組み込み系システムに3年、オープン系システムに7年。徹夜がこたえるお年頃。独身貴族から平民へと降格したホリは、墓場へまっしぐらなのだろうか……。

生き急ぐ僕たち

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 どうやら僕は生き急いでいるらしい。

 ことの発端は、ある週末ののんびりとした午後。僕はWebサイトを見ながら、テレビを見て、そして雑誌を読んでいたのだ。それを見た奥さんの一言がこれだ。

 「何をそんなに生き急いでるの?」

 確かに客観的に見れば、その姿はすさまじいのだろう。手元にはリモコンとマウス。目の前にはノートパソコン、その奥には液晶テレビ。テーブルの上には広げられた雑誌。三角形を描くように、僕はわけへだてなくそれらすべてを楽しんでいたのだ。

■“ながら”のルーツ■

 1つのことだけをしていると気がすまなくなったのは、いつからだろうか? 子供のころはテレビを見ながら食事をすると、よく怒られたものだ。勉強するにも、音楽を聴きながらでは集中できず、静かな環境で1つのことに集中できたはずだった。それがいつのまにか、このありさまだ。

 恐らく原因は1人暮らし時代にあるのだろう。注意してくれる人は誰もおらず、自分の好きなようにやりたい放題。その結果、僕はテレビ、ネットサーフィン、読書、食事とを一度にこなす(こなせる?)ようになっていたのだ。

 もう少しで聖徳太子に追いつくレベルである。

 当然、僕は聖徳太子の器ではない。そのため、1つ1つのことがものすごく雑になるのだ。テレビ番組、巡回Webサイト、読んだ雑誌。すべてが適当であり、頭の中に入っていないのだ(まぁ、それほど集中する必要がないものばかり選んでいるというのもある)。

 何か1つのことをのんびりやるということができなくなってしまったのだ。

 仕事でもそうなのである。もし、仮に自分がシングルタスクのPCが全盛のときに仕事をしていたらと思うと……。遅々として進まない作業にイライラしていたかもしれない。

 今は、複数のウィンドウを常に立ち上げ、複数の仕事を同時に進めている。もちろんプロジェクトも同時進行で、それに慣れてしまった自分が怖いのだ。

 聴けば、この業界では同じような人が多いらしい。あなたの周り、もしくはあなた自身がそうではないだろうか? 常に携帯を手放さず、何かをするにも“ながら”状態。

 仕事面では効率の良い、頑張る人というイメージがあるだろう。気づけばプライベートにまで浸食している“ながら病”患者のできあがりである。

■“ながら”を止めてみてはどうでしょう■

 さすがに、常に“ながら”状態では疲れきってしまう。どこかでガス抜きをしなければ頭がパンクしてしまうのだ。

 ゆっくりと何かを考える時間が、実はある。それは、駅から家までの歩く道のりだ。歩きながら物思いにふける。この時間は自分で何かじっくりと考え事をするのにとても良い時間となっているのである。

 朝、さわやかな風を感じながらコラムのネタなどを考えながら歩く。夜、暗い中、じっくりと自分の未来を空想してみたりもする。このわずか15分程度の時間がものすごく重要だと最近気づき始めたのだ(ただ、これも歩きながらということで、“ながら”ではある……)。

 何かをしながらというのが悪いわけではない。ただ、常に何かに追われるように生活する必要はない。人間はマグロではないので、止まっても死なないのだ。じっくりと落ち着いて考える時間をとり、“ながら”を止めてみると、思わぬ変化がおとずれるかもしれないのである。

 もともと“ながら”に無縁だった奥さんからすれば、僕の姿は異常に生き急いでいるように見えたのだろう。

 続く

Comment(3)

コメント

stcm

私も”ながら病”患者の一人です。

昔は一つのことに集中できていたようなきがするのですが、
最近は注意散漫というか、何かやっていると別のことを思い出したり
考えたりして割り込み処理が入ってしまいます。

たしかに、何かに追われているように生きている気もします。

これはいかんと
一つのことに没頭できる時間を増やそうとは思っているのですが、
なかなかうまくいかない次第です。

ホリ

>stcmさん

コメントありがとうございます。

IT化の恩恵で世の中便利になるばかり。
それにつられて人間もマルチタスク化を迫られているんでしょうね。

学生時代は、のんびりと“ながら”をやっていたような気がしますが
社会人になると焦りからくるマルチタスクのような気がします。

常に追われていると、いつか息切れしてしまいそうです。
お互い、ほどほどにしましょう。(^^;

hiro

あなたのこの記事を読んでいる人も、「○○しながら」読んでいるわけです。
~しながらを否定すると、あなたの記事が読まれる数は激減する。

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