ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

蜂工場 (3) 台場トシオ

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 メンバーたちの献身的な努力にも関わらず、猶予期間の初日から改修作業には遅れが発生し、トシオは好ましくない進捗状況をTBT に報告しなければならなかった。顔をしかめて報告を聞いた事業部長代理は、まず遅れた原因を問い質した。改修のゴール、つまりエンドユーザの求める要求が、TBT の作成した要件定義書からでは、はっきり読み取れなかったため、というトシオの説明を、事業部長代理は是としなかった。
 結局のところ、おたくのメンバーにスキルが足らんかったのと違う? 事業部長代理は粘着質な声で言った。何人ぐらいでやってるのさ。4 人? 台場さんを入れて4 人? 4 人はちょっと少なくない? その4 人って、この案件を専属でやってんだろうね?
 要件定義書に不備があることを認めれば、TBT の責任を認めたことと同義となる。部長代理の職にある人間が、自らの立場を不利にする内容を認めるはずがない、とトシオは諦観とともに考えた。ましてや、下請けのプログラマなんぞに。
 申しわけありませんでした。時間を節約するためにトシオは頭を下げた。これから遅れを取り戻すべく全力を注ぎます。つきましては、要件定義を行った担当者の方にお話を伺いたいのですが。いくつか質問があるので。
 もう関西の方に異動してるから無理だね、と事業部長代理はにべもなく断った。要件定義は、これで東雲工業さんには検収印もらってるんだから、必要な要件はここに全部書いてあるってことでしょ。頭をちゃんと使って、定義書を隅から隅まで注意深く読むべきじゃないの? そんな風に、うちに責任押しつけることばっかり考えてないでさ。私の言ってること、間違ってる?
 もちろん間違っています、責任を押しつけているのは御社の方です、さっさと当時の担当者をテレビ会議でも電話でもいいから呼び出してください......そう言えたら、どんなに気分がスッキリすることか。トシオは唇を噛んで無益な想像を振り払うと、やってみます、とだけ答えて、事業部長代理の前を辞した。
 重い足取りで自社に戻ると、改修作業を続けているメンバーは2 人だけで、一番若いメンバー、能戸コウジの姿が見えない。トイレか何かだろうか、と思いながらホワイトボードに歩み寄り、自分の名前の横に殴り書きした「TBT 直行」の文字を消す。そのとき「能戸」の横に赤いマグネットが付いていることに気付いた。退社済みのマークだ。何だこれは、とマグネットを凝視していると、メンバーの一人がおずおずと声をかけてきた。あいつ、さっき帰りました。
 帰った? トシオは、さすがに声を荒げて訊き返した。帰ったってどうして?
 かなり頭痛がひどいらしくて、とメンバーは目を逸らしながら説明した。熱もあるから病院に行くと言ってました。もう少しだけ、進めていってくれと頼んだんですが、聞かずに帰ってしまって......
 ホワイトボードを殴りつけ、メンバーを口汚く罵りたい衝動を、トシオは懸命にこらえた。本人ならともかく、事情を説明しただけの同僚に怒りをぶつけても、何かが解決するわけではない。トシオは急いで自席に戻ると、スマートフォンを取り出し、コウジにLINE を送った。話は聞いた、具合はどうだ?
 いつまで待っても、返信どころか既読にもならなかった。仕事でもプライベートでも、メールよりLINE を多用する奴だったから、通知に気付かないはずはない。トーク画面を開かずに通知だけ見て無視しているのだろう。通話してみたが、やはり応答がない。通常の電話でも同じだ。
 今すぐ蒲田にあるコウジの自宅に向かい、首に縄をかけて連れ戻してやりたい。怒りとともにそう思ったが、それが非生産的な行動であることがわかるぐらいの理性は残っていた。自宅にいるとは限らないし、たとえいたとしても、強引に連れ戻すことなどできるはずがない。何より蒲田までの往復時間が、今のトシオには何物にも代えがたいほど貴重だ。
 冷静さを取り戻したトシオは、不安そうに見ていた残りのメンバーに作業に戻るよう指示すると、PC を起動して全員のタスク表を睨んだ。コウジは26 歳と最年少で、若干、経験が不足してはいるが、このプロジェクトでは貴重な戦力だった。一から新しいロジックを構築することは苦手だが、参考になるソースやテストケースがあれば、コピー&ペーストによって類似品を作り出す手法を得意としている。創造より応用に向いているらしく、トシオもそれを考慮した上でタスクをアサインしてあった。一日や二日の徹夜は余裕、などと常日頃から豪語していることもあり、他のメンバーよりも本数は多い。実際、受入テスト前までの実装でも、本数だけなら、トシオを含めた誰よりも多くのタスクをこなしていた。
 これだけのタスクをどうやって振り分ければいいんだ。途方に暮れながらトシオは顔を上げた。疲れた顔で作業を開始していたメンバーたちは、視線が合うと怯えたように目を伏せた。タスクを追加されることを恐れているかのように。
 今日一日だけ待とう、とトシオは決めた。コウジも一晩休めば、戻ってくれるかもしれない。少なくともLINE に応答ぐらいはする気になるかもしれない。トシオはタスクのいくつかを自分に付け直すと、改修作業を開始した。
 夜まで作業を続けていると、外出していた営業部の社員たちが帰社してきた。状況は承知しているはずだが、トシオの島には同情的な視線を投げるだけで、近寄ってこようとはしない。あの中の誰かに、コウジの様子を見に行かせるか、という考えがよぎったが、すぐに思い直した。事情を説明している時間すら惜しいし、今ならまだ、チーム内の問題に留めておくことができる。営業部に話が行けば、チームの状況を知っている人間は激怒し、高圧的な態度で押しかけるぐらいやりかねない。売り言葉に買い言葉でコウジが反発したら、作業に戻ってきてくれる、という一縷の希望さえ消滅してしまう。
 22 時を過ぎた頃、スマートフォンが不意に震動した。コウジからか、と急いで掴み上げたが、通話の着信だった。しかもブライトリンクスの代表取締役社長、下沢からだ。下沢社長は福岡に出張中だったが、東雲工業案件の状況は、開発部部長を通して逐一報告している。進捗を確認したいのだろう。
 コウジのことだがな、と開口一番、下沢社長は言った。辞めたいと言ってきた。お前、あいつに何をやったんだ。はっきりとは言わなかったが、パワハラ的な何かをほのめかしていたぞ。
 意識してはいなくても、ある程度の覚悟が醸造されていたのか、トシオに衝撃は少なかった。そうか、と思っただけだ。いや、別に何にもやっちゃいないですよ。ちょっと多めにタスク振っただけです。それだってコウジが問題ないって言うので......
 下沢社長の口調は疑わしそうだった。自分だけ面倒な作業を押しつけられたとか言ってたぞ。もうやっていけないってな。ああ、慰留はもちろんしたがどうかな。東雲のプロジェクトから外して、溜まってる有休を10 日ぐらい取らせてくれるならとか、言ってやがったからな。とにかく明日、もう一度電話してみるが、あいつは戦力として計算に入れないで進めてもらった方がいいな。
 通話を終えたトシオは、他の2 人のメンバーに淡々と事実を告げた。メンバーたちは驚き、かつ怒った。何だってんだよ。メンバーの一人がデスクを叩き、キーボードが宙に浮いた。コウジが入社したときから先輩として指導してきた男だ。あと4 日じゃねえか。何ヶ月もやってきて、受入テスト前は徹夜までしてきたってのに、どうしてたった4 日が我慢できなかったんだよ。
 もう一人のメンバーも悔しそうな顔で同意していたが、トシオにはコウジの心の動きが理解できるような気がしていた。コウジはコウジなりに、自分のリソースを受入テストの日まで引き延ばしてきたのだ。それがテンションを維持できる限界だった。受入テストの間の5 日間プラスその後の土日は、緊急の不具合対応以外は作業予定がなく、張り詰めた緊張を多少なりともほぐせるはずだった。コウジとしては、そのマイルストーンに向けて、保有する力を全て出し切っていたし、続く7 日間の間で、再び充電する自信もあったのだろう。それなのに、これまで以上にストレスがかかる作業が、さらに5 日間続くと言われ、そうしたプランが一気に崩壊し、自己防衛本能によってコウジは逃げ出した。逃げ出さなければ、自分が壊れることがわかっていたから。
 どうするんですか。怒りを発散し終わったメンバーが訊いてきた。どう考えても間に合いませんよ、これじゃあ。
 明日の進捗報告のとき、何とか期限を延長してもらえないか頼んでみる。冷静さの鎧をまといながらトシオは答えた。君たちのタスクは、とりあえず現状維持だ。とにかく進めてくれ。
 翌日、トシオが期限延長の件を持ち出す前に、報告を聞いていた事業部長代理は、コウジが進めるはずだったタスクの進捗がゼロパーセントなのはなぜかと、目ざとく質問してきた。トシオはメンバーの一人が離脱したことを説明した。予想されたことだが、事業部長代理の反応は冬の雨のように冷たいものだった。
 なんですぐに代替え要員をアサインしなかったの? 人がいないって、そりゃおたくの問題だよね。そういうことも予測して、バックアップ要員ぐらい用意しておくべきじゃないの? 普通、雨降りそうだったら傘持ってくよね。大事な打ち合わせだったら、電車が遅延しても時間通りに到着するように早めに出るものでしょ。それぐらい社会人として常識じゃないのかなあ。だいたい、そういうメンタルが弱いプログラマを、こんな大事なプロジェクトにアサインするってどういうことよ。若手に経験積ませる場所に使わないでほしいね。そういうのは、もっと他のどうでもいい仕事でやってくれないかな。うちの仕事をなめてもらっちゃ困るんだよ。安くない単価で仕事出してあげてるんだからさ。仕事は真面目にやってよね。
 同席していたブライトリンクスの営業部社員が机の下で拳を固く握りしめたが、トシオは怒りを感じなかった。こういう人種にいちいち腹を立てても時間のムダだ、とかなり前に悟っている。
 ネチネチと続く嫌みを30 分ほど拝聴した後、相手が喉への水分補給のために言葉を切った瞬間を捉えて、トシオは切り出した。御社から、プロジェクトに参加した他のベンダーに協力を要請していただけないでしょうか。呆気にとられた顔の事業部長代理が口を開く前に、トシオはたたみかけた。現在の状態だと、期限内に全ての作業を完了することは不可能です。もちろん弊社の都合だということは承知しています。でも、もし予定通りに受入テストが再開できなければ、御社にとっても不都合なのではないでしょうか。クライアント様から責められるのは、弊社ではなく御社ですから。すでに一度、東雲工業様からお叱りを受けていて、猶予期間を頂いているのに、やっぱりできなかったと報告されますか? 下請け会社のせいだと言い訳したところで、東雲工業様が納得されるでしょうか。TBT はベンダーコントロールもできない、そんな印象が残ることになります。それでもよろしいのでしょうか。今回は検収を受けられても、次回はどうなりますか。K自動車関連企業のシステム開発案件は、どこのSIer でも喉から手が出るほど欲しがっているじゃないですか。一度、その能力を疑問視したSIer に継続して依頼しなければならない理由はないと思いますが。
 脅迫でもしているつもりかね。事業部長代理はせせら笑う余裕を見せた。おたくの責任であることは明確だ。うちはクライアントにありのままを報告するだけだよ。おたくには、前に言ったように、相当なペナルティを科さざるを得ないが、それでもいいのかねえ。
 それは営業的な問題ですから。トシオがそう言って肩をすくめると、隣に座る営業部社員の顔が青ざめた。私は、とにかく、このプロジェクトを、エンドユーザ様も、御社も、もちろん弊社も満足な形で完了させ、メンバーを休ませてやりたいだけです。支払いだ、ペナルティだ、なんだかんだは、その後にゆっくり相談するというのが、双方にとって最善ではないでしょうか。
 考え込んだ事業部長代理に、トシオは少し低い声で囁いた。ご存じだとは思いますが、弊社と付き合いのあるSIer 様は、御社以外にも何社かあります。もちろん弊社は、今後も御社と末永いお付き合いを願うところですが、弊社からの正当な要請を、理由もなく却下されるようであれば、一考せざるを得ません。仮に、あくまでも仮の話ですが、メインの受注先を変更するという選択を行った場合、変更の理由を正直に打ち明けなければならなくなるかもしれません。
 無能な人間が大手SIer の事業部長代理の肩書きを持つはずはない。トシオの示唆を正確に察した事業部長代理は、数秒間考えた後に頷いた。すぐに各社に連絡し、午前中に結果を知らせよう。トシオは内心で大いに安堵しながら、事業部長代理の前を辞した。頭の中では、どのベンダーにどのタスクをアサインするかを、早くも考えていた。
 一時間後、帰社したトシオを待っていたのは、意気消沈した開発メンバーたちだった。残タスクで忙しいはずだというのに、PC の前に座ってさえいない。精も根も尽き果てた様子で、床に座り込んでいる。どうした、なぜ作業をしていないんだ。問いかけたトシオに、横から開発部部長が重い声で告げた。今さっき、TBT から連絡があった。うちの作業は現時点で終わりだ。実装中の全てのソースをTBT に引き渡す準備をしてくれ。
 作業終了? 告げられた言葉の意味が理解できず、トシオは訊き返した。どういうことですか。現時点での成果物で、受入テストを開始するということでしょうか。
 開発部部長はかぶりを振った。後の作業は別のベンダーに引き継がせるそうだ。向こうの部長代理の言葉を借りるなら、うちはもう信頼できるベンダーではないそうなんでな。うちのチームリーダーから脅迫まがいの暴言を吐かれたとも言っていたな。台場、お前、TBT に何言ったんだ。
 言葉を失って立ち尽くすトシオに、営業部部長が詰め寄ってきた。おい、台場。営業部部長はスマートフォンを握りしめたまま喚いた。今、TBT から連絡があったぞ。東雲工業案件で、残りの請求を受領するのは難しい、それどころかプロジェクトに重大な損失を与えたことで補償を求めることも検討している、と言ってきた。原因は台場チームリーダーだとも言ってる。なんでこんなことになってる。何も聞いてないぞ、こっちは。
 両部長に対して、トシオはTBT の事業部長代理とのやり取りをかいつまんで説明した。期限までに残タスクを終わらせるには、他に方法がなかったんです。脅迫というのは、向こうが大げさに言っているだけのことです。これからもう一度TBT に行ってきます。言葉が過ぎたことを謝罪し、話をすれば誤解も解けて......
 気持ちはわかるがやめておけ、と開発部部長が苦しそうに言った。今、お前が顔を出すと逆効果になる。俺と営業で出向いてくる。とにかくソースをアップしておいてくれ。お前たちは今日は帰宅して休んでいい。
 メンバーたちはその言葉に従い帰宅したが、トシオは休む気にはなれなかった。実装中のものも含めた全ソースをGitHub にコミットし終えると、プリントアウト類を整理しながら、開発部長たちの帰りを待った。身体は疲労で重かったが、頭の中では様々な思考が飛び交っていた。自分は疲労のために冷静な判断力を失っていたのか、TBT はブライトリンクスなしで東雲工業案件をカットオーバーに導けると本気で思っているのか、プロマネを引き受けたのがそもそも誤りだったのか、コウジが追い込まれているサインになぜ気付かなかったのか......
 開発部部長と営業部部長は3 時間後に戻ってきたが、彼らの顔を一目見ただけで、交渉がうまくいかなかったことがわかった。開発部部長はトシオを一瞥したが、何も言わずに自席に戻ると、スマートフォンを耳に当てた。社長、申しわけありませんが、なるはやで戻ってきていただけないでしょうか。東雲工業の案件で、問題が発生しました。対応策を検討する必要があります。では、明日の昼にお待ちしています......通話を終えた開発部部長はトシオを見て、今日は帰宅しろ、と優しい声で言った。どうせ明日の午後まで何も手が打てん。明日は午後イチで、社長を交えて対策会議だ。
 今度はトシオも、その言葉に従うことにして会社を後にした。駅の立ち食い蕎麦屋で遅い昼食を済ませ、15 時過ぎに自宅に戻った。2LDK のマンションはゴミ屋敷のように散らかっていたが、掃除をするような気力はない。トシオは冷蔵庫に一本だけ残っていた発泡酒を手にベッドへ向かった。プルタブを開け、中身を水のように飲み干すと、そのままベッドに倒れ込む。すぐに深い眠りに落ちた。
 スマートフォンの着信音に起こされたトシオは、かすむ目で表示を見た。16 時20 分。一瞬、24 時間以上寝ていたのかとぞっとしたが、日付を見直すと帰宅して1 時間も経過していない時刻だとわかった。目をこすりながら応答すると、開発部部長の厳しい声が聞こえた。大至急、会社に戻ってきてくれ。問題が発生した。
 シャワーを浴びたかったが、部長の「大至急」という言葉を思い出し、新しいシャツに着替えるだけにして部屋を出た。駅に急ぎながら、トシオは部長にあれほど焦った声を出させることになった問題とは何なのか考えた。TBT 関係の問題が高い緊急度を持つことは間違いないが、もはやチームリーダーの手を離れ、経営上の問題になっている。社長は明日の午後まで戻らないのだから、トシオに詳しい事情を聞きたいのだとしても「大至急」である必要はないし、これまでの経緯は説明してある。
 会社に戻ったトシオの顔を見るなり、部長は応接室の方を指し、先導して入っていった。応接室のテーブルの上には、来客用の湯飲みが置かれていた。部長はトシオを座らせると、囁くような声で言った。ついさっきまで弁護士が来ていたんだ。トシオは首を傾げた。弁護士って、もしかして、TBT からのペナルティについて相談していたんですか?
 そうじゃない。部長は首を横に振った。そうじゃないんだ。いいか、落ち着いて聞けよ。さっきの弁護士は、能戸コウジの代理人として来た。コウジはうちでひどいパワハラを受けたと主張しているそうだ。
 パワハラ? トシオは愕然と訊き返した。コウジが?
 部長は頷いた。そうだ。入社以来、能力を越えた量の業務を押しつけられ、何度抗議しても聞き入れてもらえなかったと言っている。特にひどかったのは、台場、お前からのタスクの押しつけだそうだ。そういった後、部長は、昨日の社長と同じことを訊いてきた。お前、あいつに何をやった。
 トシオは目の前が闇に閉ざされるのを感じた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「結局、訴訟は免れたんですよね」佐藤は訊いた。
 「はい」トシオは答えた。「慰謝料として会社から金を出すことで解決しました。年収の2 年分です。それだけではなく、結局、TBT との交渉も決裂し、予定していた2 割ほどの請求しかできなくて。責任を取って辞めることになりました。表向きは部門統廃合による早期退職勧告でしたが、実際は責任を全部押しつけられたようなものです。対外的にも、責任者を処分した、という事実が必要だったんでしょうね」
 「それから仕事を探していたけど、今のところ見つかっていないわけですね。条件が合う技術職はなかなかないでしょう。年齢的なネックもありますしね。正直なところ、台場さんより10 以上若いエンジニアがあふれていますから、今後も難しいんじゃないですか?」
 「はっきり言いますね」トシオは苦笑した。「だから、御社に就職してはどうか、ということですか」
 「その通りです。台場さんは大手SIer にありがちな、予算管理表とスケジュール表の調整は得意だが、技術力が皆無でプログラミング経験がない、というシステムエンジニアではない。台場さんにお願いしたいのは、マネジメント業務になりますが、プログラマとの距離がゼロに近い業務です。コードの読み書きができないマネージャは不要なんです。台場さんにうってつけの仕事だと思いますよ。当面、使用する言語はJava になりますが、ゆくゆくはPython などの多言語にも展開していく予定です」
 「Java なら、まあ大丈夫ですが。どういったシステムになるんでしょう? フレームワークとかデータベースとかは......」
 「そういった詳細は実際に仕事を開始するときに説明させてもらいます。ただ、うちのシステムは、少し特殊です。独自フレームワークなので」
 「......少し考えさせていただいてもいいでしょうか。何しろ急な話なので」
 トシオは複数の就活サイトに登録しているが、佐藤という男は、それらのサイト経由ではなく、直接、トシオの自宅に電話をかけてきた。サイトには携帯の電話番号を登録してあるが、自宅の固定電話の番号は入力していない。そもそも、固定電話はほとんど使うことがなく、知人にも教えていないというのに、その番号にかけてきた、ということが、佐藤の会社がそれなりの調査能力を有していることを窺わせる。トシオが話を聞いてみる気になったのも、そこに興味を惹かれたからだ。
 「10 分ぐらいでよろしいでしょうか」
 「は?」
 「10 分で決めてください」佐藤は腕時計を見た。「それで決まらなければ、この話はなかったことにします。二度と、台場さんの前に現れることはありません」
 トシオは急いでスマートフォンを取り出した。
 「もう一度、会社名を教えていただけますか」
 「アーカム・テクノロジー・パートナーズです」佐藤は言い、トシオのスマートフォンを見た。「言っておきますが、検索しても出てきませんよ」
 トシオはその会社名を検索し、佐藤の言葉が正しいことを知った。ややアンダーグラウンド寄りの検索サービスや、口コミ主体の掲示板サイトまで横断検索してみたが、アーカム・テクノロジー・パートナーズに関する情報は皆無だった。
 「台場さんが心配されているのは」佐藤は、トシオがスマートフォンから顔を上げるのを待って言った。「これが何らかの犯罪に加担するのではないか、ということですよね。ここで、そういうことはない、といくら説明しても、何の証拠もないことですから、納得はできない。違いますか?」
 トシオは頷いた。
 「その懸念はごもっともです。なので、正式な雇用契約を交わす前に、二週間ほどインターンシップという形を取らせていただいています。もちろん、その間も先ほど提示した報酬を日割り計算でお支払いしますよ。インターンシップ期間の中で、もう少し詳細な背景の説明を行いますし、労働条件等を明記した雇用契約書をお渡しします。弁護士などに相談していただいて構いません。弁護士の費用もうちで負担させていただきます。インターンシップを途中で中断するのも自由ですし、インターンシップ終了後、雇用契約書に署名捺印するかどうかも台場さんの自由です」
 「いい条件に聞こえますね」
 「ご希望ならオプションを付けることもできますよ」佐藤は妖しく笑った。「TBT 通信システムサービスでプロジェクトを混乱に陥れたマネージャ、何という名でしたか」
 「......伊沢だったと思います。それが何か?」
 「伊沢氏にちょっとした不幸が訪れるよう、手配することが可能です。大きな仕事でミスをするとか、軽い事故に遭うとか、SNS で炎上させるとか、そういったことです。他人の不幸は蜜の味、というやつです。我々にはその力があります。伊沢氏でなければ、事業部長代理でもいいし、仮病を使って責任回避した事業部長でもいい」
 トシオは正気を疑うような目で佐藤を見た。佐藤の提案が冗談ではなく本気であることを知ると、慌てて手を振った。
 「楽しそうな話ですが、それは遠慮しておきます。知らないところで不幸に見舞われるならともかく、自分が依頼したことが原因では寝覚めが悪くなります」
 「まあ、構いませんよ」佐藤は椅子に背を預けた。「そういうこともできる、と憶えておいていただければね。さて、残り5 分ほどで決断していただけますか」
 5 分後、トシオは佐藤の申し出を了承した。佐藤と握手を交わしながら、これで元妻と娘にも少しは楽をさせてやれる、と考えていた。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。

 

Comment(7)

コメント

匿名

胃が痛くなるような話

匿名D

えげつないなあ。
ブラック、ってネタでは色々読むけど、
こんな話が実在しているなんて想像するのも辛いわ。

匿名

ギャー

ブンブン堂

これアーカムが全部裏で仕組んでるんちゃうか?と危惧してたが、もう間違いない。アーカムは台場さん、駒木根さんを選んでリクルートしている。選択肢を絶って絶対手に入れる為に。たぶん他の人では代替できない要素があるんやろね。

匿名

年収の2倍の慰謝料とは、コウジの弁護士は相当エグい金額をカッパいでいったな。
未払賃金請求訴訟も併合したんならまだしも、パワハラの慰謝料の単品での相場は 50~100 万円くらいのはず。
仮にコウジが2019年7月現在の全国平均最低賃金の時給 901 円で契約していて、一日の労働時間が 8 時間、年間稼働日数が 240 日だったとしても、 901 * 8 * 240 * 2 = ‭3,459,840‬ だから、この記述を額面通りに受け取るなら、どんなに少なく見積もっても慰謝料はざっと 350 万円……相場の 3.5 ~ 7倍の金額ってことになる。

おそらくトシオの勤めていたブライトリンクス側は、自分達も弁護士を立てるような事を荒げる真似をせず穏当に解決しよう、と判断したのだろうが、それが裏目に出てコウジの弁護士の言い値を呑まされ、こんな高額の慰謝料を払う羽目になったんだと考えるか。

Anubis

ギャー

匿名

自分を虚仮にした相手を不幸に陥れるオプション…魅力的だなぁ。
自分が台場の立場だったら、自分を背後から撃ったブライトリンクスの関係者に使うかな。

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