ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

蜂工場 (1) 台場トシオ

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 あなたに仕事を提供したい。その男はそう言った。
 横浜中華街に近い観光ホテルのラウンジだった。薄い雲が空を覆っているが、2 月にしては暖かな午後だ。
 台場トシオは44 才。3 年前に妻と娘を離婚という形で失い、半年前にリストラによって仕事を失った。2 才年下の元妻は、結婚前の職場に契約社員として復帰しているが、生活は楽ではないらしい。今年4 才になる娘は、今頃保育園で母親の迎えを待っているだろう。毎月の養育費は、三ヶ月分、振り込めていない。自分が安くないコーヒーをすすっていることに、トシオは少しばかり後ろめたさを感じていた。
 「あなたに仕事を提供したい」目の前の男が言った。「日雇いでも派遣でもない。月給の出る定職です。そればかりではなく、とてもやりがいのある仕事でもあります」
 「願ってもない話ですが」トシオはカップを置いて答えた。「えーと、佐藤さんでしたか。できればお名刺などいただけないでしょうか」
 「あいにく名刺を差し上げることができないんです」佐藤と名乗った年齢不詳の男は頭を下げた。「まことに申し訳ないのですが」
 「......そうですか。それで、御社の業種はどういった方面でしょうか」
 「セキュリティに関する仕事と考えていただければ」
 セキュリティ。トシオは口の中で、その単語を繰り返した。佐藤は柔和な笑みを浮かべながら、トシオを見つめている。トシオが言葉の意味を充分に咀嚼するのを、辛抱強く待っているかのようだった。最初に挨拶をしたときは漆黒に見えた瞳の色が、窓から差し込む光の下で見ると、赤系の色素が混在しているんだな、とトシオは気付いた。
 「セキュリティということであれば」トシオは探るように言った。「あいにく、そっち方面の知識はあまりないんですが」
 「失礼、言葉が足りなかったようです」佐藤は面白そうに頷いた。「うちの仕事を大きく分類するならセキュリティ関係業務と言えるかもしれませんが、台場さんにオファーしようとしているのは、システム開発のお仕事です」
 「具体的に教えていただけるんでしょうか」
 「もちろんです。うちの会社というか組織は、非公式に政府から資金提供を受けている非営利団体です。その都合上、機密保持契約を結んだ相手でないと、具体的な固有名詞を話すことができません。その点、ご了承ください」
 トシオは頷いて先を促した。
 近年、国内外を問わず、不正侵入による情報漏洩が後を絶たないのはご存じだと思います、と佐藤は話した。某大手電機メーカーがサイバー攻撃を受け、防衛関連を含む大量の情報が流出した可能性がある、と報道されたことは記憶に新しい。セキュリティ対応というのは、どうしても後手に回ってしまうため、抜本的な対策は難しくなる。WAF、IDS、IPS などの防御・監視手段はあるが、攻撃手法も日々進歩しているため、終わりのないイタチごっこになり、コストは増大するばかりだ。
 こうした現状を打開する試みが、少し前から実行され、一定以上の成果を上げている。それは攻撃を防ぐ、または攻撃を受けてから対抗措置を講ずるといった受け身の方法ではなく、敵対的なグループに対して先制攻撃を仕掛ける、というものだ。
 「先制攻撃......」トシオは佐藤の顔を見た。「つまりクラッキングを行う、ということですか。それって、法的にどうなんですか」
 「公式に認められることは決してないので、合法か違法かを心配する必要はありませんよ。台場さんが刑事責任に問われる、ということは全くないとお約束できます」
 「それにしても......」
 「考えてみてください。世界中のサイバー攻撃集団は、モラルや法など気にせずに侵入や攻撃を繰り返し、重要な機密情報を盗み出しては売却し、多額の報酬を得ているんです。その中には、国防に関する重要情報が多数含まれています。売却先である敵性国家やテロリストは、罪のない市民を攻撃するために、そうした情報を使うかもしれない。その結果、台場さんの可愛い娘さんや、友達や近所の知り合いが犠牲になるかもしれないんです。そんな悲惨な事態が未然に防げる手段が先制攻撃しかないのだとしたら、合法性がグレーだからといって実行を躊躇することは、果たして正しい行いだと自信を持って断言できますか」
 「......そう言われても」トシオは手にしていたコーヒーカップを戻した。「攻撃相手がわかっているなら、攻撃を止めるように要請する、という手だってあるじゃないですか」
 「そういう段階はもう通り越しているんですよ」佐藤は素っ気なく答えた。「武装したテロリストが、目の前で人質に銃を向けて、今にも処刑を開始しようとしているとします。台場さんの手に装填された銃があるとき、止めろと穏やかに声をかけますか?」
 「穏やかにではなくても、まず制止するかもしれませんが」
 「その人質が娘さんで」佐藤は冷たい視線をトシオに向けた。「テロリストがすでに何人も射殺していたとしてもですか。それでも、自分の手を汚すのはイヤだと?」
 「......」
 「それに台場さん」佐藤はニコリともせず続けた。「仕事を選んでいられる余裕があるんですか? 失業手当の受給期間があと二ヶ月ほどでしたか。養育費の支払いはこれからも続くし、失礼ながら預貯金も多くはない。IT 業界の求人は比較的多いですが、非正規雇用ばかりで給与的に折り合いがつかない。うちのような好条件での待遇は、おそらく望めないと思いますよ」
 佐藤が差し出した用紙には、トシオが前職で得ていた給与の2.5 倍近い数字が印刷されていた。住宅手当、家族手当も充実している。勤務地は横浜市内で、都内勤務だった前職と比べて通勤時間が大幅に短縮されるのも魅力的だ。心を動かされたトシオに、佐藤は口頭でいくつかの情報を付け加えた。表向きには、横浜市内のシステム会社での勤務ということになります。帝国データバンクにも登録されていて、法人税も納付している実在の企業ですが、実態はペーパーカンパニーのようなものです。ホームページもあり、代表に電話をかければオペレータが応答します。
 「どうして私に声をかけてもらったんですか」トシオは疑問に感じていたことを訊いた。「私は至って普通のSE だったんですが」
 「うちは、常に優秀なソフトウェアエンジニアを探しています。台場さんは20 年以上、システム開発会社で開発一筋にやってこられた方です。最後はプレイングマネージャとして、K自動車関連企業の技術系システム開発で活躍されてたんですよね」
 「リストラされましたけどね」トシオは自嘲気味に答えた。「私がリーダーをやっていたプロジェクトで、大きな損失を会社に与えたからですよ」
 「はい、調べました」佐藤は穏やかな笑みを浮かべてトシオを見た。「大部分の責任は、元請け担当者と、営業担当にあった。違いますか?」
 トシオの脳裏に苦々しい記憶が蘇ってきた。
 トシオが勤務していたブライトリンクス株式会社は、2 年前に元請けのTBT 通信システムサービスから、一つの案件を受注した。エンドユーザはK自動車傘下の部品メーカー、東雲工業株式会社で、調達システム再構築プロジェクトだった。老朽化したオンプレミスのハードウェアを、保守切れと同時にクラウドサービスへ移行することが決まり、同じタイミングで、数多くの不具合が放置されたままになっていたシステムを刷新する、というもので、ブライトリンクスにとっては、久しぶりの大型案件だった。業務フローは現行システムを踏襲する、ということで、規模は大きいものの、難易度はそれほど高くないと思われていた。プロジェクトには、ブライトリンクスの他にも3 社のベンダーが参加し、カットオーバーは八ヶ月後、ハードウェア保守切れの二ヶ月前が予定されていた。
 幸いなことに、現行システムを開発したシステム会社は、丁寧なドキュメント類を納品し、機能追加や修正に合わせて同期も取っていたから、要件定義フェーズはスケジュールを前倒しするほどスムーズに進行した。データベース構造も大きな変更はなく、追加する機能も20 画面程度と多くはなかったので、設計フェーズもスケジュール通りに検収された。TBT からは二名の担当者が、常に参加していて、スケジューリングやベンダーコントロールから手を抜くことはなかったので、ブライトリンクスでのリーダーだったトシオも、安心して開発に専念することができそうだ、と考えていた。
 ところが、実装フェーズに向けて、ベンダー4 社間で割り振りを行っている最中、TBT のメイン担当者が、食道ガンの治療のため長期入院になることが判明した。これがトシオにとって悪夢の始まりだった。
 結果論から言えば、TBT 通信システムサービスは、ベテラン担当者が入院した時点で、同レベルのスキルを持つ担当者を送り込むべきだったのだろう。だが、要件定義、設計フェーズは完了していて、開発工程の主役はベンダーに移りつつあった。元請けとしてのロールは、スケジュール管理程度でしかないはずで、しかも難易度が高くないプロジェクトだ。若手の経験値を高めるためにちょうどいい、とでも考えたのか、TBT から人員は補充されず、もう一人の担当者が継続してマネジメントにあたることになった。
 伊沢という担当者は20 代前半、入院したベテラン担当者のサブとして参加していて、懸命にそうでないように振る舞っていたが、経験と知識が不足していることは当初から明らかだった。トシオをはじめとするベンダーからの参加者は、伊沢のことを真面目そうな若者ではあるが、話をする相手としては見ていなかった。事実、伊沢も、進捗会議の席では自分から発言することはなく、議事録を作成することだけに専念していた。
 伊沢がコントロールを引き継ぐ、と聞かされたとき、トシオは漠然とした不安を感じたのだが、次の進捗会議のとき、その不安は現実のものとなった。伊沢は短い挨拶の後、実装フェーズはアジャイル型で進めることにします、と宣言したのだ。
 トシオたち、ベンダー側は短い驚きの後、すぐに反対した。アジャイルを否定したわけではなく、この時点で進行方法を切り替えることに反対したのだ。アジャイルで進めるなら、設計と実装とテストを同時にサイクルで回さなければ意味がない。すでに設計フェーズが終わり、設計書の検収をもらっている段階で切り替える必要性がなかった。
 しかし伊沢は聞く耳を持たなかった。これは決定事項です、と繰り返すだけだった。プロジェクトのマネジメントという職務に重圧を感じたのか、自身の評価を高めるチャンスと捉えたのか、単に真面目な性格からベストな方法を模索した結果なのか、それは誰にもわからなかった。アジャイルで進める、という方針を伊沢の上長が了承しているのかも不明だった。トシオたちは、TBT の営業部門に、こっそり問い合わせしてみたものの、現場レベルでの進め方は、現場担当者に一任してある、という回答しか得られなかった。
 釈然としない空気の中、Scrum を元にした進行方法が決まり、開発フェーズがスタートした。スプリントは7 日間と決められ、毎週月曜日の朝、進捗会議が開かれることになった。この時点で、この開発は苦労することになる、とトシオは確信に近い予感を抱いた。
 開発フェーズは出だしから足踏みすることになった。伊沢は、スプリント単位の7 日間で、一機能の構築を完了させることを求めたが、トシオの元に届いた設計書には変化がなかった。元々、20 から30 人日で実装することを前提に作成された設計書の内容を、7 日間で実装・テストまで完了させることができるはずがない。指摘を受けた伊沢は、実装単位の分割が必要だと初めて知ったようで、素直に謝罪した後、数日の猶予を求めた。もちろん、設計の分割が数日で終わるはずもなく、更新された設計書が届いたのは、2 週間も経過してからだった。
 それでも、一つのベンダーが、スプリント単位に分割された機能を連続して実装できるのであれば、まだ何とかなったかもしれないが、どういう意図があったのか、伊沢は分割後の全機能単位を全てシャッフルした後、各ベンダーに配ったのだった。たとえば取引先マスタメンテナンス画面の設計書は、7 つに分割されていたが、No.2 とNo.6 がブライトリンクスにアサインされ、残りの5 つは他のベンダーに振られていた。しかも、最初に実装を指示されたのが、No.6 の方だった。
 マネージャが、機能の最終形と、分割された機能間の結合、その両方の確固たるイメージを持っていれば、この方法でもプロジェクトを成功に導くことができたかもしれない。だが伊沢にあったのは、尽きることのない意欲と、根拠のない成功のイメージだけで、そこに至る過程をコントロールするスキルも経験もなかった。
 それでも開発フェーズを開始して二ヶ月ほどは、スケジュールの遅延は見られなかったため、大きな問題にはならなかった。問題が発生したのは、分割された機能の実装とテストが終わり、TBT の品質管理部で結合テストが開始されたときだ。分割された機能のクラス間のインターフェースの整合性が不完全で、メソッドの引数の数が異なったり、型が一致しなかったり、例外処理が定義されていなかったりといった原因で、ビルドが完了するまでに数日を要した、という事態はまだ軽微な方だった。実際に動かしてみると、様々な問題が一気に表面化した。設計書を分割した際のミスで重要なロジックが抜け落ちていた、現行のフレームワークでは実現不可能な仕様を追加していた、本番環境はネット接続不可にも関わらず、外部のストレージサービスを使用していた、など、テストに同席していた東雲工業のシステム担当者も呆れかえる状態が続いたのだった。
 トシオらは何度となく、開発方針の変更を提言したが、伊沢は頑なに自分のやり方に固執し続け、すぐにオンスケに戻せる、と幻想に近い言動を繰り返すばかりだった。トシオの目からは、すでに伊沢は意地だけで、誰の得にもならないマネジメントを続けているようにしか見えなかったが、元請けの命令を覆すだけの権限は持っていなかった。自社の営業経由でTBT の上の人間に話を通そうとしたが、波風を立てることを嫌った営業担当に断られると、もはやトシオになすすべはなかった。
 当初、設定されていたカットオーバー予定日まで30 日を切っても、課題管理表の未解決項目の数は400 を越えて増え続けていた。業を煮やした東雲工業の担当者から、痛烈な苦情を叩き付けられたことでTBT もようやく事態を把握した。伊沢は即座に担当から外され、コーポレート開発事業部長が直々にマネジメントに乗り出した。役職のない一般社員と事業部長では、単価が大きく異なる。TBT にしてみれば、通常なら開発業務の現場に出ることがない事業部長を投入することで、スケジュール遅延の埋め合わせにしたつもりだったのかもしれない。だが、経緯も業務知識もない人間の指示は、場当たり的なもので、開発現場の混乱に拍車をかけただけだった。
 関係者の誰もがプロジェクトの行く末に絶望の二文字を重ね始めた頃、事業部長が姿を消した。急遽、TBT 本社で開かれた方針決定会議の場で、急性胃炎で入院した、との説明がベンダーたちに説明された。誰も表立って口には出さなかったが、交わされた雄弁な視線から、入院というのが沈みかけた船から逃げ出す口実ではないのか、と疑っているのは明らかだった。本当に入院しているかどうかさえ怪しいものだった。
 お見舞いに行きたいので病院を教えてくれ、と言ってみたらどうなるか、などと空想していたトシオに、そんな疑惑など片隅に押しやられる事態が発生した。トシオに、正確に言えば、ブライトリンクスにプロジェクトのマネジメント権限が与えられたのだ。
 もちろん対外的には弊社がプロジェクトの進行に責任を持ちます、とTBT の営業課長が胸を張った。ブライトリンクスさんには、プロジェクトの完成に集中していただけます。なぜ、うちに、とトシオが聞くと、一番、内容に精通しているのがブライトリンクスさんなので、との答えが返ってきた。
 ブライトリンクスの営業部は諸手を挙げて賛成した。追加工数として、当初見積額の七掛けの金額を新たに請求できることになったからだ。逆にトシオの部下たちは反対した。プロマネを兼務するとなると、トシオ自身が実装に費やせる工数が大幅に削減されるからだ。その懸念はトシオも考えないわけではなかったが、現実問題としてTBT からの要請を断ることはできなかった。プロジェクトの遅延は、すでに破綻の一歩手前まで進んでいて、即効性のある対応を行わなければ、プロジェクトの中止、という事態になりかねなかったからだ。プロジェクトが中止になっても、ブライトリンクスとしては、これまでの工数に基づいてTBT に請求はできるだろうが、あれこれ難癖をつけられ、TBT での処理が大幅に遅れたり、減額に応ぜざるを得ない、という事態は予想された。プロジェクトを完成させ、WIN-WIN の関係で終わる方が理想だ。
 トシオはプロマネとして、プロジェクトの進行管理を開始したが、遅延は予想以上にひどく、TBT 社内ですら正確な情報共有が行われていなかったことがすぐに明らかになった。実装の予定すら立っていないTODO マークの付いたタスクが100 以上ある、というのは序の口で、エンドユーザに対しては進捗度90% と報告済みの機能が、実はテンプレートHTML だけしかできていない、などのケースが次々に発見された。
 トシオは急いで全体の不足部分の洗い出しを進め、並行してタスクのアサインを決めたが、直後に他のベンダーからの抗議が届いた。ブライトリンクスに簡易な実装を割り当て、高難度のタスクを押しつけられているのではないか、と誤解されたためだ。その不満をなだめるために、トシオはブライトリンクスのアサイン分を増やしたが、今度は、自社のメンバーから抗議の声が上がった。あまりにも過大なタスクなので、こなせるはずがない、という。人的リソースの追加は上長にも営業にも却下されたため、トシオは余剰分を自分で実装するしかなかった。ただでさえ忙しいプロジェクトマネジメントを22 時過ぎまでこなし、メンバーが終電で帰宅した後、自分に割り当てた実装を朝まで行い、始発で帰宅し、慌ただしくシャワーを浴び、かろうじて数時間の睡眠を取る、という日が続いた。
 カットオーバー予定日はいつの間にか過ぎていたが、そのことに関しては、東雲工業からもTBT からも言及はなかった。新たに更新されたスケジュールでは、クラウドサービス移行の10 日前に、カットオーバー日が設定されていた。50 日近くスケジュールが後ろに延びたわけだが、TBT の営業課長は、マストという単語を9 回も使って、この予定が絶対に動かせないことを強調していった。
 相変わらずハードな日々が続いてはいたが、何度もタスクを見直し、アサインをやり直した結果、これ以上、不測の事態が発生しなければ、ギリギリでユーザ受入テストを完了する見込みは立っていて、TBT にも報告していた。上長に確認されたときも、トシオは同じことを言った。何もなければ間に合います。
 あいにく、何もない、ということはなかった。しかも今度は、身内である自社の営業部門からの一撃だった。受入テスト開始が10 日後に迫り、TBT での事前結合テストに向けた準備に忙殺されていたトシオに、営業部長が緊急呼び出しをかけた。怪訝に思いながら会議室に入ったトシオは、全身を震わせながら床で土下座している営業部の社員を見て絶句した。その横で、営業部長が深々と頭を下げていたし、システム開発部長が苦い顔で腕を組んで座っている。
 立ち尽くすトシオに、営業部長が差し出したのは、機能追加の見積書と、対になる発注書だった。ブライトリンクスの社印とTBT 通信システムサービスの社印が押されている。日付は、TBT の伊沢がマネジメントを開始した直後だ。トシオは驚きが怒りへと変化するのを感じながら、発注書に続いている機能詳細に目を通した。K自動車のパーツ管理システム相互データ交換API への接続と、関連する機能追加で、7 人日の工数が計上されていた。
 忘れていたんです。入社3 年目の営業部社員は、頭を床にこすりつけたまま、泣きそうな声でそう繰り返した。TBT の担当者が変更になったゴタゴタに紛れて、連絡を忘れていました。実施するかどうか自体不明確だったんですが、その後、自分が夏休みを取ったりしていたので......
 お前の夏休みなんぞ知るか、とトシオは吐き捨てた。それより、この見積は誰が出したんだ。こんな機能、7 日でできるわけがないだろう。
 すまなかった、と営業部長が、また頭を下げた。他社と相見積になり、期限を切られていたんだが、台場が捕まらなかったから、低めに出すように言った。大きなプロジェクトだし、これぐらいの追加分など、大したことはないと思った。
 確かに、この機能追加が実装フェーズの初期に持ち込まれたなら、いくらでも調整が利いただろう。だが、今は7 日どころか、7 時間の余剰工数すらひねり出すのが困難な状況だ。トシオはそう言い、書類を営業部長に突き返した。TBT に事情を話して、二次開発にでも回してもらってください。
 もう交渉したんだ。システム開発部長が答えた。TBT は、発注した以上、間に合わせてもらわなければ困る、と言ってきた。すでに東雲工業側にも、この機能を含めて納品すると明言してしまったので、今さらできませんでした、ではすまないそうだ。何とかしてもらえないか。
 最終的にトシオは営業の頼みを聞き入れることになった。ブライトリンクスチームのリーダーとしてであれば、何と言われても突っぱねたかもしれないが、プロマネとして他のベンダーにも過大なタスクを強いている立場としては、拒否することはできなかったのだ。メンバー全員の疲労がピークに達しているのを承知の上で、トシオはタスクを割り込ませた。トシオ自身も、会社に泊まり込み、睡眠時間をギリギリまで削り、管理と実装の両方を続けた。
 全てのタスクが完了したのは、受入テスト開始当日の朝だった。焦燥を隠そうともしないTBT の営業担当者が急かす中、トシオは慎重に最後のデバッグを終え、TBT のGitHub リポジトリにコミットした。営業担当者はすぐに東雲工業で待機している同僚に連絡し、受入テストが開始された。
 5 日間の予定で始まった受入テストは、わずか半日で中止となった。東雲工業調達部の要望が、かなりの部分で反映されていないため、テスト責任者が怒って続行を拒否したのだ。関係者全員が急遽招集され、仮眠をとっていたトシオも、疲労で重い身体を引きずるようにTBT 本社の会議室に向かった。
 トシオの予想通り、緊急対策会議は責任のなすり合いが繰り広げられるばかりで、実のある対策など一つも打ち出せなかった。TBT 側は、自社の伊沢が引き起こした混乱のことなどおくびにも出さず、現在のプロマネであるトシオに責任がある、と主張した。そもそもトシオがプロマネについた経緯や、対外的にはTBT が責任を持って進行させる、との約束は、きれいに忘れ去られたようだった。他のベンダーのリーダーたちは、反論するどころか、会議テーブルの木目を熱心に見つめていて一言も発言しようともしない。リーダーの一人が、ちらりと後ろめたそうな視線を投げてきたとき、トシオは悟った。すでにこの会議の結論は出ているのだ。ブライトリンクス以外のベンダーには、事前にTBT から因果を含められているに違いない。
 会議の途中で、東雲工業から戻ってきた技術部社員と営業課長が加わったことで、流れは完全に定まった。営業課長は、一時間も頭を下げっぱなしだった、と自慢そうに言った後、ブライトリンクスさんは言い訳ばかりで謝罪をする気もないようだけど、と付け加えた。トシオも黙っていたわけではなく、一通りの反論はしたものの、この場での正義は、正確な事実ではなく、元請けと下請けという立ち位置で決まるのだ、と知らされただけだった。顧客の要望と納品物に大きな相違があるのは要件定義の問題ではないか、と言えば、アジャイル型開発を行ったことで、要件の変更は吸収されているはずだ、と返される。アジャイルがうまく回っていなかった、と指摘すれば、回せなかったのはベンダーの実力が足らなかったためだ、と反論される。分割された設計の精度が低かったことは黙過されたのに、ブライトリンクスの営業が仕様の一つを放置していたことが、ことさらに重大で致命的な問題として俎上に載せられ、トシオを非難する材料として使われた。
 120 分以上続いた会議は、最後の5 分になって、あらかじめ決まっていたらしい今後の方針を出した。不具合の改修に5 日の猶予を頂いてきたから、とTBT の営業課長は恩着せがましく言った。ブライトリンクスさんの責任で完全に改修していただきたい。
 トシオは目の前に広げられた課題管理表のプリントアウトの束を力なくめくった。ざっと眺めただけでも、設計からやり直す必要がある修正が10 以上ある。5 日で全てに対応できるとは思えない。絶望の暗雲が全身を覆っているような息苦しさに襲われたトシオに、コーポレート事業部長代理が冷たい声を投げた。もし、できなかった場合、相応のペナルティを覚悟していただきたい。もう二度と失敗は許せませんから。
 ペナルティの詳しい内容を質問する気にもなれないトシオに、事業部長代理は、それから、と付け加えた。弊社にも管理責任があるので、毎日、朝一番に詳しい進捗を報告してもらいたい。いや、メールでは温度感が掴めないから、ここに来て詳しい進捗状況と、見込みを報告してください。
 ようやく会議から解放されたトシオは、各ベンダーのリーダーたちに声をかけた。命じられた修正を期限までに完了させる可能性があるとすれば、全ベンダーから最大限の人的リソースを提供してもらうことしかない。だが、数ヶ月間におよぶ実装とテストを通して、信頼関係を築けた、と思っていたリーダーたちは、まるで申し合わせたように改修作業に人員を出すことを拒んだ。すでに他案件に人をアサインしてしまった、うちのタスクは終わっている、工数の持ち出しになることは禁止されている、など、理由は様々だったが、この案件にこれ以上関わりたくない、という意思表示を声高に宣言しているのと同じだった。トシオが彼らの立場だったら、やはり手を引きたいと願っただろうから、失望はしても、責める気にはなれなかった。
 何の助力を得ることなく帰社したトシオは、すぐに新しいスケジュールとタスクを作り、メンバーに提示した。3 名のメンバーの顔が絶望に彩られるのを見て、トシオは胸が悪くなりそうな後ろめたさを味わった。一日あたり18 時間を実装に費やしても、期限内に完了できるか怪しいスケジュールだ。ここ一か月は、働き方改革など、どこか別の宇宙のたわ言にしか思えないほど、深夜まで実装を続け、土日祝日もほぼ出勤してきた彼らにしてみれば、人間的な生活を犠牲にしろと言われているのに等しい命令だ。しかもトシオ自身は、TBT への進捗報告のため、毎日、数時間を削られることになる。せめて、それだけでも営業で肩代わりしてもらえないか、と頼んでみたが、営業部長は言を左右にして拒否した。
 トシオたちは作業を開始した。全員がもう4 日も帰宅していない。栄養のある暖かい食事も、疲労を癒やす入浴も、心身をリセットする睡眠も、活力を補給する家族や恋人との会話もろくにとれていない。メンバー間で交わされる言葉は、各自のささくれだった神経の状態を反映しているように、きつく棘があるものが大半を占めていた。できるなら一日ぐらいは休養を取らせてやりたいが、事情がそれを許さなかった。せめてもの救いは、5 日後には全てが終わる、ということぐらいだ。
 あと5 日。トシオはキーを叩きながら、あらゆる神に祈った。あと5 日間だけ、メンバーが無事にタスクをこなしてくれることを。
 残念ながら、その願いが聞き届けられることはなかった。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「夜の翼」のプリクエル(前日譚)です。7 回ぐらい予定しています。

Comment(10)

コメント

アントニオ

月曜朝から重い!笑

>相変わらずハードの日々
ハードな日々?

匿名

台場さん!

へなちょこ

新連載はうれしいですが、朝から胃が痛くなるような展開がつらい・・・
台場さんに幸あれ!!

匿名

レッドビーシュリンプの憂鬱、いつの間にか、電子書籍になってたんですね
知らなかった

匿名

1番の問題は、
アジャイルなのにユーザー企業はWFのまま
なところ

たあ

祝連載再開!
x 素直に謝罪した後、数日の猶予を求めた。
o 素直に謝罪した後、数日の猶予を認めた。
でしょうか?

リーベルG

アントニオさん、ありがとうございます。
「ハードな」ですね。

たあさん>
 そこは、伊沢氏が猶予を求めて設計書を修正したので、そのままです。

リーベルG

匿名さん、どうも。
私も知らなかったです(笑)

N

東雲工業といえば飛田さんが担当してたところか。
再構築プロジェクトには関わってないみたいだけど、五十嵐イズムはまだ根付いてるのかどうなんでしょうねえ。
それ以前にこの世界とあの世界が地続きなのかどうかも怪しいですけど。

匿名

新連載!!
台場さん!!!おや前日譚だ


月曜朝からぽんぽんが痛くなるストーリーだった…

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