魔女の刻 (25) 影との戦い
その日の午後は、ほとんど仕事にならなかった。私の脳裏を、数多くの疑問がスクロールしていったが、それらを口に出す前に、高杉さんが開発センターに入ってきた。エースシステムの上級SE は、フリースペースの床に残った血の跡を見ると、何があったのか悟った様子で肩を落とした。
「白川」高杉さんは顔をしかめて言った。「新美は」
「追い出しました」言いながら、白川さんは興奮の余韻が残る笑みを見せた。「彼が残した痕跡はそれだけです」
「私も二つ三つ、言ってやりたいことがあったんですが、まあいいでしょう」高杉さんは会議室の方に顎をしゃくった。「概要はメールで読みましたが、詳しい報告を聞かせてもらいましょうか」
「わかりました。1 分だけ待ってください。すぐ行きます」
白川さんは、私たちの方に向き直った。以前のエネルギッシュな輝きが双眸に戻ってきている。
「きっとみなさん、訊きたいことや言いたいことが山のように積み重なっているんじゃないかと思います。残念ですが詳しい説明は、もう少し待っていただかなければなりませんし、全てを話せるわけではありません。とりあえず言えるのは、新美がQ-LIC から税務署への申告の必要がない報酬を受け取っていた、ということだけです」
何人かが口を開きかけたが、白川さんは両手を挙げて押しとどめるような仕草をして、茫然としているエース社員たちの方を見た。
「誰か、そこをきれいにしてちょうだい」白川さんは床を指した。「それから、新美のPC とタブレットをLAN から隔離しておいて。何もないとは思うけど、後で調査する必要があるから」
何人かのエース社員が動き出した。白川さんは歩きながら、サブリーダーの一戸さんを手招きした。
「瀬端さんは市役所にいると思うから」白川さんは腕時計を見た。「16 時からアポ取って、会議室を押さえておいて。市政アドバイザさんにも同席していただきたいと言ってね」
一戸さんが頷いてスマートフォンを取り出す。白川さんは私たちに笑顔を向けた。
「みなさんは仕事に戻ってください。ご存じの通り、スケジュールは遅れています。これから当分の間、2 階と3 階がフル稼働することになるでしょうね。深夜割増賃金を稼ぐチャンスですよ」
私たちは顔を見合わせて、それぞれの席に戻り始めた。
「ああ、草場さん」白川さんは足を止めて呼びかけた。「同席してもらえますか」
無表情で頷き、白川さんの後ろに続いた草場さんに、多くの視線が集中した。そのうちのいくつかは、どういうわけか私にも向けられた。
白川さんと草場さんが会議室のドアの向こうに姿を消すと、今枝さんが進み出た。
「はいはいはい。みんな聞いただろ。仕事に戻って」
私たちはその言葉に従い、それぞれのPC の前に戻った。細川くんが何か話したそうに顔を向けてきたが、私は無視した。まず、自分の中で考えをまとめたかったからだ。私はしばらくモニタに表示されたソースコードをぼんやりと見つめながら、新美さんのこと、白川さんのこと、そして草場さんのことについてあれこれ考えを巡らせたが時間を浪費しただけだった。決定的に情報が不足しているためか、思考は駆け巡っただけで、どこにも落ち着き場所を見出すことができなかったのだ。
会議室のドアが開いたのは、16 時5 分前だった。高杉さんと白川さんは小声で言葉を交わしながらドアの方に歩いていき、草場さんは無表情のまま、自分の席に座った。私は注意を惹こうと視線を送ってみた。草場さんはちらりと私の方を見たが、小さく頷いただけだった。
高杉さんを送り出した白川さんが戻って来たが、声をかける間もなく、瀬端さんと弓削さんが入ってきた。白川さんは再び会議室に消え、私たちの疑問はまた放置されることになった。
17 時前、私がブレイクルームで一休みしていると、誰かが近付いてきた。草場さんか、と期待を込めて向けた視線の先にいたのは細川くんだった。
「そんなにがっかりした顔しないでくださいよ」私の顔に、あまりにも露骨な失望が浮かんでいたのか、細川くんは苦笑した。「全員集合だそうですよ。白川さんが」
急いで開発センターに戻ると、すでにフリースペースに全員が集まっていた。私がその集団に加わると、白川さんが口を開いた。
「先ほども言ったように、弊社の新美はQ-LIC に買収され、プロジェクトに潜入していました。目的は以前にもあった妨害工作そのものというより、こちらの状況を細かく連絡し、Q-LIC の利益になるように全体を目立たないように誘導することだったようです」
東海林さんが手を挙げた。
「具体的には何をしていたんですか」
「例えば、先日、東海林さんが発見してくれた、図書館の貸出記録の<Q-FACE>への送信といったQ-LIC への利益誘導にあたるコンテナの仕様を、表面的には無害なコンテナと見せかけることで通そうとする、といったようなことですね」
「失礼ですが」東海林さんの顔には疑念が浮かんでいた。「新美さんに、そこまでのスキルがあるとは思えないのですが。その手の偽装は、マネジメントスキルというより、プログラミングの知識を必要とします。サブリーダーの方々もシステムエンジニアの方々も、プログラミング領域には、それほど明るくないのではないかと思いまして」
「その通りです。新美は新卒で弊社に採用され、以後、ずっとSE としての教育を受けてきました。うちでは実装スキルは重要視しませんから、新美1 人の力では細かい偽装は難しかったと思います。では、なぜ、新美に先日のような偽装ができたのか。それは別に協力者がいたからです」
「つまりプログラマの中に、ということですか」
東海林さんの確認に、白川さんは大きく頷いた。
「その通りです」
「その人物が誰なのか、訊いてもいいでしょうか」
「いいですよ」
「誰なんですか」
「もう想像がついているかもしれませんが」白川さんは笑顔で答えた。「TSD の草場さんです」
私の視野がハレーションを起こしたようにまっ白になった。
「とは言っても」白川さんは私の方を見ながら言った。「みなさんが今、とっさに考えたように、草場さんがQ-LIC に協力していたということではありません。その逆です」
困惑のざわめきが、そこかしこから沸き起こった。当の草場さんは、硬い表情で端の方に立っているが、何も発言しようとしなかった。
「草場さんは新美に命じられて偽装工作に協力しましたが、それは新美の行動がQ-LIC に利するものである証拠を掴むためでした。結果として、新美をここから放り出すことができたというわけです」
多くの視線が草場さんに向けられた。私もそれにならった。だが、草場さんはどの視線にも応えることはなかった。
「実のところ」白川さんは続けた。「TSD さんには潜入捜査官のような業務をお願いしていました。プロジェクト内のQ-LIC 協力者を探すためです」
「あの」チハルさんが手を挙げた。「それはいつからですか」
「最初からです。業務の性質上、みなさんにお話しすることができなかったことは、理解してもらえることと思います」
チハルさんはさらに何か質問しようとしたが、白川さんは小さく首を横に振った。
「申しわけありませんが、これ以上、詳しく話すことはできません。ただ、言っておきたいのは、TSD さんは今までも、これからも、プロジェクトに必要なベンダーです。技術力の高さは、みなさんもご存じの通りです。たまたま、内密の別業務を遂行していた、というだけです。今後は、本来の業務、すなわちプログラミングに傾注してもらいます。それでは、仕事に戻ってください」
とても十分な説明とは言えず、不満の声が挙がったが、多くのプログラマたちは、それでも仕事に戻っていった。とにかく問題が一つ解決したわけか、と誰かが呟き、それに賛同する声が上がった。これで仕事に集中できるな。
それが大多数の共通した思いだったのかもしれない。ほとんどのベンダーにとっては、新美さんの件は、エースシステムとQ-LIC の企業間戦争において、Q-LIC が一戦線で敗退したにすぎない。目の前には、より切実な問題、つまりこなすべきチケットがあるのだ。エースシステム内で誰がどうなろうと、たいした影響ではないし、構ってられない、というのが本音だろう。
チハルさんが自分の席に戻りながら、私の背中を軽く触れて囁いた。
「あまり気にしない方がいいですよ」
「え、何が?」
「何がって......」チハルさんは周囲をちょっと見回してから言った。「草場さんのことですよ」
「え、え、ちょっと待って」私はチハルさんをキャビネットの横まで引っ張っていった。「どうして、あたしが草場さんを、その......」
「いいんですよ」チハルさんは悪戯っぽく笑った。「そりゃあ、気になりますよね。あたしたちに内緒であたしたちを調べてたんですから。でも、川嶋さんに言えなかったのも仕方ないじゃないですか。まあ、許してあげたらどうですか」
「いや、待って待って」私は混乱しながらチハルさんを制した。「えーと、つまりそれは、わ、私と草場さんのことを知ってるってこと?」
チハルさんは、キョトンと首を傾げた。
「何を今さら。みんな知ってますよ」
「みんな?」私は危うく悲鳴を上げるところだった。「みんなって、つまり、全員? この部屋にいる人たち全部?」
「そうですよ。え、逆に訊きますけど、バレてないと思ってたんですか?」
「まあ」私は肩を落とした。「一応、そのつもりだったんだけど」
「川嶋さんは優秀なプログラマなのに」チハルさんはクスクス笑った。「こういうことはツメが甘いですねえ。バレバレですよ」
私は死にたくなった。そう言えば、東海林さんがキレたとき、マギ情報システム開発の杉浦さんが、私と草場さんの関係について揶揄したことがあった。あのときは、単に邪推しただけだろう、ぐらいに思っていたのだが、実は根拠があってのことだったのか。
「まあ、とにかく」チハルさんは私をハグして言った。「ちゃんと話をした方がいいですよ」
「......ありがと」
チハルさんが自分の席に戻っていくと、私は気を取り直して草場さんの姿を探した。チハルさんの言った通り、一度、話をしなければ、と思ったのだ。席にはいないようだ。休憩でもしているのか、とブレイクルームを探してみようとしたとき、コマンドルームから白川さんが出てきた。少し開発センター内を見回していたが、私の姿を見ると、急ぎ足で近付いてきた。
「川嶋さん」白川さんは時計を見ながら言った。「今日の夜は空いてます?」
「今夜ですか。特には」
できれば草場さんと話をしたかったが、それはまだ予定ではない。
「じゃ、夕食を一緒にどうですか。ちょっと話しておきたいことがあるので」
「......わかりました」
「よかった。私はこれから市役所ですが、19 時には終わると思います。終わったらメールするので、駐車場に来てください。では、また後で」
そう言うと、白川さんは軽く手を振って出て行った。私はもう一度、開発センター内を見回し、その後ブレイクルームにも行ってみたが、草場さんの姿はどこにもなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
19 時15 分、私は白川さんのプジョーの助手席に乗っていた。車は横浜市内に向かって東名高速上り線を疾走している。
「ハンバーガーは好きですか?」白川さんが楽しそうに訊いた。
「ええ、まあ嫌いではないですが」私は白川さんの横顔を見た。「これから食べに行くのはハンバーガーなんですか?」
「そうです。病院の食事って、まずくはないんですが、あまりこってりしたものは出ないんですよ。ハンバーガーみたいなジャンクフードが無性に食べたくなって」
帰宅ラッシュも一段落した後で、車の流れはスムーズだった。白川さんはカーナビに音声で何度か問い合わせた後、横浜青葉IC を通過して東名川崎IC で降りた。東に4km ほど進み、東急東横線の元住吉駅の近くで右折して綱島街道に入る。さらに5 分ほど南に走り、日吉駅近くのコインパーキングに駐車したところでドライブは終わった。
ジャンクフード、といっても、白川さんが入ったのは、マクドナルドやロッテリアではなく、日吉駅の西口から歩いて1 分ぐらいの距離にある小さなお店だった。ビルの2 階にあるので、知らなければ通り過ぎてしまいそうだが、お洒落なバーのような雰囲気で居心地のよさそうな店だった。近くに慶應義塾大学があるためか、店内で食事を楽しんでいる2、3組のカップルは全て学生らしかった。他に会社帰りらしい男性客がポテトをパクついている。全ての席で会話が弾んでいるが騒がしくはない。
私たちは窓際の席に座り、時間をかけてメニューを検討した。白川さんに訊くとベーコンがお勧めだということだったので、ベーシックなハンバーガーに自家製ベーコンをトッピングしたセットとビールを選んだ。白川さんは、ビーフの他にローストしたチキンまでたっぷり載ったセットとウーロン茶だ。他に、ガーリックシュリンプをオーダーした。
「よく来るんですか?」私はコクのあるビールを味わいながら訊いた。
「知り合いがバーガー好きで」白川さんは答えた。「都内周辺のハンバーガー店を食べ歩いてたんですよ。ここは、たまたま私が発見したお店なんだけど、教えてあげたらすごく気に入ったみたいで。何度か一緒に来ましたね」
しばらくして、木製のプレートに載ったバーガーセットが運ばれてきた。フライドポテトが気前よすぎるぐらいに添えられている。香ばしい肉の香りとスパイシーなソースの匂いが鼻をくすぐり、口の中に唾が溢れるのを感じた。
「すごいですね」
私のバーガーも十分にボリュームがあるが、白川さんのはさらに巨大で、もはやどうやって食べるのかわからないぐらいだ。
「ここはお行儀よく食べるところじゃないから、ガツガツ行きますよ。レディー」白川さんはバーガーに手をかけた。「ゴー」
それから10 分ほどの間、私たちはカロリーのことなど気にせずバーガーと格闘した。うちは母親があまりファストフード系を好まないこともあって、自宅での夕食は和食が基本だ。その反動か、たまに息子と2 人で出かけると、ハンバーガーやピザを欲しがることが多い。足を向けるのは安くて手軽なチェーン店ばかりだったが、たまには、このお店のように本格的なハンバーガーも食べさせてあげないとな、と反省させられた。もっともそんな反省が生まれたのは、もっと後になってからで、食べている最中は肉と野菜とバンズをむさぼるのに集中していた。白川さんなど、両手をソースでべとべとにしながら、バーガーをわしづかみにして頬張っている。ジャンクフードに飢えている、というのは誇張ではなかったようだ。
ようやくバーガーが胃の中に収まると、私たちはゲラゲラ笑いながら、両手と口の周りをナプキンで拭った。途中で30 代ぐらいの店長が、苦笑しながら冷たいおしぼりを持って来てくれたので、私たちはそれをありがたく受け取って、身繕いの仕上げをした。
「ああ、満足でした」白川さんは幸せそうに言った。「さて、いろいろ訊きたいことがあるでしょうね」
「それはもう」
「まずは、私の話を聞いていただけますか。話の中で、いくつかの疑問には答えが出ると思います」
「お願いします」
「今から話すことは、一応、オフレコでお願いします。墓場まで持って行けとは言いませんが、話をする相手は慎重に選ぶようにしてください。理由はすぐにわかります」
「わかりました。どうぞ」
「受注の段階から」白川さんはウーロン茶を一口飲むと話し始めた。「このプロジェクトは、Q-LIC との戦いになるとわかっていました。入札に参加したのは7 社ですが、そのうち4 社は、いくつものダミー会社を経由する形でQ-LIC 資本が入っていました。ご存じの通り、くぬぎ市役所内にはQ-LIC 派と言われる派閥があって、それらの会社の入札を秘かにバックアップしていたんです。厳密に言えば、くぬぎ市の競争入札取扱要綱に反する行為です」
「でもエースシステムが受注したわけですよね」
「うちが受注できたのは、別に関係者が公正な判断をしたためではなく、後にQ-LIC に関係がある企業を再度迎え入れたことが発覚したときの市民の怒りを怖れたために過ぎません。それでも、エースシステムによるプロジェクトの失敗という理由があれば、Q-LIC の発言力を回復させることも可能だ、と考えたんでしょうね。要件定義フェーズでは、様々な妨害に悩まされました。幸い、瀬端さんらタスクフォースのメンバーは、真剣にくぬぎ市の将来を憂いている方たちばかりなので、かなり助けられましたが。ただ、問題は実装フェーズでした」
「どういうことですか」
「うちは実装部隊がいないので、協力会社に実装フェーズをお願いすることになります。可能なら、全社を私の目で選択したかったのですが、内外からの政治的な理由や慣習から、仲介企業にベンダーの選定を任せざるを得ません。そこにQ-LIC の"工作員"が浸透することは十分に考えられたし、それを防ぐ手段はありませんでした。私たちには、あなたたちのプログラミング内容を十分に検証するスキルがないからです」
「でしょうね」
思わず頷いてから、ちょっと失礼だったか、と気付いたが、白川さんは気にした様子もなかった。
「あからさまな破壊工作などをしてくれれば、対処のしようもありますが、目立たないように小さな妨害工作をされると手の打ちようがありません。影と戦うようなものです。そこで、対抗策として"潜入捜査官"を加えることにしました。あなたたちの内部で、妨害工作に目を光らせてもらい、どこがQ-LIC の息のかかったベンダーなのかを見極めるためです」
「それがTSD ?」
「そうです」白川さんは頷いた。「TSD さんは優秀なソフトウェアハウスですが、それとは別に面白いサービスを提供しているんです。デジタルフォレンジックです」
「デジタルフォレンジックというと」私は記憶を辿った。「サイバー犯罪の証拠を探すとか、そんな仕事じゃなかったでしたっけ」
「そんなところです。私は以前、ランサムウェア対策パッケージの開発に携わっていたことがあるんですが、そのとき、日本のデジタルフォレンジックの実態を調査したことがあります。TSD さんのサービスについては、そのとき知りました。TSD さんはK自動車関連の開発で実績があったこともあって、東風エンジニアリングさんに話を通してTSD さんを参加させるように依頼したんです。ただし、プロジェクトに参加してもらったのは実装フェーズからではなく、もう少し前からです」
「じゃあ1 月に初めて顔を合わせたわけではなかったんですね」
「ええ。セキュリティ面からいろいろアドバイスをいただいていました。たとえば、開発センターの出入りに、アンチパスバックを適用するというのはTSD さんの提案です」
私は草場さんと初めて会った日のことを思い出した。エレベータ内で、APB のことを教えてくれたのだった。
「TSD さんの仕事は、さっきも言ったように、内部から妨害工作の痕跡をキャッチし、その証拠を掴むことでした。これはサブリーダーやSE ではできません。そもそもスキルがないし、うちの人間に対しては、工作員も警戒しているでしょうから。それに比べて同じプログラマ同士なら仲間意識も生まれるでしょうし、うまくすると妨害工作の共同正犯に引きずり込もうと誘ってくるかもしれない」
「......なるほど」私は残ったビールを飲み干した。「つまり、草場さんは私たちの中で仕事をしながら、こいつがQ-LIC のスパイじゃないか、とか疑っていたわけですね。言われてみれば、よくいろんな人と話をしていましたよ」
不意に白川さんが笑い出したので、私は呆気に取られた。白川さんは笑いながら手を挙げ、近寄ってきたウェイトレスに、私のビールのお代わりを頼んでくれた。
「まあ、そう思うのも無理はないですね」
「違うんですか?」私は少々腹を立てて訊いた。「だから草場さんを許してやってくれ、と言いたいんでしょう。仕事だから仕方がなかったと」
笑顔を浮かべたウェイトレスがビールを運んできたので、私は言葉を切り、届いたばかりのビールをゴクゴクと喉に流し込んだ。白川さんは愉快な一人芝居でも見ているように私を眺めていたが、私がグラスを置くと、笑みを残したまま言った。
「今日、川嶋さんを誘ったのは、そのあたりの誤解を解いておきたいと思ったからなんです。まず、内部から探っていたのは確かですが、その仕事をしていたのは草場さんではないんですよ」
「じゃあ誰なんですか」
「鳩貝さんです」
その名前を記憶から拾い出すのに、数秒が必要だった。
「鳩貝......あ、TSD のもう一人......」
「私は草場さんが、とは一言も言ってないじゃないですか」白川さんは面白そうに私の目を見つめた。「開発センターでもね。TSD さんに、と言ったんです」
私はポカンと口を開けて白川さんの顔を見た。
鳩貝さんは、草場さんと同じくTSD から参加しているプログラマだ。名前を思い出すのに手間取ったのは、とても目立たない人だからだ。外見は20代半ばぐらい。中肉中背でメガネをかけていて口数が少ない。席は草場さんの隣だが、いつも黙々とモニタに向かっているという印象しかない。開発センターでの初日に草場さんから紹介されたときに挨拶した記憶はあるが、ひょっとするとそれっきり言葉を交わしていなかったかもしれない。ランチのときも、いつの間にかいなくなって、いつの間にか戻って来ている。
「鳩貝さんはTSD のデジタルフォレンジッカーです。大学卒業後、アメリカでセキュリティの勉強と実戦経験を積み、GIAC のGCFA の資格を取得しています。実はTSD を設立した一人でもあるんです。多くの企業のセキュリティコンサルタントも手がけていて、エースシステムでも2、3 回、セキュリティの研修をやってもらったことがあります。若き天才、って奴ですね」
「あの人が」私は鳩貝さんの顔を思いだそうと苦労しながら呟いた。「てっきり草場さんのお供か何かだと思っていました」
「みんなそう思います。草場さんは人好きのする話上手な方なので、その陰に隠れて余計に目立たないですね。それも手法の一つなんでしょうが。私だって、ともすると鳩貝さんの顔を忘れそうになりますからね」
「じゃあ、実際に"潜入捜査"をやっていたのは鳩貝さんだったんですか」
白川さんは頷いた。そして何か思案するようにメニューを眺めると、また手を挙げてウェイトレスを呼び、ビールを2 つ追加注文した。
「車ですよ」私は指摘した。
「近くのビジネスホテルにでも泊まりますよ」白川さんはスマートフォンを取り出すと、電源を落とした。「一人で飲んでいてもつまらないでしょう。まだ話は続きます。ご心配なく。川嶋さんの帰宅は手配しますから」
私もスマートフォンを出すと、母親と息子にLINE で遅くなると連絡した。開発センターでは、まだ仕事を続けているプログラマたちがいるはずだ、と思うと、少しばかり胸が痛んだが、白川さんに訊きたい質問のいくつかは回答をもらっていない。全てを聞くまで、帰ることはできない、とわかっていた。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。
コメント
のり&はる
鳩貝さんのスピンオフ決定フラグ立ちました。本当にありがとうございました。
アキ
すごい、一気に読んでしまいました。
早く続きが読みたい!
匿名
急展開で色々衝撃を受けましたが、特に
新美さん、男だったのか・・・
匿名
まーたそうやって探偵モノのスピンオフ書けるような設定を導入するんだからー
高村ミスズがハッキングしかけて鳩貝さんに見つかりそうになるんでしょ、知ってる。
行き倒れ
やべぇ、この展開でどう第一話に繋がっていくのか、全くわからんw
すげぇ楽しみ!
kzht
いつも楽しみにしています。
>ゴクゴクを喉に流し込んだ。
ゴクゴクをになってますよ。
へなちょこ
イヤー、参りました。この展開堪りませんね。
白川さんの話の続きが気になります。
日吉の住人
日吉駅のハンバーガー屋といえば、メイドインハンズですね。
SQL
ふーむ
どうなるんだろう
無理難題
政治争いが好きなエースならQ-LIC叩きつぶすぐらいやるんじゃないかなあ
無理難題
政治争いが好きなエースならQ-LIC叩きつぶすぐらいやるんじゃないかなあ
CES
ん? どゆこと?
草場さんは Q-LIC の協力者をあぶりだすために新見さんに協力していたけれど、誰が Q-LIC かを調査していたのは鳩貝さんで、草場さんは鳩貝さんの指示に従って動いていた、的な話?
ダナ
> ハンバーガーも食べさせてあげないとな、反省させられた。
食べさせてあげないとな、 と 反省させられた。 でしょうか。
はんばーがーたべたい(現実逃避)
えいひ
タイトルは何を見立てたんだろう。白川さんは自分が解き放ってしまった影を狩っているのだろうか。
匿名
えいひさん
Q-LICを影に例えてるんですよ
SIG
> マギ情報システム開発の杉浦が、私と草場さんの関係について揶揄したことがあった。
これまでの例からすれば、ここも「杉浦さん」になるはず……
ともあれ、このあたりで物語も後半戦、もしくは終盤戦に突入、といった感じでしょうか。
(22)より「白川さんが再び開発センターで指揮を執れば、全ての状況がいい方向に向かうに違いない。(中略)残念なことに、私たちは間違っていた。」、
(24)より「ええ、だいたいはもうわかってるから。永尾の件よね」(中略)「あんたなんか、地獄に落ちればいいんだ」。
(5)では「部下や下請けを容赦なくこき使って(中略)笑顔で人を切り捨てるそうです」と評された白川さんの暗黒面が、そろそろ顕れてきそうな予感。
リーベルG
kzhtさん、ダナさん、ありがとうございます。
どちらも「と」の間違いですね。
SIGさん、ご指摘ありがとうございます。「さん」が抜けていました。
ハイタカ
えいひさん&匿名さん
ということは、今回のタイトルの元ネタである、ゲド戦記1巻のストーリーよろしく、実は Q-LIC の腐敗を引き起こした張本人は白川であり、
それに始末をつけるために白川は今回のプロジェクトに潜り込んでいた、というオチでも待っているのだろうか。
相変わらずだが、 Press Enter 世界の上位勢はみんな色々な意味で底が見えない曲者揃いで、展開の先読みができない。
ウヒヒ
開発センターのフリースペースにて、17時ころの白川さんの衝撃発言
>「もう想像がついているかもしれませんが」白川さんは笑顔で答えた。「TSD の草場さんです」
一方、ハンバーガー屋での白川さんの発言
>「私は草場さんが、とは一言も言ってないじゃないですか」白川さんは面白そうに私の目を見つめた。「開発センターでもね。TSD さんに、と言ったんです」
矛盾しているように見えるのは、俺の頭が悪いからなのだろうか...
匿名
ウヒヒさん
新美に実装面で協力するふりしてたのは草場、実際に潜入捜査的なのはTSD(鳩貝)、という微妙な分けかただと思う
SIG
>CESさん、ウヒヒさん
誰がQ-LIC 協力者か潜入捜査して、新美さんに目星を付けるところまでが鳩貝さん、
捜査結果に沿って新美さんに協力するふりをして、Q-LIC への利益供与の決定的証拠をつかむところが草場さんの役割、といったところでしょう。
とおりすがり
草場さんが囮で、鳩貝さんがその証拠固め。なんか囮捜査なような気が。
匿名
川嶋さんにだけいろいろ教えてくれるのは、やっぱり白川さんも彼女だと思ってるのかしら
匿名
草葉さんは、有能なエンジニアではあるが、潜入調査とはノータッチな気がするな。
余計なことを知っていると、たぶらかされた場合にダメージが大きい。
なんかつらそうにしている描写もあるし。
白川さんの扱いからして、今後も鳩貝さんの煙幕として機能し続けることになる。
能動的に動くような立場なら、もっとしれっとしていてもよさそうと思う。
同僚が何ができる人間なのか把握していながら、何をしているのか見えないから、
ゴリゴリと神経を削られているんじゃないかな。
で、川島さんに一服の清涼を求めた、と。
3STR
草場さんも実情知らなかったんじゃないんかなあ
意図せず同僚(背信者としても)の背中刺す羽目になったら心中穏やかではないような
ところで、プジョーも戦車作ってたんだよな…
匿名
自分の仕事は二重スパイ、同僚は本来アサインされるはずのない畑違いの若き天才……
草場さんの心労はすごそうだ
無理難題
政治争いが好きなエースならQ-LIC叩きつぶすぐらいやるんじゃないかなあ