ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

蜂工場 (6) 駒木根サチ

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 信じられない、という言葉を、平均的な市民は一生に何度使うのだろう、とサチは半ば麻痺した頭で考えた。雑談の中の接ぎ穂や、意味を持たない修飾語ではなく、心からのそれを。1,000 回ぐらいか、それとも10,000 回か。使える上限が決まっているとしたら、今日一日で許容量の半分ぐらいは消費してしまいそうだ。
 オファーを受けた二日後、サチが出向いたのは、桜木町駅から徒歩数分の距離にあるオフィスビルだった。エントランスにあるフロア案内には、大手電機メーカーの他、誰もが知っている上場企業の支社などの社名があり、怪しい雰囲気は皆無だった。ビルの地上階は、道路に面したコンビニになっていて、多くのサラリーマンが出入りしている。サチはエレベータで指定されたフロアに上がり、待っていた佐藤に迎えられた。
 佐藤は暖かい言葉でサチを歓迎したが、浮かべた笑顔はどこか上の空のようだった。案内された会議室に入ると、香り高いコーヒーが、紙コップではなく、ジノリのコーヒーカップで供された。サチはコーヒーはあまり好まないが、過去に口にした全てのホットドリンクとは一線を画すものであることはわかった。クリームと砂糖を投入するのがもったいないほどだ。おかげで、わずかに残っていたサチの緊張はすっかりほぐれた。
 一度、会議室を出ていた佐藤は、サチが空になったカップをソーサーにそっと戻した頃に戻ってきた。リラックスしていることを確認するようにサチの顔を無遠慮に眺めると、テーブルを挟んだ対面に座りながら、固い声で言った。本来ならもう少しゆっくり時間を取って、インターンシップを通して業務内容を知ってもらう予定だったのですが、少々切迫した状況になってきました。申し訳ないとは思いますが、少し巻きで進めさせてもらいます。
 そう前置きすると、佐藤はサチの戸惑いを無視して、突拍子もない話を始めた。隣接する別の宇宙......人類ではない種族......侵略......部分的相互作用維持多世界理論......有史以来続く戦い......SF やホラーにそれほど興味がないサチにとっては、荒唐無稽な与太話としか思えなかった。
 数年前、アーカムの横浜支部は敵の攻撃を受けて、壊滅状態に陥り、多くの貴重な人材を喪失しました。新たな拠点はすでに稼働していますが、人員の手当が完全とは言えず、使えるリソースをギリギリまで酷使せざるを得ない状態です。駒木根さんに、これからケアをお願いする子も、その一人です。
 どういうことでしょうか。サチは驚きながら訊いた。子供たちのプログラミングチームをサポートする、というお話だったはずですが。そのチームは、これから立ち上げると仰ってませんでしたか。
 確かに言いましたし、その予定でした。言いながら、佐藤は立ち上がった。少々、事態が変化したんです。こちらにいらしていただけますか。
 会議室を出ると、背の高いパーティションで蜂の巣のように区切られたオフィスエリアが広がっていた。人の気配はそこかしこで感じられるが、半数以上のブロックが無人で、未整理の段ボール箱やツールボックスなどが散乱している。サチの視線に気付いた佐藤は、早足で歩きながら弁解するように説明した。ここは臨時で確保した拠点で、まだ中身が整っていないんです。たまにタブレットや何かが転がっていますが、気にしないでください。
 反対側のドアからオフィスエリアを抜け、広い廊下を進んだ佐藤は、大きなドアの前で足を止めた。ドアには何のプレートもなく、何の部屋なのかサチにはわからなかった。佐藤は網膜スキャンでロックを解除し、サチに入るよう促した。
 中に入ったサチは驚きで目を見開いた。部屋の中央にリクライニングベッドが置かれ、小学生低学年、もしかするとそれより年下の少女が上半身を起こしていた。頬骨が浮き出るほど痩せこけた顔で、両目だけが驚くほど大きい。鼻に経鼻酸素カニューレが付けられている。ピンク色のパジャマの胸元からはセンサーケーブルが何本も伸びて、ベッドサイドに置かれた生体情報モニタ機器の裏側に接続されている。折れそうなほどか細い左腕には点滴がつながれ、透明な液体を規則的な間隔で少女の血管に送り込んでいた。
 少女はオーバーテーブルの上に伸ばした細い手を音もなく動かしていた。その手元を見たサチは、オーバーテーブルの上にソフトウェアキーボードが投影されていることに気付いた。少女の視線は、フットボードから伸びるモニタアームによって、目の前に固定された32 インチのワイドモニタに集中し、佐藤やサチが入ってきたことに気付いた様子もない。
 この子は......硬直したサチに佐藤が囁いた。マリエといいます。急遽、招集したプログラミング・オペレータの一人です。生まれつき難病を患っていますが、持っているプログラミングスキルはウィザードレベルです。幼く見えるかもしれませんが13 才。年相応の知識と常識を持っています。
 驚きのあまり声も出せないサチが見守る中、佐藤はマリエに近付き、その耳元で何かを囁いた。マリエは指の動きを止めると、目だけをサチの方に向けた。その瞳に宿る光には、大人びた冷徹さと、子供っぽい興味が同居している。
 そこの人。不意に少女が呼びかけ、サチは飛び上がるほど驚いた。そう、あなたよ。名前、なんていうの?
 うろたえたサチが、どもりながら名乗ると、マリエはバカにしたように短く息を吐いた。サチさんね。あなた、パイソンはできるの?
 パイソンがPython 言語のことだと気付くまで、サチは数秒を要した。少しだけ。中学のプログラミング学習で......
 つまりド素人ってことかよ。マリエは遮り、佐藤を睨んだ。ねえ、なんでこんな人連れてきたの? ネコの方がマシじゃない。ネコは少なくとも可愛いじゃん。
 そのときサチは気付いた。マリエはさっきから首を少しも動かしていない。サチが気付いたことにマリエも気付いたらしい。辛辣さを増した口調で言う。そういうこと。あたしが動かせるのは、顔の器官と手首から先だけ。それもクスリの力を借りてやっとよ。本当なら病院で寝てろって言われてる重病人をこき使うんだから、アーカムってホントにブラック企業ね。
 佐藤が苦笑した。人手不足ですまない。現在進行形で敵の攻撃が続いている。グリッド構築を失敗すると、一気に浸食されてしまう。絶対に失敗できないからな。私は反撃の準備で忙しい。後のケアは駒木根さんに一任する。そう言うと、佐藤はサチに向き直った。駒木根さん、後は任せていいですね。
 は? サチは慌てて抗議した。そんな、いきなり任されても......
 投薬は自動で行われるので配慮は不要です。身体的に異常があればモニタからアラームが出てナースが5 秒で駆けつけます。吸い飲みはそっちの棚。定期的に唇を湿らす程度で。その他の注意事項は、そっちのタブレットに入ってますから目を通しておいてください。緊急の場合は、そこの内線で。誰か出るはずです。駒木根さんは、冷蔵庫にあるものを何でも自由に飲食してください。ではよろしく。佐藤は早口でそう指示すると、サチが口を挟む前にさっさと部屋を出て行ってしまった。
 残されたサチが茫然とドアを見つめていると、マリエが苛立ったような声で呼びかけた。ちょっと、何ボーッとしてんだよ。こっち来て。早く。
 サチが急いで近付くと、マリエは指の動きを再開しながら、テレビを付けて、と命じ、眼球を微かに動かした。視線の先には70 型の4K テレビが壁に固定されていた。サチはサイドテーブルに置いてあったリモコンを取って電源ボタンを押した。テレビが明るくなり、にぎやかな音楽と点滅する色とりどりの光が室内に溢れた。画面の中では若い男性グループが身体を動かしながら歌っている。
 間に合ってよかった。マリエは呟いた。予約録画とかできないから。ったく、テレビぐらい好きに見せろっての。身体によくないとか疲れるとか言いやがって。ガキじゃねえっつーの。
 このグループ、好きなの? サチは訊いた。サチが勤務していた学校でも女子生徒の間で人気があったので、メンバーの名前ぐらいは頭に入っている。
 好きってほどじゃねーけどさ。マリエはコーディングを止めることなく答えた。歌は下手くそだし。でも、ダンスがうまいから見てんの。あたしには絶対できねーから。
 意識しなかったが、サチの顔に同情に類する表情が浮かんだのだろう。マリエは苛立ったように舌打ちした。ちょっと、そういう表情止めてくんないかな。あたしを哀れんでいいのはあたしだけよ。あんたにその権利はねーの。わかった? ああ、いいから謝んなよ。そういう偽善って大嫌い。
 同情や謝罪の言葉を封じられたサチは、おずおずと訊いた。私、黙ってた方がいいかな。
 黙ってるなら同じ部屋にいる意味ねーだろ。あたしは誰かと話してる方が頭が動くの。ほら、何か話せよ。
 サチは改めて部屋の中を見回した。妙に事務的な雰囲気で、会議室か何かを臨時の病室にしているだけのようだ。飾り気のない天井の低い部屋で生活感は皆無だ。マンガの入った本棚やアイドルのポスター、観葉植物、ワードローブ、鏡など、13 才の女子の部屋にありそうなものが何一つない。中学校の教師として、生徒の興味を惹きそうな話題のキャッチアップは欠かさなかったが、この少女に対して、そんなものが役に立つとは思えなかった。グルメやコスメや恋愛も、この場の話題としては適当ではないだろう。
 結局、サチが口にしたのは、今、何をやってるの、というありきたりな言葉だった。冷笑されるのを覚悟したが、意外にもマリエは詳しく説明をしてくれた。
 つまり敵が――敵については訊いたよね? そいつらはアーカムのシステムに対して、破壊的なロジックを送り込むって攻撃をしてきてる。あたしが生まれる前からだけど、最近は特に激しいらしい。敵がスポットで攻撃してくるってのに、こっちはグリッド状の防壁を構築しねーと防げないんだ。水面にインクを一滴だけ落としたら、被害はその一点だけじゃなくて、多方向に広がるよね。それを防ぐには球形に対処しなきゃだろ。横浜の本部は稼働したばかりで、まだ本格的な攻撃に対応する態勢が取れないから、ここみたいな臨時拠点で対応してるってわけ。あたしがやってるのは、本部の分析班が予測した範囲のメモリ空間に、防壁になるプログラムを事前に埋め込んでおくって作業。感染症の対策にワクチンや抗生物質を予防内服するみたいなもん。他にも同じことやってる人はいるよ。でもトップでベストなのはあたし。何しろ6 才ぐらいから、この仕事やってるからさ。ごめん、ちょっとドリンク取って。赤いシール貼ったやつ。そう、それ......
 ......サンキュ。え、6 才ってそんなに変? そうかな。あのさ、元々、あたし自分の殻に閉じこもってたんだよ。あんまり憶えてないんだけど、とにかくそういう話。何かをしたいとか、どうなりたいみたいな希望もなくてさ。外の世界に興味なんかなかったし、ご飯食べたいとか、死にたいとさえ思わなかったんだよ。あのままだったら、身体も心も衰弱して虫みたいに静かに死んでたんじゃねーかって思うよ。だけど、6 才のとき、あの佐藤の奴が来てさ。あたしが特殊能力を持ってるって言ったんだ。最初は超能力でもあんのかと思ってたけど、そうじゃなくてプログラミングスキルだって。何でも、本能的に複雑なロジックを理解して構築する力があるらしいよ。一種のサヴァン能力みたいなもんだって言ってたけど。で、あたしの脳のどっかを何かして、その能力はそのままにして、普通のコミュニケーションができるようにしてくれたってわけ。
 モニタ上に小さなウィンドウが開き、男性の顔が表示された。マリエはサチには意味不明の単語で男性と情報を交換し、すぐにコーディングに戻った。
 ここ数日、ちょっとハードなのは確かだよ。マリエは続けた。今、ここにチャットウィンドウ出したのは、別の場所で同じことやってるおっさん。もう5 日ぐらい休んでねえって。あたしも昨日は寝てねーし。佐藤の話じゃ、別の場所で反撃? 攻撃? とにかく敵を叩く準備をしてるってことだから、そしたらちょっと休めるかな。まあ若いから一日ぐらい寝なくても平気だし。それに体力を温存しておいてもしゃーないしさ。
 画面、見てもいい? サチは訊き、マリエの了解の言葉を聞いてから、モニタを覗き込んだ。少しだけ勉強したPython のコードが表示されていて、マリエの高速に動き回る指によって、新たなコードが付け加えられていく。感心しながらその動きを見ているうちに、マリエのコーディング方法が、控えめに言っても変わっていることに気付いた。モニタには複数のウィンドウが開いているが、マリエはそれらのウィンドウに対して、同時にコードを書き込んでいるのだ。ウィンドウ1 でif 文を書きかけ、ウィンドウ2 でfor ループを途中まで記述し、ウィンドウ3 で変数定義を数行、といった具合だ。サチが思わず感嘆の声を上げると、マリエは少し得意そうに言った。こういうことができるのは、あたしぐらいよ。アーカムにはベテランのプログラマさんがたくさんいるけど、その人たちが一つのモジュールを構築する時間で、あたしは3 つ、多ければ5 つをアップできる。今みたいな緊急事態には重宝されるってわけ。脳に負担がかかるのは確かだけど、まあ、もうすぐそれも終わりだからね。
 敵への反撃が成功すれば、攻撃の量が減るからか。そう訊いたサチに、マリエは抑揚に乏しい声で答えた。そういうことじゃなくてさ。あたしの身体は、もうあまり長い時間は持たないってこと。今の状態はクスリでキープしてんだから。それも、あと何日かで効果がなくなる。それまでは最大限、このスキルを活用するってだけ。その後はもう仕事できないから。ずっと。
 自宅か設備の整った病院に移る、という意味かと思ったが、続くマリエの言葉がその甘い予想を砕いた。サチさんが何考えてるかだいたいわかるけど、違うから。運が良ければ......それとも、悪ければかな、元の状態に戻る。自分の殻に閉じこもって、他人との接触を拒み、点滴で細々と命をつなぐことになる。でも、そうなる確率はかなり低い。一番、可能性が高いのは、カッコ良く言えば、命が燃え尽きるってことになる。別の言い方をするなら死ぬってこと。
 絶句したサチをちらりと見て、マリエは達観した成人のように言った。誤解すんなよ。別に死ぬのが怖くないとか、覚悟はできてるなんてのじゃないから。そりゃ、あたしだって死にたくなんかないよ。ババアになるまでとはいかなくても、せめてすっげえいい女になって、すっげえイケメンとヤるぐらいまでは生きてーよ。でもさ、わかる? あたしは少なくとも自分の死に方を選べるんだぜ。元の状態だったら、自分でもわからないうちに死んでた。自分がもうすぐ死ぬって予感さえなしにだよ。それに比べれば、自分が誰かの役に立って、もしかしたら何人かの命を救って、それでだいたい全部燃やし尽くしたかな、ってときに死ぬことができる。これって、結構、贅沢だと思わねえ?

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。

Comment(6)

コメント

匿名D

サチさん用のダシがマリエという少女というわけですか。
コウジについては、ヒステリー起こしてつまみ出されたところで
心は痛みませんが、これは・・・


なんか、スタッフを最初から壊しにかかっていません?
元ネタの世界観が、もともとそういう指向を持っている側面はありますが。
(それほど詳しくないですけど)

じぇいく

>パジャマの胸元からはセンサーケーブルを何本も伸びて
ケーブル「が」何本も

どこまでがサチとトシオを取り込むための演出・陰謀で、どこからがアーカムが追い込まれ・利用している状況なのか。
不自然なほどの巡り合わせやタイミングを作り出す何かが、神話を紡ぐ宿命の代償なのか。

毎週、胸をヒリヒリさせながら楽しませていただいてます。

リーベルG

じぇいくさん、ご指摘ありがとうございます。
「が」ですね。

匿名

最初は綾波で再生されがすぐにどっか行ったw

匿名

カウント・ゼロみたいだ

Y

>カウント・ゼロ
私も一番にそう思いました。
むしろ、文体を敢えて似せているような感じ

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