ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (14) 蛇の舌

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 「ところでさあ」斉木室長は周囲を見回してから声を潜めた。「イノウーちゃん、笠掛くんと何かあった?」
 またそれか。ぼくはうんざりした。先週以来、ぼくとマリの共通の関係者から、折に触れて訊かれてきた質問だ。
 「別に何もないですよ」
 ウソは言っていない。事実、ぼくは何もしていない。何もしなかったこと自体が罪だと言われれば反論のしようがないが、幸い、斉木室長はそこまで深くは突っ込んでこなかった。
 「ふーん。先週、元気なかったみたいだったからね。今日も有休取ってるし」
 その口調には、ぼくに対する疑念が多分に含まれている気がした。ぼくは少しムッとしながら答えた。
 「そんなに笠掛さんのことが気になるんですか」
 「そりゃあね」
 「そういえば、クリスマスでビンゴ作ったときも、彼女のことを気にかけてましたよね。何か特別な理由でもあるんですか?」
 「まあね」
 「へえ。気になりますね。何か特殊事情でもあるんじゃないでしょうね」
 ぼくに対する質問を逸らすための質問だったが、半分は意趣返しでもあった。とはいえ、もし「実は外聞をはばかる関係だった」などと告白されたら二の句が継げなくなってしまっただろう。しかし、返ってきた答えはありふれたものだった。
 「笠掛くんが新人のとき、私がOJT を担当したからね」
 「あ、そうだったんですか」
 「だから心配するのは当然だよ。ケンカしたんなら、早く仲直りしてくれると助かるんだけどね」
 同じことは木名瀬さんにも言われたが、だからといって、ぼくにできることは何もない。マリはどうやら、ぼくに好意を持ってくれているらしい。そのこと自体は嬉しく思うが、あいにくぼくの方は仲がいい同僚以上の気持ちを抱いていない。二人の上司の期待に沿って、ぼくがマリの気持ちに応える、または応えるふりをする、というのは、どう考えてもおかしいし、マリに対しても失礼だ。
 ぼくが悩んでいると、斉木室長が躊躇いがちな声で言いかけた。
 「イノウーちゃん、まさかとは思うんだけど......」
 そのとき、エレベーターホールから、IT システム管理課の戸室課長が歩いてくるのが見えた。ぼくたちの姿に気付くと小走りに近付いてきたので、斉木室長は「気にするな」とでも言いたげに手を振ると口を閉じた。
 「すまない、ちょっと遅れたか」そう言いながら、戸室課長は周囲を見回した。「あれ、伊牟田さんはまだか」
 「まだです」斉木室長が答えた。
 「うーん」戸室課長は時計を見て渋面を作った。「もう時間過ぎてるのに」
 「まだ少し余裕がありますから、大丈夫ですよ」
 「そうだが」戸室課長はエントランスのガラス越しに雨模様の空を見上げた。「こういう日に走りたくはないからねえ。場所が近すぎるのもよしあしだね。これだけ近いとタクシー使用も許可されないし。伊牟田さんも早く来てくれないかなあ。だいたい、伊牟田さんの都合で今日になったのに。まあ、あの人が遅れてくるのはいつもだから、仕方ないんだが」
 腹を立てているというより、むしろ集合時間に遅れている伊牟田課長を弁護しているような口ぶりだ。それとも、自分も遅刻してきたことへの弁解だろうか。さらに言葉を続けようとした戸室課長は、不意にスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てると、ぼくたちから顔を背けて誰かと話し始めた。
 「伊牟田さんだった」通話を終えた戸室課長は肩をすくめた。「急用が入って5 分ほど遅れるから先に行っていてくれ、ってさ。じゃ、先に向かってようか」
 戸室課長はスライドドアの方に向かい、ぼくは斉木室長と顔を見合わせてから後を追った。
 「あらら」外に出て手をかざした戸室課長は、小さく舌打ちした。「やっぱり雨がチラついてるよ」
 正しくはパラつくではないか、と思ったが、そんなことを指摘してもいいことはない。ぼくたちは持ってきた傘を開き、横浜駅東口に向かって歩き出した。目的地は横浜駅西口から徒歩5 分のエースシステム横浜ビルだ。
 延期されていたエースシステム横浜への訪問が、6 月24 日に決定したのは、先週の木曜日だった。当初、伊牟田課長はシステム開発室の管理業務が正式にスタートする7 月1 日以降を望んだが、エースシステム側の希望は6 月第4 週前半だった。伊牟田課長は、新しい名刺ができてこないことを理由に渋っていたが、立場の強いエースシステム側の意向は無視できず、やむなく本日の14 時で同意した。
 「そういえばイノウーくん」戸室課長が歩きながら、ぼくを肩越しに見ながら言った。「笠掛くんとケンカしたって本当かね」
 ここまで大勢の人が気になる話題なのは、ぼくよりも、マリが社内でも人気者であるからだろう。それにしても、なぜ、みんながみんな、ぼくに原因があると決めつけるのか。
 「いえ」ぼくは素っ気なく答えた。「別にケンカをしたわけではありません」
 「そうなのか。イノウーくんが浮気したとか聞いたが」
 「してません!」
 つい大声を上げた結果、すれ違う人から非難の視線を向けられることになった。屋外でマスクを外しているため、飛沫をまき散らす迷惑野郎と見られたらしい。マスク警察に目撃される前に、ぼくはポケットからマスクを引っぱり出した。そんなぼくを見ながら、戸室課長は年長者の余裕で忠告してくれた。
 「何だかしらんが、早めに謝っといた方がいいぞ。適度なところで女性に主導権を握らせてやる。それが夫婦円満の秘訣だよ」
 「......参考にします」
 横浜駅のコンコースを抜け、西口のヨドバシカメラ付近から地上に出て、少し歩くとエースシステム横浜の白いビルが現れた。ぼくたちはマスク姿の警備員の横を通ってエントランスに入った。
 「広いですね」ぼくは囁いた。
 「聞いた話だと」斉木室長は囁き返した。「受付の女性がすっごく綺麗らしいんだよ」
 受付ブースは広いエントランスの中央にあったが、斉木室長の期待に反して、現在は感染予防のために封鎖されていた。人間の代わりに受付業務を担当しているのは、数体のPepper くんだった。
 打ち合わせ開始の10 分前になっていた。先に受付を済ませるか、伊牟田課長を待つか、と小声で相談していると、エントランスに伊牟田課長の姿が現れた。急ぐ様子もなく、真打ち登場、と言わんばかりに悠然と歩いている。
 「おつかれサマンサ」陽気な口調に、遅刻に対する謝罪はひとかけらも含まれていなかった。「あれ、噂の綺麗な受付嬢はいないのか。あー、なんだ。楽しみにしてたのに」
 何しに来たんだ、この人は。
 「戸室さん、もう受付したの? お、イノウーくんじゃん、君、笠掛ちゃんとケンカしてるんだってね。あの子、社内でも狙ってる奴多いからねえ。早く仲直りしないと、他にかっさらわれるよ。なんなら、オレがキューピットやってやろうか?」
 斉木室長や戸室課長から聞くと多少イラつくぐらいでしかないのに、同じ内容の言葉をこの人が話すと、どうして不快感しか残らないのだろう。もっとも、そう思っているのは、この場ではぼくだけらしいが。
 「伊牟田さん」と戸室課長が苦笑しながら言った。「もう行かないと遅れますよ」
 「んん? ああ、そうか。受付は?」
 「やってきます」
 ぼくはPepper くんに向かった。ぼくの接近を検知したPepper くんが甲高い声で挨拶し、胸部のタッチパネルが明るくなる。ぼくは受付を開始した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 広い会議室に通されたぼくたちは、椅子一つを挟んで座り、エースシステム社員を待った。サードアイ時代、下請けを待たせることなど少しも気にしない、と聞かされていたので、5 分や10 分待たされることを覚悟していたが、意外にも着座して1 分も経過しないうちにドアが開いた。
 入ってきたのは二人だった。こちらの四人に比べて少人数なのは、マーズ・エージェンシーに対する関心度の低さを意味しているのか、コロナウィルス対応のため最小限度にとどめただけなのかは不明だ。
 通常なら名刺交換タイムとなるところだが、やはり時勢を反映して、それぞれ口頭で名乗るだけだった。先方はコーポレーション・プランニング部第3 グループの本城さんと、ビジネスマーケティング課データ管理グループの清水さんだ。本城さんは40 代ぐらいの課長職、清水さんはぼくと同年代の主任だ。こちらのターンになって、戸室課長が一礼して口火を切ろうとしたとき、伊牟田課長がその機会を奪った。
 「どうも。伊牟田と申します。システム開発室のリーダーということになりますかね。エースシステム様には今後ともお世話になりますので、ぜひともよろしくお願い申し上げます。こっちはインフラを担当している戸室、こっちの二人が斉木と井上で、実際の連携作業をあれこれやる係です」
 エース側の二人は戸惑ったように顔を見合わせた。
 「よろしくお願いします」清水さんが言った。「では、早速、データ連携について、いくつか確認しておいた方がいい点を相談させてください。事前にAPI 仕様をお送りしましたが、見ていただけたでしょうか」
 「はい、もちろんでございます」伊牟田課長が必要以上に大きな声で言った。「素晴らしいAPI が揃っていて、さすが天下のエースシステム様だと感動いたしました」
 伊牟田課長の参加が決まった時点で、エースシステムより受領済みのAPI 仕様は共有してあった。目を通しておいてください、と言ってはあるが、内容の理解までは期待していないのは言うまでもない。ぼくが期待しているのは、伊牟田課長が最初と最後の挨拶のとき以外は黙って座っていてくれることだったが、その希望は開始早々、崩れかけていた。
 「はあ、それはどうも」清水さんは、伊牟田課長の賛辞を軽く流すと、持参してきたキングジムファイルを開いた。「まず、データレイアウトですが、フォーマットで何かご質問などはありますか?」
 清水さんは誰が答えてくれるのか、と問いかけるように、ぼくたちの顔を順番に眺めた。ぼくはクリアファイルに入れてきたプリントアウトを出したが、口を開く前に、またもや伊牟田課長が発言した。
 「データレイアウトというと、あれですか、固定長ファイルの」
 「そうです」
 「あれは、ずっとああいう形式なんでしょうか?」
 「そうですが」清水さんは訝しげに答えた。「それが何か?」
 「いえいえ」伊牟田課長は笑い声を上げた。「実に独創的で素晴らしい形式でございますね」
 「そうですか?」
 「ええ。あまり見たことがないものですから」
 固定長ファイルは、最近のWeb システムではまず使われることがないが、それは独創的で素晴らしい形式だからではなく、処理の点でも拡張性の点でも不便だからだ。項目の桁数を設計時より増やそうとすると大きな改修となる、新規項目の追加は、事実上、末尾に追加していくしかない、フリーコメントのように文字数の予想が難しい項目では最大1000 文字のような制限を余儀なくされる、日付項目のデータが正しい日付であることが保証されていない、データのトリミング処理が必要となる、などデメリットを挙げればきりがない。メリットとして思いつくのは、データ量がある程度正確に予想できることぐらいだ。
 「扱いが不便じゃないかと思うんですがね」
 「そんな、とんでもございません。エースシステム様が運用されているんですから、もう、それが正義ってなもんではございますよ」
 マスクで顔の下半分が隠れていても、清水さんが苛立ってきていることはわかった。仕事の話をする時間のはずなのに、今のところ伊牟田課長が生産性のないおべっかを一方的に量産しているだけだ。
 「それはどうも」清水さんは素っ気なく答えると、ぼくの方に視線を向けた。「えーと、井上さんでしたか。フォーマットの件、問題ないでしょうか」
 「はい、いくつか質問させてください」
 ぼくがまとめてきた質問事項を口にしようとしたとき、伊牟田課長がクスクスと笑い声を出したので中断した。
 「あ、申し遅れました。こいつの名前は井上ですが、社内ではイノウーと呼ばれているんですよ。御社でも、よかったらイノウーと呼んでやってください。うちは全然構いませんので。そうだろ、イノウー」
 ぼくは伊牟田課長をまじまじと見つめた。斉木室長と戸室課長、それにエースシステムの二人も同じ行動を取っている。視線を集めていることに気付いた伊牟田課長は、ウケを取れたとでも思ったのか、さらにヒャヒャヒャと笑い声を上げた。
 「質問ですが」ぼくは伊牟田課長の声が途切れたタイミングを狙って発言した。「会社名ですが、会社名1、会社名2、会社名3 と分かれています。これはどのように使えばいいんでしょうか」
 「ああ、はい、それですね」心なしか、清水さんの声にホッとしているような響きが感じられた。「長い会社名の場合、分割して格納していただくために分かれています」
 「会社名1 が40 バイト、つまり40 桁となっていますが、これはシフトJIS 換算で、ということでいいんですか?」
 「そうです。半角文字が1 バイト、全角文字が2 バイトとなります」
 「エスジスってやつですね」また伊牟田課長が横から口を出し、意味もなく笑った。「エスジス」
 「もし長い会社名」ぼくは伊牟田課長を無視して続けた。「プラス半角文字が入っていた場合、文字数によっては、40 桁めが全角文字になる可能性もあると思いますが、その場合は?」
 「その場合は40 バイトめをスペースにしてください」
 「なるほど」ぼくはプリントアウトにメモしながら頷いた。「半角カナの使用は問題ないですか?」
 「あるんですか?」清水さんは訊き返した。
 「おいおいおい」ぼくが答える前に、伊牟田課長がたしなめるように言った。「そんな会社名があるわけないだろう」
 「ああ、いえ」斉木室長が言ってくれた。「部署名が半角カナになっている会社がいくつかあったはずです」
 伊牟田課長がムッとした顔で何か言い返そうとしたが、その前に清水さんが咳払いした。
 「そうなんですね。申しわけないんですが、半角カナは対応していないので、全角に変換してもらえますか」
 「全角変換ですね。了解であります」
 おどけた口調で言ったのは、もちろん伊牟田課長で、場違いなバカ笑いが続いた。本城さんと清水さんは、仕方なさそうに笑ってくれたが、ぼくは穴があったら入りたい気分だった。
 「次にレコード区分ですが」ぼくは務めて冷静さを保ちながら質問を続けた。「1 が新規、2 が変更となっていますが、項目が一つでも変更になったら2 で再送信するという理解でいいですか?」
 「基本的にはそうです。ただ、先頭の14 項目以外はこっちのシステムで使わないので、定期マッチングのときでも問題ないです」
 「社名とか部署名が変更になったとき、ということですね」
 「ご存じだと思いますが」と伊牟田課長が割り込んだ。「うちも4 月から社名変わったんですよ。あ、もちろんご存じですよね。御社と事業統合したためですから」
 どうやら伊牟田課長は、自分がマーズ・エージェンシー側のリーダーだという存在感を強調したいためだけに、このように反応に困る発言を繰り返しているらしい。そう気付いたぼくは以前、東海林さんのことを思い出した。
 ある飲み会の席で、東海林さんは、本職のアナウンサーではない芸人がMC を務めるニュース番組が嫌いだ、という話をして、その理由を語っていた。曰く、芸人は職業柄、自分に注目を集めたいという本能と、他人をいじるための反射神経を発達させている。ゆえに、ゲストやコメンテーターが噛んだり、とちったりすると、そのミスをことさらに強調することで笑いを取りにいってしまう。そのため、ニュース番組なのにバラエティ番組のような様相を呈してしまい、せっかく呼んだ専門家の意見が尻切れトンボになってしまうこともある。プロのアナウンサーであれば、自分は出しゃばらず、ゲストからうまく意見を引き出してくれる。
 今、ぼくの目の前で、同じ現象が発生している。まだ質問項目はたくさん残っているのに、伊牟田課長が会話ごとにくちばしを突っ込んでくるので、その消化率は低い。今回の顔合わせは「短時間で」という双方の要望で1 時間しか確保されていないのに、その中の少なくない時間を、伊牟田課長によってムダに消費していた。今のところ、清水さんは直接的な感情を見せてはいないが、さすがに無限の忍耐を有してはいないだろう。この会議室を出るまで、そのストックが切れないことを祈るしかない。
 そう思いながらエースシステム席を窺うと、二人のエース社員の反応が異なるものであることがわかった。おそらくお飾りで出席している本城さんは、目元をほころばせていて、笑い声こそ上げていないものの、伊牟田課長の言葉にいちいち頷いている。対照的に清水さんは眉をしかめていた。ぼくと視線が合うと、清水さんはちらりと伊牟田課長を横目で見て、目をぐるりと回してみせた。何とかしてくれ、と訴えかけているようだ。その要望にこたえたいのは山々だが、ぼくにできることは非常に限定されている。
 「暗号化の件でいくつか質問してもよろしいですか?」
 ぼくは予定していたフォーマットに関する質問をスキップした。帰社してからメールで訊けばいい。
 「はい、どうぞ」
 「API にあるキー交換プロセスですが、これ、Diffie-Hellman ですか?」
 ほとんど意味のない質問だが、伊牟田課長は「ディフィーヘルマン」という名詞の解釈に戸惑っていて、口を挟むことができなかった。それを察してくれたのか、清水さんは間髪を入れずに答えた。
 「そうです。一般的なやつです」
 「事前の共通鍵共有でもいいような気がするんですが」
 「以前はそういう方法もあったみたいですね。USB でキーファイルを持ち運んだりして。指紋認証の高いやつで」
 「指紋のUSB ですかあ」つけいる隙を見つけた伊牟田課長が、ニタニタ笑いながら言った。「あれは高いですよね。うちじゃなかなか買ってもらえないですよ」
 「そのときは」ぼくは伊牟田課長の笑い声を遮るように訊いた。「AES だったんですか。Java で作ってありますよね。キー長に制限なかったでしたか」
 「ありましたね」清水さんは頷いた。「128 ビットしか使えなくて。それもあって、今の方式に変更したんです」
 伊牟田課長は「128 ビット!」と大げさに言ったが、意味がわかっていないことは賭けてもいいぐらいだ。ぼくと清水さんは、伊牟田課長を無視して、暗号化・復号の技術的な話を、できるだけ多くの横文字を含めるようにして続けた。伊牟田課長は、かろうじて聞き取れた日本語を拾っては、驚嘆したり、ダジャレにしてみたりしていたが、それもだんだん尻すぼみになっていった。
 やがて伊牟田課長がつまらなそうに沈黙したので、ぼくと清水さんはAPI の細かな仕様の情報交換を再開した。これはぼくにとって、予想外に楽しい時間となった。データレイアウト、文字コード、改行コードの扱い、プロトコル、暗号化・復号の詳細などの受発注データ連携について、清水さんは豊富な経験と知識を持っていて、やはり技術者としての会話を楽しんでいることがわかった。
 意識していなかったが、どうやらぼくは、一種の精神的な飢餓状態だったようだ。植木に水をやらないと枯れてしまうように、プログラマも定期的にテクニカルな情報を吸収しないとスキルが落ちてしまう。マーズ社内では、実装レベルの話ができる人がほぼ皆無だ。斉木室長はもともと営業部門のマネジメント職だし、木名瀬さんは環境まわりには詳しいが、プログラミングの知識はあまりない。唯一、話ができていたのがマリだったが、これまでのところ、ぼくから教えることばかりだったし、ここ数日は、それすらできていない。マリは仕事を進めるうえで、最小限度の会話だけを事務的に交わすと、さっさとビデオ会議から抜けていたのだ。できるだけ早めに、ギクシャクしているマリとの関係を修復しておくべきだ、とぼくは決心した。
 予定していた1 時間はあっという間に過ぎ去った。清水さんはまだ話していたそうだったが、本城さんが時計を見て「次の予定がありますので、このぐらいで」と終了を宣言した。
 帰り支度をしている間、伊牟田課長は再び活力を蘇らせ、天気や、コロナウィルス、お盆休み、受付のPepper くんなどの話題を次々と口にし、ゲラゲラと一人で完結する笑い声を発していた。まるで自分がこの打ち合わせの議長であるかのように、次回の予定まで決めようとしたが、清水さんがやんわりと拒絶した。
 「対面での打ち合わせは、当面、予定がありませんので」
 「そうですか」伊牟田課長は残念そうに言った。「うちの人間が、理解できたかどうか心配でございまして」
 「井上さんは、よく仕様を理解されていると思いますよ。後はメールかオンラインで問題ないと考えます。井上さんはいかがですか?」
 ぼくが同意すると、伊牟田課長は「それならいいんですが......」と小声で言いながら引き下がった。ぼくと清水さんは、無言のうちに連携し、伊牟田課長がそれ以上余計な言葉を発しないうちに、揃って席を立った。
 伊牟田課長を先頭に会議室を出ていき、ぼくは最後に残った。入館するときに書いた訪問カードに、エース社員のサインをもらう必要があったからだ。清水さんが訪問カードにサインしてくれ、ぼくに渡すとき、小声で囁いた。
 「次から、あの人は連れてこないでください」
 ぼくは了解の合図に二回頷くと、伊牟田課長たちの後を追いかけた。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(12)

コメント

匿名

完全に外堀埋められとる…
転職したてでやっかいだな…

yupika

伊牟田、社内政治に逃げた…というだけでは無能感がわからなかったが
思ったよりひどい人間で笑った…いや笑えなかった…

匿名

先週の木名瀬さんの尋問の続きが見たかったw

匿名

マーズ・エージェンシー、セクハラ体質過ぎんか...?

匿名

恋愛で自分の思った通りにならないからと言って仕事に不機嫌が出てしまうって、「だから女は」って言われるパターン

匿名

魔女の刻の弓削系を想像してたらまんまだった件

匿名D

木名瀬さんがイノウーを血祭りに上げるのを期待していたんだけど。
たしかに、イノウーにそのつもりがなかったらそれまでの話だしなあ。

匿名

伊牟田口レンヤ、想像以上の屑だったwwwww

置物の方が有能なのか。

置物の方が有能なのか。

清水

[終了を宣言した。] でしょうか。

いつも楽しく読ませて頂いてます。

リーベルG

清水さん、ありがとうございます。
宣言と終了が逆でしたね。

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