言語の歴史は人類の歴史。そして人類はコンピュータを言語で動かすようになった。

エンジニアとしての勉強 ~ しつこく追従してみる ~

»

実のところ、エンジニアとしての勉強とは何かよく分からなくなっています。例えば、金魚を飼っている人が金魚を眺めるように、ソフトをインストールするときに表示されるインターフェイスを眺めています。SNSに投稿するノリで、自分でスクリプトを書いて実行しています。ちょうど、出力されたエラーやメッセージがSNSでのレスポンスのようなものです。個人の範疇においては、「それ、やったからなんなんですかね?」という感覚になりつつあります。努力とかそういうのではなく、ただの行動です。

なので、実はたいした思い入れもなく、スキルが足りなければ勉強してないなと思うだけです。単に、風呂に入ってなければ臭うというのと同じレベルの認識です。もしこれが接客業なら、臭うのは致命的です。同様に、スキルが足りないのはエンジニアとして致命的です。だからと言って、人格云々やあるべき論を振りかざすのは、いささか大人気に欠けます。自分でもずるいと思いますが、勉強のネタでコラムを書くときは、ネットで見た情報を元に視点を固定して、そこから見えるものを淡々と文章に書いているだけです。実は、大した思い入れがある訳でもなく、主義主張がある訳でもなかったりします。

接客業でも、稼ぎたければまず清潔にします。風呂もはいらずに酸っぱい臭いを漂わせて「〇〇万を〇日で売り上げる」という接客のハウツー本を読んでいたとして、どう思うでしょうか。ただの痛い人です。同様に、ろくにスキルも磨かずにキャリアとかシステムのあるべき論を語られても、単に痛い人でしかありません。ただ、接客とエンジニアの差は、勉強しなくても立場だけでエンジニアとして振舞うことができてしまいます。そこそこ良い大学を出て大きめの会社で立場を手に入れれば、勉強しなくてもエンジニアとして扱ってもらえます。

そういう「偽物」からすれば、勉強の話なんて不愉快以外の何物でもないでしょう。勉強の話題をネットで見ていると、「偽物」の見苦しいコメントをよく見かけます。そういう人は、エンジニア以外の道で今より充実した生活を手に入れて欲しいと思います。幸福をかみしめていれば、そういう見苦しいコメントは出ません。ただ、「エンジニアとして」と条件を付けるなら日々の精進は必須です。「偽物」と呼ばれて屈辱を感じるのであれば、勉強してスキルを磨きましょう。それだけです。

結局のところ、勉強というのは幸福を感じるための手段です。そもそも、幸福に感じる要素がなければ長くは続きません。何をどう感じるかという感性が勉強の継続の肝になるので、エンジニアには向き不向きはあると思います。勉強が楽しいと思えないならエンジニアには不向きです。「誰でもがんばればできるよ!」と一見前向きな言葉を投げかけるのは、個人の感性を無視した取り繕いのように見えてやさしさを感じません。エンジニアだろうと何だろうと、その人の特性にあった仕事なり立場に立てればそれでOKです。

Comment(2)

コメント

おたみ

>実はたいした思い入れもなく、スキルが足りなければ勉強してないなと思うだけです。単に、風呂に入ってなければ臭うというのと同じレベルの認識です。


この感覚は少しわかる気がします。
他の人からは「勉強している」と受け取られても私個人としては「勉強している」感覚がありません。


「お腹が空いたからご飯を食べる」
「気になることがあるから調べる」


ある意味習慣化しているのでしょうか。。。

仕事だからと言ってこの感覚が変わることはないように思います。
期限とか予算の関係でやり方を選ぶことはあると思います。

偽物エンジニア

誰だって鍛錬は嫌なものではないだろうか。。正義がなぜ勝つのかを考えたとき人殺しが好きな悪党よりも日々の鍛錬を欠かさない使命を持った善人が結局スキルを高められるからじゃないかと思うんですよね。だから、頑張って勉強しようよ。辛いけど負けないように。家族もいるし。


- Horus -
鍛錬が楽しくて仕方ない人もけっこう見てます。

コメントを投稿する