ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (4) 増殖する要望

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 「......シングルサインオンは」ぼくは必死で頭を回転させた。「えーと、普通にWebAPI を読みにいくことができると思います。HTTP なので」
 「データはXML ですが」木名瀬さんが問い返す。「問題ないですか?」
 「え、JSON も可能ではなかったでしたっけ。I/O 仕様書読みましたが......」
 「残念ですが、JSON は最近になって提供されたオプションです。古いSSO プロダクトなので、うちが契約しているのはWeb サービスのみなんです」
 「......XML のライブラリはたくさんあるので、対応可能です」
 ぼくはマスクを持ち上げたい衝動をこらえた。室温は高くはないが、口と鼻の周辺が湿っているようだ。マスクは長時間の会話には向いていない。
 「茅森さんはどうですか?」
 マーケティング課の茅森課長は不機嫌そうに答えた。
 「そんなもの使わなくてもいいじゃないか」
 「と言いますと?」
 「フォーム作って、社員ID と氏名を入力してもらえばいいだろう」
 「それはちょっと」シノッチが首を傾げた。「間違える可能性もあるので......」
 「JINKYU からデータを取り込んでおいて照合するよ」茅森課長は噛みつくように言った。「何度もやってることだ」
 "じんきゅう"という呼称が、人事給与システムのことを指していることに気付くまで数秒かかった。つまり茅森課長は、全社員データを事前に読み込んだExcel を用意しておいて、社員ID のチェックを実行するつもりらしい。マーズ・エージェンシーの社員数は200 人強だから、大したデータ量ではないが、ちょっとムダな気がする。
 「そうですね」シノッチは躊躇いがちに言った。「その、次の項目にあるんですが、社員の増減にリアルタイムに対応するのはどうやって......」
 「毎晩、夜間バッチでJINKYU から、最新のデータを更新しておけば問題ないだろう」
 「まあ、確かにそうですが......」
 同意なのか不同意なのか、どちらとも取れる曖昧な口調でシノッチは答えた。そもそも総務課が提起した話なので、もう少し明確な意志を示してもらいたいものだが。
 「システム開発室の方はどうですか?」
 「人事給与システムのデータベースを参照しようと思うんですが」ぼくは誰に答えを求めればいいのかわからず、出席者たちに視線をさ迷わせた。「できますか?」
 「可能ですよ」木名瀬さんが頷いた。「人事給与システムの外部API はJSON でやり取りできます。接続元IP で許可してもらう必要はありますが、開発サーバができた時点で、申請は出してあります」
 スライドの項目はそれが最後だった。ぼくは座り直し、どうやって決定するのだろう、と考えた。民主的に多数決でも採るのだろうか。社としての実装能力はないにしても、仮にもIT 企業で、出席しているのは、各部門のマネージャの方々だ。技術的に見れば、どちらが優位であるかは明白だろう。そもそもシステム開発室で作成する話だったはずなのに、茅森課長が強引に割り込んできたのだ。
 いずれにせよ、最終決定権は総務課にある。ぼくは矢野課長とシノッチの方を見た。矢野課長が顔をしかめて、シノッチに何か合図している。シノッチは躊躇っているようだが、重ねて促されると、渋々発言した。
 「あの、実は、あといくつか、追加したい要件があります。そのスライドを出すので、少しお待ちください」
 表示されていたスライドが消えた。ぼくは隣を見たが、木名瀬さんも、その向こうに座る斉木室長も初耳だったらしく、戸惑った目でこちらを見返してきた。
 スライドが切り替わった。

 ・全社員を対象にする

 「えー」シノッチがスライドを示した。「簡単ですみません。当初、希望者が申請書を出す、という形にするつもりでしたが、一律で全社員に申請書を出してもらう形に変更したいです」
 「全社員って」鴨池課長が驚いたように訊いた。「派遣さんも含めてってことかい?」
 「全社員です」シノッチは繰り返した。「もちろん派遣社員も含みます」
 斉木室長が短く笑った。
 「全社員をテレワークにするわけじゃないよね。現に部門長は出社してるわけだから」
 「今後は、マネージャクラスにもテレワークを拡大していこうと考えているんです」
 「いいですか」木名瀬さんが挙手した。「職種的にテレワークが難しい、というか、できない社員もいます。それなのに、全社員に申請書を出させるんですか?」
 非難の口調ではなかったが、シノッチは目を逸らした。
 「テレワークが難しい人は、不要にチェックを付けて提出してもらいます」
 正確にはチェックボックスではなく、ラジオボタンだろう。それにしても、どういう意味があるのか、という疑問を口にしようとしたとき、スライドが変わった。

 ・近親者、および交流範囲(近所、友人、交際相手など)の医療従事者の有無
 ・「有」の場合、勤務先(具体的な病院名)、職種(医師、看護師、事務など)、勤務形態(常勤、不定期など)、住所、氏名

 「この項目を追加します」無機質な声でシノッチが言った。「必須項目にしてください」
 出席者が一斉にざわめいた。
 「どうしてそんな項目が必要なの?」不思議そうな声で訊いたのは、唯一の女性課長である広報課の夏目課長だった。「医療従事者って......テレワークのノートPC 貸し出しと何の関係があるんですか?」
 「BCP、つまり社全体の事業継続のために必要な措置だと、総務で判断しました」
 シノッチの声はこれ以上ないぐらい事務的だった。むしろそれは、シノッチがこの項目追加に賛成ではないことを公言しているようだ。「総務で」という部分にアクセントを置いたことでもわかる。
 「テレワークとBCP にどういう関係が......」言いかけた夏目課長は、何かに思い当たったように言葉を切った。「つまりこういうこと? お医者様や看護師が身内にいる人は、職種に関係なく出社を控えさせる」
 シノッチは回答を拒絶するように、嫌そうな顔でノートPC の画面を見つめた。矢野課長が促すように小さく咳払いしたが、シノッチは反応しなかった。若い総務課社員を気の毒に思ったのか、夏目課長は質問の宛先を変更した。
 「矢野さん、そういうこと?」
 「あくまでも万が一のための項目です」弁解するように矢野課長は答えた。「テレワーク用のノートPC を希望者全員に対して即座に準備するということはできません。何らかの優先順位をつける必要がありますから。その判断材料の一つにするだけです」
 何を言っているんだ、この人は。ぼくはマスクの中で口をポカンと開けた。全員に申請書を出させる理由になっていない。優先順位のための判断材料なら、職種や業務内容で充分だろうに。
 「でも、正直に回答するとは限らないのではないですか?」
 「確かにな」鴨池課長が腕を組んだ。「看護師の子が保育園の登園を拒否されたという話も聞くからねえ。テレワーク云々を別にしても、そういう情報をバカ正直に申告するかね」
 人事課の牧枝課長が咳払いした。
 「後で事実と異なる申請をしたとわかったら、減俸などに処す、と一文を入れておけばいいでしょう。万が一にも、我が社からクラスターなど出すわけにもいかんですから。これはエースシステムの方からも言われていることです」
 どうやら、人事課はこのクソみたいな項目追加を知っていたらしい。いや、シノッチの反応から推察すると、総務課の申請書システム化案に、強引に便乗してきたと見るのが正しいのだろう。
 「それから、これは後で出そうと思っていましたが、社員の通勤経路から、感染の可能性が高いルートを使っている社員を抽出するような仕組みを作れないもんですかね。通勤費支給のために最寄り駅と利用交通機関のデータはJINKYU にあります。幸い、4 月1 日で最新に更新済みです」
 「感染の可能性が高いルートってどんなのですか」
 「たとえば都内からの通勤ですかね」その質問を予想していたのか、牧枝課長はすぐに答えた。「あとは院内感染を出した病院を通る路線バスなんかも対象になるでしょうね」
 ぼくは密かにため息をついた。この人は、路線バス情報や、首都圏の全病院の院内感染情報をどこから入手して、誰が、どういうタイミングで更新するのかを考えて発言しているんだろうか。
 「さっきの正直に申告するかどうかってことですけどね」マネジメント三課の伊牟田課長が勢い込んで発言した。「社員の個人SNS で、フォロワーやメンション先に医療関係者がいないかチェックするのはどうでしょう。案外、鍵アカにしてない人の方が多いですから」
 「いいね、それ。過去のつぶやきとかチェックすれば、友達が看護師で、とかポロッと言ってたりするかもしれないしね」
 マネジメント二課の千種課長が何か考えながら挙手した。
 「全社員、ということなら、いっそ全員に毎朝の検温を義務づけてはどうですか。体温計の表示を撮影してアップさせるんです」
 「本人だけじゃなくて、家族全員でしょうね、やるなら」
 「37.5 ℃以上だったらどうします?」
 「インフルの規定を適用して出社禁止にすればいいだろう」
 「どうせなら、もっと厳密に行うべきですよ。潜伏期間が二週間ですよね。過去二週間、いや念のために三週間前からの行動記録を全員に出させてはどうですか。どこかへ旅行したとか、誰と会ったとか、どこに買い物に行ったか、どこの病院に通院したのか」
 伊牟田課長の言葉を聞いて、ぼくは呆れかえった。三週間前に誰とデートしたのか、詳細なログを残している社員がどれぐらいいるんだろう。仮にいたとしても、正直に会社に申告すると、本気で考えているとしたら頭がどうかしてる。伊牟田課長は、菅井先輩が休職しなかったらぼくが所属していただろうマネジメント三課の部門長だ。受入を拒否されてよかった、と心から思った。
 「そうなると、社員同士の飲み会とかも考慮する必要がありますね」
 「社員同士なら記録の相互チェックができるか」
 「直近一カ月ぐらいのメールデータをチェックするのもいいかもしれんですね」
 「ちょっと待てよ。もちろん、それって管理職は除外されるんだろうね」
 「ああ、そりゃそうでしょう。我々は会社を動かさないといかんですから」
 この会社にはクズしかいないのか。ぼくは唖然として周囲を見回した。項目追加の意図について質問した夏目課長も、答えを得ても反対意見を表明する気配がなかったところを見ると、事前にある程度の根回しができていたのかもしれない。
 ぼくはそっと両隣を見て、やや安堵した。マリは額にしわが寄るぐらい険しい顔で、無神経な発言を活発にやり取りしているマネージャ連中を睨んでいた。この会社での在籍年数はぼくより長いが、いたって常識的な拒否反応を示してくれている。斉木室長は会議テーブルの上に放り出されたペンに目を落としていた。さっきから発言せず、用心深く聞き役に徹している。テレワーク用ノートPC 申請システムという議題から、明後日の方向へ逸れつつある会議の方向を見定めようとしているらしい。
 木名瀬さんの横顔には、マリのような怒りも、斉木室長のような困惑も浮かんでいなかった。議論に耳を傾けつつ、冷静に何かを考えているようだ。不意にその顔が小さく動いて、横目でぼくとマリの表情をさっと確認すると、すぐに前方を向いて挙手した。
 「すいません」よく通る声が、社員のプライバシーを蹂躙しようとする食屍鬼どもの議論を終わらせた。「ちょっとよろしいでしょうか」
 「ああ、はい」矢野課長が我に返ったように木名瀬さんを見た。「どうぞ」
 「この会議の本来の目的から外れているようです。一度、元に戻させてください。よろしいでしょうか」
 何人かが頷いた。木名瀬さんは冷静な声で続けた。
 「いろいろ要望が出たようですが、今回のシステム化で重要なことが考慮されていないようです」
 「というと?」矢野課長が訊いた。
 「迅速なリリースです。釈迦に説法だと思いますが、システムというものは、要望を出したら次の日にリリースできるものではありません。要件を確定して、仕様を決定し、外部設計、内部設計を行い、実装とテストを経て、ようやくリリースとなりますね」
 ぼくは少し意外に感じて木名瀬さんを見た。てっきり、数々の要望を一蹴してくれるのだと思っていたのだが、要望そのものを否定する様子ではなかったからだ。
 「今、言われたようなSNS だの、毎日の検温だのを、残らず含めていたら、かなりの作成期間がかかるでしょう。通勤経路の分析などは、そもそもの主旨から逸脱しています。システムが完成した頃には、通常勤務状態に戻っていて、システムの存在意義そのものが失われている、ということにもなりかねません。それはシステム開発室が作っても、マーケ課が作っても同じです。そうですよね、茅森課長?」
 急に話を振られた茅森課長は、ビクッと肩を震わせたが、すぐに何度か頷いた。
 「そうだな。Web システムを作るよりは早いかもしれないが、それでもそれなりの時間はかかるだろうな」
 出席者たちが顔を見合わせる中、矢野課長が質問した。
 「このスライドの内容だけに絞ったら、どれぐらいでリリースできますか?」
 矢野課長の視線を受けた木名瀬さんは、そのままぼくにパスして寄こした。三カ月とでも言ってやろうか、と不穏な衝動に駆られたが、木名瀬さんが小声で付け加えた。
 「プログラマとして正直ベースで」
 ぼくは胸のむかつきを押さえながら、プログラマとしての職業意識だけで答えた。
 「急げば三日といったところです。それ以上、項目が増えなければ、ですが」
 最後の言葉は、せめてもの抵抗の意思だったが、矢野課長は気にも留めず、茅森課長の方に顔を向けた。
 「茅森さんはどうですか?」
 茅森課長は顔をしかめて、ぼくと木名瀬さんを交互に見たが、諦めたように頷いた。
 「そうですね。まあ三日ですかね。もう少し早いかもしれませんが」
 「わかりました。システム開発室への依頼予定でしたが、茅森課長も過去にいくつも社内システムを手がけてきた実績がありますので、それを考慮して、今回は両方に作成していただくことにしましょう。早くできた方から、内容を確認し、問題なければリリースすることにします」
 その宣言で会議は終わった。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(9)

コメント

匿名

きな臭くなってきやがったぜ

h1r0

両方で作成といえば、「高慢と偏見」のS系部品納入時チェック機能!

育野

ヒィッ!!自社に所属する従業員のプライバシー侵害だけでも大概ヤバいのに,会社とは無関係な知人・ご近所さんの情報収集!?
目の前の人に襲いかかるだけの食屍鬼なんて生やさしいものではなく,もっとアグレッシブな,邪神の信徒とでも呼ぶべき存在な気がします.それも正気を失なってる系の.
だいたいそれ,本気の感染症対策として役に立つんですかねぇ?
完全無欠の引きこもりでもない限り各々には当然それぞれの交流範囲があるわけで,可能性だけでいえば調査対象になってない人の周りががっつり医療関係者ということだって考えられる.
かといって「勤め先の安心のためにあなたの交流関係とその属性洗いざらい教えて」なんて通るわけないから現実的に hop数を増やせるはずもない.
全員協力してくれるというありえない仮定をしたとして,調査範囲は指数関数的に拡大するから管理し切れるとは思えないし,結局「誰も会社に出られない」となりそう.
# 6 hop あればどんな有名人とでも繋がるんでしたっけ
 
……これ想像の産物ですよね?噂で聞いたとかでも都市伝説レベルの与太話ですよね?まさかリアル知人から聞かされたとか,よもや経験談とかじゃないですよね?(震え声)

匿名

看護士は看護師かと。

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
看護師ですね。

ななし

タイトルが「憂鬱」だもんなぁ…このパターンか…
最近,勧善懲悪感あるものが多かったから久しぶりな感触

まる

菅井先輩が介護離職とありますが、
今回の時点では休職中では?
まちがっていたらすみません。

リーベルG

まるさん、ありがとうございます。
「離職」には休職も含まれるのだと漠然と思っていましたが、調べてみたら辞めることなんですね。

たくと

JINKYU? JINPROのもじり?

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