ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

蜂工場 (終) セクションD

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 眼前で展開する事態があまりにも混沌としていて、トシオは言葉を失っていた。二人の"佐藤"は、顔も体型も、声の抑揚さえ酷似していて、服装が違っていなければ、全く識別ができない。新たに登場した方の佐藤は、白く清潔なシャツと濃紺のスラックスパンツで、ネクタイまでしっかり締めていた。
 混乱の極みにあるトシオとは対照的に、突入してきたデジタル迷彩の兵士たち――彼らは確かに高度に訓練された兵士だった――は冷静沈着だった。ショゴスに変化しかかっている山本を数名が包囲すると、指揮官がハンドガンを出して、素早くトリガーを絞った。銃声は轟かず、太く短い矢が突き刺さる。兵士たちが下がると同時に、醜怪な肉体がみるみるうちに崩壊し始めていた。
 「やれやれ」侵入者の佐藤が呟き、どこからか細長い刃を持つ小型ナイフを取り出した。「いい気分とは言えないな」
 もう一人の佐藤が身を翻しかけたが、ナイフの動きの方が速かった。水平に流れた刃が空間と皮膚を切り裂き、佐藤の両目の下に赤い線が走った。ハンドガンを持ったままの指揮官が、片手で頭髪を掴み、足を蹴って転倒させる。指揮官の手に、佐藤の顔の上半分の皮膚が残った。
 床でうなり声を上げたそいつは、もはや人間には見えなかった。淀んだ泥濘のような肌に赤黒い両目、大きく喘ぐ口元からは、尖った牙がのぞいている。
 「こいつは」ナイフをしまいながら佐藤がトシオに言った。「グールという、ヒトに擬態するのが得意な生物です」
 トシオは混乱した頭で周囲を見回した。オフィスエリアからは、散発的に銃声らしい音が聞こえてくるが、すでに攻撃の主目的は達成されたようだ。コウジをはじめとするプログラマたちは、トシオに輪をかけて混乱していたようだが、不意に一人がドアに向けて脱兎のごとく駆け出した。逃亡を企図したのだろうが、兵士たちは易々とその動きに対応した。プログラマは肩と膝に的確な殴打を加えられ、床に押さえ込まれてしまった。
 「台場さんにとっては、二度目かもしれませんが、とりあえず初めまして。アーカム・テクノロジー・パートナーズの佐藤と申します」
 その名乗りを聞いて、トシオは床で唸っている生物を見下ろした。
 「紛らわしいですね」佐藤は指揮官を見た。「ホレイショー、そいつを連れ出してもらえますか。密封してラボへ。ショゴスの方は処理班に任せます」
 指揮官は佐藤に、それからトシオに頷くと、部下の兵士たちに命じて、グールの身体を太いケーブルで拘束し始めた。グールはされるがままになっていたが、トシオの視線に気付いたのか、下半分はまだ人間のままの顔を上げた。口が開き、低い声が漏れる。
 「あんたには失望したよ、台場さん。こんなクズどもはさっさと見捨てるべきだった。そうすれば、あんたも大いなる***に拝謁する栄を得られたのにな」
 グールが口にした固有名詞らしい言葉は、トシオの耳では、あるいは知識では判別できなかったが、訊き返そうという気にもなれなかった。指揮官がグールの口に大きなゴムの塊を乱暴に突っ込み、それ以上の発声を防いだ。やがてグールの身体は、数人の兵士によって荷物のように運び出されていった。
 「あんたが佐藤?」トシオはようやく声を出した。「つまり、あいつは......」
 「偽物です」
 トシオは佐藤と名乗った男を上から下まで眺めた。どこからどう見ても人間に見える。だが、グールだった佐藤も、やはり人間であることを疑いもしなかったのだ。わずか数分間に、状況が一変し、理解度を遙かに超えた情報を与えられたことで、脳が悲鳴を上げそうだ。
 「何がどうなってるのかわからないんですが......」トシオは疲労を感じながら言った。「とりあえず帰っていいですか」
 「もう少し待っていただけますか。少し事情を説明させてもらいます」
 「それはぜひ聞きたい話ですが、明日でも......」
 「今すぐでお願いします」
 言葉は丁寧だが、拒否することを許さない口調だった。トシオは諦めて首肯した。
 「わかりました。その前に......」
 トシオはコウジたちを目で示した。佐藤は、わかっている、というように頷いた。
 「彼らのことは心配なく」佐藤は言い、含み笑いしながら付け加えた。「殺したりしません」
 佐藤の合図によって、兵士たちがコウジたちプログラマたちを、半ば強制的に外に連れ出していった。佐藤について休憩室を出ると、兵士の一団が、オフィスにいたプログラマやスーパーバイザたちを、手際よく数人のグループに分類していた。気になったトシオが何をやっているのか訊くと、佐藤はちらりとそちらを見た後、トリアージです、と答えた。
 「トリアージ?」
 「救える人間と、処分する人間を分けているんですよ。さて急ぎましょう。このビルは、数時間後に消毒されます」
 トシオは佐藤と一緒にビルを出た。消毒の意味をトシオが知ったのは、数日後に見たニュース映像によってだった。老化したガス管から洩れたガスによる爆発で、大東パーク第2 ビルは炎上した。なぜか消防車の到着が遅れ、ビルは完全に燃え尽きたが、死傷者はいなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「......つまり、今の話を要約すると」トシオはズキズキ痛むこめかみを揉んだ。「本物のアーカム・テクノロジー・パートナーズは別にあって、あのオフィスは敵の攻撃拠点。私は侵入してくる敵を攻撃していたのではなく、あなたたちを攻撃していた。そのバックグラウンドとして、SPU という別の宇宙からの侵略があり、アーカム・オーダーという組織が世界規模で密かに防衛戦を戦っている。そういう理解であってますか?」
 佐藤は満足そうに頷いた。二人は相模原駅前の小さなカフェに場所を移動していて、佐藤がトシオに状況を説明し終えたところだった。
 「そう言われても、私にはあなたが本物であることを確認する手段がない」トシオは冷めかけたコーヒーを飲み干した。「ID や身分証明書を見せられても、本物かどうかなんてわからないんですから。私はどうやってあなたを信じればいいんですか? 実は、これが手の込んだ偽装で、あなたたちこそが人類の敵なのかもしれない」
 「グールやショゴスを見てもですか?」
 「あれが人間ではないことはわかりますが......」
 「私の顔の皮膚を剥いでみますか?」佐藤は真面目な顔で言った。「どこまで行っても人間でしかないことがわかりますよ。それは冗談として、確かに私には証明することはできません。だから台場さんに自分で判断していただくしかないんです。台場さんには、三つの選択肢があります。一つ、このまま帰って新しい仕事を探す、二つ、奴らを信じる、三つ、うちに転職する」
 「......」
 「第一の選択肢は、第二のそれと同義です」佐藤は微笑みながら続けた。「敵は必ず台場さんに接触してきます。仮に別のシステム会社に、いえ、システム関係ではない企業に転職したとしても。台場さんは、常に疑心暗鬼に駆られることになりますね。ここは、本当に見かけ通りの職場なんだろうか、同僚の皮を剥いてみたら、グールやショゴスが現れるのではないか、とね。それぐらいなら、うちで働いて、その真偽を見極める方が健全だと思うのですが」
 「私が何だと言うんですか」トシオは呻いた。「それほど優秀でもない、ただのソフトウェアエンジニアですよ」
 「今、優秀なプログラマに対するスカウト合戦が密かに繰り広げられているんです。別の宇宙から求人サイトに募集をかけるわけにはいかないので、SPU は潜入させた奴らや、人類の協力者を通して集めています。ほとんどは表に出ない犯罪集団やテロ組織などからスカウトしているようですが、台場さんのような失業者にも手を広げたんでしょう。実は、我々も、台場さんにコンタクトを取ろうとしていたんですが、今回は先を越されてしまいました」
 「私ってそんなに優秀なエンジニアですかね」
 「優秀だと思いますよ」佐藤はあっさり肯定した。「他にも理由はありますが、それはいずれまた」
 「あのグール、でしたか、あいつはなんで佐藤さんに擬態していたんでしょうか」トシオは不思議に思っていたことを訊いた。「私が佐藤さんを知っていたわけではないのに」
 佐藤はうんざりしたような表情を浮かべて、小さくため息をついた。
 「奴らの戦略の一つのようですね。台場さんは、プログラマたちの書いたコードが美しいかどうか、というジャッジをしていたんですね。美しいコードというのは、RR、つまり現実度数が高いんです。それと同じです」
 「......意味がよくわからないんですが」
 「幸か不幸か、私は敵の中では有名人の一人なんです。そこで、私と同じ姿形で活動をすることで、私自身の現実度を少しでも下げようとしているのではないかと思います。おかげで私は、オフィスの奥に引っ込んでいるわけにもいかず、始終、誰かに目撃されるような日常を強いられています。迷惑な話です。まあ、そういったこともわかってくるでしょう。うちで働いていただければ。働いていただけますね?」
 「ほとんど選択の余地がないじゃないですか」
 「ないんですよ。あの攻撃ポイントを突き止めるために、我々は、最優秀のプログラマの一人を犠牲にせざるを得ませんでした。彼女の犠牲を無にしないためにも、台場さんには、どうしてもアーカムに来てもらいます」
 犠牲に言及したとき、佐藤の声に隠しきれない強烈な感情が滲んだ。二種類の佐藤を通して、初めて感じた人間らしい心のかけらだ。トシオは頷いた。
 「わかりました。お世話になります」
 「よかった」佐藤は立ち上がった。「では行きましょう」
 「どこへ?」
 「横浜ディレクトレートです。台場さんの同僚になる方もすでに到着しています。仕事の内容は移動しながら説明しましょう」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 トシオとサチが、根岸森林公園の地下にある横浜ディレクトレートで働き始めて数ヶ月が過ぎた。二人の所属はセクションD と呼ばれているが、まだPO がいない。トシオとサチは、毎日12 時間から16 時間、労働基準法を無視した勤務時間で、様々な知識の習得や、技術の訓練を要求された。多世界理論、観測問題、アーカム・オーダーの組織、SPU から送り込まれるクリーチャーの種類と特性。講師となるのは、横浜ディレクトレートや、他の拠点の研究者や管理職の人間で、いずれも一般市民から見れば一生役に立たない知識を豊富に持っていて、例外なく変人だった。
 また、カリキュラムには初歩的な兵器の操作や、護身術、それに二人ができれば使用したくないと心から願った、数種類の殺人術の訓練も含まれていた。こちらの訓練を担当したのは、トシオが救出されたときの部隊を率いていたホレイショーという指揮官だった。ホレイショーは、アーカム・ソード・フォースという軍事組織に所属していたが、佐藤の直々の依頼で、定期的に横浜ディレクトレートに足を運び、トシオとサチを絞り上げた。訓練外では酒好きの陽気な大男のホレイショーだが、訓練中はサディストではと疑うほど厳格な教官に変貌し、素人のトシオとサチに対しても、ほとんど手加減をしなかった。最初の一週間が終わるまでに、二人は身体中に無数の青アザを抱え、肋骨にヒビを入れ、数本の歯と数キロの体重を失うことになった。「今夜は、音をたてずに人を殺す八つの方法を教授する」ホレイショーはそんな言葉を凄惨な笑みとともに口にし、言った通りの技術を二人に叩き込むのだった。トシオもサチも、音があろうがなかろうが、人を殺したくなどなかったが、ホレイショーは二人の新兵の希望など意に介さなかった。
 そして最も時間を割かれたのは、もちろん膨大なライブラリを使った実習形式のプログラミングだった。特に、チーフとしてのトシオの責任は重大だった。チーフが適切な指示を与えなければ、いかに優秀なPO でも力を発揮することはできない。シチュエーションに応じて、無数のライブラリから最適解となる組み合わせを決定する権限を持つのはチーフだけだ。マネジメントとプログラミングの両方のスキルを、どちらも高い水準で要求される職務だった。それはサブチーフのサチも同様だった。サチは直接プログラミングを行うことがないはずだったが、トシオに何かあった場合は代わって指揮を執ることになるので、同程度の知識を持っていなければならない。プログラミングを職務として経験したことがない元教員にとって、それは想像以上に困難なトレーニングだったが、トシオのサポートもあって、サチは次第にコツを掴んできた。
 ある程度、ライブラリの知識が身についた後は、稼働しているセクションのオペレーションにPO として参加し、OJT 形式での実践トレーニングが続いた。モニタの前で座っているだけでなく、何度かはホレイショーの部隊に同行して、直接目視が必要なオペレーションも体験させられた。進化の法則を無視したクリーチャーを、至近距離から目撃するのは決して楽しい経験とは言えなかった。サチなどは何度も嘔吐し、精神的なダメージから何日か寝込むことになったが、佐藤もホレイショーも、その課程を免除しようとせず、回復すると同時にオペレーションは続行された。順応性の限界を試され続けたサチだが、やがて、人間はどんなことにもいずれは慣れる、ということを証明することになった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 10 ヵ月が経過したある夜、トレーニングが終わったトシオが自室に戻ろうと通路を歩いていると、佐藤が声をかけてきた。佐藤はトレーニングの進捗状況を誉めた後、少し時間をもらえないか、と言った。
 「そろそろ台場さんに見せておいた方がいいと思いまして」
 「何をですか」
 「来てください」
 佐藤がトシオを連れて行ったのは、これまで足を踏み入れたことのないブロックだった。これまでトシオが過ごしていた、明るく清潔で近代的な設備が整ったフロアではなく、人間的な暖かさを意図的に廃したようなエリアだ。通路と大小様々なドアしかない。トシオは最初に感じた印象を口にした。
 「監獄みたいですね」
 「近いですね」佐藤は頷いた。「ここです」
 二人が立ち止まったのは、一つのドアの前だった。佐藤が脇に埋め込まれているセンサーに手を当て数語を呟くと、ドアの上半分がスライドし、プレキシガラスらしい透明な素材が現れる。その向こうは3 メートル四方程度の狭い部屋で、ベッド、テレビ、小さなテーブル、本棚、ゲーム機などが見てとれた。
 テーブルの上にはコンバーチブル型の2in1 PC が置かれていて、あぐらをかいたT シャツ姿の若い男が、一心不乱にキーを叩いていた。ドアの変化に気付いた男は顔を上げた。顔の下半分は伸び放題になった髭に覆われ、目の下に隈が浮いていた。苛立ちを露わにしたその顔を見たトシオは息を呑んだ。コウジだった。
 トシオに気付いたコウジの表情がパッと明るくなった。PC から電源ケーブルを引き抜き、キーボード部を掴んで駈け寄ってくる。腕に埋め込まれていた逃亡防止デバイスは除去されたらしく、消えかけた傷跡が残っているだけだった。
 「台場さん」コウジはモニタをガラスに押し当てた。「見てください、すげえたくさんコーディングしましたよ。一位取る自信あります。評価してもらえますか」
 モニタに表示されているのは、Java のクラスの一部のようだが、意味のある内容では全くなかった。改行やインデントはバラバラだし、同じ変数が何度も宣言されていたり、for 文の条件にif やwhile がデタラメに挿入されている。エディタ上にはコンパイルエラーを表す赤いアンダーラインが無数に散らばっていた。
 コウジは期待に満ちた目で台場を見ていた。その表情はむしろ穏やかで狂気じみた印象は受けない。そのことがかえって、台場の心に恐怖を呼び起こした。
 佐藤が手を伸ばし、ドアを元の状態に戻し、小型モニタによる表示に切り替えた。コウジは失望した様子もなく、またテーブルに戻って、コーディングを開始していた。
 「5 人の中で生き残ったのは彼だけでした」佐藤はモニタを見ながら言った。「残りはショゴス細胞の除去が間に合わなかったか、処置の途中で死亡するかどちらかでした。彼の除去処置は成功したのですが、精神的なダメージが大きすぎたようです」
 トシオは複雑な思いでコウジの横顔を見つめた。利己主義で、善人とは言えない人間ではあったが、こんな境遇に身を落とさなければならないほどの罪を冒したとは思えなかった。
 「治療を続ければ回復するんですか」
 佐藤は首を横に振った。
 「治療はもう行われていないんです。やれることがないので」
 「せめて、家族の元に返してやるべきじゃないんですか」
 「彼は複数の詐欺行為に加担した容疑で、警察の捜査対象になっています。家族の元に戻せば、すぐに逮捕されて、ここよりもっと扱いが雑な病院に強制入院させられるでしょう。その方がいいと思いますか?」
 「......あのPC で何をやってるんですか」
 「彼は今でも、相模原のあのビルにいて、プログラマとして働いているつもりのようです。PC を手元から離すと、人格が変わったように大暴れするんです。プログラミングをしていることが、彼のレーゾンデートルになっているんですね」
 佐藤は、行きましょう、と言い、入ってきた方向に歩き出した。トシオは後を追いながら、この場所から離れられることに安堵している自分に気付いた。
 二人はカフェテリアに移動し、それぞれドリンクを手に座った。熱いコーヒーで落ち着いたトシオは佐藤に訊いた。
 「どうして私に見せたんですか」
 「台場さんの今後についてお話したかったからです」佐藤は答えた。「彼を社会に戻さない理由がもう一つあります。SPU は必ず彼に再度接触してきます。敵は一度手にした人間の協力者を、簡単に手放しません。同じ事は台場さんにも言えます。ここに来てから、台場さんの外出を厳しく制限してきた理由は、機密保持の必要もありますが、敵の接触を防ぐためでもあったんですよ」
 「そんなことではないかと思っていましたが......」
 「台場さんは、今後、元奥さんと娘さんと会うことはできません」佐藤は冷静に指摘した。「連絡も取ることもできません」
 「え?」さすがにトシオは驚いた。「永久にですか?」
 「一生です。すでに娘さんの30 年分の養育費に該当する金額を振り込んであります。海外で仕事が見つかった、何年か連絡が取れない、と台場さんの名前で連絡済みです」
 「ちょっと待ってください」立腹したトシオは、コーヒーカップを破壊しかねない勢いでテーブルに置いた。「私の了承もなく勝手なことを......」
 「大変申し訳ないとは思いますが、他に方法がありません。台場さんとの接触が継続していると、元奥さんと娘さんが脆弱性になる可能性があります。娘さんを、さっきの彼みたいな境遇に落としたくはないでしょう?」
 「......」
 「好むと好まざるとにかかわらず、台場さんにはSPU との戦いに、残りの人生を使ってもらわなければならないんです。娘さんに会えなくなるのはお気の毒ですが、うちの職員が定期的に動画をお届けするように手配します。それに、すでにお話ししたように、台場さんにはもうすぐ数人の子供たちの指揮をしていただくことになります」
 「実子の代わりにしろ、ということですか」
 「いえ」佐藤はかぶりを振った。「でもやりがいは感じていただけるのではないかと思っています。世の中のほとんどの親が得ることができない達成感を、台場さんには得ていただけると信じています。知っていると言ってもいいかもしれません」
 その言葉が脳の記憶野から一つの記憶を導き出した。
 「例のにせの佐藤管理官も、同じようなことを言っていましたよ。その顔をしていると未来が見えたりするんですかね」
 佐藤は微笑んだだけだった。何ヶ月も佐藤と接してきたトシオは、こういう表情のときには、どんな質問をしても絶対に回答を得られないことを学んでいた。
 「まあいいでしょう。少なくとも、モチベーションにはなる」トシオはふと気付いて訊いた。「駒木根さんはどうなるんですか。実家から通っているんですよね。家族と縁を切らせるんですか」
 「彼女の場合は台場さんのようにSPU に目を付けられていないので、その措置は取りません。少なくとも今のところは」
 「そうですか。駒木根さんは元教師ですから、私以上に、子供たちを育てることがモチベーションになるんでしょうね」
 「彼女の場合はそれだけではないんですよ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 同時刻、サチが訪れていたのは、トシオと同じフロアの別ブロックだった。コウジが幽閉されているブロックとは異なり、暖かい色合いの通路とガラス張りの部屋が並んでいる。サチはすっかり顔見知りになった医師やナース、医療アシスタントなどと言葉を交わしながら歩いていた。
 目的の部屋に到着したサチは、ID カードでドアを開き、広い部屋に足を踏み入れた。落ち着いた色のカーペットと、白系の壁紙で、部屋全体が明るい光に満ちている。高価なリビングテーブルが中心に置かれ、セミダブルベッド、マンガの入った本棚、二つのワードローブ、ユッカやオーガスタなどの観葉植物、たくさんの色とりどりのクッション、ダイオウグソクムシとタスマニアデビルのぬいぐるみが適度な雑然さで置かれていた。
 一つの壁に4 台の大型テレビが設置されていて、それぞれ違う映像が流れている。いずれも男性アイドルグループが出演している音楽番組かバラエティだ。それを部屋の中央で楽しそうに見ているのは、テーブル付きの車椅子に座ったマリエだった。
 サチが入っていくと、マリエは輝くような笑顔を向けたが、すぐにテレビに視線を戻した。サチはティーカップやポットが置かれた簡易キッチンで、二人分のアールグレイを淹れた。マリエのティーカップには冷蔵庫から出したクリームを少し加えた。
 マリエの前にカップを置いて、サチはベッドに腰掛けて待った。フレーバーティーの芳香が届いたのか、マリエがティーカップに注意を向けた。嬉しそうな顔でカップを手にして少しすすった。サチを見て、また笑顔を浮かべる。何の悩みも屈託もない笑顔だ。
 しばらくの間、サチはマリエと共に座りテレビを眺めた。一方通行の笑顔と音楽を浴び、マリエは音楽に合わせて身体を小さく揺すっている。数ヶ月前まで、顔と手首の先しか動かせなかったことから考えると、身体的には飛躍的なQOL の改善だ。それはマリエが持っていた驚異的な能力と引き換えに得たものだ。
 電子音と共にドアが開き、アシスタントの一人が入ってきた。以前の拠点でもマリエを担当していた女性だ。サチを見て短く挨拶を交わす。
 「今日は調子がいいみたいです」アシスタントはマリエの脈を取りながら言った。「駒木根さんがいるからでしょうかね」
 「だといいんですが」
 サチの上着のポケットが震動した。スマートフォンの表示を見たサチは、紅茶を飲み干して立ち上がった。マリエの血圧を測っていたアシスタントが笑った。
 「仕事ですか」
 「ええ。人使いの荒い職場ですね、お互い」
 キッチンにカップを下げ、もう一度マリエの側に座った。サチが帰ることがわかったのか、マリエは問いかけるような顔を向けている。サチはマリエの手を優しく握った。
 「もうすぐ後輩ができるよ」サチは言った。「マリエちゃんとの約束は守るよ」
 マリエはしばしサチの顔を覗き込んでいたが、納得したように頷いた。サチは手を離して立ち上がりながら囁いた。
 「私はそばにいるよ、ずっと」
 すでにマリエの興味はテレビに戻っていた。サチは背を向けてマリエの部屋を出た。

 (了)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。作者は週5 日のテレワーク生活になじみつつあります。元々、インドアな人間なので、外出できないのは、それほど苦になりませんが、確実に運動不足になるのを実感しています。楽しみにしていたドラマも次々に放送延期になるなど、明るい話題の少ない毎日にも閉口です。パンデミックものの小説や映画が大好きな作者ですが、まさか現実でこんな状況が発生するとは、想像していませんでした。生活や仕事にいろいろ制限が発生している現在ですが、いずれやってくる事態の収束に向けて、自分ができることをやりつつ、日々を過ごしていくしかないのでしょうね。

 次回は、5 月のGW 明けぐらいから、イノウーくんの話をやろうかと思っています。みなさま、お元気で。

Comment(16)

コメント

ファンのひとり

訓練中はサディストでは疑うほど

訓練中はサディストでは「と」疑うほど

ではないでしょうか?

匿名

お疲れ様でした。
次回作楽しみにしてます!

ファンです

マリエが生きててヨカッタ。身動きできなくても、自分の意志があるから・

リーベルG

ファンのひとりさん、ありがとうございます。
「と」抜けてました。

匿名

おつかれさまでした。
とても面白かったです!
次回作も楽しみにしております。

敵は一度手にした人間を協力者を、簡単に手放しません

敵は一度手にした人間の協力者を、簡単に手放しません
でしょうか?

匿名

マリエよかった!
もしかしたらあの世も幸せな場所かもしれないけど、TVはないかもしれないからね。

1点気になる点です。

 ドアの一つの前だった。

 一つのドアの前だった。

でしょうか。


イノウー君久しぶりだなぁ。
新しい部署でどんな活躍をしているのか気になる!
「蜂」を作っていたらぶったまげるけど。

リーベルG

匿名さん、匿名さん、ご指摘ありがとうございました。
それぞれ修正しました。

Dai

前回分ですが、
>山本は狂喜の表情

リーベルG

Daiさん、どうも。
狂喜してたら変ですね。

ななし~

最終回、楽しかったです(^^)
「音があろうがなかろうが」→「何があろうがなかろうが」でしょうか?

匿名

お疲れさまでした!
面白かったです ^ ^
 
次回作も楽しみにしています

匿名

ななしーさん
その前のホレイショーの「今夜は、音をたてずに人を殺す八つの方法を教授する」に対する感想なので「音」でいいんではないでしょうか
#有名なSFのセリフですよねー

ななし~

匿名(11:38)さん、ご指摘ありがとうございます!
なるほど納得です(^^)

hiro

面白い話をありがとうございました
GW明けも楽しみにしております

匿名

いつも楽しみにしてます。神話系の話も悪くはないのですが、現実世界にありそうな苦難と悲哀がテーマの作品の方が面白く感じています。次作も楽しみにしています。

ついでに一応、「トシオに何かあった場合は変わって指揮を執ることになるので、」ですが、「代わって」の方が適切かと思います。

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
「代わって」ですね。

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