イノウーの憂鬱 (21) 乗り越えられる試練
マリのこと、と話を切り出しておきながら、木名瀬さんはなかなか次の言葉を発しようとせず、手を伸ばしてエミリちゃんの髪を撫でていた。エミリちゃんは、腰を下ろしたガンダルフの挿絵を、指でなぞりながら、何か話しかけていた。
「何か飲みます?」ぼくは訊いてみた。「ビールならありますけど」
「ありがとう。でも車なので」そう言った木名瀬さんは、話のキッカケを探すように軽く室内を見回した。「あれはゲームですか?」
木名瀬さんが見ているのは、一時停止状態のままにしてあったゲームの画面だった。
「そうです。ちょっと息抜きに」
「私はTV でもスマホでも、ゲームというものをほとんどやったことがありません。どういうゲームですか」
「Outer Wilds ってやつです。いわゆるアドベンチャーゲームですね」
「面白いですか」
「面白いです。ゲームというよりハードSF 小説を読んでいる感覚ですね。謎解きがメインで」
「手は大丈夫なんですか」
「左手はWASDE とシフトキーぐらいしか使わないので、固定で行けるんです。そんなに激しい動作もしないですし」
「ゲームにはまって徹夜するとか、仕事がおろそかになるとか、廃人になるとかの話をよく聞きますが......」
「いやいや」ぼくは笑って手を振った。「ぼくはそこまでゲーマーじゃないですよ。それにこのゲームは、何時間も連続でできないんです」
首を傾げた木名瀬さんに、ぼくはゲームの概要を説明した。Outer Wilds はある星系を探索するゲームだが、開始から22 分経過すると、太陽が超新星化して全てを蒸発させてしまい、ゲームオーバーとなる設定だ。主人公はタイムループで22 分前に戻って、やり直すことになる。
「ぼくがやるのは、ランチタイムに1 回と、せいぜい寝る前に1、2 回ぐらいなんです。気晴らし程度です」
「なるほど」木名瀬さんは頷いた。「イノウーくんは、気晴らしにゲームをするんですね」
「本も読みます」
「もちろんそうですね」木名瀬さんの顔がぼくに向けられた。「マリちゃんはストレス解消にボルダリングをするそうです。知ってましたか?」
「いえ」ぼくは少し驚いて答えた。「あの壁を登るやつですか」
「そうです。でもコロナ禍のせいで、ジムが閉館していて、もうずいぶんやってないと言っていましたが」
「知りませんでした。そういう話をいつするんですか」
「リモート女子会です。土日のどっちかの夜は、大抵やってますよ。エミリが寝た後、ビールや日本酒を飲みながら」
「え、そうなんですか。ぼくも入れてくださいよ」
「女子会ですよ」木名瀬さんはクスリと悪戯っぽく笑った。「男性には縁遠い世界の話を延々と続けているんです。イノウーくんは付いてこられませんよ。そもそもPMS のグチなんか聞きたいですか?」
PMS が何かわからなかったが、とりあえずぼくは首を横に振った。
「昨日も二人でやってたんですが、そのときマリちゃんがふと言ったんです」
あたし、営業にいた方がよかったんですかね......
「ええ?」ぼくは驚いた。「異動を希望しているってことですか。なんでまたそんなことを」
「自分が戦力になってないんじゃないか、と思ってしまっているんです」
「そんなことあるわけないじゃないですか。現にノートPC の申請フォームや検温フォームだって、フロント部分は全部マリちゃんがやってくれたし」
「確かにそうです。検温フォームにしても、その後に作った掲示板や何かにしても、フロント部分は見事なものでした。PC でもスマホでもタブレットでも、画面が崩れることなく表示されているし、細かい部分、たとえばボタンにはWeb フォントでアイコンを付ける、といった細かな気配りも効いています」
ただ、と木名瀬さんは続けた。
「イノウーくんは案件の中心にいるので、客観的に見ることができていないんです」
「どういうことですか」
「検温フォームの目的は、毎日の検温結果を登録する、というものですね。しかも使用するのは社員だけ。極端に言えば、入力項目が縦に並んでいるだけでも、css など全く定義しなくても、機能そのものは実現可能です。違いますか?」
「......」
「イノウーくんとマリちゃんの耳には入れませんでしたが」木名瀬さんは小さくため息をついた。「実際、そういう声もあったんです。こんな小洒落た画面を工数かけて作る必要あったのか、とか」
一日の業務で同じ画面を何度も使用する業務システムなら、項目の配置や、入力のアシストも重要な要素となってくる。たとえば日付の入力にdatepicker を使う、というようなことだ。一つ一つは無視できるような些細な手間でも、蓄積していくと、効率のロスがストレスとなって噴出することがある。だが、rivendell に乗っている各画面は、せいぜい1 日に2、3 回開けばいい方だし、長時間使用するものでもない。業務システムでも、エンドユーザが毎日使用する画面は丁寧に設計するが、システム部門しか使わないツール的な画面は、適当に手を抜くことが多い。
ぼくはうーん、と唸った。それを聞きつけたエミリちゃんが顔を上げて、可愛らしい声で「ぶーん」と真似をした。
「そうですか。どうせなら、見た目も整っていた方がいいだろ、ぐらいにしか思ってませんでしたね」
ぼく一人しかいなければ、webpack などに時間を費やすことなどせず、最低限、見苦しくない程度のフロントでリリースしたかもしれない。だが、マリの存在が頭にあったため、最初からきれいな画面で提供する、という前提で、構成を考えてしまったようだ。
「いや」ぼくは自分に向かって呟いた。「違うか。マリちゃんが手持ち無沙汰になるのが気の毒だって思ってたのか」
「マリちゃんもそれは自覚しています。だから戦力になれるように、Python の本を買って勉強はしているようですよ。ただ聞いた限りでは、かなり苦労していますね」
「でもJavaScript は書いてますよね。Python は変数の型宣言がないし、書きやすい方だと思いますけど。それに、scss だって変数も使うし、if 文やfor 文だって......」
「そういう言語仕様的なことではなく、ビジネスロジックを作るための思考に切り替えるのがうまくいかないんです。以前、イノウーくんがマリちゃんの書いたスクリプトを、大きく変更したことがあったそうですが憶えていますか」
テレワーク用ノートPC の申請フォームを作っていたときだ。マリが作成したhtml に、Flask 側の処理を組み込んでいる際、ぼくはjQuery のon メソッドに登録されている無名関数のいくつかを、名前ありのfunction として切り出した。重複している処理が多かったので再利用を考えてのことだ。同時にvar で宣言されている変数を、let に変更した。もちろん変数のスコープを狭くするためだ。
「確かにしましたけど」
「その変更のこと、マリちゃんに言いましたか」
「そういえば、後で言おうと思って忘れていましたが......」
「自分が作ったものを、何も言わずに変更されたら、あれっと思うでしょう、普通」
「あれっと思ったら訊いてくれればいいのに」
「そこがイノウーくんの欠点です」木名瀬さんはまた嘆息しながら、言葉を飾ることなく明確に言い切った。「イノウーくんは優秀ですが、周囲の人間が同じようなレベルで仕事をしてくれることを、勝手に期待してしまっていませんか? おそらくイノウーくんは、再利用や効率を考えて変更したのでしょうが、マリちゃんからしてみれば、こんな想像をしたんだと思います。マリちゃんの作ったhtml を見て大きなため息をつくイノウーくん......舌打ちして、こいつ再利用ってことをわかってねえな、と吐き捨てるように呟くイノウーくん......仕方ねえ、修正しとくか、と猛烈にキーを叩き始めるイノウーくん」
「......いや、そんなことは......」
「html に何度も手が入ることはわかっていますよね」木名瀬さんは続けた。「何しろ斉木さんチェックが入るんですから。そのとき、自分が書いたスクリプトが大きく改変されていることに気付くことぐらい予想がつくでしょう。プロだから言わなくても気付いてくれるだろう、というのは少し自分勝手だとは言えませんか」
「......」
「マリちゃんの立ち位置からすれば、自分が信頼されていないと思っても不思議ではありませんね」
「待ってください」ぼくは全身に汗が流れるのを感じながら反論した。「まだノートPC の申請フォームの話が来る前、お互いに持っている知識を教え合っていたときは、マリちゃんだって、ガンガン質問してきてましたよ」
「時間に余裕があって失敗してもいい勉強と、スケジュールが決まっている実業務では、前提が全く異なります」
ぼくは沈黙した。
「それだけではなく......」
「まだあるんですか」ぼくは弱々しい声で訊いた。
「m2A で、暗号化機能をマリちゃんにアサインしてますね」
「はあ。でも投げっぱなしじゃなくて、フォローはしてますよ」
「どういうフォローを?」
「そりゃあ、質問されたら答えるという、ごく一般的なやつですが......」
「繰り返しますが、イノウーくんは優秀なプログラマだと思いますが、そのために、周囲にも同じレベルの成果を求めてしまっています。おそらく無意識のうちに。よく思い出してみてください。質問されて答える、という一連のやり取りの間に、マリちゃんのスキル不足に落胆するような態度や言葉遣いがありませんでしたか」
「思い当たりませんが......」ないとは言い切れない。
「イノウーくん、後輩を指導するのは初めてですか」
「そうですね」ぼくは認めた。「前の会社では、ぼくが一番下でしたから」
「プレイヤーとトレーナーは、全く、異なる技倆が要求されるんですよ。自分が受けてきた教育を、そのまま踏襲するだけでは、うまくいかない場合だってあるんです。イノウーくんの場合、どんな教育を受けたんですか」
サードアイで自分がどういう教育を受けたかな、と記憶層を掘り返しみたものの、ほとんど見つけ出すことができなかった。サードアイでは入社時に一週間ほどの研修期間が設けられてはいたが、2 日間が外部研修サービスでの社会人教育で、残りは社内でJava の勉強だった。Java の勉強は担当業務で忙しい先輩が、交代で教えてくれはしたが、大抵は問題を出されて「やってくように」と放置されていた気がする。形だけの研修期間が終わると、早速、業務の一部をアサインされた。プログラマとして大切なことは、研修よりも業務を通じて怒られながら学んでいった。
「OJT で手っ取り早く経験を積ませるというのは、ベンチャー企業では珍しくないですね」ぼくの話を聞いた木名瀬さんは頷いた。「でも、よく思い出してみてください。イノウーくんに与えられたタスクは、少々難易度が高くても手に負えないほどではなかったはずです。違いますか?」
確かにそうだった。最初に組み込まれたのは、K自動車の下請け企業がエンドユーザで、確か倉庫の入出庫管理システムだった。ぼくは主に帳票関係の一部をアサインされていた。出力形式がExcel、CSV、PDF と多様で、ライブラリの使用方法をネットで調べながら作っていった。スケジュールでも帳票関係のテストは最後の方なので余裕があったし、量だけは多かったが難易度自体は高くなかった。今にして思えば、そのアサインにはいろいろな意図があったのだとわかる。帳票の数は多いので、仕事をした、という達成感を得られた。各種ライブラリの使い方を憶えることができた。打ち合わせにも同席させてもらったので、開発業務の進め方を責任のない立場で傍聴することができた。アサインされた帳票の種類は、不具合があってもリカバリが効くものばかりだった。
「神は乗り越えられる試練しか与えない、という言葉がありますね」木名瀬さんは言った。「聖書に書かれている本来の意味は少々異なるそうですが。ゴールがあまりにも高く設定されていると、人間は挑むことさえしなくなってしまいます。モルドールの火の山に到達するまで10 年かかるとわかっていたら、フロドだって指輪を捨てに行こうとは思わなかったはずです」
「......マリちゃんにアサインしたのって、そんなに難易度が高かったですか」
「暗号化関係なんて、フロント技術には関係ないですから。最初は相当混乱したと思いますよ。でもイノウーくんが、これぐらいできるよね、という態度で振ったので、マリちゃんは期待に応えようと必死だったんですね。いろいろ調べてはいたみたいです」
ぼくはふと思いついて訊いた。
「もしかして、この前、公開鍵方式のことを訊いたのは......」
「ええ」木名瀬さんは微笑んだ。「きっと、マリちゃんはこう思っていたはずです。あの伊牟田課長でさえわかっているのに、知らないのはあたしだけ?」
「訊いてくれればよかったのに」
「これだけ話したからには、もうそろそろわかってもらわんではなあ」木名瀬さんはガンダルフの言葉で答えた。「そんな初歩的なことを訊いたら、イノウーくんが失望するのではないかと思ったんですよ」
「......」
「あえてもう少し踏み込んだ話をするなら」木名瀬さんはエミリちゃんに視線を移しながら、呟くように言った。「ひょっとすると以前なら、マリちゃんも普通に質問できていたのかもしれませんね。以前というのは、ピクニックの日より前のことです」
「......それはあまり関係ないんじゃないですか」
「そうかもしれませんね」それほど深く踏み込む気はなかったらしく、木名瀬さんはあっさり撤退した。「それはお二人の問題なので、私がどうこう言う筋ではありませんから」
「どうしたらいいと思いますか」ぼくは訊いた。「つまり、マリちゃんの教育のことで」
「悩ましいところですね。ご存じの通り、うちの会社には新人教育のカリキュラムがありますが、プログラマ職のようなスペシャリストを想定していません。本来ならイノウーくんにコーチングの研修でも受けてもらった方がいいのかもしれませんが、今、そんな余裕がないことは知っての通りです。私や斉木さんでは、マリちゃんの教育はできません。プログラマとしてのスキルがゼロに近いからです。伊牟田課長が論外であることは言うまでもありません。あの人が教えられるのはオヤジギャグと上司に取り入る方法ぐらいです」
「......」
「これは提案ですが」木名瀬さんはぼくを見ながら続けた。「マリちゃんに、プログラミングの研修を受けてもらうのはどうでしょうか? 長い期間ではなく数日、せいぜい一週間ぐらい。今ならオンラインで受講できる講座がたくさんあるはずです」
「さっき、研修と実業務では違う、と言いませんでしたっけ」
「マリちゃんの場合、プログラマとしてのスキルが不足していることが根本にあります。何がわかっていないかもわからない状態でもがいているんです。研修で体系だった知識を習得して、多少の自信が得られれば、もう少し、イノウーくんに対して言いたいことが言えるのではないかと思うんですが、どうでしょう?」
「研修ですか......」
偏見かもしれないが、ぼくは研修というものに好意的な印象を持ったことがない。サードアイ時代に、業務に関連した海外製のミドルウェアの研修を何度か受講したことがあったが、研修というより製品のプレゼンテーションに近いもので、技術的に突っ込んだ質問をしても、満足のいく答えが得られた試しがなかったからだ。また、初心者向けの研修は受けたことがないので評価のしようがないが、高い金を取るわりに、得られるスキルの幅が狭く、「続きは上級コースで」という研修の話も耳にする。
「外部の研修となると」ぼくは指摘した。「費用が発生しますよね。斉木さんはともかく、課長に却下されませんか」
「そうなんです」木名瀬さんは目を伏せた。「正直なところ、そこが懸念点です。あいにく私はプログラマを部下に持ったことがなく、他に有効な手段を思いつかないんです。イノウーくんはどうですか」
ぼくは立ち上がると、モニタの前に立ち、会社支給のノートPC に切り替えた。スケジューラーを表示して少し考える。m2A のテストは8 月14 日に終了する予定で、目処も立っている。現在のところ未知数なのは、マリにアサインしてある暗号化・復号部分だけだ。IT システム管理課、エースシステムによるテスト開始は、週明け、8 月17 日からの予定だが、まずVPN の構築と各種設定と調整に一日か二日ぐらいは要すると聞いている。暗号化・復号部分が実装できていなくても、当面は問題にならない。
「今週の土日は」ぼくはスケジュールを見つめたまま訊いた。「世間的にはお盆ですが、マリちゃんは帰省するとか聞いています? 確か、実家は四国のどこかだったはずですが」
「香川ですね。しないと思いますよ。コロナのせいで、首都圏から地方に帰省するのはNG という風潮ですし」
「マリちゃんの都合と意向を聞いてからになりますが」ぼくは心を決めて言った。「土日と、その次の月曜日ぐらいに、ぼくが教え込むのはどうでしょう。マリちゃんがやってる暗号化・復号部分と周辺を中心に、業務システムのプログラミングの、何というのか、その......」
「作法ですか」
「それです。ペアプロでやろうと思います」
「先日、うまくいかないと言っていませんでしたか」
「あれは、ぼくが考えたことを、マリちゃんが代打ちするという方法だったからです。教育の手段として、ペアプロは有効だと思うんですが」
「4 月以降、そのような時間はあったのではないですか」
「あのときは範囲が広すぎて概要レベルでした。それに、まだ互いに遠慮があったというか、なあなあで終わってしまっていたところがあるので。今回は範囲を限定して、少し厳しくやろうと思います。短期決戦で。心を鬼にして」
「厳しいだけではダメですよ。乗り越えられる程度の試練にできますか? 私の見たところ、マリちゃんは褒められて伸びるタイプです」
「十分に考慮します」それほど自信があるわけではなかったが、ぼくは断言した。
木名瀬さんは少し考えていたが、やがて納得したように頷いた。
「私にはその善し悪しが判断できません。イノウーくんにお任せします。その件は私からマリちゃんに話しておきます」
「お願いします」
「よかった」木名瀬さんは立ち上がった。「うまくいくことを願っています」
そう言うと木名瀬さんは、皿を重ねて持ち上げると、シンクの方へ歩いていった。蛇口をひねってスポンジを濡らすと、液体洗剤を染みこませて洗い始めた。ぼくは慌ててキッチンに向かった。
「ぼくがやっておきますから」
「手がそれでしょう」木名瀬さんは笑った。「いいから座っていてください。少し材料を買ってきたので、簡単に食べられる野菜スープを作っておきます。待っていてください」
木名瀬さんは洗い物を済ませると、いくつかの根菜をスーパーの袋から取り出し、手際よく切り刻み始めた。降参したぼくは、リビングに戻ると、エミリちゃんの横に座った。エミリちゃんはエルフ語か何かで本の中のドワーフたちに話しかけていたが、ぼくの存在を感知すると、当然のような顔で膝に移動してきた。
「早くお父さんが帰ってこられるといいね」
そう話しかけると、エミリちゃんはぼくを見上げて「ぱぱ?」と訊いた。
「うん」ぼくは答えて、エミリちゃんの頭をそっと撫でた。「パパ」
エミリちゃんは手を伸ばし、PC 用メガネを指して「めがね」と言った。
「ああ、メガネね。プログラマなんてやってるとね、どうしても目が悪くなるんだよね」
「めが」エミリちゃんはそう言い、本をぼくに差し出した。「よんで」
ぼくはエミリちゃんの前に本を広げると、適当に開いたページをゆっくり読み始めた。
「くる日もくる日も、あきあきするほどのろのろとすぎました。ドワーフたちは......」
これまで小さな子供と接する機会などほとんどなかったのだが、自分が読む声にエミリちゃんが耳を傾けてくれるのは、悪い気分ではなかった。外からはセミの鳴き声が、キッチンからは包丁の音と、鍋でクツクツと何かを煮る音が聞こえてきていた。
30 分ほどで木名瀬さんがぼくを呼んだ。エミリちゃんを膝から下ろして、キッチンに行くとホーロー鍋からいい匂いがしていた。
「野菜のスープです。冷めたら冷蔵庫に入れておいてください。食べるときは、お皿に移して1、2 分レンチンですね。ご飯を入れて雑炊風にしてもいいし、ウィンナーやベーコンを足してもいいです。冷蔵庫には見当たりませんでしたが、粒マスタードを添えるとおいしいと思いますよ」
後から何度考えても、そんなことをした理由がわからなかった。そのときは、そうするのが正しいと思っただけだ。
わかりましたか、と問うように見上げてきた木名瀬さんに、ぼくはお礼を言ったはずだが、その記憶はなぜか残っていない。憶えているのは、その細い肩に手をかけたことだ。そして、目を見開いた木名瀬さんに近付き、半開きになった薄い唇に自分の唇を重ねた。
甘美の時間は2 秒にも満たなかったはずだ。すぐに離れたぼくは、自分の行為に青くなって木名瀬さんの顔を見た。驚きと戸惑いはあったが、そこに怒りの色はなかった。
「なんですか、これは」木名瀬さんは落ち着いた声で言った。「今、夫と離れているんですよ。恋が始まったらどうするつもりですか」
慌てて謝罪しようとしたぼくを、木名瀬さんは手で制した。
「謝らないで。謝ったりしたら許しません。このことは忘れようとか言うつもりはないし、なかったことにするふりもしません。でも、ここから先に進むことはありません。わかりましたか」
頷くことしかできないぼくから、木名瀬さんはそっと離れた。
「さて」木名瀬さんは何事もなかったように言った。「そろそろ失礼します。突然押しかけてきて長居してしまいました。まだ仕事をするつもりでしょうが、ほどほどにしておいてください」
木名瀬さんはエミリちゃんを呼んだ。エミリちゃんは本をカラーボックスに戻すと、ちょこちょこと駆けてきた。木名瀬さんとぼくの顔を交互に見上げた後、母親と手をつないだ。
「それでは、また。エミリ、バイバイしなさい」
エミリちゃんは無邪気な笑顔で手を振ってくれた。ぼくは後ろめたさを感じながら、エミリちゃんに手を振りかえした。木名瀬さんは笑顔で辞去の言葉を口にしたが、ぼくはモゴモゴと答えただけだった。
ドアが閉じ、室内に静寂が戻った。ぼくはPC の前に座り、ぼーっと天井を見上げていた。仕事に戻る気にも、ゲームの続きをする気にもなれなかった。
どれぐらい時間が経過したのか。ぼくが我に返ったのは、チャイムの音が響いたためだった。椅子から跳ねるように離れると、玄関に急いだ。様々な思いが頭の中を去来した。忘れ物をしたと照れ笑いする木名瀬さん、さっきの出来事を話し合いたいと真剣な顔で言う木名瀬さん、怒りを露わにした木名瀬さん。
ぼくはドアスコープを覗く手間を省いてドアを開いた。そこに立っていたのは木名瀬さんではなかった。
「あ、こんにちは」マリが言った。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
( ゚д゚)ポカーン
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
ロコ
うぉぉぉぉい!そうくるか。。。
木名瀬さんは聖母か何かか?
とくめー
えー。。。
何しとんねん。
その勢いでマリちゃんになんかしたり、余計なこと言ったりしないことを願うばかり。
yupika
OuterWildsは面白いゲームだからみんなもやっておくように。(後半に触れない鉄の心)
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
( ゚д゚) ポカーン・・・
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚) ・・・
(つд⊂)ゴシゴシゴシ
(;゚ Д゚) …!?
K
いつも楽しく拝見しています。
一箇所気になったので。
冷蔵庫はに見当たりませんでしたが、→冷蔵庫には見当たりませんでしたが
かと。
ほげ
思ったとおり、スキルギャップの話題になったな。前から思ってたけど、マリのやってることってプログラマというよりはデザイナーだよなと思ってたんだよね。
(webシステム開発は詳しくないので用語が誤用ならスマソ)
システムエンジニア、という言葉で括っちゃうと実態が見えないけど、個々人でかなり得意分野とかやりたい事は違ってくるはずだものな。
リーベルG
Kさん、ありがとうございます。
「には」でした。
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名D
なんじゃこらー、としかいいようが無いわ。
さて、イノウーくんはこんな状態で
マリを迎えてぼろを出さずにいられるのか。
いや、ぼろを出すんだろうな。
匿名
間違って別の文章が入り込んだのかと思った
匿名
ボロリと出すんですね。
さかなでこ
先週からの流れでマリじゃなくエミリがメインヒロインなのかな、
とぼんやり思い始めたところでこれかい。
ところでWASDEって世界農業需給予測?
WASDキーのことでしょうか?
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
メインヒロインは木名瀬さんだっていう冗談が本物に
しゅう
(つд⊂)ゴシゴシ
匿名
既婚者への不貞行為は乗り越えられる試練ではないかな
匿名D
誰が上手いことを言えと。
匿名
ハラスメントがどうとか、ぜんぶふっとばす展開だなw
匿名
>WASDキーのことでしょうか
WASDキーで移動するゲームはインタラクトにEキーを使うことが多いので、ひとまとめにしているのでしょう
匿名
エミリちゃんが実は見てて、マリにイノウーがお母さんにチューしてたよって言う昼ドラ展開期待
匿名
マリちゃん香川出身かー
同じなので急に親近感
匿名
エミリちゃんが実は見てて、マリにイノウーがお母さんにチューしてたよって言う昼ドラ展開期待
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
ハラスメントが云々とかふっとんで、逆に刑法犯にさえ問われかねない事案だな
匿名
「なんですか、これは」
さかなでこ
>>12:40の匿名さん
>インタラクトにEキー
ああ、そうなんですか。
ググっても出なかったので教えてくれてありがとうございます。
匿名
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
なんなんし
〉ほげ
フロントエンジニアっていったりはしますが
html、js、css できればぐらいなので、
組織によっては
UIデザイナーの方が通りがいいかも
匿名
木名瀬さんのツワモノっぷりが際立つ…
そしていつの間にかイノウーの脳内は木名瀬さん麻薬漬けに…\(^o^)/
匿名
仕事の合間に読ませていただき凄まじい気分転換になりました。いつもありがとうございます。
匿名
そりゃ外堀埋めて追い込んでくる奴より
いつでも気を使ってくれる方に気が向きますよねぇ。
匿名
エエエが増殖していると聞いて。イノウーの春か?と思ったけど違うよね。しかしイノウーが個人レッスンすると言う流れもうぅん?微妙。^_^
fksk
どこかのサイトで「人は、若いときに教えられたやり方でしか、人を教えられない」という話を見て(ソリッドウェブだったかな?)、放任方針の人、マイクロマネージメントの人も、過去にそういう教えられ方をされたから、そういう教育方針になるのかな、と一人、合点したことがありますね。
なお後半については
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
ラミレス
クリスマスシリーズ一話で木名瀬さんわざわざ不倫ガード発言してたけど、あれは伏線だったのか?なんか妙な唐突感あったな。まさか旦那が鬼籍とかいう設定は悲しすぎるから勘弁よ…
やわなエンジニア
だんだんサイコホラーとかサイコスリラーとか言うんでしょうか、日常が狂っていくというか日常に狂気が忍び込んでくるというか、そんな話に見えてきました
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
匿名
コメントの数に草
ななし~
木名瀬さんの「マリちゃんからしてみれば、こんな想像をしたんだと思います。」のくだり、心にぶっ刺さりました...
「コロナ渦」→「コロナ禍」ですね。
リーベルG
ななし~さん、ありがとうございます。
「禍」でした。
匿名
> 旦那が鬼籍
エミリちゃんの懐きっぷりからも、ちょっと心配しております…
MUUR
「あれは、ぼくが考えたことを、マリが代打ちするという~
セリフ内で呼び捨てになってしまってます。
やだ、もう、びっくりな展開ですよ。
リーベルG
MUURさん、ありがとうございます。
「ちゃん」が抜けていました。
匿名
木名瀬さん→篠原涼子
イノウー→妻夫木聡
に脳内変換して読んでます
匿名
びっくりしたなあ。
匿名
木名瀬さんの「恋が始まったらどうするつもりですか」に笑い止まらず。
強すぎる…。
のり&はる
1週間、頭の冷却期間を設けて思うに
木 名 瀬 さ ん だ っ て 絶 対 動 揺 し て る