ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

クリスマスプレゼント

»

 サンタクロースが実在しないと思っている人が大勢いる。たいていの成人がそうだし、最近では嘆かわしいことに子どもの大部分もだ。もちろん、それは正しくない。ネットの発達によって、人は多くの情報を簡単に入手できるようになったが、逆にネットの中に存在する情報が全てだと錯覚するようになってしまった。誰でもいい、街を歩いている9 才ぐらいの子どもにサンタクロースを信じるか、と訊いてみる。返ってくる答えはきっとこうだ。
 「検索しても出てこないよ」
 俺が住んでいるのは、横浜市と川崎市の境に近い小さなアパートだ。2 階建てで1K が4 部屋あるが、住人は2 階の俺を除けば、1 階の親子だけで、この状態がもう何年も続いている。不動産屋もとっくにリストから削除しているのだろう。無理もない。風呂はなくトイレは共同、土壁でエアコンを取り付けるには強度不足、風の日にはすきま風がひどい。
 それなのに、不動産管理会社の奴らは、1 日でも家賃の振り込みが遅れると、退去してもらうだの、訴えるだの、うるさく言い立ててくる。じゃあ、出て行ってやるよ、と言えたらどんなにすっきりするかと思うのだが、実行に移したことはない。俺のような無職の40 男が部屋を探すのは、あなたが想像するよりずっと難しいのだ。きっと、下の親子もそうなのだろう。
 その日、昼過ぎに目を覚ました俺は、何か食べ物を口に入れるか、それともこのまま二度寝して食費を節約するかとしばし思い悩んだ。確か、冷蔵庫に入っているのは、安い発泡酒とキュウリ半分だけだ。それぐらいなら寝ていた方がいい。そう決めて薄い布団をかぶり直したとき、誰かがドアをドンドン叩いた。
 不動産管理会社の奴か、と思ったが、呼びかける声に聞き覚えがあった。
 「加瀬!」そいつは近所迷惑な声で怒鳴った。「おい、加瀬! いるんだろ。開けてくれ。開けなきゃ、ぶち破るぞ」
 俺は渋々上半身を起こした。
 「カギはかかってない」俺は怒鳴った。「さっさと入れ。そんなに叩くと、ぶち破る前にドアが壊れる」
 ドアが開き、冷たい12 月の風と共に、俺と同い年の男が入ってきた。スーツの上に暖かそうなコートを着ている。
 「和田」俺は布団から這い出ると、脱ぎ捨ててあったジャージを羽織った。「来るときはちゃんとアポ取れよ」
 「メールも電話も着信拒否してるくせに何言ってる」和田はずかずかと上がり込むと、無遠慮に部屋の中をジロジロと見回した。「全く、いつまでこんな部屋にいるつもりだ。そろそろ無理が利かない年になってるってこと忘れるなよ」
 「大きなお世話だ。このあたりは静かだし、夜中に騒ぐ隣人もいない。車も滅多に入ってこないしな」
 「陸の孤島だな」和田は畳の上にあぐらをかいた。「いまに孤独死するぞ」
 「ほっとけよ。お前、手ぶらで来たのか。何か食いもの持ってないか」
 和田はため息をつくと、コートのポケットから暖かい缶コーヒーと、おにぎりを2 個出した。
 「暖めといてやったぞ」
 「ありがとよ」俺は缶コーヒーのプルタブを引きむしるように開けると、中身を胃に送り込んだ。「久しぶりに糖分とカフェインを摂取した」
 「実は頼みがあってきた」
 「そうだろうな」俺はおにぎりの包装を剥がすと、かぶりついた。「言うだけ言ってみろ。力にはなれんと思うが」
 「局に復帰してくれ」
 「イヤだ」
 「復職しろとは言わん。25 日まで、いや、今日1 日でもいい」
 「どの口が言うかね。忘れてるのかもしれんが、俺をクビにしたのはお前だぞ」
 それを聞いても和田は、だからどうした、という顔だった。こいつはこういう奴だ。
 「俺は伝達しただけだ。決定したのは、もっと上の連中だよ。3 年前の事故はちょっと大事だったからな。誰も責任を取らない、じゃ納得しない」
 「で、手頃なのが俺のクビだったわけか」
 「仕方ないだろう。俺が辞めるわけにはいかん。となると、お前しかいない。お前はチーフだったんだ」和田は肩をすくめた。「言っておくがな、俺はほとぼりが醒めたら、ちゃんとお前を復帰させるつもりだったんだ。それを断ったのはお前じゃないか」
 俺は無言でおにぎりを頬張った。そういえば白米を食べるのも久しぶりだ。
 「なあ、システムがピンチなんだ。このままじゃ、クリスマスを乗り切れないかもしれん」
 「今に始まったことじゃないだろう」俺は2 個めのおにぎりに手を伸ばした。「俺が在職中にさんざん言ってきたことだ。コストだ必要性だ保証だとなんだかんだ理由をつけて、毎年、場当たり的な対応でしのいできたんだからな。今年も何とかしろよ」
 「今年はそうはいかなくなった」
 「へえ、なぜ」
 「別のところに、優秀なプログラマを持って行かれた。人が足らない」
 「別のところってどこだ。裏から手を回して何とかできるだろ」
 「できない。相手は、ATP だ」
 「アーカム・テクノロジーか」俺は唸った。「あそこは自前でたくさん揃えてるだろうに」
 「去年、赤レンガ倉庫でツリーが燃えた事件があっただろ。あれはATP 絡みの何かだったらしいな。そのすぐ後に、西区にあったATP 施設が、もっと広い場所に移転した。どうやら、今年も何か大規模な作戦があるんだろう。目をつけてたプログラマは、もう半年も前に予約されてた。手を出すな、とやんわり脅されたよ」
 「だから俺か」俺はおにぎりを食べ終わると、ゴミを押しのけて布団に戻って、和田に背を向けた。「ごちそうさま。久しぶりに会えて楽しかったよ。メリークリスマス、アンド、ハッピーニューイヤー。またな」
 「そうか、残念だ」そう言ったものの、和田が立ち上がる気配はなかった。「エリも残念がるだろうな」
 くそ。俺は再び起き上がり、和田を睨んだ。
 「エリだと。あいつも呼んだのか」
 「そうだ。お前と違って二つ返事で引き受けてくれたぞ」
 「汚いやつだ」
 「知ってるよ。どうする」
 俺は布団をはねのけた。
 「着替えるから外で待ってろ」

 5 分後、俺がアパートの階段を降りていくと、1 階の部屋のドアが開き、上坂親子が出てくるのが見えた。俺に気付くと、父親が挨拶してきた。
 「ああ、こんにちは」上坂さんは気の良い笑顔を見せた。「寒いですね」
 「そうですね。この建物は特にね」俺は視線を斜め下に移動させた。「よお、リナ。もう別の彼氏に変えたのか」
 5 才になる上坂さんの娘は、手にしていたボロボロのワニのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
 「この子はヴァレンタインよ」リナは俺に向かって顔をしかめた。「女の子なの。カセこそ、いつになったら彼女できるの?」
 「こら、リナ」上坂さんが娘を叱った。「加瀬さん、だろ」
 「いいんですよ。おい、リナ。来年の今頃は、アン・ハサウェイみたいな彼女をお前に紹介してやるからな」
 「ヒゲぐらい剃らないと無理ね」リナは俺の顔を見ながら指摘した。「そんなじゃ物好きなお笑い芸人だって引っかからないわよ」
 俺がヒゲを伸ばしているのは、シェイバーなどという気の利いたものを持っていないからだが、それをあえて説明するのは控えた。
 「どこかにお出かけか」
 「お父さんとモールに行くの」
 モールというのは、歩いて20 分ぐらいの場所にあるイオンモールのことだ。このアパートの部屋と違って暖かいし、フードコートには無料のティーディスペンサーもある。昼間から夕方に行けば、スーパーで試食品にもありつける。
 「そうか。うらやましいな」
 「カセ」リナは外で待っている和田の方をちらりとみた。「あれ、借金取り?」
 「ああ、まあ、似たようなもんだ」
 「これから、どこかの事務所で痛い目にあうの?」
 俺は苦笑して上坂さんの顔を見た。
 「この子に読ませる本は、もうちょっと選んだ方がいいんじゃないですか」
 「すいません」上坂さんは恐縮してリナの手を取った。「さ、行こうか」
 「うん。またね、カセ」リナは小さな拳を突き出した。
 俺とリナがグータッチしていると、エンジン音が背後から聞こえてきた。てっきり和田が待ちきれなくなって車を呼んだのかと思ったが、振り向くと管理会社の営業車だった。降りてきたのは担当営業マンの三上だ。悪人だとは思わないが、いささか仕事熱心なのが問題だった。
 「上坂さん」そいつは甲高い叫びを上げて突進してきた。「どこに行くんですか」
 上坂さんの顔から笑顔が消えていた。リナを後ろにかばったが、リナは父親の身体の陰から、三上を睨み付けていた。
 「いえ、ちょっと買い物に」
 「買い物!」三上は叫んだ。「買い物ですか。うちへの家賃を、もう3ヵ月も滞納しているのに、買い物をする余裕はあるんですね。いいですねえ。ぼくなんか、朝から晩まで働いて、かけずり回ってるっていうのに。で、何を買いに行くんですかね。クリスマスの飾り付けですか? それとも、おいしいチキンか何か?」
 「いえ、そんな......」
 「おい」いつの間にか和田が近付いていた。「行くぞ」
 「ああ」
 「おっと、加瀬さん」俺が立ち去ろうとしているのを目ざとく捉えた三上は、キンキン声を投げつけてきた。「おたくも1ヵ月分滞納してますよね。早めにお支払いくださいね。でないと退去していただきますからね」
 わざわざクリスマス前に来て言うことか、と怒鳴ってやりたかったが、俺がいなくなった後、上坂親子に怒りの矛先が向けられてもいけない。俺は小さく頭を下げると、無言でその場を立ち去った。

 「家賃はいくらなんだ」最寄り駅まで歩きながら和田が訊いた。「10 万ぐらいか」
 「その半分だよ」
 「それを滞納してるのか」
 「俺はちゃんと振り込んでる。今月は寒くて銀行に行くのが面倒だっただけだ。ネットバンキングなんて気の利いたものはやってないからな」
 「あの親子は」
 「父親がリストラにあってもう2 年だ。日雇いや派遣で何とか食いつないでるらしいな。助けてやりたいんだが、俺も貯金を切り崩してる状態だからな」
 「お前ぐらい腕があれば、どこだって仕事はあるだろうに。正社員がいやなら、フリーランスって手もある。もっと広い部屋に住めるだろう」
 「あそこが好きなんだよ」
 「なるほど。静かだし、可愛いガールフレンドもいるみたいだしな」
 JR の駅に着いた俺は、和田が差し出したPASMO で改札を通った。平日の午後なので、人の出入りは少ない。それでも俺たちは周囲を見回し、誰も2 人の中年男に目を留めていないことを確認してからトイレに入った。個室の1 つの隠し扉を和田が静脈認証で開け、俺たちは地下通路に降り立った。一応言っておくが、この地下通路への扉を一般人が探し出すのは無理だから、JR 駅構内のトイレを片っ端から調べるような真似は慎んだ方がいい。
 そこから俺たちが辿った経路を、ここで長々と述べるのは、退屈だろうし、面倒なので省略する。ただ、日本には一般市民が一生目にすることがない地下通路が、いくつも存在しているということだ。地下通路といっても、下水道のような不衛生で狭い場所ではなく、広々とした舗装道路が整備され、天井にはLED の照明が設置されたトンネルだ。俺たちは用意してあったEV カーで移動し、20 分後には神奈川県内の某所に到着していた。
 「おかえり」和田は俺にID カードを渡した。「局の全員がお前を待ってる」
 局の正式名称は、WWCD 日本支局だが、内部ではWWCD などという呼びにくい略語で呼ぶ人間はいないし、World Wide Claus Delivery とフルスペルでの呼称など、外部向けの正式文書にしか登場しない。俺たちはみんな、単に「局」と呼んでいた。それは今でも変わっていないようだ。
 エレベーターで地下4 階の駐車場から地下2 階に上り、俺たちはメインオペレーションセンターに入った。NASA のミッションコントロールセンターをモデルにしたという大きな部屋だ。最大収容人数は120 名で、繁忙期の現在は、PC も人間もフル稼働しているようだ。見渡す限り全てのPC の前には、ヘッドセットとスマートグラスを装着したオペレータが座っているし、タブレットを手に議論している奴もいる。
 「ボス」一人の若い男が駆け寄ってきた。「NORAD のジョンソン大佐から、4 回も連絡がありましたよ。今年の追跡計画について、大至急打ち合わせをしたいと。それから、東南アジア方面統括部長と、オセアニア地区司令からも」
 「わかった、折り返す」和田はそいつの肩を叩いて席に押し返した。「鈴木はどこだ。ここに呼べ」
 「ディフェンス班です」若い女性がスマートフォンを突き出した。「戻ったらすぐに知らせろと」
 「鈴木か、ああ、今戻った。どこにいる......いいから、こっちに来い。その目で確かめてみればいいだろう」
 数秒後、奥のドアが叩きつけられるように開き、一人の太った中年男性が、床を振動させながら突進してきた。
 「よかった」鈴木は俺の顔を見ると泣きそうになった。「チーフ、戻ってきてくれたんですね!」
 「元気そうだな、鈴木」俺は現チーフの腹を指した。「また太ったんじゃないか?」
 「ストレス半端ないですからね。もうユニクロのXL がきつくなってきましたよ。チーフは痩せましたか」
 「やつれたんだよ。いろいろと苦労の多い生活を送ってるもんでな。1 日の摂取カロリーは、きっとお前の1 割以下だよ。おい、ところで......」
 「加瀬さん」
 鈴木の巨体の陰から、ほっそりとした女性が現れて、俺に微笑みかけた。
 「やあ、エリ」俺は鈴木を押しのけた。「久しぶりだな」
 最後にあったときから、ほとんど容姿に変化がない。華奢で綺麗だ。月日が全く流れなかったかのようだ。俺はこみ上げてくる感情を必死で抑えた。
 「3 年ぶり......ぐらい?」
 エリは小首を傾げて後れ毛を直した。このクセも変わっていない。俺はエリの薬指に光るリングを見ないようにした。
 「そうだな。こいつに」俺は和田を親指で指した。「クビにされてから、3 年と2 ヵ月になるな。エリも駆り出されたのか」
 「ええ、昨日から。加瀬さんが助けを求めてるって聞いたから」
 エリはそうよね、と確認するように和田の顔を見たが、相手は気付かないふりをして、別のオペレータが差し出したスマートフォンで誰かと話し始めていた。
 「だんなと息子は元気か」
 「ええ、まあ」エリは小さく頷いた。「それなりに。少し痩せた?」
 「節制してるからな。いいのか、クリスマス前に、こんなところにいて」
 「そうも言ってられないから」
 「そのとおりだ」通話を終えた和田が無粋にも割り込んできた。「鈴木、状況を説明してやれ」

 侵入対策チーム、別名ディフェンス班は、メインオペレーションセンターとは別のコントロールセンターを割り当てられている。32 名のミッションスペシャリストの大半は、俺がここにいた頃と同じ顔ぶれで、俺が入っていくと一斉に歓迎の拍手で迎えてくれた。和田が手を振って彼らを仕事に戻らせた後、俺たち4 人はシチュエーションデスクに集まった。
 「年々、うちの局に対する妨害がひどくなってるんです」鈴木はデスク上に投影したネットワーク構成図を指しながら説明した。「去年までは、加瀬さんの作ってくれたICE ツールを改良することで対抗できてたんですが、今年はもう3 回も侵入を許してしまって。南関東地区と東海地区のデリバリープランを、丸々再構築する羽目になりました」
 「ふーん」俺はエリが淹れてくれたコーヒーをすすった。「どこからだ」
 「セガにタカラトミー、任天堂、ボーネルンド、バンダイ、オリエンタルランド、スクエニ、ネットマーブル......海外勢だと、ウォルマート、レゴ、ハスブロ、ハウンド」
 「変わらない顔ぶれだな」
 「今年はもう一つ、強力なのが参加してるんです。Q-LIC です」
 「Q-LIC?」俺が首を傾げた。「レンタルビデオ屋か。なぜだろうな」
 「あそこはいろいろクリスマスイベントやってるからな」和田が言った。「そこで満足しててほしいんだろう」
 「政治的に圧力はかけたのか」
 「やってはみたが、どうも強気だ。資本力はあるからな」
 そのとき、コントロールセンターの壁に設置されたモニタに真っ赤なアラートが上がった。
 「くそ、来やがった」鈴木が罵った。「ICE チェック、負荷チェック急げ。ハニーポット展開。8A、17C だ」
 「トラフィック、急上昇してます」報告が飛んだ。「あ、やばい。ARP キャッシュポイゾニングっぽいです。ICE が自分自身を攻撃してます」
 「ICE 停止。ポートスキャン状況は」
 「ひでえ、ひっきりなしです」
 「田村、全サーバのポートマップを再チェックしろ。やば系のポートは閉じてしまえ。報告は後でいい。ウィルスワーニングはどうだ」
 「今のところは......いや、来ました、大量です」報告したオペレータがせわしくキーを叩き始めた。「パターン解析、追いつきません!」
 俺は空いているPC に駆け寄ると、掌紋でログインした。コンソールを3 つほど起動すると、和田を振り返った。
 「最新のパスをくれ」
 「これよ」と隣の席に座ったエリが、ポストイットに書いたパスワードを、俺の手の甲にぺたりと貼った。「サポートするわ」
 「前に作ったインターセプト、憶えてるか?」
 「もちろん」
 「手直ししていくから、パターン解析プロセスへの組み込みを頼む」
 「Local Proxy?」
 「そうだ」俺はソースを開くと、ざっと眺めて記憶を蘇らせた。「権限はANY だ」
 俺は指を鳴らすと、以前にエリと二人で作ったウィルス対抗プログラムの修正を開始した。本来なら3 年前にやっておくべきだったが、その前にここを去ることになってしまったのだ。以来、頭の中で、修正ポイントをブラッシュアップしてきたから、それを再現するだけのことだった。
 「誰も触らなかったんだな、これ」
 「加瀬さんのコーディングは複雑すぎなのよ」エリが小さく笑みを浮かべた。「コメント書かないしね」
 「エリなら読めるだろ」
 「いつか加瀬さんが続きをやってくれると思ってたから」
 10 分ほどで改修は完了した。念入りにテストをしている時間はないから、本番で試すしかない。
 「ウィルス監視のゲートはどのサーバだ」
 「jn880c12t がゲートウェイよ」
 「いったんプロセスを全部落とすぞ」俺はエリの言ったサーバにリモートログインすると、ps でプロセスを表示した。「おい、ウィルス監視は誰がやってる」
 「私です」一人のオペレータが手を挙げた。
 「パターン解析を止めるけど騒ぐなよ」
 俺は関連するプロセスを順番に殺していった。壁のアラームモニタが怒ったように点滅を開始した。同時に俺が使っているコンソールの中央に女の子のCG が出現して、俺に向かって指をつきつけた。
 『あなたの行為は業務を危険にさらしています』
 「おい、何だこれは?」
 「今年から導入したAI アシスタントだ」和田が言った。「上の要請でな。権限はないから気にするな」
 エリが横からすっと手を伸ばして、いくつかのキーを押すとCG は抗議の声を上げる間もなく消え失せた。俺はkill コマンドの実行を続けた。アラームモニタの点滅が激しくなり、何人かのオペレータが困惑したように俺の方を見ている。
 「おい、加瀬」和田が不審そうな顔で近付いてきた。「何やってるんだ」
 「ちょっと待て」
 俺はインターセプト用のシェルスクリプトを探したが見つからなかった。作るのを忘れていたか、誰かが消したかどちらかだ。仕方なく、vi を起動してスクリプトを書いた。
 「よし、犬を放つぞ」
 言いながらEnter キーを叩く。焼きたてのプログラムがLAN の中に流れた。
 「またウィルス......いや」監視しているオペレータが声を上げた。「これ、ゲートウェイサーバから。チーフですか?」
 「そうだよ。心配するな」
 「いや、でも、これ、すごい増殖率ですよ」
 「わかってる」俺はパターン解析設定ファイルに、今、投入したばかりのプログラムを無視フラグを付けて登録し、再起動させた。「監視ログを見てみろ」
 オペレータは言われた通りの操作をした後、驚きの声を上げた。
 「え、なんで? 数は変わらないのに、有害対象数がどんどん減っていってます」
 「どういうことだ」和田が訊いた。「お前、何やったんだ」
 俺はエリを見た。エリの顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 「加瀬さんはウィルスを殺したわけじゃないの。ウィルスに接触して、ウィルスに攻撃対象を優先的に与えたのよ。つまり他のウィルスね。侵入してくるウィルスは、片っ端から変化させられて、新たに侵入してくるウィルスに同じ事をしてるのよ」
 俺は頷き、エリが正しく理解していることを示した。エリは昔から優秀なミッションスペシャリストだった。
 「落ち着いてきました」さっきのオペレータが安堵の表情で報告した。「ウィルスはどんどん入ってきてますが、システムへの攻撃は7% 以下です。ただ、リソース消費が半端ないみたいですが」
 「わかってる。少し待て」俺はエリの方を見た。「5% を切ったら、アポトーシスモードに変更して、通常のパターン解析に任せるんだ」
 「了解」エリはキーに触れた。「もう準備はできてる」
 「よし。そっちは任せる」俺は和田を見た。「デリバリープランの方はどうだ」
 「何とかなりそうだ。見るか」
 「そうだな。エリ、どうだ」
 「今、モード変更したわ」エリは素早くキーを叩いた。「リソース使用率も通常レベル。uptime は、0.18 よ」
 「鈴木、引き継げるか」
 「了解です」鈴木は手を挙げた。「今のログは記録しました。cron に入れておきます」
 「エリも来いよ」俺は誘った。「デリバリープラン、見たいだろ」
 「じゃ、ちょっと見せてもらおうかな」
 和田は俺とエリの顔を交互に見てから頷いた。
 「わかった。ディレクタールームのスクリーンで見よう」

 ディレクタールームは、俺のアパートの部屋より面積が広い。和田の大きなデスクの他、南側の壁に広がる大型スクリーンにPC が3 台。コーヒーメーカーまである。ここから全ての指揮を執ることもできるが、和田はメインオペレーションセンターや、シチュエーションルームにいることを好む。見かけによらず人恋しい奴なのだ。
 スクリーンにはヨーロッパを中央に配置したメルカトル図法の世界地図が映し出されていた。右上には大きく「47%」と表示されている。現在のデリバリー進捗率だ。
 俺はPC の1 台に近付いた。電源は入ったままだ。
 「いいか」
 和田が頷いたので、俺は何年も前に自分が作ったツールを起動した。スクリーンに無数の曲線や矢印、様々なアイコンが表示される。グリーンとレッドは局のデータ、パープルとブラウンは抵抗勢力による妨害や侵入の試みだ。データの流れを逆に辿ると、その全てがデンマークのコペンハーゲンに行き着く。ここにWWCD 総本部があるのだ。
 「かなり激しい攻撃だな」俺は腕を組んだ。「各国の対策は?」
 「ニューヨーク支部のダメージが大きい。ハウンドの本拠地だからな。インドネシアでも一部のイスラム教団体の抵抗が増えている」
 「日本は?」エリが訊いた。
 「日本はまだマシな方さ。お祭り騒ぎが好きな国民だからな。最近は、ハロウィーンに押され気味だが、盛り上がりはこっちの方が上だね」
 「じゃあ、今年も配信は予定通りなのね」
 「確実だ。うちの局の名誉にかけても届けるよ」
 サンタクロースが実在しないと思っている人が大勢いる。もちろん、それは間違っている。ただし、赤と白の服を着て、白いヒゲの太った中年男が、煙突から不法侵入するというのは、意図的に流布された誤ったイメージだ。
 WWCD は、今となっては起源がはっきりしないほど昔から、様々な方法でサンタクロースをデリバリーしてきた。古くはヨーロッパの各国へ。文明が発達して世界を覆うネットワークが整備されてからは全世界へ。
 デリバリーといっても、トナカイに乗せたサンタクロースを送り込むわけではない。プレゼントを届けるわけでもない。WWCD があなたたちに配信するのは、少しばかりの幸運だ。結果的に得られる幸福感と言い換えてもいい。サンタクロースは、そのコードネームだ。
 幸福感、というと、アッパー系のドラッグか何かか、と思われるかもしれないが、局が配信しているのは物理的な薬物ではない。あくまでの電子的なデータだ。さっきも言ったように、一連の暗号化された電子データを配信することで、どうやって人間に幸運を与えることができるのか、その基本的な原理が魔法なのかテクノロジーなのかは、俺にも、局の誰にもわからない。俺たちはいわばフランチャイズの加盟店で、総本部からのレシピに基づいた料理を、効率よく客に提供しているにすぎないからだ。だが、重要なのは、それが間違いなく現実である、ということだけだ。光の実体が粒子なのか波なのかがどうでもいいように、配信が滞りなく行われれば、多くの人間が幸福を感じることができ、失敗すれば人々が何となく冴えない気分のまま新年を迎えることになる。それだけが重要だ。
 幸運のデリバリーは、クリスマスシーズンに限ったことではなく、小規模だが日常的にも実施されている。あなたが恋人のちょっとした思いやりを感じるとき、カフェでおいしいケーキにありついたとき、風に飛ばされたと思った洗濯物がベランダの片隅に引っかかっていたとき、時間つぶしで観た映画に思いがけず感動したとき、直し忘れていたバグを誰かが修正しておいてくれたとき、それはひょっとしたら俺たちの配信が届いたためかもしれない。
 俺がまだ局に入る以前、デリバリーの主役はテレビとラジオだった。それより前となると、主に本が使われていたらしいが、記録が整備されていないから詳細は不明だ。現在は、個人用端末が爆発的に普及しているし、IoT も広まりつつあるので、かなり楽になった。比例して外部からの侵入リスクも増大しているのだが。
 WWCD のネットワークに侵入する組織や個人は多種多様だが、そのほとんどの目的は、デリバリーを妨げること、に尽きる。多くの場合、デリバリーを妨げることが、侵入者の利益に沿うからだ。侵入者に大手の玩具メーカーが多いのはそのためだ。彼らは、局が配信する幸運で人々が満足して、購買意欲を削がれることをひどく怖れている。幸福感で埋められなかった心の隙間を、物欲で埋めようというわけだ。俺に言わせれば、そして局の誰に言わせても、それは間近の足元しか見ていない次元の低い戦略でしかない。俺がCEO なら人々の全体の幸福感を底上げすることによる、長期的な計画を立てるのだが。
 侵入者の中には、何の目的もなく、単なる妨害行為だけをする奴もいる。なぜ、そんなことをするのか、と問われても、俺は肩をすくめてこう答えるしかない。世の中には自分の利益にならなくても、他人の幸福を邪魔したい奴らが一定数存在するのだと。そういう奴らが浸る精神世界を、俺はこれまで一度でも理解できたことがないし、今後も理解することはないだろう。
 「さてと」和田はデスクから、2 枚のカードを出して、俺とエリに1 枚ずつ渡した。「今日いっぱい有効なワンタイムパスフレーズだ。権限は前と同じだ。見ての通り、まだ攻撃は続くだろう。お前たちには、防壁を一層強固なものにしてもらいたい。明日、24 日の朝、デリバリーが終わるまでな」
 「プログラマが何人か欲しいところだな」
 俺が言うと、エリも同意して頷いた。だが、和田は首を横に振った。
 「そうしたいのはマウンテンマウンテンだが、今から確保するのは難しい。スキルの低い奴に悩まされるぐらいなら、お前たちだけでやった方が早いだろ」
 「それもそうだな」
 「コンソールはここのを使ってくれ」和田はPC を示した。「後でサンドイッチでも運ばせる。アルコールはダメだが、それ以外のドリンクで欲しいものがあったら、何でも内線してくれ。俺はセンターに戻ってる」
 和田はタブレットを掴んでドアの方に向かったが、ふと振り返ると、ニヤリと笑って言った。
 「黄金コンビ復活だな」
 俺とエリも顔を見合わせて笑った。3 年前、俺とエリは息の合ったペアだった。その年のクリスマスイブ、デリバリー網の一部が壊滅的なダメージを受け、東海地方と関西の半分への配信がクリスマスまでに完了しなかった事故が発生するまでは。俺は責任を問われて局を去ることになり、ほどなくエリも結婚して退職した。
 「じゃ、やるか」俺はPC の前に座ると、自分のカードでログインした。「どこから手をつけるかな」
 「昨日、ざっと見ておいたわ。パッケージ構造は変わってないけど、パッチが当ててある部分がかなりあるみたい。そのせいで、同じロジックを何回も通ってるとか、例外を強引に潰してるところなんかがあった」
 「まずはそこからか。よし、メインリソースへのアクセス権限は俺のカードにしかないから、ステージングの方にいくつかコピーしておく。俺は、そのパッチとやらの一覧作成から始めるかな」
 「それならもうやってあるわよ」エリはテキストファイルを開いた。「ここにまとめてあるから」
 「さすがだな。じゃ、俺は上から、エリは下から頼む。依存している部分があったら、教えてくれ」
 「了解、チーフ」
 俺たちは時々相談しながら、防壁システムの強化に精を出した。3 年前は、俺がチーフ、エリがサブチーフで、配下に7 人の優秀なプログラマがいた。鈴木もその一人だ。鈴木はプログラマとしては優秀だが、発生しそうな問題を先回りしてトラップしておくスキルについては修行中というところだ。和田もそれがわかっているから、実地で経験値を上げるために現チーフの職位につけているのだろう。
 途中、庶務の女性がサンドイッチとチキンナゲットを差し入れしてくれたので、俺たちは一休みすることにした。
 「ああ、久しぶりにモニタを眺め続けると目が疲れるな」
 「どんな生活してるのよ」
 「一言で言うなら清貧かな」
 エリはクスクス笑った。俺たちはサンドイッチをパクつきながら、互いの近況を交換した。エリは大手製薬会社で研究所の臨床開発部門職に就いている夫と、2 才になる息子のエピソードを、幸せそうな顔で話した。夫は毎日、深夜まで仕事をしていて家にいる時間が少なく、息子は喘息に悩まされているようだが、エリはそれを苦にしていないようだ。俺はアパートの下の階に住む上坂親子の話をして、エリから笑顔を引き出した。
 話が途切れたとき、エリは真顔になって口調を改めた。
 「加瀬さん、訊いていい?」
 「なんだ」
 「あのとき、どうして私のことをかばってくれたの?」
 「ああ」俺はエリから目を逸らした。「かばったわけじゃない。エリは俺の部下だった。俺が負うべき責任だ。それだけの権限が俺にはあったんだからな。権限を持つ者が責任を取るのは当たり前だ」
 「ふう」エリは小さくため息をついた。「そういう答えを期待してたんじゃないんだけどな」
 「俺がエリを好きだったから、と言わせたいのか」
 「違うの?」
 「違わない」俺は認めた。「だけど理由の全てじゃない。それだけのことだ」
 「あのとき気持ちを打ち明けてくれていたら、もしかして......」
 「もしかして、はない」何とか冷静な口調を出せた。「お前は、あのときもう結婚と退職が決まってた。俺に卒業の真似事でもやってほしかったのか」
 「そうじゃないけど......」
 「もう終わったことだ。蒸し返すなよ」俺はコーヒーを飲み干して、話を終わりにした。「続きをやろうか」
 「そうね」エリは頷くと、笑顔を見せた。「ごめん」
 「いいんだ。俺たちはプロだ。プロらしく仕事を片付けようぜ」
 俺はPC の前に戻った。エリもカップを簡単に片付けると、隣に座ってキーを叩き始めた。いつもはリズミカルなキータッチに、少し乱れが生じているようだ。今の会話が影響を及ぼしているのかもしれない。
 10 分後、和田が入ってきたとき、俺は秘かに安堵した。
 「加瀬、ちょっといいか」
 「どうした。侵入か?」
 「今のところは抑えてる。鈴木が防壁の配置で意見を聞きたいそうだ」
 「わかった」俺はエリを見た。「続けててくれ」
 エリは頷いた。その横顔には、俺と同様、和田の割り込みに安堵している表情があった。それがわかる程度には、俺はエリを知っているつもりだ。
 「いってらっしゃい」
 背後でドアが閉まると、和田が心配そうに訊いてきた。
 「どうかしたのか」
 「何でもない」こういうことには鋭い奴だ。「ちょっと昔の話をしただけだ」
 「そうか。別に席を用意した方がよければ......」
 「それには及ばない。あそこの方が落ち着くしな。一人暮らしが長いせいか、静かな場所がすっかり好きになったよ」
 「じゃあ無理だな」
 「何が」
 「クリスマスを乗り切ったら、年末に焼き肉屋で打ち上げをやろうと思ってたんだ。会費は局持ちで。お前も呼ぼうと思ってたんだが、声をかけるのはやめておく」
 「食い放題か」
 「プラス飲み放題だ。でも騒がしい場所はダメなんだろ。無理しなくていいぞ」
 「うるさい。耳栓をしていく」

 ディレクタールームに戻ると、エリはさっきの会話のことなど忘れたように、一心に仕事に打ち込んでいた。俺が隣に座ると、微笑みを浮かべて訊いた。
 「なんだった?」
 「防壁の粒度とリソースのパラメータについてな」俺は答えた。「最適値がなかなかつかめないらしいな」
 「ああ」エリは頷いた。「こればっかりは......」
 「自分で掴むしかない」
 「ねえ、このまま局に残ったら?」エリはモニタに目を向けたまま言った。「加瀬さんには、やっぱりここが合ってると思うわ」
 「エリはどうなんだ」俺は訊き返した。「戻る気はないのか」
 「主婦業と両立は難しいわね。夫はそのあたり、ちょっと古風だから......」
 エリの言葉をアラート音が遮った。
 「侵入だ」俺はヘッドセットを装着すると、メインオペレーションセンターを呼び出した。「鈴木、どうした」
 『8ヵ所、いえ、10ヵ所の海外サーバから同時攻撃です。停止してあるはずのDNS サーバを経由してブルートフォースをかけられました。開けてあるポートを選択的に狙われて......』
 「落とせないのか」
 『ユーザがどれも弾かれて......』
 「IP を教えてくれ」俺はエリもヘッドセットを装着したのを横目で確認しながら言った。「こっちの管理用ポートから入ってみる。プライベートIP からなら入れるかもしれん」
 俺は指で合図したが、エリはすでに目まぐるしくコマンドを連打している。
 ヘッドセットから、複数のオペレータの叫び声が聞こえてくる。メインオペレーションセンター内は、一気に騒乱状態に陥ったようだ。
 『2ヵ所は遮断しましたが』鈴木は、それでも比較的冷静に報告してきた。『今度は国内のサイトから攻撃です。数が半端ないので、何かのモバイル端末か、IoT 機器か。一種のボット攻撃ですね』
 「状況は把握してるようだな。よし、手が空いている奴はいないだろうが、少しでも余裕がありそうなオペレータを、デベロップメント環境にログインさせろ。汚染されたプロセスを遮断するシェルスクリプトを組んで欲しい。俺から直接指示を出す」
 「入ったわ」エリが言った。「シャットダウン?」
 「待て。まずは53 番ポートだけ閉じろ。止まらなかったら、1024 番以降で怪しそうなのを片っ端から落とせ。syslog はコピーしておくんだ。後で解析させて侵入経路を割り出す」
 「了解」
 『とりあえず2 人、そっちに回しました』鈴木が言った。『すいません、ボスに代わります』
 回線が切り替わった。
 『ハニーポットに引っかかったのが何件かある』和田は言った。『今、逆探知させているが近くだな。神奈川県内か、少なくとも都内だ』
 「どうするんだ」俺はオペレータに指示を出しながら訊いた。「ラインは落とせないぞ。落とせばデリバリープランに穴が開くからな」
 『わかってるさ。サッチョウの方から人を出してもらう』
 「物理的に落とすわけか。荒っぽいな」
 『こっちにも爪と歯が、それも鋭いやつがあることを教えてやらんとな』
 通話を切ると、エリが顔を向けてきた。
 「物理的?」
 『プロバイダなのか個人宅なのか知らんが、攻撃しているサーバを物理的に止めにいくみたいだな』
 「そう」エリはモニタに視線を戻した。「大事ね」
 「全くだな。落とせそうか?」
 「ダメね。ログインはできても、権限は全部変えられてる」
 「だろうな。syslog をコピーして落としてしまえ」
 「りょ......あ!」エリは手を止めた。「切断されたわ」
 「ログインに気付かれてシャットダウンしたか。まあいい、そっちは放っておけ。組み上がったスクリプトを流してくれ。防壁システムの方は動かせる状態になってるか?」
 「コンパイルは通したけど、テストがまだ......」
 「よし、引き継ぐ。置き換えて展開する。少しはマシになってくれるといいんだが」
 しばらくの間、俺たちは無言で対応にあたった。比喩でなく秒を争う事態だと、日本語をコードやコマンドに変換する余裕すら惜しいので、指示を出す場合でもキーボード経由の方が速い。
 俺とエリが修正していた防壁システムの最新バージョンは、ある程度有効に働き、数分だが侵入速度を遅らせる効果があった。だが、攻撃者も熟練者らしく、ミリ秒単位で自分自身のプロファイルをランダムに変換して投げてきていた。俺は時間を割いて、対抗プログラムを組まなければならなかった。およそ90 分の間、俺は席を立つこともできず、乾燥した喉を潤すことさえできなかった。和田には十分な報酬を約束されているが、超過料金を請求してやらなくては。
 攻撃開始から2 時間が経過した頃、ようやく攻撃の大半を遮断することに成功した。おかげで、緊急度の低い対応にあたっているオペレータたちが、次々に俺の指揮下に入ってきてくれた。俺は即時対応を彼らに任せ、エリと2 人で防壁システムの精度を高めることに注力した。
 『食い止めた』和田がそう宣言したのは、3 時間が経過した頃だった。『まだ攻撃は続いているが、全部遮断できている。何本かはわざと残してある。ハニーポットに誘導して情報を収集中だ』
 すでにアラートは消えていた。俺はエリと疲れた視線を交わした。
 「あっちの方は成果があったのか」俺はコーヒーカップに手を伸ばしながら訊いた。
 『主にアングラサイトを運営している管理者のサーバを何台か押収した。もちろん、奴らは踏み台にされただけだ。ログと上位プロバイダの通信記録から、大元を特定できないか試している。今年はもう大規模な攻撃はないだろう』
 「そうか、よかった。もう少し、ここにいる。まだやることが残ってるからな」
 『何か届けさせようか』
 「できれば強い飲み物がいいね」
 『わかった』
 俺とエリはヘッドセットを外した。エリは眠そうな笑みを浮かべた。
 「久しぶりだと疲れるわね」エリは首を傾げた。「やることって何?」
 「さっきの話の続きだよ」
 エリの顔から笑顔が消えた。困惑したように視線が逸らされた。
 「蒸し返すなよ、って言ってなかった?」
 「あのときはまだ確信がなかった。今はある」
 「確信って何?」
 「侵入を手引きしたのは誰かということだ」
 「え、誰?」
 俺はエリを正面から見据えた。一瞬の沈黙の後、エリは吹き出した。
 「ちょっと、何言ってるの」
 「確信はなかった」俺は繰り返した。「今はあるんだ。さっきの攻撃も、昼間の攻撃も、それから3 年前のデリバリー事故も、エリ、お前が招き入れたんだ」
 「怒ったらいいのか、気の毒に思ったらいいのか迷うわね」エリは立ち上がった。「ちょっとお手洗い。加瀬さんも頭を冷やした方がいいんじゃない?」
 エリは急ぎ足でドアに向かったが、ID カードをかざすより先にドアが開いた。立っていたのは和田だ。その両側に2 人の警備員が並んでいる。
 「すまんな、エリ」和田は優しい声で言った。「席に戻ってくれないか」
 「何なのよ......」
 「戻ってくれ」
 相変わらず優しい声ではあったが、断固とした響きが含まれていた。エリは渋々、元の席に腰を下ろした。
 「お前たちは外で待っててくれ」和田は警備員に言うと、ドアを閉めてその前に立った。「こんなことになって残念だ」
 エリの顔に朱が差した。激昂して何か言い募ろうとしたようにもみえたが、すぐに思い直したように身体をリラックスさせた。俺は秘かにため息をついた。物理的にエリを制止するようなことはしたくなかった。
 「そう」エリは落ち着いた口調で言った。「バレてたの。いつから?」
 「3 年前の事故のとき」和田が言った。「あれは外部からの攻撃ではなく、そう見せかけた内部からの工作だった可能性がある、という報告は上がっていた。あくまでも可能性にとどまってはいたが、調査班はそれが可能だとすれば、加瀬かエリのどちらかしかいない、という結論に到達していた。だが、証拠はなかったから、事故として処理するしかなく、加瀬が責任を取らされる形になったわけだ」
 エリは俺に視線を向け、すぐに逸らした。真相に気付いただろうか。
 調査チームは俺がエリのために工作を行ったのではないか、と疑っていて、その線で調査を続行しようとしていた。だから、俺は局を辞めた。俺が局を去れば、そこで調査はストップするとわかっていたから。俺は犯人がエリだと知りたくなかった。エリも退職が決まっていたから、最終的には事故だと記録されるはずだった。
 だが、今日、エリが再び局に戻ると聞いたとき、俺はエリが何をするつもりなのか、予想がついた。
 「じゃあ、私が何をやったのかも、だいたいわかっちゃったんだ」
 「ああ」俺はエリの顔を見ずに答えた。「俺を誰だと思ってるんだ」
 エリが3 年前、そして、今日やったのは、1000 人に1 人の割合で、配信データの末尾に1 行のスクリプトを挿入することだった。そのスクリプトが実行するのは、本来割り当てられるべき幸運容量の0.001% を、別の誰かに割り当てるという単純なものだ。
 「仕組みは簡単だ。配信データのレイアウトを知ってれば、誰でもできるぐらいの。ただし、配信データを編集するのは、チーフ以上の権限がいる。だから、俺が必要だった。そうだろ」
 もちろん、エリはその割り当て先が自分になるような仕組みにはしていなかった。3 年前、エリが割り当て先に設定したのは、夫の上司だった。俺は退職する前、その男のことを調べてみた。エリとは面識すらないが、エリの夫が勤務する研究所の予算を決定する立場にあった。3 年前のクリスマス後、その男の提案が承認され、エリの夫の研究所の予算が増額となったことまでは調べがついた。局の調査チームを使えば、その男にどんな幸運が舞い込んだのか調べることは簡単だっただろうが、もちろん俺はそれをしなかった。言うまでもなく、エリに疑惑が向けられる結果になるからだ。
 「今日もエリは同じことをしたな」俺は言った。「今度は誰に幸運を過剰配分したんだ?」
 エリは躊躇い、ついで諦めたようにため息をついた。
 「息子のかかってる病院の呼吸器内科部長よ」エリは顔を上げると、俺を見つめた。「詳しい事情は、まあ調べればわかると思うわ。で、どうするの?」
 「どうするとは?」
 「私の処分よ」
 「どうもしない」和田が言った。「刑事罰か何かに問われるとでも思っていたのか。ここは人々を幸福にする局で、罰する局じゃないからな。エリは二度と局に足を踏み入れることはできないが、それぐらいはどうってことないだろう。だから、もう帰っていい」
 和田が合図すると、ドアの外で待機していた警備員たちが入ってきた。
 「こいつらが外まで送る。もう会うこともないかもしれないが元気でな」
 エリは素直に頷いて立ち上がった。警備員たちとディレクタールームを出て行くとき、エリは立ち止まると俺の視線を捉えた。その瞳に浮かんでいるのが、後悔か、それとも謝罪だったのか、すぐに床に視線を移してしまった俺にはわからない。
 永久にわからないだろう。

 夜を徹して防壁の強化作業を続け、鈴木に引き継いだときには、朝になっていた。俺はオペレータたちの惜別の言葉とたくさんのハグで送り出された。和田が行きと同じルートで送ってくれ、俺たちはJR の駅から朝の街に足を踏み出した。
 「復帰しないか、加瀬」和田は誘った。「今年のクリスマスは乗り切れたが、来年はどうなることか。対抗勢力の奴らは、新しい攻撃方法を考え出すだろうからな」
 「考えておくよ」
 「つまり、答えはノーか」和田はため息をついた。「頑固な奴だな」
 「ここで失礼するよ」俺は言った。「お前の姿をリナが見ると、おかしな連中と付き合いがあると思われるからな」
 「本当に助かった」和田は俺の手を握った。「報酬は振り込んでおいた。あのアパートの家賃なら、10 年ぐらいは払い続けられるはずだ」
 「ありがとう。鈴木たちをしっかり鍛えてやってくれ」
 「メリークリスマス。またな」
 再会の言葉を返すことなく、俺は小さく手を振ると、アパートの方へ歩き出した。12 月24 日の朝だ。駅のあちこちには、サンタやトナカイ、モミの木や星などの飾り付けが、およそバランスなど考えずに施されていた。残り2 日となった今年のクリスマスシーズンを完全燃焼すべく、駅周辺の商店にはセールのポスターが貼られ、にぎやかな音楽が道行く人の足に呼びかけている。シャンパンでも飲み過ぎたのか、赤い顔でベンチに座り込んでいる中年男がいた。これから楽しいデートに出かけるらしく、頬を上気させた女の子が歩いている。両親と両手をつないだ小さな男の子が飛び跳ねている。すでに彼らには幸運が配信されているはずだった。気付かないような小さな幸運かもしれないし、人生が変わるような大きな幸運かもしれない。その結果を見届けることはできないが、俺は満足だった。
 アパートに近付くと、不動産管理会社の営業車が止まっているのが目に入った。その脇に三上が立ち、上坂親子を前にして何かを話している。
 俺は舌打ちして足を速めた。また、三上が上坂さんに家賃を請求しているのだと思ったからだ。何をしてやれるわけでもないが、援護ぐらいはできる。だが、3 人に近付くにつれて、俺は歩調を緩めた。どこか違和感がある。
 その正体はすぐに明らかになった。3 人とも笑顔だったのだ。
 「あ、カセ!」リナが俺を見つけて手を振った。
 「ああ、加瀬さん」三上も振り向いた。「どうもこんにちは」
 「こんにちは」俺は上坂さんに訊いた。「どうしました?」
 「実はですね」三上がニコニコしながら言った。「ここの大家さんから昨日、連絡をもらいましてね。銀行でやっと融資が承認されたとかで、このアパートをマンションに建て替えすることになりました」
 「それで、俺たちに立ち退けと?」
 「まさかまさか」三上は手を振って、俺の悲観的な言葉を否定した。「建て替えまでの間、今の住人、つまりあなたたちには、別のマンションで暮らしていてもらいたいということです。武蔵小杉の駅直結の高層マンションの12 階にご用意してあります。もちろん家賃は現状のままで。引っ越しの費用も負担されると仰ってます」
 「ほう」俺は少し驚いた。「それはまた」
 「また、ここの建て替え後は、優先的に入居していただきたいとのことです。家賃は少し上がると思いますが、敷金礼金なしで」
 「ありがたい話ですね」
 そう言いながら、俺は三上の表情を観察した。上坂さんが3ヵ月分の家賃を滞納していることには変わりがない。その事実に三上が一言も言及しないのは不思議だ。
 「私の方もいいことがあったんです」上坂さんが満面の笑みで言った。「以前に勤めていた会社の業績が回復して、下期から人手不足が続いていたそうなんです。で、私に1 月から復職してもらえないかと、昨日、打診がありました。待遇は同じで。そのことを話したら、滞納分の家賃はそれまで待ってもらえることになりました。本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げられた三上は、慌てたように手を振った。
 「いや、そんな。別に礼を言われるようなことでは。あ、そうだ」
 不意に三上は営業車に駆け戻ると、後部座席から会社のロゴが入ったビニールの手提げ袋を取ってきた。
 「これ」少し照れくさそうな顔をした三上は、手提げ袋を上坂さんに渡した。「会社のお得意様向けにお配りしているものなんですが、余ったのでよかったら」
 上坂さんは手提げ袋を開けた。リナが小さく歓声を上げる。中にはセロファンに包まれてリボンが掛けられたシュトーレンの包みと、ケンタッキーのパーティバーレル引換券、シャンメリーの小瓶、クリスマスカードなどが入っていた。
 「ありがとう、ミカミ」
 「こら、リナ」上坂さんが娘の頭を優しくこづいた。「三上さん、だろう」
 「いいんですよ」三上は笑いながら、リナの頭を撫でた。「じゃあ、これで。書類は年明けにお届けしますから。メリークリスマス」
 俺たちは手を振って、営業車で去って行く三上を見送った。
 「ねえ、カセ」リナが俺を見上げた。「借金取りの人は?」
 「あいつか。話したらわかってくれたよ」
 「しっかり働かなきゃダメよ」
 「全くだな」
 「加瀬さん」上坂が手提げ袋を持ち上げた。「せっかくだから、今夜、一緒にどうですか。私、後で、チキンをもらってきますから」
 「いいですね。じゃ、俺は何か適当に食い物と飲み物を持っていきます」
 「あたし、プリンがいい!」
 俺はリナの要求に応えることを約束し、グータッチの挨拶を交わしてから、階段を上がった。夜まで一眠りするつもりだった。
 このちょっとした幸運が、和田の配慮によるものなのかどうかはわからない。和田に問い質しても否定するだろう。素直に受け止めておくのが一番いい。俺は、和田に、エリに、局のオペレータたちに、上坂親子に、三上に、等しく幸運が訪れることを祈った。
 部屋に戻った俺は、布団の中に潜り込んで目を閉じた。すぐに安らかな眠りが訪れてくる。疲れ切った俺にとっては何よりの贈り物だった。

(終)

Comment(29)

コメント

愛読者より

鈴木の巨体の陰から、ほっそりとし て 女性が現れて、俺に微笑みかけた。

32 名のミッションスペシャリストの大半は、俺がここにいた頃 を 同じ顔ぶれで、俺が入っていくと一斉に歓迎の拍手で迎えてくれた。

それより前となると、主に本 を 使われていたらしいが、記録が整備されていないから詳細は不明だ。

メリークリスマス!

俺がここにいた頃を同じ顔ぶれで
を→と

匿名

素敵なクリスマスプレゼントをありがとうございます。

yupika


 「プログラマが何人欲しいところだな」

→何人か

かな。メリークリスマス

メリークリスマス

加勢 → 加瀬

加瀬さんなのか
加勢さんなのか
気になるw

リーベルG

みなさま、どうも。
誤字が多くてすみません。
「加瀬」が正しいです。

匿名

登場するボロアパートレベルの物件で武蔵小杉近辺だと
本当に5万くらいのぼったくり家賃だから笑えない。
(川崎・横浜境界の他地域では3万以下です)

Dai

> オペレータ
> オペレーター

メリークリスマス

匿名

嬉しいクリスマスプレゼントをありがとうがざいました!

匿名

嬉しいクリスマスプレゼントをありがとうがざいました!

al

ドリカム?

うーん

他人様に押し付けられる幸せなんて望んでないなあ…酸いも甘いも自分の物、他人様に触られたくないね
というかこれ自分の運だと思ってたものが実はお上から頂戴していたものって、すっごいディストピアだ

匿名

仮想通貨の採掘機が1%持って行くような発想ですね

aoi

本音を言えば本編の続きが読みたいですが、ハッピーエンドまで一気に駆け抜ける物語もよいですね。

>ウィルスワーニング
ウォーニングだと思いますが、日本語としては「ワーニング」で正解ですかね。

atlan

去年のお話と微妙に繋がってるけど別のお話ですね

あちこち結んだ地下通路かぁ・・・・工事大変そうだなぁ

user-key.

ATPの大規模な作戦は来年まで、オアズケかなぁ。

匿名

1000人に1人から0.001%だと、母数が1億人でようやく1人分の幸福
幸福の増加量と実際の効果の関係がどれほどの物がわかりませんが、これだけのリスクを犯して「普通の人の2倍ツイてる」程度ではちょっと控えめ過ぎな気がします

育野

WWCD=WorldWide Cristmas Delivery なのかな?
「ささやかな」幸せが思ってたより大きかった(笑).メリークリスマス.
ちょうど今朝のニュースでやってましたが,母子家庭(父子も含む?)の 3.6% は「クリスマスが来なければいい」と考えているとか.現実は無情です.
設定にこだわるのは無粋なのだけれど,この組織がデジタル化されたのがいつ頃なのか,リーベルGさんに聞いてみたい.

匿名

クリスマスはいつもの番外編ですね。パターン青です!みたいなのがあって面白かった。

育野さん
本文によればWorld Wide Claus Deliveryだそうですよ

無粋なのは承知で

フィクションなのは言うまでもないと思うんですが、ハウンドとQ-LICはともかく、それ以外のゲーム会社とかおもちゃ会社とかテーマパークとか実在の企業を悪役として出しても大丈夫なんでしょうか(普通、名前をもじった架空の会社にすると思うんですが)

大丈夫

大丈夫だよ

かずにぃやん

面白かったです!侵入を受けてる場面でどうしてもエヴァの司令室みたいなのを想像しちゃいますねwとかく刺激をもとめがちな時代ですが、ほのぼのエンド、自分はとても良かったです。歳をとったって事でしょうかねぇ

user-key.

>これだけのリスクを犯して「普通の人の2倍ツイてる」程度ではちょっと控えめ過ぎな気がします
作者はきっと、遠回しに普通預金の金利低すぎと言いたいのでしょう。

コバヤシ

>どうしてもエヴァの司令室みたいなのを想像しちゃいます
わかります!自分も想像してましたw

途中まで「サンタさんの効率的な世界の周り方をサポートする団体の話かな?」と思いながら読んでいましたが全然違いましたね。おもしろかったです。

つき

ありがとうございます。面白かったです。

SQL

いつも楽しみに読んでいます。
今回も面白かったです。

1点だけ。

無遠慮に部屋の中をジロジロと見ました。

無遠慮に部屋の中をジロジロと見回した。

リーベルG

SQL さん、ご指摘ありがとうございました。

育野

>匿名さん(2017/12/25 18:22)
読み落としてました.ご指摘感謝です.
(訂正)
>母子家庭(父子も含む?)の 3.6%
3.6%→36%
ラジオニュースの聞き間違です.寝起きで耳に入った情報の記憶なんてこんなものか(苦笑).
母子家庭限定とはいえ悲しい数字だと思います.

コメントを投稿する