断片化する世界と振り回されるわたし
■いつもと違って落ち着かない「読書の秋」
秋になった。
窓から吹き込む風が心地よく、リーン、リーンとどこからともなく虫の音が聞こえる。こんな日にほんの少しばかりお酒を飲みながら、窓辺で読書にふける。最高の贅沢(ぜいたく)だ。
わたしはその日、晩酌の余韻を残しながら、お気に入りの音楽に身を委ねつつ読書をしていた。
耳にはイヤホン。傍らに音楽を再生するためのPCがある。
先ほどから、どうにも本の内容が頭に流れこんでこない。わたしの思考は、断続的に中断を余儀なくされている。
いくつかのセンテンスを読み進めると、PCから「ポロロン♪」という電子音が聞こえる。また来た。
ディスプレイを覗き込むと、Twitterクライアントから新着ツイートを知らせるポップアップ。そこにはエクスクラメーション・マークが付加されている。わたし宛のツイートを知らせるパターンだ。
今回はスルーだな、と瞬時にツイートへの対応を判断。読書に戻ろうとすると、今度は携帯電話がメールを受信した。mixiからのメッセージ受信を知らせるメールだ。
絶え間なく押し寄せてくる情報の洪水に飲まれ、わたしの思考は読書に集中できない。
とうとう耐えきれずに、わたしはPCと携帯電話の電源を切る。
再び読書。しかし数段落読み進めると、さきほどまでTwitterで展開されていた議論が気になりだす。結局、章を読み終えるごとにiPadを起動し、Twitterにくだらない書き込みをしている。
わたしの生活は、完全にデジタルガジェットに支配されている。わたし自身の意思の介在は、それに対して非常に微々たるもののようだ。
■メディアの発達によって、われわれが得たものと失ったもの
ニコラス・G・カーはその著書『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』において、このような表現で前述のわたしの状況を説明する。
ネットの豊かさと引き換えにわれわれが手放したもの(中略)は、「かつての直線的思考プロセス」である。冷静で、集中しており、気をそらされたりしない直線的精神は、脇へ押しやられてしまった。代わりに中心へ躍り出たのは、断片化された短い情報を、順にではなくしばしば重なり合うようなかたちで、突発的爆発のようにして受け止め、分配しようとする新たな種類の精神である。
Twitter、mixi、Facebook、Gmail、お気に入りブログのRSS……。わたしたちが保有する数種類のアカウントは、絶えず断片的に情報を提供し続ける。インターネットで配信される雑多な情報やコミュニケーション。それらは、わたしたちの注意力を「断片化」し、わたしたちから 「直線的思考プロセス」を失わせてしまった。
もう1つ、この書籍は、歴史家のダニエル・ベルがインターネットで電子書籍を読んで感じたことに関する記事を紹介している。非常に印象的な内容なので、併せて紹介しよう。
ほんの数クリックで、テクストがコンピュータ・スクリーン上に正しく表示された。読みはじめたところ、よく書けている有益な本だというのに、集中を保つことがひどく難しいことに気づいた。上下にスクロールし、キーワードを検索し、普段より頻繁にコーヒーのお代わりをし、メールが来ていないか確認し、新着ニュースをチェックし、机の引き出しのファイルを整理した。とうとう読み終えたときは満足な気持ちだった。ところが一週間後、読んだ内容を思い出そうとすると、なかなか思い出せなくなっていた。
電子書籍を表示する端末は、ほんの少しカーソルを動かし、クリックするだけで別の情報へアクセスできる。分からない単語は辞書で引くのではなくネットで検索し、そのついでにメールチェックなどができる。電子端末は、集中して読書をする媒体として、本当にふさわしいだろうか。
メディアの進化はわたしたちに利便性を与える一方で、失わせるものもある。
ニコラス・G・カーは同書で、大変興味深いエピソードでもってそれを説明する。
かつて、物語は人づての口伝によって継承されてきた。文字と、それを記録する媒体が発明され、口伝による継承は失われてしまう。そしてそれによって失われたものは、言葉が音声で伝えられる際の韻や、耳で覚えやすいように工夫されたリズム。「そこに暮らす人間たちが経験していたであろう感情、ないし情動的関わり」である。
インターネットがもたらす情報のスピード感は、わたしたちから「深く考える態度」を失わせてしまったと彼は考える。文字が、音声による情動的な情報伝達を失わせたように。
■電子書籍は「書の断片化」を促進する
わたしたちは、これまで大量に所有していたレコードやCDの山を、たった1つのポータブル再生デバイスに集約した。
ポータブル再生デバイスの面白さは、シャッフル機能にある。数千曲の音楽が、ランダムに再生される。最新のヒット曲、学生時代の思い出の曲、CDの時代ならば、再び思い返すこともなかったであろう曲が、唐突にシャッフル機能によって呼び起こされ、妙な感動を覚えることもある。
ただ、シャッフル機能は、制作者がアルバムを作成する際に作品に込めた意図――アルバムにどの曲を収録するか、その曲順をどうするかなど――を消失させる。音楽は、デバイスの進化によって、アルバムというひとつのカテゴライズされたコンテンツから、1曲ごとに「断片化」されてしまった。
書籍も電子化によってそれと同じ道をたどるのではないか。
OCRによって記録され、検索可能となった書籍は、ひとつのセンテンスごとに断片化される。
わたしたちは気になるキーワードで検索を行い、デバイスはその条件にヒットするキーワードと、その周辺の文章を数多の書籍から抽出し、一覧表示する。わたしたちは、目的のワードにたどりつくまで、書籍を最初から順に読み進めたりなどしない。
やはり、ここでも「直線的思考プロセス」は失われてしまう。
■断片化する世界との向き合い方
情報の断片化は、避けては通れない未来のようである。わたしたちがいまさら、かつての情動的な関わりで情報を伝達していた口伝の時代に戻りたいと願っても、そうはならないように。
ではわたしたちは、このように「断片化する世界」とどう向きあえばよいのだろう。
断片化され、洪水のように押し寄せてくる大量の情報。わたしたちはそのすべてを処理することはできない。自分にとって必要か、そうでないかを情報1つひとつに対して判断し、取捨する必要がある。そしてその判断のための物差しは、各個人の経験や洞察によって培われるとわたしは考える。
情報の断片化を認識し、それを判断するための自我を強く意識する。
強い自我への意識は、情報を取捨するための物差しとなる。最も愚かなことは、「情報の断片」を意識できず、それに振り回されてしまうことだ。
皮肉なことに、「断片化」された情報の処理は、「直線的」に連続した経験によって蓄積され、醸成された自我によってのみ実行されるのである。
この問題はわたしたちにとって、新しいメディアに対するリテラシーを育む重要なものだ。
情報やメディアの「断片」は増えることはあっても減ることはない。世界に対して、正しい認識を得るために、時には意図的に情報を遮断し、直線的な深い思考に身を沈めることも必要だろう。
わたしは、深い思考を身につけ、そのうえで「断片化された情報」を適切に処理するために、どうすればよいのか。今後も継続して、この問題を考えていきたいと思う。
まずはじめの一歩として、Twitterクライアントを起動しながら本を読むことは、やめたほうがよさそうだ。