ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (26) 監視機構

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 追加のビールが届いた。私はスマートフォンをカバンに放り込むと、白川さんとグラスを軽く合わせて2 杯目のビールに少しだけ口をつけた。私のアルコール許容量は、それほど高くはない。コクがあるうまいビールだからといって調子に乗っていると、思考回路に影響を及ぼすことになる。白川さんはグラスをグッと傾け、美味しそうに半分ほど飲んだ後、大きく息を吐き出した。
 「うーん、うまい」白川さんはナプキンで口元の泡を拭った。「やっぱり誰かと飲むビールはいいですね」
 「ビール派なんですか?」私は訊いた。
 「昔は私も妙に気取ってまして」白川さんはウィンクした。「口はワインかシャンパンのために取っておくような人だったんですよ。変わったのは、さっき話した知り合いと一緒にここに来てからですね。あんまり美味しそうにビールを飲むもんだから、私も試してみたんです」
 「で、開眼したと」
 「ええ。ワインもいいんですが、やっぱりハンバーガーは、ビールと一緒にガツガツやる方が美味しいんですよね。川嶋さんは何派ですか」
 「特にこだわりがないです」私はビールをもう一口味わいながら答えた。「でも強いて選ぶなら、美味しい日本酒ですね。飲める量は大したことないですが」
 「日本酒も試してみる価値はありそうですね。今度、お勧めを教えてください。さて、話を続けましょうか」
 「お願いします」私はグラスを置くと姿勢を正した。
 「私がプロジェクト内部の内通者の存在を確信したのは」白川さんは窓の外に視線を向けながら話を続けた。「要件定義フェーズの途中からです。うちがKNGLBS や、KNGSSS の新機能として提案したサービスが、ほぼ同じ時期にQ-LIC からの新ICT 戦略構想として、市議会の検討議題に上がるようになったんです。Q-LIC も市政アドバイザとして要件定義フェーズには参加していたので、最初はそちらから流出したのかと考えられていたし、それならば法務的な対策もできていました。ですが、市議会に挙がった内容が、妙にシステム的な部分で、うちと競合していたんです」
 「システム的な部分ですか」
 「社外秘もあるので多くは話せませんが、一例を挙げると、くぬぎ南中学に建設中の地域防災センターです。お連れしたことがありましたよね」
 私は頷いた。確か3 月の、よく晴れた日だ。保健室登校をしている矢野ユウトくんと出会って、チャット機能を秘かに実装することを約束させられた。
 「高杉がエース・ファシリティプランニングと調整して、提案資料を完成させる直前、Q-LIC から<KNGオフサイトベース構築プラン>が市議会に挙がりました。市内の4 ヵ所に防災拠点を設置しようというものです。どこでも似た計画はあるので、偶然に時期が一致しただけ、と言い抜けるつもりだったんでしょうが、中学校の駐車場を転用するとか、行政オンラインシステムの回線を引っ張ってくるとか、内容が大筋で一致していたんです。さらに新KNGLBS、新KNGSSS のネットワーク構成に対して、どのように修正を加えればいいのか、バックアップ回線や電源の冗長化構成、中継局の増設、有線と無線の配分、上位プロバイダの選定など、エースシステム内部の資料にアクセスできる人間しか知り得ないような情報が含まれていました。持ち出した人間は、これらの情報がくぬぎ市に提示されていると思ったのでしょうが、実際には何点かの不備を修正中だったため、エースシステム社内で保留中だったんです」
 「情報漏洩として調査をしなかったんですか」
 「もちろんしましたが、あいにく証拠は掴めませんでした。おそらく、プリントアウトを撮影するとか、物理的な手段で持ち出したんでしょうね。この時点で、TSD の鳩貝さんにエース内部のデジタルフォレンジックをお願いするという手もあったんですが、こちらは一部の役員から反対が出たので実現しませんでした。何か知られたくない情報を、社内ネットワーク内に置いている人がいたんでしょうね。実現していたら、川嶋さんが新美と顔を合わせることもなかったかもしれませんが」
 「その頃から新美さんに疑いを持っていたんですか?」
 「いいえ。いくつかの理由から最有力候補ではありましたが、決め手はありませんでした。でも、サブリーダークラスの誰かではないか、と推測はできました。鳩貝さんは、その状態でトラップを仕掛け、引っかかるのを待つことを提案してくれました。私も賛成したんですが、高杉は別のやり方を指示してきました」
 当時、高杉さんは香港支店から指揮を執っていたため、現場の空気感が読めなかったのかもしれない。早期解決を望んだ高杉さんの命令は、社内監査部によるプロジェクト関係者全員の面談だった。プロジェクトに関わっていた全ての社員が、5 日間にわたって長時間の面談を強いられた。白川さんも例外ではなかった。
 「言葉を飾らずに言うなら、まあ取り調べですね」白川さんは苦笑した。「結果的には何も見出せず、逆に犯人に警告してやったようなものでした。それ以後、情報漏洩が発覚するようなことはありませんでしたが、犯人は不明のままです」
 犯人は、潜伏期間の長いウィルスのように、プロジェクト内部に身を潜め、表面上は忠実なエースシステム社員を装って、時を待っていたと思われた。この時点で、TSD の鳩貝さんの仕事は一気に重要度を増した。任務が「いる可能性が高いQ-LIC 工作員の発見」から「確実に存在するQ-LIC 工作員の特定」に変わったからだ。加えて、プログラマとして潜入してくる工作員にも対処しなくてはならない。
 「本来のデジタルフォレンジック業務とは、少し外れているのは承知ですが、鳩貝さんは面白がって取り組んでくれたようです。一プログラマとして目立つことなくプロジェクトに入り、長期にわたってトラップを仕掛けては外し、仕掛けては外し、の繰り返しでした。詳しい手段は企業秘密だし、自分がされていたと聞けば不快に思うことも多々あるので、詳細はお話しできませんけどね。とにかく、開発センターに出入りする人間は、全員が監視対象でした」
 「というと、つまり、私たちも......」
 「もちろんサードアイさんもです」白川さんは躊躇いなく頷いた。「むしろ、他のベンダーよりも、可能性が高いのでは、とまで考えていました。1 月の説明会で、東海林さんがうちの高杉と衝突していたのを見ていましたから。過去に何か因縁があれば、それは動機になり得ます。とはいえ、やがてその疑いが間違っていることに気付きました」
 「なぜですか?」
 「仕事に対して高いプライドを持つ東海林さんが、Q-LIC に買収されるとは考えられなかったからです。もちろん、いくつか確認もさせてもらいましたが」
 「確認というと?」
 「マギ情報システム開発の杉浦氏を憶えていますね」
 「杉浦さんなら憶えてます」私は答えた。「妨害工作してた人ですね」
 「4 月に東海林さんと一騒ぎ起こしたんですよね。川嶋さんも同席していたとか」
 「そのとおりですが」
 「実はあれ」白川さんは、いたずらっ子のようにペロリと舌を出した。「鳩貝さんの提案で、私が仕組んだんです」
 「はあ?」
 「マギ情報システム開発がQ-LIC の息がかかったベンダーだということは、その頃、すでに判明していました。さっさと追い出しても良かったんですが、サードアイさんへの疑いを否定するために利用してはどうか、と提案があったんです。杉浦氏が実装したコンテナの中から、明らかに手抜きのものを選び、東海林さんに単体テストをアサインしました。東海林さんが工作員なら、そのままスルーするでしょう」
 「......そういうことだったんですか」
 私はため息をついた。単体テストしているつもりが、自分もテストされていたと知って、いい気分になるとは思えない。東海林さんには黙っておくことにしよう。
 「東海林さんは、薄々、事情を察していたかもしれませんけどね。その後、マギ情報システム開発とFCC みなと開発が実装を担当したコンテナを再チェックしてもらったのは、最終テストみたいなものです。おかげでサードアイさんを、容疑者リストから完全に消すことができました。私としてもホッとしたんですよ。東海林さんや川嶋さんが工作員ではないか、とビクビクしながらプロジェクトを回していくのは、精神衛生上、よろしくなかったので」
 私はともかく、東海林さんがその気になれば、もっと巧妙に致命的なバグを潜ませることができるだろう。白川さんや高杉さんもそうだが、世の中には敵に回したくはない人間が確実に存在する。頭のいい人は特にそうだ。
 「実際は、もっといろいろな手段を使ったんですが」白川さんはビールを飲み干すとメニューを開いた。「潜入工作員らしきプログラマは、ほぼ排除できた確信があります。ほぼ、というのは、まだ意図的に疑わしいプログラマを何人か残してあるからですが」
 「どうしてクリーンにしないんですか」
 「数人でも残しておけば、Q-LIC 側は彼らを使った妨害工作を継続してくるでしょう。監視の手を緩めず、適切に対処していれば、ダメージコントロールが可能になります。一掃してしまったら、Q-LIC 側はもっと過激な手に出てくるかもしれません。そんなものを相手にするリソースがもったいないじゃないですか。ただでさえ、スケジュールが遅れているのに」
 スケジュールと聞いて思い浮かべたのは、今枝さんの浅黒い顔だった。
 「違っていたらごめんなさい」私は言葉を探した。「前に、うちの会社にいらっしゃったとき、今枝さんも何か役に立つかもしれない、と仰ってましたよね。スケジュールを遅延させてまで、今枝さんを白川さんの代理として使っていたのは、やっぱり何か理由があったんじゃないんですか?」
 白川さんは満足そうに頷いた。だが、答える前に、手を挙げてウェイトレスを呼び、ウィスキーをロックでオーダーした。琥珀色の飲み物が届くまで、白川さんは頬杖をついて窓の外に目を向けていた。私はその線の細い横顔と、華奢な手首に嵌まった大きな時計を見ながら、白川さんの言葉を待った。
 「すでにおわかりの通り」白川さんはウィスキーの香りを楽しむように言った。「私のケガは、8 月半ばには完治していたんです。復帰を今日まで延ばしたのは、今枝の手にフリーハンドの裁量権があれば、いずれ暴走するだろうとわかっていたからです」
 「今枝さんは......」
 「いいえ」白川さんは、私の質問を先取りして否定した。「今枝はQ-LIC とは無関係です。それは確認済みです。だからこそ、内通者が利用するとしたら、今枝になる可能性が高かったんですよ。彼は自己顕示欲が強く、バイプレイヤーで満足できる人間ではないですから。事実、今枝は暴走しました」
 「<Q-FACE>への貸出記録送信の件ですか」
 「そうです。話を聞いてすぐ、今枝に確認しました。今枝は地域振興課の井ノ口課長から、貸出記録の件を依頼されました。すぐにでも受けようと思ったが、一応、サブリーダー2 名に相談したところ、両方から反対されています。それでもなお、諦めきれなかった今枝は、オーダーテイカーとしての権限で受けることを決断。設計と実装をサブリーダーに指示したところで、一仕事成し遂げた気になった。表面の事象だけを追うと、こうなります」
 「実際は違うんですか」
 「注意深く経緯を確認していくと、細かい相違がいくつか浮かびあがってきました」
 白川さんは数日前に今枝さんをエースシステムに呼び、マインドマップを何枚も書いて、本人でさえ混沌の中に放り込んでいた細かい記憶を、圧力をかけて歪めないように慎重に呼び起こしていった。その結果、今枝さんが受注を決断する前にサブリーダーに相談していたのは、一度ではなく二度だったことがわかった。最初は2 名同時に、次に個別に。最初の2 名は一戸さんと新美さん。それから一戸さんと佐野さんに。それが全てだと今枝は主張していたが、時間単位で行動や言動を書き出させたところ、実は、ブレイクルームで新美さんとこの件について会話していたことを思い出した。新美さんは積極的に賛成はしなかったものの、受注することはエースシステムの利益に繋がるかも、といった内容の言葉を返したそうだ。今枝さんはそれに元気づけられて受注を決定した。自分一人で決断したと思い込んで。
 「実際には」白川さんは苦笑した。「もう少し言葉巧みに、今枝を焚きつけたのではないかと考えています」
 「成功したわけですね」
 「ただ、新美も、そのままストレートにコンテナとして設計するわけにはいかなかった。自分の成果に酔いしれている今枝はともかく、高杉や私が見たら、タスクフォースの意に反するコンテナだとわかってしまうからです。そこで、そうとはわからないように偽装工作をする必要があり、それにはプログラマの力が必要だった。でも、東海林さんを選ぶことはできなかった。杉浦氏の妨害工作を東海林さんが糾弾したとき、新美は同席していたそうですから、危険だと思ったんでしょう。そこで草場さんを選んで、コンテナ設計を依頼したんです」
 ここまで意図的に避けてきた草場さんの名前が出た動揺を隠すため、私はビールを呷った。
 「草場さんは」白川さんは私の動揺を理解しているように微笑んだ。「証拠を掴むために、言われるままにコンテナを設計し、そのことを鳩貝さんに伝えました。鳩貝さんは新美に的を絞って、電子的、物理的の両方で証拠を収集しました。焦っていて注意を怠ったのか、それとも自分の偽装がバレない自信があったのか、新美は市政アドバイザリと市役所が共有しているアカウントで、経緯を報告するというミスを犯しました。もちろん、鳩貝さんはそのアカウントを監視していて、決定的な証拠となったわけです」
 私はビールのグラスに手を伸ばし、それが空になっていることに気付いた。
 「もう一杯いきますか?」
 私は躊躇った後、頷いた。白川さんはウィスキーのグラスをグッと干すと、手を挙げてウェイトレスを呼び、それぞれのお代わりをオーダーした。ウェイトレスが笑顔で去ると、白川さんは私の顔を見ながら、ポツリと言った。
 「草場さん」
 「え?」
 「について質問されるかな、と思って待ってるんですが」白川さんはニヤニヤしながら言った。「なかなか来ないですね」
 案外、意地悪な人だ。それとも、アルコールのせいなのか。私は心を決めて訊いた。
 「草場さんの役割を正確に教えてもらっていいですか」
 「いいですとも。さっきも言ったように、潜入捜査の主役は鳩貝さんです。ただし、鳩貝さんは、Java を使った業務アプリケーション構築の経験がないので、プロジェクトの一員として溶け込むのは困難でした。それに、デジタルフォレンジッカーとしてではなく、プログラマとして参加してもらう以上、チケットを全くアサインしないのは不自然です。だから、表向き、TSD さんとして実装を行うために、草場さんが参加しているんです。もちろん草場さんは、TSD のもう一つの任務を承知していますが、潜入捜査には携わっていません。鳩貝さんの任務に対するカモフラージュとして、プロジェクト本来の実装業務をこなしてもらっていました。実際、とても優秀なエンジニアですから、カモフラージュとしての役割を超えて、今ではプロジェクトに欠かせない存在となっています。2 人分どころか、優に4 人分ぐらいの価値がありますね」
 「2 人分?」
 「鳩貝さんに全くチケットをアサインしないわけにはいかないでしょ」白川さんはクスクス笑った。「できるだけ難易度の低いコンテナをアサインするようにしたんですが、それでも鳩貝さんが実装するのは無理です。鳩貝さんの分は、全て、草場さんがやっていたんですよ。打ち合わせのチケットは、そもそもアサインしていないし」
 「......2 人分って文字通りの意味だったんですね」私は草場さんに同情しながら言った。「でも、白川さんが入院している間はどうしていたんですか。今枝さんも、サブリーダーの方たちも、そんな事情は知らないわけですよね。コンテナの難易度調整なんて、できなかったんじゃないですか」
 白川さんは大きく頷いた。
 「それとなく、鳩貝さんはスキルが低いから、高難度のコンテナはアサインしないように、とは言ってあったんですが、スケジュールが遅延していたこともあって、あまり考慮されなかったようです。私としては、草場さんが何とか消化してくれることを祈るしかありませんでしたね。幸い、粛々とこなしてくれたようですが、かなり負荷をかけてしまいました。草場さんには別の精神的な負担もありましたし」
 「別の?」
 「ええ。川嶋さんのことです」
 私は意味がわからず白川さんの顔を見つめた。
 「草場さんは優しい人です」白川さんは柔らかい声で言い、私と手を重ねた。「直接、携わっていないとはいえ、同じ仕事の仲間を探るような任務に手を貸していることで、かなり良心の呵責を感じていたようですね。特に、川嶋さんに隠し事をしているのみならず、疑いを抱いたまま接しなければならないのが、相当、ストレスだったようですよ」
 「......」
 「今日、TSD の業務を全員に公表したとき、私は意図的に鳩貝さんではなく、草場さんがその中心であるかのような言い方をしました。理由はおわかりでしょう。鳩貝さんはプロジェクトが終わるまで、ずっと裏の存在でいてもらわなければならないからです。工作員は草場さんを警戒しても、鳩貝さんを警戒するようなことはないでしょうから。同様にプログラマのみなさんにも、潜入捜査をしていたのは草場さんだったと、誤解したままでいてもらわなければならないんです」
 「......草場さんは、そのことを」
 「ええ。事前に今日のことを連絡したとき、居心地が悪くなるだろう自分の立場について、黙って了承してくれました。ただ、言葉には出しませんでしたが、川嶋さんに誤解されたままでいることが、どれだけつらいかはわかります。プロジェクトの成功のためとはいえ、善良な人の心を傷ついたままにしておくのは本意ではありません。私も人並みに出会いや別れを経験しています。好意を持っている相手に誤解されたまま仕事を続けるのは、とても苦しいものです」
 白川さんは束の間、遠い目を宙に向けた。
 「それに、川嶋さんの方にも同じことが言えます。草場さんのことで、川嶋さんのパフォーマンスが低下するのは、プロジェクトの遂行上マイナスです。だから、お節介かと思ったのですが、川嶋さんにだけは、真実を話しておいた方がいいと考え、私たちは今、ここに座って、女子会トークとはほど遠い会話を交わしているわけです」
 私は苦笑した。今さら否定しても無意味なので、好意を持っている云々については反論も訂正もしようと思わなかった。
 「ありがとうございます」私はグラスを掲げた。「ちょっと安心しました」
 「安心?」白川さんは微笑んだ。「愛する人がスパイじゃなくて?」
 「いいえ。エースの白い魔女にも人間らしいところがあることがわかって」
 白川さんは小さく笑い、グラスを掲げた。
 「草場さんに」
 「エースの白い魔女に」私は唱和した。
 私たちはグラスを合わせ、キン、と透き通った音が響いた。そう言えば、エースの白い魔女という二つ名を教えてくれたのも草場さんだ。
 「さっき、新美さんが内通者の最有力候補だったと言いましたね」私は思い出して訊いた。「何かドジでも踏んだんですか」
 「いえ、優秀なSE でした。ただ、私に少し恨みを抱いていたようです。それは動機になり得ると考えられたので。恨みといっても、私が新美に何かしたわけではなく、別人のことです」
 「永尾という名前の人のことですか。誰なんです?」
 白川さんは小さくため息をついた。
 「永尾は、以前、K自動車関連のプロジェクトで私のサブリーダーをやっていたSE です。エースシステムでは珍しくないことですが、少々、自信過剰のきらいがありました。あるとき協力会社へ仕様変更の連絡を失念したまま、結合テストまで進めてしまったことがあったんです。すぐに打ち明けてくれればリカバリーは十分に可能だったのに、自分で何とか手を打とうとして事態を悪化させてしまい、最終的にはエンドユーザから叱責を受ける結果となりました。それだけならまだしも、責任を協力会社に押しつけようとしたので、プロジェクトから外したんです。それがケチのつきはじめだったのか、他のプロジェクトでも失敗を重ね、一昨年、会社を去ることになりました」
 「新美さんと付き合ってたとか?」
 酔いに任せて軽口を叩いた私は、白川さんが顔をしかめて頷いたので驚いた。
 「本当にそうだったんですか」
 「本人たちは隠しているつもりだったようですが、この手の情報は、案外、周囲にはバレバレだったりするんですね。まあ、川嶋さんもおわかりだと思いますけど」
 昼間、チハルさんに言われた言葉が蘇り、頬が熱くなった。ビールですでに赤くなっていたのが救いだ。
 「でも、それぐらいで恨みに思います?」
 「永尾は最後まで自分は悪くないと周囲に主張し続けていました。協力会社のプログラマが話を理解しなかったせいだとか、エンドユーザの指示が曖昧だったとか。しまいにはプロジェクトから外されたのは、私が彼に告白して振られた腹いせだとか言い出す始末で。ほとんどの社員は耳を貸しませんでしたが、新美は例外だったんでしょうね」
 知り合う機会がなくて幸いだった、と言おうとして、私は白川さんが口にした代名詞に気付いた。
 「彼?」
 「そうです。実は、永尾がエースシステムを退社した後、新美も担当していたプロジェクトから外れて、別の部署に異動が決まったんです。単なる配置転換だったんですが、新美は降格と思い込み、永尾との関係が忌避された懲罰人事だと解釈したようですね。で、直接のキッカケとなった私に恨みを抱いていた、というわけです。新美の名誉のために言っておくなら、異動後は仕事の手を抜くようなこともなく、むしろ着実に実績を積んでいました。私に対しても隔意を持っているようではなかったので、くぬぎ市再生プロジェクトに加えたんですが」
 「ずっと恨みを晴らすチャンスを待っていたってことですか」
 「さあ」白川さんは寂しそうに微笑むとウィスキーを嘗めた。「今となっては、真実はわかりません」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 話に熱中していて時間を確かめるのも忘れていたが、ハンバーガーショップを出ると23 時に近かった。少し頭がぼおっとしていて、熱いミルクティーで頭をすっきりさせたい気分だった。白川さんは、ウィスキーをロックで3 杯片付けたというのに、足元がふらついている様子もない。スマートフォンの電源を入れると、短く通話してから、私の腕を取った。
 「車を呼びました。そっちでピックアップしてもらいます」
 駅のロータリー前ではタクシー待ちの長い列ができていたが、私たちは日吉駅の改札と東急百貨店の間を歩き、綱島街道に面した舗道に出た。さすがに行き交う車の量は少ない。周囲では大学生らしいグループが奇声を上げていたが、その数も減っていた。私たちは慶應義塾大学前の信号で待った。
 「すいません。タクシーまで呼んでもらって」
 私が礼を言うと、白川さんはクスッと笑った。
 「いえ、タクシーじゃないんです。あ、来ましたよ」
 目の前に、白いノートe-POWER が静かに停車した。運転席から草場さんが降りてきたのを見て、私の全身がカッと熱を帯びた。
 「え」
 「遅くなりました」草場さんは一礼すると、助手席側に回ってドアを開けた。「どうぞ」
 私は茫然と白川さんを見た。白川さんは私の肩を軽く叩くと囁いた。
 「ま、これも余計なお節介かもしれませんけど」
 「あ、え、いや......」私は白川さんと草場さんを交互に眺めた。「その......」
 「とにかく乗ったらどうですか」そう言うと白川さんは、私の身体を助手席に押し込んだ。「じゃあ、草場さん、よろしく。川嶋さん、おやすみなさい。また明日」
 ドアがバタンと閉じられた。ようやく我に返った私は、手を振りながら日吉駅の方へ戻っていく白川さんのほっそりとした後ろ姿を窓越しに見つめた。
 ドアが開く音がして、草場さんが運転席に乗り込んできた。
 「シートベルトしてください」
 「もしかして」私は草場さんに訊いた。「ずっと待っててくれたんですか」
 言った途端、自分の息の酒臭さに死にたくなったが、草場さんは顔色一つ変えずに頷いた。
 「白川さんから連絡をもらって、この辺りをぐるぐる回ってました」
 「そうだったんですね。ごめんなさい」
 「とんでもない」草場さんはシートベルトを締めた。「さて、ご自宅までお送りしますね。住所を教えてもらってもいいですか」
 「ダメよ」
 草場さんが驚いて私の顔を見た。
 「どこかファミレスか何かに行ってもらえますか」私はシートベルトを締めながら指示した。「このままじゃ、私の吐く息で草場さんも酔っ払っちゃう。まず、熱いお茶を飲みましょう。その後、話があります。長い話が」
 「奇遇ですね」草場さんは笑った。「私の方も話があるんです。少々長い話が」
 「じゃ、それを解決しましょう」
 草場さんはゆっくりと車を発進させた。私は振り返ったが、すでに白川さんの姿はどこにも見えなかった。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(34)

コメント

匿名

おいおい、@IT初の18禁回くるのか~~~~~~ッ!

L

白川さんほんと素敵です。
確かに、東海林さんにこの話したら怒られますねw

匿名

東海林さんは、いい意味でも悪い意味でも、
正々堂々正面突破、の方ですからね。


でも、怒るのかな、そりゃ気を悪くはするだろうけど。
自分は近づきたくもないが、そういう仕事も必要だ、
ってことで収められる人だと思う。


白川さんが、怪我が治っても現場には復帰せず、
裏工作に励んでいたのは、まあ、それくらいやるよね。
現場の阿鼻叫喚をスルーして。
そして、遅れているスケジュールの穴埋めのために、
涼しい顔をしてプログラマを駆り立てる。
細川くんが嘆く様が今から目に浮かぶようだ。
いや、私は白川さんのことは、カッコイイと思ってますよ。


18禁は、ハローサマー、グッドバイの最終回でやってるかと。

SQL

なるほど なるほど

CES

そして朝チュン。

mori

毎週読むのを楽しみにしています。

「口はワインかシャンパンのために取っておくような人」
一杯目はという意味なのかお酒の趣向という事なのか分かりにくいのですが、「一口目」はでしょうか。

匿名666

確かに東海林さん嫌そうな顔はしても怒りはしない気がする。
将来、白川さんがエースのトップに立ったらどんな会社になっているかもちょっと興味が湧く。
今回の話もハローサマー、グッドバイみたいに電子書籍化されるのを期待しています。できればスピンアウトも込みで!

えいひ

魔女は傲慢でなく、誠実だった。しかし、誠実さが影を放つこともある、と。さて、またフックとして防災設備が示唆されとる。

リーベルG

moriさん、どうも。ちょっとわかりにくかったですかね。
お酒の趣向、の意味です。

匿名

うーむ、やはり草場さんの彼女だ(と思ってる)からこっそり話してくれたわけか
外堀埋まっちゃってます

匿名

ええんか?!(ええんやで)
家で小学生の息子が待ってるんやで!(今日くらい、いいじゃないの)

匿名

自分の読解力のなさに呆れているのですが、新美さんて女性?

匿名

>ええんか?!(ええんやで)


子持ちの夫婦だって家でやってるんだし。
子供って目ざといから、結構把握してるらしいね。
俺もガキの頃は、両親の寝室はふすま一枚隔てた隣だったな。(#^_^#)


>新美さんて女性?


どこの描写で、女性だと思ったの?
参考までに教えてくれないか。

別の匿名

新美さんは、8話の「がっしりした体格で~」とか、18話の白川さんを車いすで運ぶ話のところで男だと認識したのですが、
永尾さんについては女性だということが最初分からず、
主人公がどうして最初からわかったのか(「新美さんと付き合ってたとか?」)
がちょっと気になっています。
この業界は男だらけという私の先入観もあるのかもしれませんが...

匿名

18話でサクラちゃんが「エースシステムの人~男性と女性と一人ずつ」とあるので、新美さんは男性。

匿名

おいおい、@IT初のBL番外編くるのか~~~~~~ッ!

てー

今までの話で新見さんは男性の認識で読んでいて、新見さんと長尾さんが付き合ってる
⇒長尾さんは女性
長尾さんが首になった理由に「私が彼に告白して振られた腹いせ」
⇒この「彼」が長尾さんにも読める
⇒新見さんは女性?ウッホ??
とも読めるかと

実際は白川さんが新見さんに振られた腹いせに新見さん(男性)を飛ばし、振られた原因と思い込んだ彼女の長尾さん(女性)を首にしたってことでは?

てー

最後に実際と書きましたが新見さんが思い込んだ内容はということです

3STR

ひたすら隠してるつもりの関係を自分で吹聴はしないのでは
新実さんを彼呼ばわりする事に違和感を抱くはずもないですし、会話の流れからもここで新実さんを指すとしたらおかしいです。発覚したら「関係を忌避して懲罰人事」と被害妄想になるような話なので一般的な「男女」ではなかったということでしょう
昔よりは世間に開かれたとはいえ、まだまだ偏見も根強いです

てー

「関係を忌避して」でそれも考えたのですが流石に「周囲にはバレバレ」にはならないかなと思いました。

てー

連レスですみません
改めて読み返してみましたが、私の偏見が邪魔をしていたように思います
失礼しました

b

あー、やっと理解した。
長尾さんは男性なのか。
それで「彼?」と不思議に思ったり、忌避されたりなのか。

匿名

こういうことか

・長尾(男)と新美が付き合っていた。(彼、の違和感と、忌避された懲罰人事)
・白川が長尾に告白したが振られた。(「私が彼に告白して振られた」)
・腹いせに飛ばした(と長尾に勘違いされた)
ってことね?
軽口叩いたときのしかめっ面がピンとこなかったんだけど納得した。たぶん当時のことを思い出して嫌な出来事だったとか、男同士の関係に不快さを感じたってことなのかな

ところで、、、白川が長尾に告白してたところがあんまり盛り上がってないけど、そういうもんなんですかね。

匿名

白川さんが新見に告白して振られた腹いせで永尾(女)がプロジェクトを外されたと、永尾が言い出しているんですよ。

b

私も最初、長尾は女で「"白川が新見に告白して振られた"と思い込んでる」のかと思った。

けど
>新実さんを彼呼ばわりする事に違和感を抱くはずもない
が私もひっかかってた。

自分戦略のTwitterアカウントの"長尾は男"との見解を見て、なるほどと思った。

でも疑問もあって、「彼?」ってなる前に
「新美さんと付き合ってたとか?」って言ったってことは、女だと思ってたんだよね、なんで情報ゼロで女だと思ったんだろ。

公英

私も永尾さんを女性だと思い込んでいたので、コメント欄と自分戦略Twitterを読んでからスッキリしました。
エースはなおさら偏見というか、他者をサゲる材料にそのネタを使う人は多いだろうし、常に晒されていたのかなと思うと新美さんの復讐の原動力としては哀しいかな説得力もの凄いです。

bさん>
酔った勢いの軽口、と言ってるので、川嶋さん的にはその時点で永尾さんにが男か女かというより、
「そんな(人間的に尊敬できないような)人物のために新美さんが大それたことをするなんて、色恋絡みの私怨?」みたいなニュアンスでの軽口だったのではないかと想像しています。
白川さんが肯定したから「あ、永尾さん女性か」と思い込んだ、みたいな。
直前まで自分と草場さんが話題の中心でしたし、酒の席の勢いなら恋愛?という発想も、恋愛なら男女、という発想にもなる気がします。

匿名

なんで、こんなひん曲がった読み込み方をするんだろうなあ…
ここの人たちって、よっぽど普段から小説というものを読んでいないのか。

匿名

>bさん

ここで会話している川嶋さんも白川さんも女性ですし、高杉さんという先例もいるわけで
「白川さんと組んだ同性SEだろう」という前提で話しても不思議はないように思います。
散々煮え湯飲まされた経験から、川嶋さんの中ではエースはブロッケン山に魔女養成所を
構えてることになってるのかもしれない…。

しかしこうセンシティブな設定を退場したはずの人間にぶっこむのは、何かの伏線なんで
しょうかね
ハンバーガービールの先達は、女性なのかな…?

b

あー、
「新美さんと付き合ってたとか?」が、女性と断定してたわけではなく、
「長尾って人は女性で、新美さんと付き合ってたとか?」ってニュアンスならわりとしっくりきますね。

RB

初回に鳩貝を発見しました。
そこで発揮する技術力がないってことは、チャットでもしてるんですかね。
中学校だとネットワークも繋がってそうだし。

匿名

もしかして、白川さん、元男性かもと思っちゃいました。ベゼルの大きな時計など。

匿名

要件の伝え漏れを下の人間の責任にする……
以前上級SEが同じことをやっていたような……はて

スイフト乗り

あれ、草場さんって青いフィットじゃないでしたっけ?レンタル?

きっと白川さんがこの件におせっかいするのは、自殺したプロマネと時計に関係かまある!(適当推理)

とくめい

みんな色んな気持ちで読んでるんですね!
色んなコメントがありすぎて本編だけでなくコメント欄めっちゃおもしろいっす。

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