

ふ。警察ごときを相手にするならcharで十分なのだよ。

匿名

コメントはしばらくたってから見返すに限る笑

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