ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

蜂工場 (4) 駒木根サチ

»

 多くの場合、問題解決の特効薬となる時間は、サチの問題に限っては効果を発揮してくれなかった。例のツイートは、繰り返しリツイートされ、学校への問い合わせの数は増加する一方だった。サチの住所はあっさり特定され、卑猥な言葉が書き連ねられた紙が郵便ポストに投げ込まれたり、ドアに貼られたりする毎日が続いた。フォローしている生徒のTwitter アカウントにはブロックされたかと思えば、見知らぬアカウントから避妊具や裸体の画像が送りつけられる。とうとうサチは、DM 受け取りの設定を変更した。
 サチが心配していたのは、自分の今後などではなく、自分が担任を務めるクラスにいる、小柳の長女、チエミのことだった。学年主任からは、一日に一回、サチの様子を確認する事務的なLINE が届く。返信の際に中等部の様子を確認したところ、チエミは学校を休んでいるらしい。教頭と学年主任が自宅を訪ねたそうだが、何も話ができないまま母親に追い返されたため、チエミが受けた傷がどれほど深いのかを知るすべはなかった。せめて自分の口から事情を説明したいと願ったが、サチが直接連絡を取ることは厳禁だと、疑問の余地なく明言されているため、なすすべがなかった。
 一週間後、サチは学校に呼ばれた。日曜日の午後が指定されたのは、生徒がサチを目撃することを避けるためだろう。会議室に入ると、校長、教頭、学年主任の他に、市教育委員会の担当者と名乗った男性が同席していた。担当者は、小柳から話を聞くことに成功していたが、その結果はサチの立場を好転させるものでなかった。小柳は誘ってきたのはサチの方だと主張したのだ。担当者は手帳にメモしてきた小柳の言葉を読み上げた。もちろん私は何度も断りました。家族を裏切るような真似ができるわけがありません。でも駒木根先生はチエミの担任です。担任という立場を利用すれば、チエミの内申に影響を及ぼすことは簡単です。事実、そのようなほのめかしを、何度となく口にしていました。怖くなった私は、一度だけという約束で、食事に応じることにしました。あの店を選んだのは、知らない店だと心配だったからです。食事の間も、駒木根先生は何かと誘惑するような言葉を......
 待ってください。とうとう我慢しきれなくなったサチは声を上げた。誘ってきたのは小柳さんの方です。
 市教委の担当者は、冷たい目でサチを見た。ほう、話が違いますね。その言葉を証明するものは何かありますか?
 LINE のトークが残っていることを告げると、担当者は、今、ここで見せていただけますか、と要求してきた。サチは躊躇った。いかに不快な相手であっても、許可も得ずに個人間のやり取りを開示することが、正しいとは考えられなかったからだ。そう言ってみたが、担当者はその考えに賛同するどころか、逃げ口上ではないかと疑った。教師陣は誰一人として助け船を出そうともしない。
 渋々ながらサチはスマートフォンを出し、LINE アプリを起動した。トーク画面から小柳のアカウントをタップする。開いた画面を一目見たサチは、自分の視力と記憶を疑った。小柳から届いていた何通ものトークはなく、無機質な空白がサチを見返していた。たとえ小柳がトークを削除したとしても、サチの端末には残っているはずなのに。
 担当者が訝しげに問いかける言葉も耳に入らないまま、サチは茫然とデフォルトの背景画像を凝視し続けた。全ては自分の妄想だったのだろうか。私はあの男の好意を得ようと執着し、相手の迷惑も、生徒の担任である立場も忘れてしまったのだろうか。そのことが発覚したので、保身のためにトークを自分で削除してしまったのだろうか。
 駒木根先生。校長が苛立たしげな声で呼びかけた。どうかしましたか?
 我に返ったサチは、トーク履歴がありません、と呟くように答えた。校長達は顔を見合わせ、市教委の担当者は軽蔑したように鼻を鳴らした。こんな状況はよくあることだ、と言わんばかりの訳知り顔を見て、サチは一切の反論が無益であることを悟った。小柳の証言の信憑性が大きく増したこと、ここにいる男たちがどちらの言い分を信じるかは、わざわざ言語化されなくても明らかだった。
 教師たちは雄弁な視線を見交わしている。彼らが無言のうちに共有している「事実」を、サチは明瞭に想像することができた。ここに一人の若い教師がいる。地味で華があるとはいえず、異性関係の経験値が低く自信もないため、仕事に情熱を傾けるしかない若い女性教諭だ。あるとき彼女は一人の保護者に優しい言葉をかけられた。社会的地位も経済力もあり、イケメンと呼ばれる保護者だ。免疫の少ない彼女は舞い上がってしまい、自分に対して好意を抱いてくれている、と思い込んだ。その男の紳士的で優しい態度が、娘の担任教師に対する礼儀以上のものではないことに気付かなかった。彼女は男にアプローチを開始する。最初は礼儀正しく対応していた男も、次第に彼女の執拗な言動に困惑し、距離を置こうと試みるがうまくいかない。彼女は娘の担任であり、保護者との面談の口実はいくらでも作り出せる。とうとう女性教師は、娘の成績に対する影響力を背景に、男に学校の外で個人的に会ってくれるよう迫った。男は娘のために応じざるを得なかった。そのときの様子が撮影され、SNS で拡散されることになったのは僥倖だった。それがなければ、女性教師はさらに男に過大な要求を突きつけただろうから。いや、もしかしたら、この騒動全体を彼女が仕組んだことであっても不思議ではない。公にすることで、男の家庭にくさびを打ち込み、そこに自分自身を差し込むという浅はかな考えで。トーク履歴がないのは当然だ。元々、存在しなかったのだから......
 無力感にとらわれたサチに、学年主任が耳障りな咳払いとともに言った。駒木根先生、実は、スクールカウンセラーにも相談し、先生の担任クラスに無記名でアンケートを取ったんです。結果をご覧になりますか?
 サチはろくに考えもしないまま頷いた。学年主任は脇に置いてあったクラフト封筒から数枚のプリントアウトを引っ張り出すと、サチの前に並べた。サチは学年主任の顔を見つめた後、視線を落とした。Q1. 駒木根先生を信頼できる先生だと思いますか。Q2. 駒木根先生の授業はわかりやすいと思いますか。Q3. 駒木根先生に担任を続けてもらいたいですか。質問の下には、回答結果を集計した数字が続いていた。いずれも「いいえ」が90% 以上だった。
 茫然とプリントアウトを凝視するサチに、校長が告げた。実はPTA からも同様の声が上がっています。理事会でも問題になっていて、中等部としてそれらの意見を無視することはできません。一方の話だけで事を決めるのは不公平なので、本日、先生の話を聞かせていただいたのですが。小柳さんの証言に対する反証となる事実が何もない以上、まことに残念ではありますが、疑わしきは罰せずで済ませることはできません。わかっていただけることと思います。本日はお帰りになって結構です。先生への処遇は、後日、ご連絡します。
 三日後、学年主任が電話をかけてきた。サチは正式に担任を外され、無期限の自宅待機を命じられた。その頃には、リツイートや学校への問い合わせは下火になっていたし、数人の生徒がSNS 上でサチへの処遇について疑問を投げてさえいたが、それらの背景は全く考慮されなかった。学年主任は明言しなかったが、どうやら小柳がサチの退職を迫った結果だったらしい。加えて、チエミの方もサチが出勤している間は登校したくない、と言ったようだ。チエミの成績が高等部でも維持されれば、SMART 大学群への入学が高確率で実現すると言われているので、学校としては転校などの事態に陥ることを避けたかったのだ。
 サチが辞表を提出したのは、それから20 日後だった。ずるずると延ばしてしまったのは、全ての誤解が解け、担任に戻れるのでは、という未練が残っていたからだ。が、自宅待機を命じられた時点で、復職の望みはなかったのだろう、と今になれば思う。慰留が全くないまま辞表は受理され、サチは無職の身となった。一生の仕事と思っていた教職を離れたことよりも、心身を削って尽くしてきた生徒たちのほとんどが自分を信じてくれなかった、という事実が、サチの心に大きな傷を残した。
 教師の世界は横のつながりが強く、不祥事を起こした教師であっても、遠隔地の学校への斡旋が行われることもしばしばだ。だが、サチの場合には、そのような救済措置が一切なかったし、たとえあったとしても断っていただろう。二度と教壇には立たない、立つ資格がない、と、サチはすでに心を決めていた。仮に教師に戻れる機会があったとしても、自分が大勢の生徒の前でチョークを握ったり、タブレットを操作したり、部活動の顧問として練習に参加している姿を想像することが、どうしてもできなかった。ひそひそ話をされただけで、自分のことを笑われているのではないか、と考え、頭が真っ白になってしまうだろう。そのたびに授業を放棄して教室から走り出すぐらいなら、最初から何もしない方がいい。
 ただ、教職に対する情熱まで失ったわけではなかった。せめて裏側からサポートできれば、と教育関係の職を探していたが、なかなか条件に合う仕事は見つからなかった。ほとんどは書類選考段階で落とされ、まれに面接まで進んだ場合でも、前職の退職理由が知られると、いわゆるお祈りメールが届くことになる。サチは無職の身には分不相応となった1DK の賃貸マンションは引き払い、横浜市内の実家に戻って就職活動を続けていた。両親は暖かく迎えてくれ、いつまでもいていい、と言ってはくれたものの、60 歳の定年まで教師を続けた母親が内心で失望しているのは痛いほどわかる。何とか再就職を決めて両親を安心させたい、という焦燥感で、人知れずため息をつく日々が続いていた。もう、教育関係は諦めるべきなのかもしれない。そう思い始めていただけに、降って湧いたようにもたらされた佐藤の申し出には大いに心を揺さぶられていた。
 「問題ありません」佐藤は安心させるように頷いた。「うちはいかなる意味でも学校とは無縁です。それに、我々は、駒木根さんが不倫などしていないことを知っていますから」
 「本当ですか」サチは驚きながら訊いた。「誰も私を信じてくれなかったんですが」
 「信じる、信じない、ではありません。事実を知っている、と言っているんです。何度も誘ってきたのは小柳氏の方ですね。我々には、一般のネットユーザが知ることができない情報へアクセス可能な権限があります。全てを知った上で、駒木根さんを迎え入れたいと思っています」
 どこまで、この人を信じていいのか、とサチは佐藤の顔を見つめた。提示された条件は申し分ない。なんと言っても、たとえ数人であっても、子供たちの教育に携われる、という条件が魅力的だ。だが、社会人として数年の経験を積んだサチは、現実社会には、うまい話などない、ということも知っている。これが何らかの詐欺ではないという保証もなければ、犯罪に加担させられるのではないという証拠もない。佐藤が口にしたアーカム・テクノロジー・パートナーズという固有名詞は、検索しても出てこなかった。実在性すら不確かな企業への再就職と聞けば、常識ある社会人なら9 割以上が二の足を踏むだろう。
 「私と同じぐらい、この仕事に向いている人はたくさんいると思いますが、なぜ私に声をかけていただいたんでしょうか。そもそも私のことをどこでお聞きになったんですか。私は特に秀でた能力も、ヘッドハンティングされるような実績もない、しがない教師......元教師でしかありませんが」
 「プログラミング学習の担当もされていましたよね」佐藤は答えた。「駒木根さんが独自に作成した教材を拝見しました」
 「私の作った教材ですか?」サチは驚いて佐藤の顔を見返した。「あれは、学校の共用PC の中に入れたままでしたが、どうやって......」
 佐藤は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
 「我々がその気になれば入手は容易なんですよ。それより感心したのは中身の方です。単にブロックを組み合わせる標準の検定教科書とは別に、フロントエンド向き、アプリケーション向きに分けてPython やGo、JavaScript などを組み入れていましたね。ご自分で基礎を勉強された上で、生徒の理解度に合わせて適切な難易度の課題を用意し、実際にコーディングできる環境まで用意していた。これはなかなかできることではありません。うちの会社のプログラマに見せたところ、このままシステム会社の新人研修に使っていいぐらいだと絶賛していました」
 「いえ、そんな......」
 「駒木根さんにお願いしようとしている子供たちもプログラマです。駒木根さんは直接プログラミング業務に携わるわけではありませんが、それでもプログラミングの概念がわかっていなければ、それぞれの子供のサポートやケアなどできません」
 一応は納得したものの、根本的な不安が消滅したわけではない。そんなサチの心中を見透かしたように、佐藤は小さく笑った。
 「とはいえ、いきなり正体不明の怪しい会社に就職するというのが不安なのもわかります。そこで一週間ほど、インターンシップという形で、実際の仕事がどんなものになるのか、我々の仕事がどういう種類のものなのか、などを知っていただこうと思っています。その間の給与も発生しますし、どこかの山奥に監禁、などということもありません。みなとみらいの中心にあるオフィスビルで、朝から夕方までになります。仕事内容に疑問があれば、何でもお答えしますし、自分にはできない、と思ったり、違法性を感じたりしたら、その時点でお帰りいただいて結構ですよ。こんな条件でいかがでしょうか?」
 知らず知らずのうちにサチは頷いていた。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。

Comment(11)

コメント

匿名

…これまでのトラブル、全部佐藤さんがこっそり介入していたのでは…?

匿名

> 男の家庭をくさびを打ち込み
男の家庭にくさびを打ち込み
この方がしっくりきますがどうでしょう。

匿名

LINE を消すのは一般人にはなかなかできなさそうです。

事件自体はアーカムが起こしたわけではないかもですが、
事件を知ったアーカムが、入社するように裏で工作したというのはありそうです。

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
「家庭に」ですね。

Dai

>これが何らかの詐欺であったり、犯罪に加担させられるのではない、という証拠はどこにもないのだ。

否定の並列ということですので、

・これが何らかの詐欺であったり犯罪に加担させられるのではない、という証拠はどこにもないのだ。

・これが何らかの詐欺ではなく、犯罪に加担させられるのでもない、という証拠はどこにもないのだ。
がスッキリするように思いますが、どうでしょうか?

リーベルG

Daiさん、ご指摘ありがとうございます。
確かに変ですね。少し表現を変えました。

匿名

オプションは小柳と学校関係者全員にハニトラかな。

N

起こってる現象が完全にサナエさんの言ってたアカシックレコードの書き換えですな。
流石にこれでアーカム無関係ってことはないだろうけど、バレたら一気に台場さんやサチさんの信用をなくすような悪手を取るとも考えにくいし、どこまで関わってるのか…

匿名D

LINEの履歴に手を出したのはアーカム、という線はありそう。
わからんのは待遇がよすぎるって点だな。
追い込めるんだったら、足下を見ることもできるだろうに。


あるいは、よすぎるのは一般の視点からであって、
アーカムの仕事そのものには見合ったものなのか。

匿名

バレたらナラティブを調整する、バレないようにアカシックレコードを編集する。
用語は違えど同根か。両面から操作した方がキレイにバランス取れそう。

続きが楽しみです(怖いもの見たさ

匿名

7話で終わりそうにない(笑)

コメントを投稿する