ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

人形つかい(9)上級SEは無慈悲な夜の女王

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 結局、橋本さんからの確認完了の電話は、終電ギリギリになって、ようやくかかってきた。ぼくは礼を言うのもそこそこに、PCをシャットダウンし、戸締まりを確認し、セコムのコンソールでロックをかけると、駅に向かってダッシュした。ホームに駆け込んだときには、すでに列車のドアが閉まりかけていたが、必死の形相を哀れに思ってくれたらしい車掌さんがドアを開けてくれたので、かろうじて飛び乗ることができた。日頃の運動不足がたたり、ぼくは肩で息をしながら座席に崩れこんだ。

 次の朝は、東海林さんと2人でエースシステムに行くことになっていた。電車の中で昨夜の話をすると、東海林さんは同情してくれるどころか、「バカかお前は」と舌打ちした。

 「そりゃ明らかに仕様追加だろうが。そういう場合は営業を通して追加見積を出さないと、こっちの一方的な損で終わっちまうんだぞ」

 「……」

 「それにだな。『これ追加して』って言われて、ほいほいと了解すると、次から同じようなことをガンガン言ってくるぞ。つまらない前例を作るんじゃないよ」

 「でも今日、K自動車さんに見せたいって言われたので……」

 「それがどうした?」ぼくの弱々しい反論を、東海林さんは一蹴した。「それはエース側の問題だろ。うちの問題じゃない。うちはお前のボランティアに残業代を払うほど、裕福な会社じゃないんだからな」

 一言もなかった。

 開発室に着くと、石川さん以下のライズの人たちが慌ただしく出入りしていた。東海林さんが石川さんに訊いたところ、デモ環境を会議室に準備するために駆り出されたのだという。

 「今朝になっていきなり言うんだからたまらんですよ」石川さんはぼやいた。「こっちの開発環境とは別に、もう一系統作らないといかんので」

ということは、データベース、Webサーバ、APサーバを準備し、アプリケーション環境を構築するということだ。

 「いつまでですか?」

 「K自動車の人は11:00に来るらしいですね」石川さんは自分のPCからアプリケーションをエクスポートしていた。「それまでにってことです」

あと1時間弱だ。

 「何か手伝いましょうか?」

 東海林さんが申し出たが、石川さんは疲れたように笑って固辞した。確かに、今から説明を聞いても、手伝うどころか、単に時間のロスになるだけだろう。ぼくたちは自分たちの席に座り、PCを起動した。

 「昨日のうちに準備しておけばいいのに」

 「誰かのケツを叩くのに忙しかったんだろうよ」東海林さんは皮肉な口調で言った。

 やがて、K自動車様来社予定時刻の15分ぐらい前に、ライズの人たちがぞろぞろと戻ってきた。

 「終わりましたか」東海林さんが石川さんに声をかけた。

 「昨日のうちに準備しといてほしいですよ」石川さんは、ぼくと同じことを言った。

 「高杉さんは橋本さんにちゃんと言ったそうなんですけどね」

 「そうですか」

何かが気になり、ぼくはしばし手を止めた。やがて思い当たったのは、昨夜の橋本さんの言葉だった。

『他の準備は全部終わっていて、これだけなんですよ』

他の準備というからには、デモ用の環境設定も含まれると思うのだが。

 ――まあ、いいか。

 それほど気になったわけでもないので、ぼくは仕事に戻った。そして、12:00の少し前、開発室のドアが開いた。高杉さんを先頭に何人かの男女が物珍しそうにこちらを覗いている。橋本さんも後ろの方にいた。

 「ここが開発室です。ここにいるのは、わたくしの指揮下で開発に従事していただいている協力会社の方たちです」

 「ほう」高杉さんと並んでいた、恰幅の良い男性が感心したように室内を見回した。「みなさん、ご苦労様です」

ぼくたちは、ばらばらに頭を下げた。胸に来客用バッジを付けているので、おそらく、この人がK自動車の担当者なのだろう。

 「今日見せてもらった画面から見ると、なかなか開発は順調のようですね」K自動車の男性は高杉さんに言った。「あの原価コードの入力は便利でしたよ」

 「それはどうも」高杉さんはにこやかに礼を言った。

 「こちらのイメージ通りでしたね。現場からも強くオーダーされていたので、どういう風に動くのか楽しみだったんでね。ひと安心ですよ」

 ――ん?

 確か、昨夜、橋本さんは仕様が「急に」追加されたようなことを言っていた気がする。そうではなくて、最初からのオーダーだったんだろうか。

 ぼくは橋本さんに視線を向けた。高杉さんたちが何事か談笑しながら開発室を出て行くところで、橋本さんはドアを押さえていた。最後に一礼してドアを閉めたとき、その横顔には何の表情も浮かんでいなかった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 例によって13:00から食堂で昼食を取ったあと、東海林さんは喫煙ルームへと消えていった。ぼくは自販機で缶コーヒーを買い、開発室へ戻ろうとしたとき、食堂の片隅の席に橋本さんが座っているのを発見した。少し迷ったが、近づいて声をかけた。

 「橋本さん、おつかれさまです」

 橋本さんは顔を上げた。一人きりでいたかったのか、ちらりと不快そうな表情が浮かんだものの、ぼくの顔を見ると、それが和らいだ。

 「ああ、細川さん、おつかれさまです。昨日は遅くまでありがとうございました」

 「いえ、仕事ですから。いいですか?」ぼくは向かいの席を示した。

 橋本さんが黙って頷いたので、ぼくは腰を下ろした。周囲には食事を取っているエースシステム社員が何人かいる。

 橋本さんの前にはクラブサンドセットのトレイが、手つかずのまま置かれていた。ぼくは缶コーヒーを開け、一口飲んだ。

 「デモはうまくいきましたか?」

 「え、ああ、ええ、もちろんです」橋本さんは、どこかぼんやりとした笑みを見せた。「K自動車の担当者の方にも喜んでいただけたようです」

 「昨日の原価コードの仕様追加の件ですけど」ぼくは慎重に切り出した。「最初からエンドユーザのオーダーにあったんですか?」

 ぼくが先ほどのK自動車さんの言葉を聞いていたことを、橋本さんは知っている。橋本さんが知っているということを、ぼくは知っている。それなのに橋本さんは、少しの間、答えるのを躊躇うように、手をつけていないサンドイッチを凝視していた。

 「そうなんです」橋本さんはサンドイッチに目を落としたまま答えた。「原価コードを複数入力できるように、という仕様は要件定義段階で上がっていたようです」

 ――やっぱり……

 「それが設計書に反映されていなかったのはどうしてなんですか?」

 「すみません。それはこっちの事情なので」

 呟くようにそう言ったまま、橋本さんは黙ってしまった。

 ぼくが次に何を言えばいいのか、考えあぐねていると、第三の人物が、テーブルの横に出現した。

 「あら、橋本くん」

 張りのあるソプラノ。高杉さんだった。橋本さんは弾かれたように顔を上げた。

 「こんなところにいたの」橋本さんに優しい声をかけた後、高杉さんはぼくの顔を見つめた。「ええと、確かライズの方でしたかしら?」

 「……サードアイの細川です」

 「ああ、そうでしたね」そう言った後、高杉さんは何かに思い当たったような表情を浮かべた。「何でも、昨日の夜は、原価コードの仕様の件で橋本がご迷惑をおかけしたそうで」

 「いえ、仕事ですから」

 「橋本もがんばっているんですけど、まだまだ未熟なところがありましてね。原価コードの仕様だって、早めに設計書に入れるように指示しておいたはずなのに。昨日、設計書を確認してびっくりしたんですよ」

 橋本さんは大きく目を見開いて、まじまじと上司を見つめていた。何かを言おうとするように口を開きかけたが、高杉さんはオーバーライドするように言葉を続けた。

 「あなただから信頼して任せたのに」高杉さんは外人のように肩をすくめてみせた。「もう少し勉強が必要なようね」

 橋本さんは、再びうつむいてしまった。何人かの社員が視線を向けている。ぼくは思いがけなく他人の夫婦げんかを見てしまったような、何ともいえない居心地の悪さを感じていたが、席を立つわけにもいかない。

 確かに橋本さんが、システムエンジニアとしては勉強不足なのは間違いない。だが、それを指摘するにしても、人目のある食堂で、しかも他社の人間の前で、やる必要はないのではないだろうか。

 そもそも橋本さんがぼくたちに渡していた設計書は、上長の承認を取ったものではなかったのか? 上長とは、もちろん高杉さんのことだ。仮に橋本さんが設計書に原価コードの仕様を入れ忘れたのだとしても、承認時にその漏れに気付かなかったのだとすれば、高杉さんにも非はある。いや、むしろ、高杉さんが全責任を負うべきなんじゃないか?

 もし、ぼくが橋本さんの立場で同じ目に遭ったら、たぶん黙ってはいないと思う。相手が大先輩の東海林さんだったとしても、言うべきことは言ったに違いない。ところが、橋本さんは言い訳も弁解も、何ひとつ口にしようとしなかった。

 高杉さんは、なおも橋本さんの能力を疑問視する言葉を、穏やかだが辛辣な口調で投げかけていたが、十分な効果を確認したのか、矛を収めた。

 「まあ、いいわ。いつまでもサボってないで、早く仕事に戻りなさい」

 橋本さんが顔を上げたとき、高杉さんはすでに背中を向けていた。そのとき気付いたのだが、両手には何も持っていない。

 ――一体、何をしに食堂に来たんだ?

 高杉さんの長身が視界から消えたとき、橋本さんの顔に、いくぶん強張った笑みが戻ってきた。

 「すみません。お見苦しいところを」

 「高杉さんが忘れたんじゃないですか?」ぼくはこらえきれずに訊いた。目的語を省略してしまったが、橋本さんにはちゃんとわかったようだ。

 「私がきちんと確認すればよかったんですよ」

 橋本さんはそう言うと、思い出したようにサンドイッチを紙ナプキンでつかみ、口に運んだ。

 「高杉さんが仕様を伝えなかったんですね?」

 つい詰問調になってしまい、橋本さんは顔を背け、口の中のものを飲み込んだ後、固い口調で答えた。

 「サードアイさんには関係のないことです」

 半ば肯定しているようなものだ。しかし、そう来られたら、こっちは何も言えない。

 「そうですか」ぼくは席を立った。「お邪魔しました」

橋本さんは頷いただけだった。

 開発室へ戻りながら、ぼくは今しがた目撃したやり取りの意味を考えた。橋本さんが高杉さんに何も言い返せなかったのは、相手が年収1000万超の上級SE様だからかもしれない。間違いを指摘したり、反論するなど、天に唾棄する行為に等しいのだろう。事実、エースシステム社内において、上級SEが神のような絶対的な存在であるらしいことは、うすうすわかっていた。

 高い報酬には、高い責任が伴う。上級SEには、高い技術力と部下への指導力が求められて当然だ。だが、先ほどの高杉さんの言動は、部下を指導するというより、単に恥をかかせるためだけが目的だったように見えた。それが事実だとしたら、何のためにそんなことをしたのだろう。

 ――足を引っ張っていたんだろうな、あれは。

 上からハイヒールで蹴りつけていたという形容の方がふさわしいが、とにかく、これがこの会社の根底にあるものなのだ。エースシステムでは、同僚はみな競争相手でしかないのだ。SEは上級SEになるために、上級SEはその地位を維持するために、チャンスがあれば、部下や上司の失点を見逃さず、フォローするどころか、嬉々として傷口を広げにかかるのが、この会社のエンジニアたちなのだろう。

 想像でしかないが、例の原価コードの仕様を、高杉さんは忘れていたのではなく、故意にギリギリまで橋本さんに伝えなかったのではないだろうか。もし、昨夜、ぼくが早めに帰宅してしまっていたら、機能が実装されていなかった責任を橋本さんに押しつけるつもりだったのではないだろうか。

 ひょっとして、今までの技術的は無茶苦茶な仕様も、橋本さんに無理難題を押しつける、という意味があったのか?いくらなんでも、そこまでするとは思えないが。

 ――とは言うものの、何もできないしなあ。

 ぼくが口を出すことではない……というより、橋本さんは気の毒だが、あまり関わりたくはない。

 開発室に戻ると、東海林さんは先に仕事を始めていた。ライズの人たちは、デモ環境の撤去に行っているようで、誰もいなかった。ぼくは、東海林さんに先ほどの高杉さんと橋本さんとのやり取りを簡単に話した。

 「ふうん」東海林さんは面白そうな顔をしたが、他人事だという態度はぼくと変わらなかった。「まあ、この会社ならありそうなことだけどな。要するに政治力が大事ってことだろ」

 言葉には出さなかったが、その後に「技術力よりも」という言葉が続いているのは明らかだった。

 「そうですね。何といっても年収1000万ですから」

 「どっちにしてもおれたちには縁のない話だ。おれはもう、ここの仕事をさっさと終わらせて、平和な日常に戻りたくて仕方がないよ」

 それは同感だった。ぼくは、仕事を終わらせるために、自分の担当分の実装を再開した。

 これが他人事でなくなったのは、翌週のことだった。

(続く)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。似たような行動や言動があったとすれば偶然の一致でしかありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(2)

コメント

虚数(i)

「月は無慈悲な夜の女王」・・・懐かしいタイトルを思い出しました。

暇人

つい数ヶ月前に「エース」を退職したものですが,このコラムの再現度の高さに驚きましたw日本企業にはもっと技術を大事にしてほしいですね。「裁量」とか「成果」といった単語ばかりで内部は「高杉さん」みたいな人があふれてますよ。。。

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