ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

鼠と竜のゲーム(15) レス・ザン・ゼロ

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 「……また機会あれば、よろしくお願いします」

 タカシは丁寧な口調で会話を終えて受話器を置くと、起こりえない奇跡を期待するかのように、しばらく電話機を見つめたまま顔を上げようとしなかった。有限会社アクアシステムの2人の被雇用者は、不安そうな顔で社長を見た。

 「ダメだった」ややあってタカシは2人の顔を交互に見ながら、苦々しい表情で言った。「サイト制作はそのまま他社に引き継ぐから、現状のソース一式を納品物としてほしいそうだ」

 「そうですか」

 経理事務を担当している中村シゲルがため息をついた。タカシが前に勤務していた会社の2年後輩で、アクアシステムを立ち上げたとき、一緒についてきてくれた仲間だ。

 「これで、正式に受注している案件はゼロになりました」シゲルは肩をすくめた。「会社創立以来ですね、この状況は。いや、あのときはまだ前途洋々という感じだったから、今に比べればまだマシだったわけですけど」

 「すまん」タカシは頭を下げた。「おれのせいだな」

 プログラマの前嶋ノリヒロは、何も言わなかった。対人コミュニケーション能力には欠けるが、Java、.NET、C++、PHPの他、Office系のマクロや、ActionScript、Linuxのシェルなどもこなす貴重な戦力である。時に給与の遅配が発生しても、文句ひとつ言わずに黙々とキーボードを叩く26歳だった。専門学校を出てから、いくつものIT系企業を転々とした後、ここに落ち着いている。

 「取りあえず来月末は、ヴェル・ウェディングさんと、櫻田カレッジさんからの入金があります」シゲルは画面をスクロールしながら言った。「渋沢事務機さんのインフラ設定費は、昨日請求書切ったので、これも来月末振り込みですね」

 「そこまでは何とかなるわけか」

 「その後はジリ貧ですけどね。お先真っ暗です。ゼロです……というか、ゼロ以下ですね」

 シゲルの表情は、口で言うほど暗くなかった。別に無理をして明るく振る舞っているわけではなく、根っからの楽天家なのだ。

 「まあ、いざとなったら、2人で道路工事のアルバイトでもやってください」シゲルはニコニコしながら言った。「私は金勘定しかできませんからパスしますが」

 この会社で営業活動をしているのは、タカシ1人だけだった。タカシ自身も実装作業をやっているので、受注が重なったときなど、営業と開発の二足のわらじが負荷になることはしばしばあった。そのたびに営業マンを増員しようか、という話になるのだが、受注ばかり増えたとしても、それをこなすエンジニアがいなければ意味がない。人件費が増えることへの不安もあって、これまで増員計画は見送られてきた。先月までは特に問題にもならなかったのだが、今回はそれが裏目に出た形だった。

 顧客との打ち合わせもタカシの仕事だ。T市立図書館の件で、タカシが20日以上動けなかったので、交渉中の案件はすべて他社に持っていかれてしまった。小口の案件ばかりだったが、トータルすれば無視することはできない受注額になるはずだった。

 それ以上に厳しかったのは、すでに受注していたサイト作成や、業務システム作成が途中で止まってしまったことだった。ノリヒロもがんばってくれたようだが、窓口であるタカシがいなければ進まないことも多く、多くの案件で大幅な遅延を生むことになってしまった。その結果、いくつかの顧客が、タカシの逮捕と遅延を理由に契約打ち切りを通告してくることになった。ギリギリで仕事に復帰したタカシが奔走し、過去の実績とタカシに対する信頼感のおかげで、2社ほどは打ち切りを撤回してくれたものの、7月の入金額は予定の半分以下となった。

 タカシは6月と7月の役員報酬――被雇用者の2人の給与とそれほど差があるわけではない――を辞退し、シゲルとノリヒロの給与の遅配をせざるを得なかった。それでも、会社を維持するための諸経費の支払いにはなお不足していた。やむを得ずタカシは、個人の定期預金を崩して、その穴を埋める羽目になった。

 「とにかく、明日からまた心当たりを回ってみるよ」

 「期待してます」シゲルは元気付けるように言うと、話題を変えた。「そういえば、見ました? 例の横浜市の下請けって、サードアイという会社だったらしいですね」

 シゲルが言っているのは、数日前から、Twitterなどで話題に上がっているコネクション解放漏れを生んだ原因とされた会社のことだった。

 「うん、さっき見た」

 「サードアイって会社、知ってます? うちみたいなベンチャーらしいですけどね」

 「ああ、まあ、名前ぐらいは」

 「そうですか」シゲルは首を傾げた。「本当にそこが原因だったら、損害賠償請求することを考えてもいいんじゃないかな、と思ったんですけどね」

 「損害賠償か……」

 「そうですよ。少なくとも、倉敷さんが稼働できなかった分の賠償ぐらいは」

 「……」

 タカシは内心ため息をついた。損害賠償の話が出たのは、これが初めてではなかった。

 デジタルITの神代記者が、ジャーナリストならではの綿密な調査能力を駆使して、T市立図書館のサービスが落ちた原因が、タカシのプログラムにあったわけではないことを突き止めてくれたのは、8月中旬のことだった。

 記事の内容は、デジタルITに掲載される前日に、神代記者が知らせてくれたのだが、不在だったタカシに代わってその一報を受けたシゲルは、珍しく真面目な顔で相談を持ちかけてきた。

 「損害賠償?」タカシは驚いた。「五堂テクノにか?」

 「他にありますか。まさか、図書館を訴えるわけにはいかないでしょう」

 「当たりまえだ。図書館に迷惑をかけてしまったのは事実なんだから」

 「じゃあ、五堂テクノしかないでしょう」

 「損害って言ってもなあ」タカシは躊躇った。「裁判するってことか?」

 「いえいえ、別に五堂テクノの悪行を世に知らしめるのが目的ではないんですよ。そんなことしたって、うちのキャッシュフローが改善するわけではないですからね。そうではなく、うちが被った損害を補填してもらえないもんかな、と思いましてね」

 「そうは言ってもなあ」

 するとシゲルは自分のPCで何かを検索して、タカシに見せた。法テラスのお知らせページだった。

 「ほら、法テラスが横浜で無料法律相談会をやるんですよ。これならタダですよ。行ってみて損はないでしょう。しかも次の日曜日なんですよ」

 確かに、開催日時は来週の日曜日になっている。

 「先着70名になってるぞ」

 「だから、朝一番で行くんですよ」シゲルは画面の一部をマウスカーソルで反転させた。「10時受付ですから、9時には行ってましょう」

 タカシはあまり気は進まなかったものの、シゲルが会社のキャッシュフローを心配していることは分かっていたので、その言葉に従うことにした。

 だが、その日、無料法律相談を担当してくれた若手弁護士は、タカシの話を半分ほど聞いた段階で、早くも首を横に振りはじめた。

 「それはたぶん無理だと思いますよ」

 「どうしてですか?」シゲルが身を乗り出した。「現実にこちらは損害を受けているんですよ」

 「どうしてもというなら裁判を行うことはできますが、その準備には、おそらく何年もかかりますね」若手弁護士は気の毒そうに言った。「その図書館のトラブルの原因が確実に相手の会社にあるということを証明する必要があります。その調査を行う費用の捻出、今の会社の状態で可能ですか?」

 シゲルが口をつぐんだ。

 「向こうは大手企業ですから、顧問弁護士もついているでしょうし、費用だって問題ないでしょう。でも、倉敷さんの場合は、どうでしょうか?」

 「……」

 「仮にすべての準備が整い、勝訴したとしても、損害賠償金は要求よりかなり減額されるのが通例なんです」

 若手弁護士は置いてあった紙コップのお茶を飲むと、視線を2人から微妙に逸らした。

 「要するに手間がかかるわりに、得られるものは少ないということです。さらに敗訴する可能性だってあります。その場合、逆に向こうから損害賠償を請求されるでしょう。そういうリスクを考えると……」

 弁護士は最後に言葉を濁したが、タカシは頷いた。それぐらいなら、今の状態の方がマシだ。

 「あ、でも」あきらめきれないらしいシゲルが聞いた。「前に聞いたことがあるんですけど、1日で終わる裁判があるって」

 「少額訴訟制度のことですね」弁護士はシゲルを見た。「これは主に個人の訴訟が前提ですし、請求できる金額が60万円以下に限られます」

 「そうですか」シゲルは肩を落とした。「ダメですか」

 「あ、念のために言っておきますが」弁護士はタカシとシゲルの顔を順にのぞき込んだ。「腹いせにネットで相手の会社の悪評なんかを流してはダメですよ。それこそ、威力業務妨害に問われますからね」

 「あーあ。この世に正義ってないんですかね」

 「正義なんてものはないんです」シゲルの問いになっていない問いに、弁護士は真面目な顔で答えた。「あるのは法律だけです」

 2人は礼を言ってその場を辞した。

 もともと大して期待もしていなかったタカシはともかく、シゲルはかなり失望したようで、それっきり損害賠償の話を持ち出すことはなかった。仮に一時的に賠償金を得られたところで、落ちた評判の回復という根本的な解決方法にはならないということも分かっていたのだろう。

 ところが、新たにサードアイという対象が浮上してきた今、またもやその考えがぶり返してきたようだ。

 「……いや、しかしな」タカシは首を横に振った。「小さなベンチャーだぞ。そりゃあうちよりは大きいかもしれないけど、それでも現金が金庫からあふれてるわけでもないだろう。このご時世、システム屋はどこも厳しいからな」

 「それはそうですが……」

 「やめておこうや。たとえサードアイのプログラマが原因を作ったにせよ、最終的にリリースしたのはGTSなんだから、責任もそっちにあると考えるのが筋だしな」

 「まあ、そうですね」もともと、勝算は少ないとわかっていたらしく、シゲルも強くは押してこなかった。「どうせたいした金も取れなさそうですしね」

 「それに裁判でごたごたしている会社に、仕事を発注するのは、大手でなくても躊躇うだろうしな。こうなったら俺たちがやれることは1つだけだよ。前以上にちゃんと仕事をして、クライアントの信頼を取り戻す。それしかない」

 納得した顔のシゲルは仕事に戻った。

 だが、シゲルの提案は、タカシにあることを思い出させることになった。その日の夜、2人の従業員が帰宅した後も、タカシは窓の外のささやかな夜景を見つめながら考え続けた。ようやく考えがまとまったのは、22時を回った頃だった。タカシは帰宅を少し遅らせることに決めると、メーラーを立ち上げて、長いメールを入力しはじめた。宛先はデジタルITの神代記者だった。

(続く)

 この物語は事実を基にしたフィクションです。実在する団体、個人とは一切関係ありません。また司法当局の捜査方法などが、現実のそれと異なっている可能性があります。

Comment(4)

コメント

名無しPG

続き待ってましたー。
早速拝見したところちょっと気になった箇所がいくつかあったので、ざっと。


考えてもいいんじゃないな

考えてもいいんじゃないかな


あったわけではないことが突き止めてくれたのは

あったわけではないことを突き止めてくれたのは


不在だったタカシに変わって

不在だったタカシに代わって


対して期待もしていなかった

大して期待もしていなかった


たいした金も取れなさそう

大した金も取れなさそう
(他の話で「大した」で統一されていたので)


あと無料法律相談の話が出たときと実際に相談に行った際なんですが、

「開催日時は来週の日曜日になっている」
「翌朝、無料法律相談を担当してくれた若手弁護士は」

と、「来週」のあと「翌朝」となっていて、時系列がちょっとよく分からなかったです。

等々、新年早々重箱の隅を突きまくりで恐縮ですが、
今年も楽しみにしています。^^

初投稿です

城之内の蒔いた種のせいで、本来なら被害者同士である二社がいがみ合うフラグ……
このまま行くと、いっそ清々しいまでに胸糞の悪い展開が待ち構えていそうですね……

名無しPGさん、ご指摘ありがとうございます。
「たいした」以外は修正しました。
いつもアップするときには、ひらがなで「たいした」と書いていて、おそらく編集部の方で「大した」に直していただいていると思うのですが、今回は師走のせいか修正されていなかったようです。

今年もよろしくお願いします。

オレンジ

リーベルGさん、今年もよろしくお願いします。

さて今回で東海林さんの案のお披露目かなと思ってましたが、ここでタカシ視点ですか。
うまい具合に引っ張りますね。
しかし社員2人の会社て…大変だなー。(私のいる会社も小さいけど)

>初投稿ですさん
私はむしろ誤解が解けて対城之内で共闘しないかなーと楽しみにしてます。

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