ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (3) テレワーク狂想曲

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 プログラマはテレワークを導入しやすい職種だ、と言われる。プログラミングという作業だけを見れば、それは正しい意見だ。それまでテレワークという働き方を経験したことがなかったぼくも、実際に始めてみるまでは、そう思っていた。
 言うまでもないが、数少ない例外を除けば、プログラマは閉鎖空間で一人きりで完結できる職業ではない。プログラマがプログラミングで給料をもらうためには、様々な要素が必要となる。要望を出してくれるエンドユーザ、それを利益の出る業務として成立させてくれる営業部門、スケジュールや人的リソースの管理を行う上長、サーバやネットワーク環境を提供してくれるインフラ部門。もちろん経費精算や人事管理などを行う間接部門の存在も重要だ。雑音の届かない静かな部屋や、指の疲労度が少ないキーボード、大きく鮮明なモニタなどが必要だという人もいるだろうし、定期的なカフェインの摂取が必須な場合もあるだろう。改めて考えてみると、プログラマは案外、贅沢な作業環境を必要とする職業なのかもしれない。
 ぼくがテレワークを始めたとき、最初の障壁になったのは、その作業環境の問題だった。
 初日は、通常の出社時間の1 時間前に起床した。ゆっくりコーヒーを飲み、フルーツグラノーラの朝食を取りながら、何年も見ていなかった朝のニュースを見る。マーズに入社して以来、いや、社会人になってから、こんな優雅な平日を迎えたのは初めてだったのではないだろうか。慣れたら散歩か軽くジョギングするのもいいな、などと考えていた。
 仕事を開始したのは、会社での始業時刻と同じ9 時ちょうどだ。最初にやったのは、Teams のシステム開発室グループで、木名瀬さんとマリを相手に、ビデオ会議を試してみることだった。その後、始業と終業、それに昼休みの通知方法を決めた。斉木室長は通常通りの出社だったが、会社のデスクトップPC にはカメラもマイクもないため、準備ができるまではテキストベースでの連絡になる。
 そこまでは順調だったのだが、いざ仕事を開始しようとすると、とたんに壁にぶち当たった。ノートPC に入っている閉域SIM は、社内の有線環境と同じ権限で社内LAN にアクセスできるはずだが、共有フォルダのドキュメントを参照しようとしたところ、アクセス権限がないと冷たく拒絶されたのだ。何度か試した後、木名瀬さんとマリにTeams で呼びかけてみると、やはり同じ現象に遭遇したところだった。
 「ポリシーがうまくあたってないようですね」と木名瀬さんは首を傾げた。「社内と同じポリシーにしてもらってるはずですが」
 「ちょっと訊いてみます」ぼくは答えた。「わかったらまた連絡します」
 「あ、イノウーさん」マリが呼び止めた。「さっきもちょっと気になったんですけど、イノウーさんの声、なんかエコーかかったみたいに二重に聞こえてくるんですけど」
 「え、そう?」ぼくは後ろを見た。「すぐ後ろが壁だから反響してんのかな。聞きづらい?」
 「かなり。あたしはイヤホンマイク使ってますよ」
 「私はヘッドセットを使っています」と木名瀬さん。「大声出さなくてもいいですしね」
 「......わかりました。後でドンキかどっかでヘッドセット買ってきます」
 通話を終えたぼくは、IT システム管理課に連絡しようとして、内線電話がないことに気付いて愕然となった。Teams でIT システム管理課で連絡可能になっている社員にチャットしてみたが、全く応答がない。メールを送信しても、やはり返事はなかった。ノートPC のセットアップに忙しいようだった。外線で電話すればいいのだが、IT システム管理課の直通番号がわからない。内線を含めた電話番号一覧は共有フォルダに置いてあるが、そもそもアクセスできないのだから意味がない。
 ぼくはもう一度、システム開発室のチャットに戻ると、木名瀬さんとマリに、電話番号一覧ファイルを手元にコピーしていないか、訊いてみた。あまり期待はしていなかったが、やはり「すいません、そういえばそうですね」「そっか、思いつきもしませんでした」と返ってきた。ノートPC を受け取ったときに、共有フォルダへのアクセスぐらいは確認しておけばよかったのだが、テレワーク対象社員は、さっさと自宅に戻れ、という雰囲気だったので、そんな余裕がなかったのだ。
 Teams かメールに応答がないか、と確認してみたが、既読マークすら付いていない。そもそもIT システム管理課の実働メンバーは、普段から離席していることが多く、朝一番で送信したメールの返信が日付をまたぐことなどざらにある。全くデスクに戻ってこない、ということはないので、会社にいればメモを残しておくのだが、テレワークではそれもできない。
 会社の代表電話はコーポレートサイトに載っているが、そこにかけて、内線転送してもらう、という手は、緊急事態でない限り禁止されている。以前にそれを実行した営業部の新人が、経営管理部部長から破壊的な雷を落とされ、減俸を食らった、という話が語られているぐらいだ。「代表電話はお客様のために空けておくべきで、社員が回線を塞ぐなどもってのほか」というわけだ。
 仕方なく、スマートフォンに登録してある斉木室長のダイヤルインに電話した。のんびりした声で応答した斉木室長に事情を説明し、IT システム管理課に転送してもらう。だが、かなり待たされた後、スピーカーから聞こえてきたのは斉木室長の声だった。
 『繋がらなかったよ。戸室課長はいたけど、あの人じゃわかんないしね。みんなセットアップか何かで忙しいんだね』
 「......申しわけないんですけど、直接、行ってみてもらえますか。このままだと仕事にならなくて」
 『いいよ』斉木室長は気軽に引き受けてくれた。『どうせヒマだしね』
 斉木室長がヒマなのに出勤しているのは、危機感がなかったり、家庭に居場所がないからではない。各部門の管理職は、最低一名が出勤し、不測の事態に備えること、という方針のため、危険を冒して電車に乗り、会社と自宅を往復しているのだ。不測の事態、というのが、せいぜい紙の書類に押印することぐらいだとしても、それが上からの指示なのだから仕方がない。この新型肺炎による不自由から、少しでも利点をピックアップできるとしたら、ハンコ文化を極限まで減らすことぐらいだと思うのだが、残念ながら会社の上の人たちは、そこまでの展望を持っていないようだ。
 10 分ほどで斉木室長が折り返してきて、IT システム管理課のメンバーはみな出払っている、と知らせてくれた。
 『とりあえず湊くんのPC にメモは貼っといた。戻りはちょっとわからないって言ってたけど、出たり入ったりはしてるみたいだから、見たら連絡くれると思うよ』
 湊くん、というのはIT システム管理課の最年少社員だ。20 代前半だが高校生みたいな童顔で、初対面の人はほぼ全員が10 代だと誤解する。事実、深夜帰宅の際などに職務質問された回数は、両手では足りないそうだ。
 ぼくは礼を言い、ついでに共有フォルダから社内連絡先一覧のファイルを、システム開発室のグループに送っておいてくれるよう頼んだ。
 IT システム管理課の湊くんから連絡があったのは、13 時を10分ほど経過した時刻だった。昼食も取らずに待っていたぼくは、ビデオ会議の呼び出しに1 秒で応じた。
 「遅くなってすいません」Teams の画面に映った湊くんは、疲れた顔で謝った。「えっと、ポリシーでしたっけ」
 ぼくが頷くと、湊くんはデスクの上に散乱しているプリントアウトの束を見回した。
 「おっかしいなあ。テレワークの部署は、全部ポリシー更新したはずなんだけど......システム開発室でしたっけ」
 「そうだよ」
 「申請書にアクセス権設定先って、書いてもらってますよね」
 「え?」ぼくは驚いて訊き返した。「設定先?」
 「書いてないですか?」
 「書いてない」
 「あ、だからですね。たぶん、今、どこにも接続できない状態になっちゃってますね」
 「社内LAN と同じ環境だって言われたらしいけど」
 湊くんは小さくため息をついた。またか、と言わんばかりだ。
 「同じでも、接続したいサーバは全部書いてもらうことになってるんですよ。社内ならいいけど、社外への持ち出し不可ってファイルはたくさんありますから。部門長会議で説明してもらったはずなんですけどね」
 初耳だ。部長か斉木室長のどちらかが伝え忘れたのだろうが、それはどうでもいい。
 「じゃあ、接続先をメールかTeams で送ればいい?」
 「そうですね......あ、ちょっと待ってください」
 湊くんは横の誰かに呼びかけられたらしく、何か話していたが、すぐに向き直った。
 「すいません」湊くんは申し訳なさそうな顔で言った。「やっぱり申請書に書いてもらわないとダメみたいです。テレワークに開放していいかどうか、チェックしてから設定することになってるので」
 「じゃあ申請書を出し直し?」
 「そうなりますかね......あ、そっか。もうテレワーク中ですよね。ちょっと待ってください」
 どうやら湊くんに戸室課長が指示を出しているらしい。二人があれこれ話す言葉が、途切れ途切れに聞こえてくる。ぼくは待っている間に、システム開発室のチャットで状況を知らせた。
 「すいません」湊くんが戻ってきた。「やっぱり申請書にハンコ押してもらわないと受けられないそうで......」
 その言葉を遮るように、木名瀬さんからビデオ会議要求がポップアップした。湊くんが驚いた顔をしたところを見ると、同じ通知が入ったらしい。ぼくと湊くんはモニタ越しに顔を見合わせた後、参加ボタンを押した。
 「湊くん」分割画面に現れた木名瀬さんは、前置き抜きで始めた。「そもそも申請書にアクセス先が何も書かれていなければ、確認をすべきではないですか?」
 「はあ、そうなんですが」湊くんは頷いた。「何しろ、申請書がたくさん来ていて忙しかったので......」
 「それはおつかれさまでした。でも、印鑑押すためだけに出社するのでは、何のためのテレワークなのかわかりません。申請書のファイルを斉木さんに送っておくので、斉木さんから出してもらうということでどうですか?」
 「本人のハンコがないと......」湊くんは横をちらりと見た。「その、形式が......」
 「戸室課長を出してください」木名瀬さんは遮った。「近くにいらっしゃるんでしょう?」
 湊くんは素直に頷くと、席を立って画面から消えた。その間に、木名瀬さんはぼくに向かって囁いた。
 「しばらく席を外してください」
 「え?」
 「今から戸室課長を脅迫しますから。メンツを大事にする人です。イノウーくんが見ていたら、変な意地を張ってしまうかもしれません。早く消えてください」
 画面に戸惑った顔の戸室課長の顔が映ったので、ぼくは急いでビデオ会議から抜けた。脅迫、という言葉について考えていると、入れ替わるようにマリが呼びかけてきた。
 「どうなってるんですか?」
 「さあね」ぼくは肩をすくめたが、脅迫の件は伏せておいた。「木名瀬さんが戸室さんと話してるみたいだけど」
 「そうすか。ところで、共有フォルダにアクセスできたとして、とりあえず何をやるんですか? 例のエースとのデータ連携だかなんだかは延期になったんですよね」
 「とりあえずコーディングルールでも決めようかと思ってたんだけどね」
 「コーディングルールって、今、あるのじゃダメなんですか」
 誰が作ったのか定かではないが、共有フォルダにはコーディングルールが存在している。だが、ドキュメントの作成日付は10 年以上前だし、昔の汎用機エンジニアあたりが作成したらしく、今どきの言語にはマッチしていない。どうやら過去のマーズネットで、元請けとしてシステム開発を受注していた時代に作成されたようだ。
 「この際、作り直した方がいいと思うんだよね」
 ぼくがその理由を説明しようとしたとき、湊くんが呼びかけてきたので、ぼくはマリに断ってから切り替えた。
 「事情が事情なんで」湊くんは安堵した顔で言った。「今回は代理申請でいいことになりました。斉木さんは会社にいらっしゃるので、申請書ファイルを斉木さんに送ってもらって、斉木さんからまとめて申請してもらえばオッケーです。なるはやで設定します」
 「ありがとう。もし後から追加して欲しいときは?」
 「そのときは」湊くんは、その質問を予想していたように答えた。「メールかTeams で連絡してください。問題のない共有フォルダなら、こっちで追加しておきます」
 「助かるけど」ぼくは湊くんの顔を見た。「後で問題にならない?」
 「実は、その点についても、木名瀬さんがあらかじめ了承を得てくれたみたいです」湊くんの声が小さくなった。「課長があんなに譲歩するなんて珍しいんですよ。どんな手を使ったのか知りませんが」
 ぼくは礼を言ってビデオ会議を抜けた。またもや、脅迫、という言葉の意味を考えながら。
 早速、システム開発室のグループチャットで、接続先となる共有フォルダの一覧を相談した。正確なネットワークパスを思い出せない共有フォルダもあったが、ある程度ならIT システム管理課で補完してくれるはずだ。
 一時間ほどで申請書が完成し、木名瀬さんが重複などをチェックした。庶務にいたとき、この手の申請書を作成するのは日常茶飯事だったそうだ。いくつかのミスを修正した後、Teams で共有して斉木室長に代理申請を依頼することができた。木名瀬さんによると、たぶん小一時間ほどはかかると思う、とのことだった。湊くんに、設定が終わったらTeams で教えてくれるように頼んでおいて、ぼくたちはランチ休憩のために一度解散した。
 カップ麺で昼食を済ませ、残っていた黒糖かりんとうをかじっていたとき、湊くんがチャットで「終わりました。試してみてください。問題なかったら返信は不要です。問題あったら、こっちに電話してください。080-XXXX-XXXX」と言ってきた。ぼくは急いで、システム開発室の共有フォルダに接続してみた。今度は問題なく開いた。
 「そっちも開きましたか?」木名瀬さんが呼びかけてきた。
 「問題ないです」
 「マリちゃんは?」
 「バッチリです。やっと仕事できますね。って、まず何やればいいんでしょうかね。さっき、イノウーさんとも話してたんですけど」
 「まずは」昼食の後片付けでもしているのか、陶器が触れ合う音を背景に、木名瀬さんは言った。「それぞれの環境構築です。イノウーくんはバックエンド、マリちゃんはフロントエンド、それぞれ使っていたツールなんかがありますね。それらをテレワーク用PC で動作させるところから始めましょう。それができたら、それを開発室内で共有するので、詳しいインストール手順なんかも合わせて作っておいてください」
 「ツールですか」マリが小さく唸った。「あたしの方は、特にこれといってこだわりがないんで。ブラウザと何かエディタがあれば。イノウーさんが使ってるツールのエディタを使いますよ」
 マリはデザイン系の専門学校の出身で、学生時代、フロントエンド開発の経験がある。元々、IT 業界に興味を持っていたのだが、大手はおそらく望み薄だと考え、むしろ中小のベンダーを中心に就職活動をしていたそうだ。その中の、フロントエンド専門のベンダーに早々に内定をもらったため、夏休みが終わった後、その会社でアルバイトをしていたとのことだ。アルバイトといっても、業務サイクルに組み込まれたインターンシップのようなもので、ほとんど正社員と同じ扱いでタスクをアサインされていた。入社の暁には、即戦力になることを期待してのことだろう。フロントエンド技術の基本を、丁寧に教えられたのだった。
 本人も周囲も、そのベンダーに就職するものと信じていた。ところが、なぜか秋頃になって当時のマーズネットから、面接を打診するメールが届き、マリを驚かせた。マーズネットにはエントリーシートを出したものの、二次面接でお祈りメールを受け取っていて、もう縁がない会社だとすっかり忘れていたのだ。内定辞退者が想定より多く発生したため、一次面接通過者に声をかけていると説明が付記されていた。少し迷ったものの、せっかくの機会だから、とマリはしまい込んだリクルートスーツを引っ張り出し、マーズネットに向かった。そして見事に面接を通過し、内定通知をもらったのだ。
 「最初はそりゃあ迷ったんすけどね」その話をしてくれたとき、マリは照れくさそうに笑った。「でも、親も友達も、そんとき付き合ってた彼も、みんなマーズネットの方がいい、って勧めるし、そのベンダーも社員の人はいい人ばっかだったんですけど、仕事の方はやっぱりキツイっていうか。もちろん初任給はマーズの方が断然上でしたし、福利厚生も会社で契約してる保養所あったり、財形の制度あったりですしね。だから、ベンダーの方は謝って、マーズネットの方に決めちゃったんですよね」
 マーズネットでも、フロントエンドの知識は生かせる、と考えていたマリだったが、採用担当はそんなものに一顧だにせず、配属されたのは営業部営業三課で、その機会は皆無だった。庶務にいた木名瀬さんの配慮で、社内報などのレイアウトを手がけたぐらいだ。それでも、隙間時間にスキルの維持だけは続けてきたらしい。去年のクリスマスパーティのビンゴシステム作成で、ようやくそのスキルを発揮する機会が生まれ、マリは狂喜した。そのため、新設されるシステム開発室への異動を打診されたときには、二つ返事で了承したそうだ。
 「なるほど」マリの言葉を聞いた木名瀬さんは言った。「では、イノウーくんが決定する開発環境のひな形に、全てがかかっているわけですね。イノウーくん、聞いての通りです。今日中に開発環境を一通り決めてください。マリちゃんは、その間、いずれフロントエンドの知識をイノウーくんに共有してもらうことになるので、ポイントをまとめておいてもらいましょうか」
 チャットを終えると、ぼくは必要な開発ツールをピックアップした。サードアイでは開発ツールに制限はなかったが、あれこれ浅く手を出すよりも、一つの統合開発環境に深く習熟した方がいい、という風潮だった。元請けから指定された場合を除いて、ほとんどの人がEclipse を使っていたので、ぼくもそれにならっていた。フロントエンド開発にEclipse が使えるかどうかはわからなかったが、プラグインの数は多いので、何とかなるだろう。その他にさしあたって必要なのは、テキストエディタとssh クライアントぐらいか。
 Eclipse、秀丸エディタ、TeraTerm Pro の最新版をそれぞれダウンロードした。Eclipse からインストールを開始する。一応、インストール手順も記述しておいたが、注意するのはプロキシサーバの設定ぐらいだろう。残りのプラグインは、ダウンロードしてdropin フォルダに放り込むだけだ。
 続いてTeraTerm をインストールした。システム開発室用に確保してあるのは、CentOS 7 の仮想サーバが2 台だ。今後、システム開発室が作成する社内アプリケーションは、このLinux サーバに配置する予定になっている。sysDev01 がアプリケーション用、sysDev02 がデータベースサーバだ。sysDev02 にはPostgreSQL がインストールしてある。当初はOracle を申請したが、何の実績もない開発部門に、有償のRDBMS 製品を与えることはできない、と遠回しに言われたので、PostgreSQL になった。
 とりあえずはこのサーバを使って、マリにSQL などを憶えてもらう予定だ。2 台のサーバに対するログインスクリプトは、共有フォルダに置いてあるので、ノートPC のローカルフォルダにコピーし、.ttl ファイルの関連付けをtterm.exe に設定した。これで.ttl ファイルをダブルクリックしただけで、Linux サーバに接続し、ログイン処理まで実行してくれる。ぼくはテスト用のデータベースでも作っておくか、とsysDev02 ログイン用の.ttl ファイルをダブルクリックした。
 接続されない。
 「え?」
 驚きが声に出てしまった。通常なら1 秒弱でプロンプトが表示されるはずなのに、30 秒以上待っても何も起こらない。sysDev01 で試してみたが、やはり同じ結果になった。
 サーバが落ちているのか、とコマンドプロンプトから、sysDev02 にping を打ってみたが、正常に応答が返ってきた。ということは、sshd のみが起動していないのか。いや、何日か前に社内の自席から試したときは、何の問題もなく接続していた。他の部署の人は触れないようになっているので、誰かがサービスを落としたということも考えにくい。
 システム開発室のチャットを開き、ビデオ会議を呼びかけた。開発用サーバに接続できるのは、システム開発室の4 人に限られている。最初にやらなければならないのは、ぼく以外の3 人の誰かが、開発用サーバに何かした可能性を排除することだ。シャーロック・ホームズも「ありうべからざるものをすべて除去してしまえば、あとに残ったものが、いかにありそうにないと思えても、すなわち真実である」と言っている。
 システム開発室の3 人はすぐに応答した。「開発環境の準備ができた」というぼくの言葉を待っていたのだろう。ぼくが開発用サーバの件を訊くと、一斉に怪訝な顔をして否定の言葉を返してきた。
 「ですよね」ぼくは頷いた。「もしかするとノートPC からアクセスしてるからかもしれません。ポート22 を除外してるとか。湊くんに訊いてみることにします」
 チャットを終了しようとしたとき、木名瀬さんが呼び止めた。
 「まあ、そう慌てないで」木名瀬さんは落ち着いた声で言った。「ping は通るんですか?」
 「通ります」
 「社内LAN 環境で、特定のポートだけ弾いてる、ということはありません。ping が通ってるなら、ssh でも問題なく接続できるはずです」
 「でも現に接続できないんです。実機のコンソールを見るわけにもいかないし」
 「開発用サーバを設定したのはイノウーくんですね。ssh で何か設定しましたか」
 「いえ」ぼくは首を横に振った。「CentOS 7 のイメージがあるので、それを展開してもらっただけです。ネットワーク関係の設定は、IT システム管理課がやってくれたので。ssh 絡みの設定なんか触ってもいないです」
 「システム開発室以外の人がssh で接続するのをどうやって防いでるんですか?」
 「ユーザとパスワードで......」ぼくは言葉を切った。「あ、ちょっと待ってください。一度、切ります」
 斉木室長とマリが驚いた声で何か言ったが、ぼくは待たずに会議から抜け、スマートフォンを掴んだ。湊くんとのチャット履歴から、さっきもらった携帯番号を見つけ出し、そこに発信した。呼び出し音が数回鳴った後、湊くんの声が聞こえた。
 『湊です』
 「井上です」
 『......あ、イノウーさんですか。どうしました? 共有フォルダですか?』
 「いや、そっちは問題ないよ。ありがとう。前にセットアップしてもらった開発用サーバの件で訊きたいんだけど、今、時間ある?」
 『時間はないですが、いいですよ。なんですか』
 ぼくが簡単に現象を説明すると、湊くんは話の途中で原因に気付いたようだ。
 『しまった。そうでした。hosts.allow に、有効な接続先IP を入れてあるんです。それが......』
 「会社のデスクトップのIP?」
 『そうなんです。すいません』
 「やっぱり」とにかく原因は判明した。「申しわけないんだけど、テレワーク用のノートPC のIP アドレスも追加してもらえるかな」
 『すいません』湊くんはまた謝った。『そう簡単じゃないんです。実はテレワーク用のノートPC は、全部固定IP じゃないんですよ』
 「え、そうなの?」ぼくは驚いた。「じゃあ......」
 『そうです。毎回、違ったIP がふられるので、接続先IP で制限ができません』
 「......それはちょっと困るなあ。じゃあ制限なしにするのは」
 『それもちょっと。ネットワーク規定でssh なんかは制限かけることになってるんです』
 「そこを何とかできないかな」ぼくは訊いてみた。「別に重要機密情報を置くわけじゃないし」
 『半期毎に全サーバの棚卸しするんで、そのときバレます。バレたら、ぼくの責任になるんですよ』
 「じゃあ、どうすればいい?」
 『ちょっと方法を考えてみます。少し待っててください』
 湊くんは電話を切った。ぼくはため息をついて待った。システム開発室のメンバーに共有するか、とも思ったが、何も解決しない状態では無意味なのでやめておいた。
 スマートフォンが震動したのは30 分後だった。
 『回線業者に訊いてみたんですが、VPN の方で特定のモバイル端末だけ固定IP にするのは難しいみたいです。なので、こういうのはどうでしょう。会社のPC の電源を入れておいて、リモートデスクトップで接続してもらい、ssh なんかはそこからアクセスするんです』
 「ああ、なるほど」ぼくは頷いた。「会社のPC は固定IP だからか。それなら問題ないかもね」
 『問題になるとしたら』湊くんは心配そうな声で言った。『閉域SIM っていっても、しょせんは4G 回線なんで、電波状況によってはリモートデスクトップがもたついたり、止まったりするかもしれません』
 「わかった。やってみる。ありがとう」
 ぼくは電話を切って、Teams に戻ると、会社にいる斉木室長に、全員のPC の電源を入れてくれるよう頼んだ。起動するまでの間、メンバーに簡単に状況を説明した。
 「ということは」木名瀬さんは頷きながら言った。「もういっそ、ノートPC でなく、会社のPC で仕事する前提の方がいいかもしれませんね」
 「リモートでどこまでスムーズに動くかですけどね」
 ぼくはリモートデスクトップで、自分のPCにログインしてみた。見慣れたデスクトップがノートPC の画面に表示される。Eclipse を起動してみた。若干、応答が遅い気もするが、ストレスになるほどではなさそうだ。
 他の3 人と協力して、Excel やブラウザなどをいくつか動かしてみた。たまに画面が一瞬フリーズすることがあるが、頻発するのでなければ許容範囲だ、という結論に達した。
 「ただし」木名瀬さんが指摘した。「社内規定で、PC の電源を入れっぱなしにはできないので、仕事が終わったら落とさなければなりません。毎朝、斉木さんに電源を入れてもらうしかないですね」
 「えー」マリが笑いながら言った。「もし斉木さんが休みの日はどうするんですか。人がいるときはドア開けっぱなしでもいいですけど、いないときはロックかかりますよね」
 「休日とか深夜に仕事したいときとか」
 ぼくが付け足すと、木名瀬さんはジロリとぼくを睨んだ。
 「休日とか深夜なんかに仕事をしなくてもいいやり方を考えてください。斉木さんが休みの日は、IT システム管理課か総務にでも連絡して、電源だけ入れてもらいましょう。もうこんな時間ですね。私はこれで退勤とします。お二人も今日はもう上がったらどうですか」
 ぼくとマリは頷いた。結局、この日は仕事にならなかった。システム開発室が立ち上がったばかりで、急ぎの仕事などを抱えているわけではなくて幸いだった。Teams を閉じ、ノートPC をシャットダウンした後、ぼくはヘッドセットを買いにいくために立ち上がったが、ふと足を止めた。明日からの朝、昼、夕の三食をどうするかも考えなければならないことに気付いたのだ。一人暮らしは長いが、自炊などほとんどしたことがなかった。長らく使っていないフライパンは、すでに赤錆だらけで手に取る気にもなれない。ぼくはもう一度座ると、買い物リストを作り始めた。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(11)

コメント

じぇいく

>ぼくはもう一度座ると、買い物リストを作り始めた。
動く前に計画。東海林さんの躾が行き届いてますな~。

通りすがり

秀丸エディタって有料ですよね。この会社で勝手に個人ライセンスのツールを入れてもいいとは思えないのですが。

匿名

通りすがりさん
秀丸エディタは同じライセンスで複数のPCにインストール可なので
会社で使ってれば問題ないんじゃなかったでしたっけ

通りすがり

起動時に「私はまだ秀丸エディタをそれほど使い込んでいません」を選択するのが習慣化
してたりして。

もと

秀丸、20年ほど前ですが、某外資系の開発現場でお使いで、ある意味びっくりしたことがあります。
VPNで社内ネットワークに接続可能なら、WoLで社内PCの叩き起こし↔休止が簡単にできるのでは??

匿名

今ならVSCode選ぶかな。特にフロントやるなら。
Remote Developmentも快適だし。

Dai

>Eclipse、秀丸エディタ、TeraTerm Pro の最新版をそれぞれダウンロード、インストールした。
> 続いてTeraTerm をインストールした。

重複ではないですか?

リーベルG

Daiさん、ありがとうございます。
重複ですね。

POPO

いつも楽しく拝読しています。

ところで、
>庶務にいたとき、この手の申請書を作成するのは日常茶飯事だったそうだ「、」
句点と読点の間違いじゃないかと思うんですが…。

リーベルG

POPOさん、ありがとうございます。

プリンセス

秀丸よりはSakuraエディタ派かな…
無論コード組むならVSCodeですけど、バッチ組む環境だとCTRL+Bで即時バッチ起動できるSakuraエディタは今でも重宝してる…(あとテキストエディタ)として

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