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蜂工場 (2) 駒木根サチ

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 この人は一体、何歳なんだろう、と駒木根サチは考えた。
 目の前に座っている佐藤、と名乗った男性は、30 代から50 代であれば何歳であっても違和感のない雰囲気だった。服装はビジネスカジュアルというのか、薄いベージュのシャツにダークブラウンのジャケット、濃いグレーのウールパンツだ。おそらく35 歳前後だろうと見当をつけた容貌は、喫茶店の窓から差し込む日差しの加減で、かなり老成した印象から、社会人3 年目ぐらいの若々しい印象へと変化している。
 「あの」サチは訊いた。「どうして私を? お話を伺った限りでは、何かシステム系の会社のようですが。私、Excel やWord が一通り使えるぐらいで、IT 関係の知識が豊富とは言えません。前の職場ではプログラミング学習の担当をやらされていましたけど、教材を理解するのだって、かなり苦労していたぐらいですから」
 心配無用です。佐藤はそう言い、穏やかで柔和な笑みを浮かべた。うちとしては、駒木根さんの前職の経験を活かしたお仕事を提供したいと考えています。
 「つまり、教師、ということですか」
 「そのとおりです。といっても、中学のカリキュラムをお願いするわけではありません。詳細はまだ話せませんが、数名の子供で構成される業務チームを立ち上げる予定です。駒木根さんには、そのチームで子供たちのケアをお任せしたいんです」
 「子供というと、年齢的には」
 「小学生から高校生までの予定です」
 「業務チームと仰いましたが、具体的には何を」
 「プログラミングです」
 「子供でなければならない理由があるんですか」
 「もちろんありますが」佐藤は微笑んだ。「今はお話しすることができないんです」
 「ケア、といいますと......」
 「チームには業務をマネジメントするマネージャ――これは成人です――がいます。ただ、業務の指示・指導はできても、未成年、それも子供と呼べる年代のチームを率いた経験はありません。社会人なら問題にならない、あるいは理性でやり過ごすような事柄でも、子供たちの場合には感情的に行動し、結果的にトラブルに発展する、といったことが多々予想されます。駒木根さんには、業務が円滑に遂行されるように、それらの問題を解決していただくロールを期待しています。子供たちとじっくり向き合い、一人ひとりの性格やスキル、好き嫌いなどを把握し、適切な方向に進むのをサポートする、といったところでしょうか」
 サチは考えをまとめるために、フレーバーティーのカップに口をつけた。ハーブの控えめな芳香が鼻孔を刺激する。
 「その......」サチは躊躇いがちに言った。「私が教職を離れた理由をご存じでしょうか」
 「不倫のことですか」
 実際には不倫と呼べるような事実は何もなかった。ただ、力を持つ人間の悪意や作為は、時として事実そのものをねじ曲げることがある。サチが遭遇した一連の事態は、悪意そのものだった。
 半年前まで、サチは横浜市内の中高一貫校で、中等部の国語の教師として勤務していた。その年から初めて2 年生の担任クラスを持ち、同時にバドミントン部の顧問も引き受けていた。休日も部活動の練習や、授業の準備などに忙殺される毎日で、グチばかりこぼしている同僚の教師が多かったが、幼い頃からの目標だった教師という職業に喜びと誇りを感じていたサチには、少しも苦にならず、むしろ充実した日々だとさえ思っていた。生徒からの評判も悪くなく、学校裏サイトでの人気投票では常に上位だった。わかりやすい授業や、気軽に話しかけやすい雰囲気に加え、女子生徒に敵意を抱かせることも、軽蔑されることもない、ほどほどの容姿だったことも理由の一つだったのかもしれない。
 教師という職業は、生徒の親と顔を合わせる機会も多い。母親を相手とすることが多いが、中には様々な事情から父親と進路や生活指導について話をすることもある。そうした男たちの中には、ごく少数ではあるが、サチに対して、教師ではなく女性としてアプローチを試みる人間もいる。大抵の場合は、やんわりと断れば、すぐに引き下がる。だが、中には拒絶されることを自分に対する挑戦と受け止める輩も、一定の割合で存在する。
 一年と少し前、サチに誘いをかけてきた、小柳という男もそんな種族の一人だった。担任しているクラスの女子生徒の父親で、敏腕ディレクターとしてキー局に勤務している40 代前半の男だ。どうして小柳がサチに目をつけたのか今でも謎のままだ。若々しく活力にあふれた容姿と筋肉質の長身を持ち、8 桁に届く年収を得ている小柳は、いかにもモテそうだし、事実、モテていたようだ。アイドルグループを卒業した10 以上年下の女性を妻に持っていることは、校内であれば教師、生徒、用務員の別なく周知されていた。さすがに校内で大っぴらに口にされることはなかったが、複数の愛人がいて、みな美人だ、という噂もあった。尾ひれの付いた噂だとしても、小柳がその職業柄、女優、アイドル、女性アナウンサーなど、平均以上の容姿を持つ異性と知り合う機会が多いのは事実だ。何の特徴もない平凡な中学教師など、本来なら歯牙にもかけないはずなのに、小柳は何度もサチを食事や観劇、ショッピングなどへと誘ってきた。
 サチは小柳の外見こそ優良物件だと思ったものの、その人間性には惹かれるものを感じなかった。たとえ異性として興味を抱いたとしても、生徒の親、というだけで、サチが許容する恋愛対象の範囲から外れている。教師を一生の仕事だと考えているサチにとって、何もかも捨てて許されぬ恋に落ちる、などという選択肢は、わずかな可能性としてでも存在していなかったのだ。
 とはいえ、小柳は生徒の保護者でもある。あからさまに冷たく拒絶することは躊躇われた。サチは慎重に言葉を選び、せっかくのお誘いですが......と断ったが、断られるという事態がよほど想定外だったのか、逆に小柳の闘争心に火を付けてしまったようだ。明確な拒否の言葉ではなかったため、交渉の余地あり、と判断されてしまったのかもしれない。小柳は、娘の進路相談、という名目で、頻繁にサチに電話をかけてくるようになった。
 サチは当たり障りのない事務的な対応に終始したが、やがて、どこから入手したのか、サチのLINE アカウントにメッセージを送ってくるようになった。巧妙なことに、表面上は進路相談にしか見えない文言ばかりで、この種の手管には長けているらしいことを感じさせた。また、サチにばかりではなく、同程度の頻度で他の教諭にも相談していて、教員間で、「少し度を超してはいるものの、教育熱心な父親」という評価を固めることに成功していた。
 やがてサチは根負けして、一度だけ、という約束で、食事に応じてしまった。娘の進路について、ゆっくり時間をかけて相談に乗って欲しい、という口実だった。いや、進路相談室では時間の制約もあるでしょうし、昼間は私が時間を作りにくくてね。夜遅くに学校で、というのもまずいでしょうし、自宅でもやはりアレです。静かな店でゆっくり食事をしながら、ということでお願いできないものでしょうかね。娘のためだと思ってお願いします。
 指定されたのは、表参道にある有名なフレンチレストランだった。数年前にミシュランガイドに掲載されて以来、一年先まで予約が埋まっている、といわれていた。サチの給料では店の前に立つことさえ躊躇われる高級店だが、小柳は常連客のようで、ウェイターと親しげに言葉を交わし、慣れた口調でソムリエとワインの銘柄や生産年を相談していた。見栄を張っているのではなく、スターバックスでラテのカスタマイズをオーダーするのと同程度の難易度でしかないようだ。サチは恋愛には消極的な方で、これまで数人と付き合った程度だったが、過去に体験したどのデートよりも、今夜の食事は刺激に満ちているといえた。小柳は年齢相応の余裕と落ち着きがあり、自分が楽しむのと同じぐらい、サチにも楽しんでもらおうと腐心していた。確かに、同年代の男性にはない魅力がある、とサチは認めざるを得なかった。
 警戒心を解いたわけではなく、ワインは少量にとどめておいたが、小柳は気を悪くした様子もなく、深みのある大きすぎない声で、娘の進路について話を始めた。うちのは高校出たと言っても、ほら芸能人御用達の高校でね、勉強や試験で苦労した経験がないんですな。そのせいか、チエミにもうるさく勉強しろと叱ったことがほとんどない。おかげでチエミは得意科目はそれなりに勉強するんですが、数学とか古文とか苦手な科目は、最初から理解しようと努力しないようなんです。塾に通わせることも検討しているんですが、チエミ自身は必要ない、と言うばかりでね。まあ中高一貫校なので、それほど心配しているわけではないんですが、どうもバランスが悪い気がしてね。先生、どう思われますか。先生の国語は成績がとてもいいようだ。チエミも先生の言うことなら信頼していると思います。
 相談というほどの内容ではなく、サチとしては通り一遍の答えを返すしかなかった。苦手といっても平均を大きく超えていますし、総合成績でも学年で20 位以内をキープしています。数学の先生にも確認しましたが、理解が足りないということでもないようです。他の教科と比べて若干、点数が低いというだけで、特段の対策を取らなければならない傾向はありません。夏休みには集中講座等にも通われる予定と伺っています。もう少し様子を見てはいかがでしょうか。そう話すと、小柳は納得したように頷くと、いや、先生に相談してみてよかった。私もそうでないかとは思っていたんですが、やはり専門家の口から聞くと安心感が違います。などとサチを誉めそやした。サチは内心で嘆息した。娘の進路相談というのは口実で、これからが本番なのは明らかだったが、コースが始まったばかりでは、席を立つわけにもいかない。
 だが予想に反して、それから2 時間の間、小柳は紳士的な態度を崩すことがなかった。露骨な誘いはもちろん、下ネタなどを口にして反応を窺うことさえなく、サチはやや安堵することができた。小柳の話術は巧みで、テレビ業界の裏話やAD 時代の苦労話などを快活な口調で語り、サチも何度かお義理ではない笑みを浮かべた。とはいえ、完全に警戒を解いたわけではなかった。途中からはペリエに切り替え、トイレに立つ前にはグラスを空にし、スマートフォンを入れたハンドバッグを持っていくことを忘れなかった。
 最後にして最大の難関だと身構えていたのは、デザートが終わり、会計を済ませて店を出たときだった。小柳が誘いをかけてくるなら、そこだろう、と考えていたのだ。だが、小柳はサチをタクシーに乗せると、楽しかった、ありがとう、娘をよろしく、と礼儀正しく挨拶しただけで、そのまま見送った。拍子抜けしたサチは、安堵のため息をついた後、こんなことなら、もっと料理を楽しんでおくんだった、などと思った。
 その数日後、サチは部活動が終わった後、校長室に来るように、と学年主任から言われた。何の用事かと首を傾げながら、広い校長室に入ると、教頭と学年主任が先に来て待っていた。いつもなら柔和な笑みで接してくれる初老の校長は、困惑しているような渋い表情で、サチにソファに座るように命じた。教頭と学年主任が座るのを待って、校長は一枚のA4 コピー用紙をテーブルに載せた。一目見たサチは、小さな驚きの声を上げた。そこには、小柳とサチがレストランのテーブルについている画像がプリントアウトされていた。二人が親しげに談笑しているように見えるシーンで、少し離れた場所から撮影されたようだ。小柳の顔は何かの影で半分ほどしか写っていなかったが、笑顔のサチははっきり撮れている。
 硬直したサチに、学年主任が持っていたタブレットを見せた。Twitter アプリが開いていて、同じ画像を投稿したツイートが見えた。拡散希望のハッシュタグがつき、一部が●で伏せられたサチの氏名と学校名、不倫、色ボケ、淫乱教師、ゲス、生徒の親、ホテル、朝帰り、などの文字が並んでいる。投稿者のアカウントは、意味のないアルファベットと数字で、作成日とツイート日が同じ、ツイート数は1 件のみだった。明らかに、このツイートをするために取得されたアカウントだ。言葉もなくタブレットを見つめるサチに、校長が咳払いをして言った。駒木根先生、これはどういうことでしょうか。本校職員の就業規則では、学校行事以外での保護者との交遊等を固く禁じています。そのことは、先生もご存じだと思いますが。
 自分が生徒の父親と不倫をした、と勘違いされている。そう気付いたサチは、しかし、それほど深刻な事態であるとは考えなかった。事実を正確に説明すれば理解してもらえるはずだ。ツイートした人物の正体や動機の詮索は後回しにして、サチは3 人の上司に事情を話した。小柳から娘の進路相談を口実にしつこく誘われたこと、一度だけという約束で食事に応じたこと、進路相談の他、雑談を交わしただけで別れたこと、などを順を追って説明した。だが、いくら言葉を費やしても、校長の眉間に刻まれたしわが緩むことはなかった。教頭と学年主任は迷惑そうな視線をサチに向けるだけで、形ばかりの取りなしさえしなかった。
 説明が一段落したとき、駒木根先生、とようやく学年主任が口を挟んだ。すでに複数の保護者から、問い合わせや苦情の電話やメールが届いているんです。PTA 会長からも事情を訊きたいとの連絡が入っています。もし市教委にまで話が届くと大事になってしまいます。ここは、とりあえず、真摯に謝罪する方向で考えてはどうでしょう。
 そもそもですね、教頭が無遠慮な視線をサチに向けた。小柳さんが駒木根先生を誘ったと言われるが、それは事実なんですか? 失礼を承知で申し上げるが、駒木根先生は小柳さんの、その、好みというか守備範囲から外れているように思われるんですがね。
 その瞬間、サチは気付いた。この人たちが求めているのは、正確な事実などではなく、サチの反省と釈明なのだ。
 校長に別件の用事があったため、詳しい話は後日、ということになったが、解散する前に校長は全員に釘を刺すことを忘れなかった。くれぐれもこの件は内密に。他の先生方や生徒たちには、たとえ聞かれても何も言わないでください。もちろん、小柳さんと連絡を取るのも厳禁です。
 急いで帰宅したサチは、食事もそこそこにスマートフォンにかじりついた。例のツイートは、ボツボツとリツイートされ続けている。リツイートしているのは、生徒のものだと思われるアカウントが多かった。サチは事実無根であると反論すべきかどうかを考慮し、すぐに断念した。校長に禁止されたこともあるが、まだ興味本位でリツイートされているだけに留まっているのに、サチが反論しようものなら、それが事実であるかどうかの関わりなしに、拡散のスピードを高めるだけだ、と考えたからだ。ツイート元のアカウントにDM を送ることも考えたが、DM を解放していなかったので、こちらも諦めざるを得なかった。
 サチは不安を押し殺し、翌日の授業の準備を始めたが、who とwhy の二つが、頭の中をグルグル駆け回っているため、いつもなら夜遅くまで熱中する作業が遅々として進まなかった。とうとう手を止めたサチは、ハーブティーを淹れて気分を落ち着かせながら、隠し撮りされた画像を再度表示した。正方形のテーブルが等間隔に配置されていたレストラン店内の情景を記憶の中から呼び出し、カメラの位置を考えてみる。小柳の希望だったのか、サチたちのテーブルは厨房からも入り口からも離れ、ことさらに静かな位置だった。他のほとんどのテーブルから見通せるから、どこにカメラがあっても不思議ではない。サチは頭を振ってwho の追求を諦めた。仮に何らかの解析を行って、撮影者のテーブルの特定に成功したとしても、レストラン側が当日の客の情報を教えてくれるはずもない。
 why となるとさらに不可解だ。サチが思いついたのは、小柳の若い妻が、夫の浮気を疑い、相手であるサチを貶めようとしたのではないか、という理由ぐらいだった。だが、それならTwitter に画像を投下する必要性がわからない。故意にか偶然にか、男性側は不鮮明だったが、それでも知人が見れば小柳であることぐらいは識別できるぐらいには鮮明だ。今のところ、小柳の氏名はネット上に流出してはいないが、学校関係者であれば、相手が誰なのかはすぐにわかる。その事実が広まれば、小柳はもちろん、妻や娘のチエミも不愉快な状況に陥ることになる。投稿者が妻だとして、そのような理性を欠いた行動を取るだろうか。
 もちろん、人間が常に理性的な行動を取るとは限らず、むしろ逆の方が多いのかもしれないが、サチと小柳のツーショットを撮影し、Twitter の捨てアカウントを取得して投稿するという行動には、後先考えない衝動よりも、多分に計画的なものを感じさせる。
 様々な想像や、今後の展開に対する不安のため、その夜はほとんど眠れず、途切れ途切れに一時間ほどうとうとしただけで、サチはいつも通りの時刻にベッドから出た。何とか気分を切り替え、出勤したサチは、校門を通った途端、何人かの生徒から、親愛とは真逆の態度を向けられたことに気付いた。普段なら明るく挨拶をしてくれる生徒も小さく会釈しただけで、冷笑するような視線を向けて、逃げるように校舎に走っていく。
 教員室に入ると、同僚の教諭たちが数人ずつ固まって、小声で言葉を交わしていた。サチを見ると、会話を止め、型どおりの挨拶をしてはくれたが、その顔には生徒たちと類似の冷ややかさがあった。耳に届いた数語だけで、例のツイートを見たことがわかった。サチは床を見つめて自席に座り、急いで一限の授業の準備を済ませ、同僚からの視線を避けるように教員室を出た。スライドドアを閉じた途端、囁き声の範囲を超えた音量で同僚たちの声が漏れ出てきた。その中には、サチと小柳の名前が何度も含まれていた。サチは足早に担任している教室に向かった。
 一般企業のサラリーマンなら、仕事に没頭して一時的に逃避することも可能だが、教師にとって仕事とは、生徒たちと向かい合うことである。教室に入る直前に無理矢理作った笑顔は、生徒たちの顔を見た途端、消失することになった。いつもならホームルーム前は、サチが入っていくまで騒々しく喋っているのに、今朝は静まりかえっていた。その理由は礼が終わって生徒たちの顔を見回したときにわかった。
 中央の席に座る女子生徒が、超新星のように熾烈な視線を揺らぐことなくサチに突き刺している。小柳の娘、チエミだ。少し自分勝手でわがままなところがあり、地頭の良さを校則の隙をついて制服をコーデすることに活かしたりするが、本質的には真面目で、定期テストでも常に上位にいる優等生だ。愛くるしい顔立ちと、人好きのする性格で、交友関係も広いようだ。父親がテレビ局の人間であることを自慢することはあるようだが鼻につくほどではない。担任のサチをはじめ、教師陣に対しても礼儀正しく、安心して放っておける生徒、と評判もいい。そのチエミが、憎悪と嫌悪をこめて、親の仇ででもあるかのようにサチを睨んでいた。例のツイートを見たに違いない周囲の生徒たちは、本音ではその話題で盛り上がりたいのだが、チエミに配慮して口を閉じているのだろう。
 ホームルームをどのように終えたのか、サチはほとんど憶えていなかった。いつも事務的な連絡に加え、ネットニュースのホットトピックなどを付け加えるようにしていたが、今朝ばかりはそんな余裕がなかった。生徒たちが向けてくる好奇と侮蔑が混じった視線を、何とかやり過ごすだけで背中に脂汗をかき、足が震えるほど体力が消耗した。10 分に満たない時間のホームルームを終え、逃げるように教室を出たサチは、急激にこみ上げてきた嘔吐感を処理するため、職員用トイレに走らなければならなかった。
 洗面台で口をすすいだサチは顔を上げた。鏡の中で、死人のように青白い自分が見つめ返した。10 分後には、隣のクラスで一限の授業が待っている。この様子だと、例のツイートは全校生徒が見たと考えるべきだ。教室に入った途端、生徒の父親と不倫した教師という目で注視されるだろう。そんな空気の中で授業などできるのだろうか。
 足取りも重く教員室に戻ったサチを、学年主任が待ち構えていた。他の教員の探るような視線を避け、言われるまま隣接した会議室に入ったサチに、学年主任は素っ気なく言い渡した。しばらくの間、国語の授業は私が代わります。反射的に抗議しようとしたサチは、自分の中に大きな安堵が生じていることに気付いて愕然とした。あれだけ好きだった仕事から逃げる口実が与えられ、落ち込むどころか安心するとは。言葉も出ないサチに、学年主任はさらに告げた。今週いっぱいお休みになってはいかがでしょうか? いえ、先生もそうですが、生徒たちも先生の顔を見ると動揺するでしょう。
 形こそ提案だったが、実質的には命令だった。サチは頷いて了承したが、一つだけ我を通した。次の授業だけはやらせていただけませんか。急だと逆に生徒たちの憶測を呼ぶでしょうし。学年主任は渋々了承し、サチは教材を持って教員室を出た。
 一限目の授業は苦行そのものだった。男子生徒たちは私語を交わし、女子生徒たちは信頼を裏切られたような顔でサチを無視している。これまで得ていた生徒からの信頼は、たった一つのツイートのために、一夜にして崩壊してしまったらしい。半数以上の生徒は、授業中は使用を禁止されているスマートフォンをいじっていた。机の陰でこっそり操作するのではなく、堂々と机の上に出してだ。教師として注意し、一時没収すべきだったが、その勇気がサチにはなかった。注意する言葉を無視されたら、次にどんな行動を取ればいいのかわからない。不倫はルール違反ではないのか。そう問い返されたら言葉に詰まってしまうだろう。校長の箝口令のために、事実ではない、と言うこともできないし、言っても信じてもらえそうにない。
 ほとんど意地だけで50 分の授業を終えると、サチはそのまま帰宅した。これが、この学校でサチが行った最後の授業となった。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。

Comment(9)

コメント

匿名

ホレイショーも希望

匿名

殉職したメンバーの話も是非!

匿名D

こういうのは、追い込まれている人物ほどオイシイものです。
ということでハーミアを希望。
彼女(ですよね)は、いい(良い、ではない)場面を貰えそうな予感がする。

匿名

マイカちゃんを...

匿名

くだらない指摘ですが、
> バトミントン部
バドミントン(badminton)部ですね。

匿名

自分もつらい経験したし、
そろそろ佐藤さん声かけてくれないかな

年俸は前職の3倍からでお願いしますmm

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
全然、くだらなくないです。ありがたいです。

匿名

これらは欲しい人材に対してアーカムが仕組んだことだったりして。

匿名

アーカムかイニシアチブ
どちらかに入りたい

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