ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

ハローサマー、グッドバイ(42) 後処理

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 目覚めるとブラウンアイズの瞳が目の前にある、という経験を、これまで2 度した。意識が戻ったとき期待したのは3 度目だったが、あいにく、ぼくの近くにいたのは仁志田さんだった。しかも、ぼくの方を見てさえいない。

 「あの......」

 「おはようナルミン」背を向けて何かをしていた仁志田さんは、肩越しにちらりとぼくを見た。「気分は?」

 「よくないです」

 「それはいい兆候ね。はい、水分と電解質を補給して」

 ぼくの顔の横に経口補水液OS-1 のペットボトルが置かれた。掴もうとして左手に包帯が巻かれていることに気付いた。いくつか重大な質問をしなければならないのはわかっていたが、今、一番の関心事は乾ききった身体に水分を送り込むことだ。ぼくは右手でペットボトルを掴んで、キャップをむしり取るように外すと、一気に喉の奥に流し込んだ。

 「おいおい」仁志田さんが注意した。「がぶ飲みしないの。ゆっくり噛むように......」

 そんな言葉など耳に入らなかった。よく冷えていることに気付いたのでさえ、3 分の2 が身体に染みこんだ後だ。ぼくは、ほとんど息継ぎもなしに、500ml のペットボトルを空にすると、大きなため息をついた。頭が少しクラクラしたが気分は悪くない。

 とりあえずの身体的欲求が満たされると、状況への興味が蘇ってきた。身体を起こして周囲を見回す。まだトンネルの中にいて、地面に敷かれたキャンバス地のような厚手のシーツの上に寝かされていた。点滴台が立っていて生理食塩水の点滴が左腕に繋がっている。隣に寝かされているのは臼井大尉で、BIAC のような機器を頭に装着され、接続したタブレットを仁志田さんが操作していた。その向こうに小清水大佐と藤田が、やはり点滴に繋がれて眠っている。あちこちにLED ランタンが置かれ淡い光を放っているおかげで、シールドトンネル内はマジックアワーのような薄明かりとなっていた。

 様子を訊こうとしたとき、ブラウンアイズが現れた。

 「おはよう。気分は?」

 「よくないけど、悪くもないね」ぼくは壁に背中をつけて上半身を起こした。「今、何時?」

 「もうすぐ14 時よ。1 時間ちょっと寝てたわね」

 「えーと、ぼくは、つまり......アレには......」

 「ならなかったわ」ブラウンアイズは小清水大佐と藤田の方に視線を投げた。「あの2 人もね。8% に入らなくてよかったわね」

 ミルウォーキー・カクテルの成功率は92% だ。10 人に1 人は助からない可能性がある。それを思うと少し背筋が寒くなった。

 「にしても、すごい悲鳴だったわね」ブラウンアイズはニヤニヤした。「押さえるのが大変だった。情けないわね、ホントに」

 「あれ、ブラちゃん、そんなこと言っていいの?」ぼくが抗議する前に、仁志田さんが振り向いた。「あんただって、ラトビアのウラジシェフ作戦でドジ踏んで噛まれてカクテル打ったとき、すごい悲鳴上げてのたうちまわってたわよ。おまけに、おも......」

 「わー!」ブラウンアイズは大声を張り上げて遮った。「どうでもいいでしょ、そんな昔のこと」

 仁志田さんは笑いながら立ち上がると、小清水大佐の方へ歩いていった。ぼくはブラウンアイズの顔を見つめた。少し頬を赤くして明後日の方向を見ている。

 「悲鳴上げて、のたうちまわった?」ぼくは追及した。

 「......」

 「それから何だっけ、おも......」

 「もう一度気絶したい?」ブラウンアイズは拳を固めた。「それより状況を説明して欲しくない?それとも何か食べる?」

 「食べながら状況を聞きたい」

 ブラウンアイズは近くにあった小さな袋から、ビニール袋に包まれたサンドイッチを取り出すと、紙パックのオレンジジュースと一緒に渡してくれた。急に胃が痛くなるほどの空腹に気付き、ぼくは包装を破るのももどかしく、ツナサンドにかぶりついた。

 「あっちの通路側は」ブラウンアイズは指さした。「さっき全員でZを拘束してきれいにした。リフトを強引に動かして上昇させて、地上に出してある。でも、また降りてくる可能性もあるから、とりあえずEV ヴァンとH 型鋼で防壁を作ってるところ。たぶん後日、工作部隊を派遣して、塞ぐなり、扉をつけるなりするんじゃないかな。後は、監視装置や警報装置の設置や、トンネル内の安全確保検索をやるだけ。後顧の憂いを断つ、ってことね」

 後処理か。ぼくはそう思いながら、サンドイッチをあっという間に平らげ、オレンジジュースを一気に飲み干していた。そんなはずはないのだが、瞬時に消化されてエネルギーに変わり、沈滞していた血流が再び流れ出したような爽快感がある。

 「後、どれぐらい?」

 「30 分もかからないと思うわ。終わったらナイトウォッチ小隊を残して基地に帰還する。もう少しの辛抱よ。オペレーションMM も終わりってことね。いい報告書を提出するってわけにはいかないけど」

 そう言いながら、ブラウンアイズは何気ない仕草で手を伸ばして、ぼくの首筋に触れた。どきっとしたが、装着したままのヘッドセットの電源が入れられただけだった。すぐに仮想モニタが開き、急ごしらえのソリストが、まだ稼働していることがわかった。

 『ちょっと聞かせたくない奴らがいるから』ブラウンアイズが言った。『こっちで話すわ』

 次の瞬間、怒濤のように情報が流れ込んできた。

 オペレーションMM 部隊からの連絡が途絶え、それが単なる技術的な問題である可能性が低くなった時点で、港北基地ではちょっとした騒ぎになっていた。早速、JSPKF はサーチ&レスキュー部隊を送るべく準備を開始したが、臼井大尉が予想した通り、思いついたらすぐ出発、というわけにはいかなかった。JSPKF の任務は、Zの侵入を防ぐためのパトロール任務が主だ。即応部隊は24 時間待機しているが、あくまでもZの侵入が発生したときに対応する最低限の装備しかない。ツルミ防衛ラインを超えて封鎖区域に入るには、内閣官房長官の許可や、地元警察、人権監視委員会との協議が必要となる。JSPKF といえども、好き勝手に封鎖区域に出入りすることはできないのだ。内閣直轄の組織ということは、大きな権限を持つことではあるが、逆に言えば銃弾1 発、タイヤ1 本であっても、購入や調達には、稟議書と印鑑が必要になる。

 関係各省との交渉が急いで開始され、JSPKF 内はスムーズに通過したが、政府の関係者からは「単なる通信トラブルかもしれない。もう少し事態の推移を見守ってはどうか」という意見も出て難航していた。大山鳴動して鼠一匹、という結果になったとき、責任を負うことを嫌ったのだ。また、車両や装備、部隊編成にも、かなり時間がかかることが予想された。通常、封鎖区域への遠征は、1 個中隊、つまり4 個小隊以上の人員と、支援車両3 台以上で構成され、その準備には数週間を要するのが常だ。最小構成のオペレーションMM でさえ、ソリスト以外の装備を調達するのに2 週間を要している。緊急事態ということで、多くの官僚的な手続きのいくつかは、事後承諾という形でスキップすることができたが、それでも全ての準備が整うまでには、少なく見積もっても7 日間が必要だと思われた。

 ところが、その見積を大幅に短縮させる3 つの出来事が発生した。

 1 つめは、ぼくがJSPKF 公式HP の掲示板に書き込んだメッセージだ。運良く、ぼくが書き込んだ日の夜に担当者がチェックし、「ジャバウォック」の文字に注目した。「指揮車両破壊、1 人死亡」というメッセージと、アクセス元がみなとみらい地区であったことで、単なる通信トラブルという可能性が消え、オペレーションMM 隊が危機的状況にあることが明らかになった。これで、慎重論を唱える人間の数をかなり減らすことができた。

 2 つめは、人権監視委員会が神奈川県警と合同で行っていたヘッドハンターの摘発だ。以前から、両組織はそれぞれの思惑からヘッドハンターの組織を追っていたのだが、なかなか成果を上げることはできなかった。ところが、数日前、匿名の通報により、ハンティングを開催していた主催者が逮捕され、西川らが大量の火器と弾薬を持ってみなとみらいに向かったことを自白したのだ。さらに、鶴見川を秘密裏に越えるルートの存在も明らかになった。そのことを知らされたJSPKF は、最小構成のサーチ&レスキュー部隊を、安全に派遣するルートとして活用することにした。

 3 つめは、事情を知ったハウンド日本支部が、車両と人員の提供を申し出てくれたことだ。たまたま都内でZ講習を受けていた、ハウンド・インターナショナル・セキュリティ・サービスの実働部隊16 名と、ハウンド日本支部が所有していた兵員輸送車両2 台。さらにJSPKF へのセールスプロモーション中だった、レスリーサル火器のサンプル品。これらを全て無償で提供してくれるという。

 『ほら』ブラウンアイズは視線をEV ヴァンの方に向けた。『あっちの方にいる青とグレイのデジタル迷彩の奴らがいるでしょ。あれがHISS よ。セキュリティサービスなんて言ってるけど、警備会社なんて表の顔。実態はハウンドの荒事専門部隊で、ごろつきの集まりよ』

 ハウンドが単なる親切心や義侠心で、車両と人員を提供してくれるはずがない。ハウンドの社員が全員悪人だとは思わないが、企業である以上、利益を追求するのは生存本能のようなものだ。ハウンドにとって、マーカーから収集したデータが重要なものだとすれば、その回収を島崎さん1 人に委ねるのは、あまりにも危うい。2 重3 重にセーフティネットを用意しておくのが当然だろう。ボリスは全容を知らされていなかったようだが、残ったタブレットにもかなり重要なデータが残されていたのかもしれない。

 ぼくがそう言うと、ブラウンアイズは頷いて同意した。

 『間違いなく本当の目的はタブレットよ。出発は今朝11 時だったそうだから、島崎の任務が失敗したことは当然知ってるはずだしね。おっと』

 ブラウンアイズは言葉を切った。ヘッドライトを付けたままの車両の方から数人が歩いて来るのが見えたからだ。

 『あんたにマイクロマシンを投与したことと、ソリストを再構築したことは、ハウンド側にも伝えてある』ブラウンアイズは立ち上がり、ぼくから視線を逸らしながら早口で告げた。『島崎の件は向こうも知ってるはずだけど、お互い触れないようにしてるから。暗黙の了解ってやつね』

 ブラウンアイズは一歩下がって場所を空けた。代わりに視界に入ってきたのは、サンキストとJSPKF の女性隊員だ。サンキストと頭が並ぶほど背が高い。その後ろからハウンドホールディングス日本支部のキーレンバッハ氏とデジタル迷彩を着た大柄な筋肉質の男が続く。

 「鳴海さんね」女性隊員が手を差し出した。「第7特殊作戦群グラスソード中尉よ。話はだいたいサンキストから聞いたわ。おつかれさまでした」

 「どうも」ぼくは手を握った。「確かに疲れました」

 「鳴海さんのおかげで仲間の被害を少なくすることができました。改めて、臼井大尉や谷少尉、柿本少尉に代わって感謝します。あっちの通路を塞ぐ作業が終わったら、速やかに基地に帰還しますので、もう少しだけお待ちください。その間に、ハウンドの方が少し話をしたいとのことですが、よろしいですか?」

 「鳴海は疲れてるんです」サンキストが言った。「大活躍でしたからね。基地に帰還してからではいけないんですか?」

 「まあ、いろいろ上から言われてるから」グラスソード中尉はなだめた。「鳴海さんは、形の上では佐分利の依頼でテストに参加しているわけだから、ハウンドの雇用下にあると言える。民間人である以上、JSPKF が拒否することはできないわよ。鳴海さん、できるだけ短い時間で終わってもらいますから」

 ぼくは頷いた。場違いなスーツ姿のキーレンバッハ氏が進み出た。

 「鳴海さん、でしたね」キーレンバッハ氏は軽く頭を下げると、ぼくの脇に膝をついた。「ソリストの件では、いろいろお世話になったようで、ありがとうございました」

 「いえ」

 ぼくは短く答えた。HISS の男が何かを探るような目でぼくを見つめていて、キーレンバッハ氏よりもそちらの方が気になる。

 「ボリスが持っていたタブレットですが」キーレンバッハ氏は早速質問を開始した。「中を見ましたか?」

 「はい、まあ、一応、ざっとですが」

 「その中に何か大きなデータはありましたか?」

 マーカーのデータのことだろう。ぼくは頷いた。

 「ありましたね。4GB ぐらいのデータがたくさん。中身までは見ていませんが」

 キーレンバッハ氏は目を細めた。

 「そのデータファイルをコピーしていませんか?ワイルドカード権限を持っていたのなら、できたはずですね」

 「できたとは思いましたが」ぼくは肩をすくめた。「別に興味なかったので」

 「鳴海さん」キーレンバッハ氏は身を乗り出した。「そのデータは、我々にとって重要なデータなのです。コピーがないのは絶対に確かでしょうか?あなたはエンジニアですね。しかも、話を聞いた限りでは、とても優秀な。優秀なエンジニアなら、バックアップを取ることを忘れないものです。そうじゃありませんか?」

 「ちょっと」ブラウンアイズが割り込んだ。「失礼じゃないの。鳴海は知らないって言ってるでしょ」

 キーレンバッハ氏はブラウンアイズを無視したが、話題を変えた。

 「ソリストのソースを、いろいろ読んだそうですね」

 「そうです。ソリストの不具合を修正するために必要だったので」

 不具合、という言葉をわざと強調した。キーレンバッハ氏の顔がひきつったが、出てきた声はあくまでも冷静だった。

 「そうですね。ありがとうございます。それで、その中に、何と言うか、ソリストの通常機能とは異なる機能がありませんでしたか?」

 「何のことを仰ってるのかわかりかねますが」

 キーレンバッハ氏が言っているのは、ワクチンプログラムのことだろうが、こちらからわざわざ言及する必要はない。

 「本当ですか?」

 「本当です」ぼくはキーレンバッハ氏の目に向かって言った。「こちらからも、1 つ訊きたいことがあるんですが」

 「何でしょう。私でわかることでしたら」

 「島崎さんのことです」

 ぼくが口にした固有名詞によって、その場にいた人々の間に緊張が走った。グラスソード中尉だけは、意味がわからなかったようで、きょとんとした顔で、サンキストやキーレンバッハ氏の顔を交互に見ていた。

 「確か」感心したことに、キーレンバッハ氏の口調は少しも変化していなかった。「佐分利のヘルプデスク要員の方でしたか。不幸な事故でお亡くなりになったと聞きましたが、それが何か?」

 『鳴海』サンキストが表情を変えずに言ってきた。『何をする気だ?』

 「籠城しているときのことなんですが」ぼくは言いながら、キーレンバッハ氏の表情を観察した。「島崎さんは佐分利のドイツ支店の人だと聞いたんです。ハウンドのキーレンバッハさんとは、昔からの知り合いだとか言っていたんですけどね」

 後半はウソだが、その真偽を確かめる術を持たないキーレンバッハ氏は、思わず視線を泳がせた。隣にいるHISS の男が、獰猛な肉食獣のような視線で睨んできたが、少しも怖くなかった。この3 日間の体験に比べれば、こんな筋肉バカのハッタリなど、カッコの閉じ忘れ程度の脅威でしかない。

 キーレンバッハ氏は強張った表情を浮かべた。

 「何か勘違いされたんじゃないでしょうか。私と島崎さんは、港北基地で顔合わせしたときが初対面ですよ。それが知りたいことですか?」

 「いいえ。実は出発前に」ぼくはゆっくり言った。「生還したら、特別ボーナスが出る、と島崎さんから聞きました。それは今でも有効なんでしょうね?」

 「え?」キーレンバッハ氏は一瞬、呆気に取られた顔になったが、すぐに微笑を浮かべた。「ああ、ええ、もちろんです。我が社が保証します」

 「安心しました」ぼくも微笑んでみせた。「島崎さんだけが知っている話だったら、と思って、ちょっと不安だったんですよ」

 「それだけですか?」

 「ええ」これで、金の亡者とまではいかなくても、買収可能な人間だと思ってくれればいいんだが。「もちろんです」

 「確認ですが、本当にタブレットのデータのコピーはないんですね?」

 「ありませんね。タブレットは見つかってないんですか?」

 「ああ、ないね」サンキストが答えた。「たぶん、このどこかの鉄骨の間にでも挟まってるんだろうな。今、探している時間はない」

 「そういうことだそうです。いつか見つかるといいですね。大事なデータが入っていたんでしょうから。ボリスさんも大切にしていましたしね」

 キーレンバッハ氏は失望したとしても、それを表には出さなかった。この場で追及しても得られるものはない、と考えたのかもしれない。礼を言って立ち上がった。HISS の男が手を貸そうと身をかがめ、ぼくにだけ聞こえるような声で囁いた。

 「おい、お前。見張ってるからな」

 ぼくが相手の顔を見たとき、ブラウンアイズが風のように動いた。ぼくと男の間に割り込み、その足を思い切り払う。男は小さく叫んで、あっけないぐらい無様に転倒した。男の手を掴んでいたキーレンバッハ氏も引っ張られてよろめいたが、こちらはかろうじて足を踏ん張り姿勢を保った。

 「てめえ!」

 男は叫びながら素早く跳ね起きると、腰のホルスターに手を伸ばしたが、すぐに動きを止めた。ブラウンアイズがUTS-15J の銃口をまっすぐ男の顔面に向けていたからだ。藤田が通路側に投げたやつだ。無事に取り戻したらしい。もちろん装填されているだろう。

 「失礼」ブラウンアイズはニコリともせずに言った。「足がからまっちゃって。鳴海はあたしたちの仲間だから、あんたのくさい息で具合を悪くしたらと思うと、ちょっと焦ったもんだから」

 「ふざけやがって......」

 男の叫び声に反応したのか、HISS の仲間が周囲から駆け寄ってきた。いずれもUTS-15J に似た銃を手にしている。それを見てバンド隊員たちも集まってきて、ブラウンアイズの左右に展開した。2 つの武装集団は、互いに非友好的な視線を交わしあった。

 「おい、お前ら」サンキストが落ち着いた声で言った。「落ち着け、ちょっとした行き違いがあっただけだ」

 「カトー」キーレンバッハ氏も、きつい口調で男に言った。「何をやってるの。下がりなさい」

 カトーと呼ばれた男は、ペッと唾を吐き捨てたが、言われた通りに下がっていった。もっとも去り際に、ぼくとブラウンアイズに憎悪の視線を突き刺していくのだけは忘れなかったが。それを見て銃を持つ男女も散っていく。テンプルなどは、引き金を絞る結果にならなかったことが残念そうな顔だ。

 「さて」グラスソード中尉が何事もなかったように言った。「そろそろ出発するか。これで賭けは、うちのチームの勝ちだわ」

 「賭けって?」サンキストが訊いた。

 「あ、言ってなかったか。うちのチームは地下から来たんだが、何しろ通ったことがないルートだからな。ヘッドハンターから聞きだした情報というのも不確定要素だ。だから地上からもこっちに向かってるんだよ。戦術支援車両3 両、2 個中隊だ。同じぐらいの時間にセキチューに到着する予定なんだが。先にお前たちと接触できた方がビールをおごってもらうことに......」

 「地上を?」サンキストは緊張した顔でグラスソード中尉に詰め寄った。「地上を通ってきてるんですか?」

 「あ、ああ」グラスソード中尉は驚いて後ずさった。「何が......」

 「装備は?通常のA-2 装備ですか?」

 「そうだが......」

 「すぐ連絡を」サンキストは叫んだが、すぐに下を向いた。「いや......もう遅いか」

 「どういうことだ?」グラスソード中尉は訊いた。「途中に中継器を設置してきたから、基地経由なら連絡は取れるが」

 「今、みなとみらい周辺は、D 型であふれてるんですよ」サンキストは陰気な声で告げた。「十中八九、地上部隊は全滅しているはずです。いや、全滅してるならまだいい。生き残りが港北基地に戻っていったら、D 型を引き連れていくことになる。俺たちが状況不明な地下ルートで帰還することを選んだのも、それが理由なんです」

 「ダガー!」グラスソード中尉は近くにいた隊員に命じた。「すぐ地上部隊の安否を問い合わせろ。緊急だ」

 命じられた隊員は装甲車両の方に走っていった。グラスソード中尉はサンキストに向き直った。

 「説明しろ。D 型のことなど聞いてないぞ」

 「そっちの方々の方がうまく説明してくれると思いますよ」サンキストはキーレンバッハ氏とHISS の男の方に顎をしゃくった。「何が起きてるのか、正確に予想していたはずですからね」

 「どういうことです?」グラスソード中尉はキーレンバッハ氏を睨んだ。「D 型の大量発生について何を知っているんですか?」

 キーレンバッハ氏は無表情だった。

 「何を仰っているのかわかりかねますが」

 グラスソード中尉が険悪な表情になったとき、さっきの隊員が走ってきた。

 「中尉。30 分ほど前から、地上部隊とは連絡が途絶しているそうです。逆に、こちらで何か掴んでいないかと」

 「確認中だ。折り返すと言え」グラスソード中尉は別の隊員を見た。「安全確保措置は?」

 「あと数分で終わりそうです」

 「よし、すぐ帰還の準備だ。負傷者は2 号車へ。残りは1 号車へ。ナイトウォッチ隊のテント、弾薬、食料を再チェック。無線のバッテリーも再チェックしろ」

 命令一下、バンド隊員たちは忙しく動き始めた。ぼくはブラウンアイズの腕を掴んだ。

 『ソリストのケースをぼくと同じ車に載せてくれないか』

 ブラウンアイズはぼくの目を見て、指でOK サインを作った。

 まもなくぼくは、臼井大尉、小清水大佐や藤田と一緒に、エアコンの効いた装甲車両内に運ばれて寝かされた。胡桃沢さんや朝松監視員は別の車だ。隊員たちは分散して乗り込み、ブラウンアイズも別の車に乗ってしまった。

 「出発だ」

 グラスソード中尉が命令した。後に残る数名の隊員が手を振って見送る中、ぼくたちはみなとみらいから離れて、鶴見川の北側を目指して進み始めた。

 「基地までどれぐらい?」ぼくは近くに座った隊員に訊いた。

 「そうだな」隊員は少し考えた。「行きは中継機を設置しながら、時速10 キロぐらいで走ってきたんだ。勝手のわからない道でスピードを出すのは危険だからな。帰りはそんな必要はないから、スピードを上げて行く。たぶん60 分以内で到着するんじゃないかな」

 その言葉通り、すぐスピードが上がった。ぼくは目を閉じて、感覚を遮断した。

(続)

Comment(21)

コメント

名無しさん

そのまま無事生還して幕かと思ったら
もう一波乱ありそうな雲行きですねぇ

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伏線、もう全部使っちゃいましたっけ?
でもスーパーハカーナルミンがソリストをアレしてD型は管理できるようになるから大丈夫
ついでハウンドの奴らもどうにかなるのかしら

user-key.

「数日前、匿名の通報」って、予定に反して引き返して来なかったから、ハウンド側が通報したのかなぁ?

へなちょこ

いいねぇ。
無事生還で大団円と思わせておいてひと騒動。
ジェームズ・キャメロン監督が良く使う手だけど、
読んでる方は、物語の終了を惜しんでいるところだからすごく得した気分。

msfabrique

>>キーレンバッハ氏も、きつい口調で男に言った。「何をやってるの。下がりなさい」

お姐言葉ぇ

あと、グラスソードさんも急にオトコ言葉になったりと混乱

てか俺の読み込みが間違ってる?

BEL

アヤコ・キーレンバッハさんは女性ですね。

msfabrique

失礼しました!

dai

「安全確保検索」とはその筋で使われる言葉なのでしょうか?

グラスソードさんは草薙素子少佐からかな。

LEN

消防用語では「(救助)人命検索」というものがあり、火災や事故の現場で要救助者の有無と所在の捜索する事をそう呼んでますね。
そこから派生して、安全確保の為にZの有無と所在を捜索するという意味の造語としてJSPKF内部で使われているのかもしれません。

cerise

毎週楽しみに拝読しています。
そろそろ終わってしまいそうで、どう終わるのか楽しみな反面、
終わってしまったあとのことを考えると少しさみしいです(気が早すぎ

ところで、キャンパス地→キャンバス地、でしょうか。

L

ブラちゃんに吹いたw ブラちゃん可愛いw
しかしソリスト便利だなー。無言のままでこんなに多くの情報をやり取りできるんだから、プログラマーじゃなくても欲しいかもw

ROMらー

地上では谷少尉がZを撒いてるので合流して状況を把握していればいいんですが、
状況からしてそんな期待も裏切られてしまうのかな。
安堵から一転、不安を抱える一週間になりそうです(笑)

daiさん
「安全確保検索」は造語です。LENさんの仰る通り、消防用語の「検索」からです。

ceriseさん
 ご指摘ありがとうございます。

たか

毎週楽しみにしています。
私の中で期待する落とし所が出来ました。
スーパーナルミン、D型に負けるな!

TATAPA

毎週楽しく読んでます。いろいろ気になり来週が待ち遠しいのですが、何よりも谷少尉の再登場の有無とずーっと置物になってしまってる臼井大尉の見せ場?が今後あるのか気になります。

SIG

救助が間に合って生還、で終わりならばノーマル・エンド。
隠しフラグが揃って、トゥルー・エンドへの扉が開く、といった趣か。

ずっと一緒だったブラウンアイズと、違う車に乗って帰路へ……
いやな予感が当たらないことを祈るばかりです。

p

これからはゴロツキのことカッコの閉じ忘れって呼ぶことにしよう。略記で(。HISSは((((。
つまりゴロツキとは実はLispで書かれていた…?

まあそれはいいとして、買収可と思わせるのはどういう意図だろう。後で金を積んできた時に拒否することで相手に本当に何も知らないのだという偽の確証を抱かせるためかな。

最後に一波乱あるのいいですね。地上部隊も気になるし、((((もどう出てくるか気になるし。
あとソリスト本体の横で感覚遮断して目を閉じる鳴海さんの姿が、なんかもう二重の意味でGuruって感じで面白いです。

kou

HISSはパトレイバーのシャフトセキュリティサービス(SSS)を連想しちゃいますね。

変態A

ブラちゃんのカクテル注射後の状況描写をもっと詳しく
(*´д`*)ハァハァ

ナンジャノ

鳴海さんが目を閉じたのは、ラズパイ内ソリスト内のワクチンプログラムを探すためじゃないかな。見た目は負傷者だが、ワイルドカード権限があるし、仮想環境で作業をすれば、60分でもいろいろできるはず。納品されたとしてもソリストにはワクチンプログラムは含まれないし、やるなら今しかない。D型の大群を止めて、ブラウンアイズを含むバンド隊員たちを救えるのは、ナルミンしかいないぞ!

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