イノウーの憂鬱 (16) パートナー企業
ダリオスは10 年以上前に、当時のマーズネット株式会社の受注管理のためにJava で作成されたシステムだ。開発案件の見積作成、受注に関する各種管理業務から始まり、数年かけて少しずつ機能を積み上げてきた。現在では下請け企業への発注管理、請求、支払関連機能も追加されている。ぼくも入社研修のとき、一連の操作手順を教わったが、必要な機能は過不足なく実装されているものの、操作感は今ひとつ、という印象だった。
今回、改修の話が上がったのは、決して使いやすいとはいえないUI のためではなく、何年も前から監査より、下請法への対応が行われていない、と指摘され続けていたからだ。改修コストを理由に先延ばしされていたが、事業統合にあたって、エースシステムからも改善要望が出たため、ようやく話が動き出したのだ。
「その話は」木名瀬さんが険のある口調で伊牟田課長を問い詰めた。「いつから上がっていたんですか」
「先月初めぐらいだったかな」伊牟田課長はあっけらかんと言った。「下期あたりにやろうかって話だったんだけど、どうせエースシステムとのデータ連携やるんなら、一緒に修正させればいい、ってことになったんだわ」
「言い出したのは誰ですか」
「大竹さんだよ」
大竹って誰だっけ、と首を傾げたが、すぐに、この会社の専務の名前であることに思い至った。
「へえ、専務がですか」斉木室長が意外そうに言った。「そんな具体的なことまで指示されるって珍しいですね」
「それだけ重要視してるってことだろう」
「いえ、開発部門のことはあまり良く思っていない、と聞いたことがあるので」
「これまでだったらそうだったかもな」伊牟田課長は胸を張った。「俺がシステム開発室の管理をやることになって、ちっとはまともな開発体制が取れる、と思っていただけたんだろう」
「あの」ぼくは最重要懸案事項を訊いた。「リリースはいつなんですか?」
エースシステムのデータ連携は、厳密にスケジュールが決定しているわけではない。新型コロナウィルス感染拡大の影響もあって、本来なら確定していたはずの様々なスケジュールが、かなり混乱しているためだ。今のところ、遅くとも9 月1 日には本番運用を開始したい、という曖昧な合意が両社間で取れているにすぎない。ただ、エース側の実質的なキーマンの清水さんは「8 月17 日の週が夏期休暇の予定なので、それまでにテストを完了しておきたい」との意向を示している。また、IT システム管理課の湊くんも「あくまでも希望ですが」という前置き付きながら、8 月上旬にはテストを開始したい、と話していた。やはり夏期休暇の関係で8 月は対応できる人員が減るためのようだ。それらの事情を考慮して、ぼくたちは全実装の完了目標を7 月31 日に設定していた。多少、後ろにずれたとしても、8 月上旬のラインはクリアできるだろうと思われたからだ。
「リリース? ああ、カットオーバーなら9 月末になるな。10.1 から運用開始ってことで」
それなら何とかなる。ぼくはマスクの中で口元を緩めたが、その安堵は3 秒も続かなかった。
「つっても」伊牟田課長は続けた。「なんだかんだで、テストに一カ月以上はかかるだろうから、お盆明けにはテスト環境ができてないといかんだろうね。いかがなもんかな。なんつって」
伊牟田課長はまた大笑いしたが、ぼくが「いか」にかけたダジャレだということに気付いたのは、その笑いが消えた後だった。お盆明けということは8 月上旬に改修作業を終える必要がある、ということだ。m2A の開発とスケジュールが見事に重なっているではないか。
「具体的な改修内容は決まっているんでしょうね?」
木名瀬さんの問いに、伊牟田課長は首を横に振った。
「今、財務課が中心となって、各部門でヒアリング中だ。それが集まったら、財務課で一覧にまとめて、法務コンサルに確認して、最終的な要件確定ってことになるわな」
「いつ決まるんですか」
「早くて再来週じゃないか」
「せめて」ぼくは焦燥感とともに訊いた。「途中経過だけでもわかりませんか?」
「ああ? 途中経過なんて知らんがな。まあ、画面は全部作り直したいとは言ってたがな」
全部? ぼくはギョッとして思わずマリを見た。心なしか、マリの顔も青ざめている。
ダリオスが開発されたのはゼロ年代だが、その見た目は90 年代のWeb システムという印象だ。ボタン類は全てエンボス加工された画像ファイルだし、ページタイトルもシャドーで装飾されている。研修のとき、プログラマとしての習性からソースを表示してみたが、レイアウトは全てtable タグで行われていた。現在のようなワイドモニタが主流ではなかった時代の画面設計らしく、ほとんどのページは解像度800×600 を前提として設計されていて、そのためか基本フォントサイズが12px だ。何よりも、動作保証されているのがIE だけということに驚かされた。この会社の標準ブラウザはEdge だが、デスクトップにIE のショートカットが居座り続けている理由の一つだ。
ぼくは研修で部分的に触っただけだが、営業三課にいたマリは、当然、ダリオスを日常的に使用していたはずで、その画面をぼくなどより熟知しているだろう。伊牟田課長の話を聞いただけで、おおよその改修規模が予想できたにちがいない。ぼくはダリオスの画面数を訊こうとしたが、先に木名瀬さんが唸りながら言った。
「ダリオスの画面数は細かい管理系を含めると50 以上はあったはずです。m2A の開発と平行して、ダリオスの改修をお盆明けまでに終わらせるのは、工数的に不可能だと思います。マリちゃん、そうでしょう?」
マリは無言で頭をこっくりさせた。
「ふっふっふっ」伊牟田課長は得意げにピースサインを掲げた。「そんなこともあろうかと、ちゃんと手を打ってあるんだ。聞きたい? 聞きたいだろ?」
「......お聞かせ願えますか」斉木室長が仕方なさそうに促した。
「決まってるだろ。外注だよ外注」
「つまり外部に改修を委託するということですか」
「そうそう。なに、心配はいらんよ。外注先ベンダーはとっくに決めてあるんだわ。明日、来てもらうことになってるから、全員、打ち合わせに出席な。16:00 だ」
こういうところだけは仕事が早いのか。ぼくは半ば呆れながら訊いた。
「どこの会社ですか?」
「マギ情報システム開発ってとこだ。安くやってくれるんでな。マネジメント二課が来月開始の某開発案件の下請けとして押さえてあったんだが、交渉してこっちに回してもらった。な、マネジメント部じゃないとこういうことはできんだろ。ん?」
そんな自慢するほど社内政治力があるなら、スケジュールの方で発揮してくれればいいのに。
「何を打ち合わせるんでしょうか」木名瀬さんが訊いた。「まだ改修内容の詳細も確定していない現時点で」
「キックオフミーティングに決まってるだろ。こういうのは、最初が肝心なんだ」
本当に会議とかミーティングが大好きな人だ。顔を上げたぼくは、木名瀬さんと目が合った。木名瀬さんは、やれやれ、と言いたげに天を仰いだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その男性の声は、マスク越しでも耳障りなほどよく聞こえた。
「マギ情報システム開発の古橋でございます。ヨロシクお願いします」
翌日の16:00、ぼくたちは会議室で、マギ情報システム開発から来社した3 人と顔を合わせていた。物理的な名刺交換儀礼は例によって行われず、顔も下半分がマスクで隠れている。おまけに打ち合わせるべき改修内容も未定とあっては、何のためのキックオフミーティングなのか、全くわからないが、先方の代表らしい古橋さんという男性は、全く気にしていないようだった。伊牟田課長が早速口にしたマスクに関するダジャレを聞くと、大げさすぎるぐらい爆笑して答えてみせた。さぞかし伊牟田課長と波長が合うことだろう。
予想通り、それから数十分にわたって伊牟田課長と古橋さんは二人で話を続けたが、全て、技術的な内容とも、受発注業務に関する話題とも無縁の内容だった。午前中に受け取った来訪者リストによれば、古橋さんはWeb デベロップメント課の課長だということだが、エンジニアではなく、どちらかといえば営業寄りの人間のようだ。同行しているのは、システムエンジニアの肩書きを持つ三津橋さんと、マリと同年代の内田さんの二人だが、最初の挨拶時以来、一言も口を開いていなかった。
「急な依頼だったのに、引き受けてもらって助かりましたよ」
伊牟田課長のリップサービスに、古橋さんは目尻のしわを深めた。
「ほんまですか。いえ、うちの方も正直なところ、助かってますわ。このところいろんな開発が中止や延期になってまして。このままやったら、首でもくくらなあかん、と思ってたとこですんで。御社みたいな大きなところは、そんなこともないんでしょうが、うちみたいな小さいところは、もう必死ですわ」
「うちなど、まだまだですよ」
「またまた。エースシステム様と合併なさったんでしょう? もうこの先、安泰じゃありませんか」
合併ではなく、事業統合だが、伊牟田課長は訂正しなかった。単に面倒だったのか、相手の顔を潰さないように、という配慮なのか、心の中で嘲っているのか。この人は表に出す感情の基本が笑いなので、そもそも意図が読みにくい。
ダリオスに登録されているパートナー企業データによれば、マギ情報システム開発は、資本金1,200 万円、従業員数22 名の小規模ベンダーだ。規模的にはサードアイと大差はない。コーポレートサイトを見る限り、神奈川県内で主にK自動車関連企業の開発案件を、下請け、孫請けとして多数手がけているようだ。気になるのは、開発事例に列挙されている企業名が「A 社」「B 社」などになっていたことだ。単に取引先から掲載許可が取れなかっただけなのかもしれないが、サードアイではきちんと実名を出していたので違和感を憶えたのだ。
ぼくにとっては、そしておそらく伊牟田課長以外のシステム開発室のメンバーにとってもどうでもいい世間話が45 分ほど続いた頃、ひっきりなしに話していた二人が、同時に口を閉ざすタイミングが出現した。ぼくはすかさず口を開こうとしたが、木名瀬さんの方が半秒ほど速かった。
「すみません、よろしいですか」
木名瀬さんのよく通る声は、二人の中年男のバカ話にうんざりしていた脳に清涼剤のような効果をもたらした。話を続けようとしていたらしい伊牟田課長は、少しムッとしたらしいが、すぐに陽気な口調で訊いた。
「なんだよ」
木名瀬さんは持参してきたプリントアウトを掲げた。
「改修内容も確定していないのに、すでに人月による改修見積が出ています。これはなぜでしょうか」
「ああ、それですか」古橋さんは愛想良く答えた。「伊牟田さまより、現行システムの画面数などを教えていただいたので、それを元に算出したものです」
「では概算見積ということですね」木名瀬さんは確認した。「確定ではなく。後日、改修内容が確定した時点で、改めて最終見積をいただけるという理解でよろしいですか?」
「あー、そうですね。そういう方法もありますが」古橋さんはチラリと伊牟田課長を見ながら、やや曖昧な口調で言った。「ですが、まあ、そう大きく外れることはないと考えておりますので」
「では、これが最終見積になる可能性もあるのですか」
「御社もお急ぎのようですし。少しでも早く作業に取りかかった方がよろしいかと思いまして」
「なんだよ、木名瀬さん」伊牟田課長がヘラヘラ笑いながら割り込んだ。「多少違っても、誤差って考えればいいじゃない」
「この規模の改修にしては高額だと思われますので」木名瀬さんは見積書に目を落とした。「機能改修(小)34、機能改修(中)12、機能改修(大)10で、合計177人日。プロジェクト管理工数10% で194.7 人日。一人月20 人日換算で9.7 人月。約10 人月ですよ」
ぼくは大きく頷いた。今日の昼過ぎに来訪者リストと同時に届いた見積書を見て「高っ!」と驚いたものだ。企業活動だから、利益を出さなければならないことはわかるし、内部留保に余裕のありそうな客なら、多少上乗せしたい気持ちもよくわかる。現在の状況で、小規模ベンダーの台所事情が苦しいことは想像に難くないし、同じようなベンダー出身者として同情も禁じ得ない。だが、ぼくがシステム開発室のメンバーだけで改修を行う前提で、大雑把ではあるが算出した概算では、多く見積もっても2.5 人月を超えていなかった。もちろん定時だけの作業で終わるとは思えないので、時間外労働は発生するが、それを加算したとしても、マギ情報システム開発が出してきた見積は高すぎる。てっきり、ここから価格交渉が始まるのだろうと思っていたが、どうやら伊牟田課長はこのまま受け入れるつもりだったらしい。
「まあ特急料金も入っておりますがね」
古橋さんは、それが全ての説明になる、と言わんばかりに答え、伊牟田課長も納得したように頷いたが、木名瀬さんはまだ追求の手を緩めなかった。
「それを考慮しても、アバウトすぎる見積だと言わざるを得ません。この見積算出の詳細な根拠を出していただけないでしょうか」
「詳細な根拠と言われましてもねえ」古橋さんは短い笑い声を洩らした。「困りましたなあ」
「難しくはないと思いますが」木名瀬さんは、その笑いに全く同調しなかった。「どの機能に何人日、と出した結果が、この合計だと思われます。機能項目毎の想定工数を教えていただければよろしいんです」
古橋さんは、同行の二人を見やった。これまで三津橋さんは黙って話を聞いていた。議事録担当らしい内田さんは、広げたノートの上にペンを握った手を載せていたが、そこには数行が記述されているだけだ。
「うーん、三津橋くん、どうかな」
全員の視線が三津橋さんに移った。年齢は30 代半ばから40 代前半ぐらいのどこかだ。エンジニアにありがちな肥満の傾向は見られず、むしろ痩せている方だ。マスクが合っていないのか、かけているメガネは下半分が曇っていた。
「詳細は今はちょっと手元にありませんね」
「御社のどこかにはある、ということでしょうか」
「そりゃあ、もちろんですがね」三津橋さんは、どこか不機嫌そうに答えた。「お出しする必要性というか、意味ありますかね」
「といいますと?」木名瀬さんは丁寧に訊いた。
「つまりですね、詳細となると、ほとんどプログラミングレベルの内容になるわけですよ。失礼を承知で申し上げますが、御社に正確な評価ができますか、ということです」
ぼくと木名瀬さんは、唖然となった顔を見合わせた。この人は、今、対面している相手の部署名をわかっていないのだろうか。
「今回、御社が自力では改修が難しいということで、弊社に話が下りてきた、と聞いております」三津橋さんは腕を組んで続けた。「うちは、いえ、弊社は御社のように大企業から仕事を受注できる立場ではありませんが、プログラミングはプロなんです。その我々が算出した工数は、それなりの経験値に基づいたものです。弊社に依頼される以上、そこは尊重していたければ、と思います」
そうか。ぼくは三津橋さんの思考が納得できた気がした。どうやらマギ情報システム開発の三名は、システム開発室のことを、いわゆるユーザ企業のシステム窓口程度にしか認識していないらしい。実装スキルを持つ人間がいる、とは想像すらしていないのだ。システム開発室の業務詳細がマーズ・エージェンシーのコーポレートサイトに載っているわけではないので、知らなければそう考えるのも無理はない。だが、これから一緒に仕事をしようという相手に、伊牟田課長が、システム開発室の業務内容すら伝えていなかったとは。
ぼくはため息をついた。最初の思い込みを覆すのは簡単なことではない。どうやったら、三津橋さんにシステム開発室の構成メンバーの半分がプログラマであることを理解させればいいのだろう。この場にノートPC でも持ってきて、目の前でコーディングでもしてみせるか、とぼくは半ば真剣に考えた。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
キックバックでも貰っているのか
もしそうなら最終的に告発して伊牟田課長を始末するのだろうか
匿名
マギ情報システム、確か魔女の刻で出てきた会社ですね。技術力は………………
何なんし
IEが悪いとは思わないよ(´・ω・`)
chrome 標準にしても良いんだけど
w3c 標準を指定しても警告一杯とか
UX関連のアラートだから実動作に影響なし
とか作り手にいわれること
広告とかランディングページぐらいなら
w3c 違反のブラウザ更新あったら
ブラウザ側の修正入るまで待ってりゃいいけど
業務システムでそれやられると
業務止まるので、仕方なしといったところ
それに現場からブラウザ間違って閉じない様に
「×」押したときにアラート欲しいとか
必須にされるとIEしか対応できぬ(´・ω・`)
s
50画面、10人月って高いんですか?
h
マギ情報システム、技術力は普通にはあるんでないですかね?
単体テストは通過させつつシステム全体として後々問題になりそうなプログラムを意図的に組めるわけですし
問題は金さえもらえば何でもやるってところですね
匿名
すごい、こんな状況に居合わせたら速攻で退職届出しちゃう
匿名
マギ情報システム、エースから出入り禁止になったんじゃなかったでしたっけ。
合併した以上、エースの下請けブラックリストも共有されているはずなのになぜ使えるのかが不思議。
その辺りも今後明らかになるのかな。
匿名
魔女の刻とどっちが先なんだろう,時系列がまとめたくなってきた(Zのときの地図は役に立ちました)
匿名
魔女の刻の中で、川嶋さんがイノウーのことを「やめてしまった」と言ってるシーンがあった気がするので、時系列的にはこっちの方が後なんでしょうね。
匿名
魔女の刻より時系列的に後だとすると、白川さんにポアされた後、台所事情が苦しくなって、そこそこ使える奴は逃げ出すように転職、クズばかりが残ったって構図ですかね。
匿名
魔女の刻の終章でその2社は倒産することになったはずなので、その直前あたりの話になると言うことですね。まだ白川さんが現世にいる時間軸ということになるでしょうか。
匿名D
魔女の刻にコロナ禍を絡めるわけにはいかないから、
あれが始まるずいぶん前に物語も完結するんじゃないかな。
となると、マギ情報システム開発はさらした醜態(確定w)を
エースに気取られることなく存続するということになってしまいます。
この作者殿の物語の結末がビター風味なのはいつものことですが。
匿名
斉木室長お得意の無限リテイクで懲らしめていただきたい…
匿名
50画面2.5人月が当たり前って、すごいな
いや、自分が置かれている環境がぬるいのか