IBMのスパコンと戦ったチェス王者の意思決定力――『決定力を鍛える』
決定力を鍛える―チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣 ガルリ・カスパロフ(著) 近藤隆文(翻訳) 日本放送出版協会 2007年11月 ISBN-10: 4140812621 ISBN-13: 978-4140812624 2200円(税抜) |
著者カスパロフは、チェスの世界王者である。
22歳のとき、世界最年少で世界王座を獲得し、15年もの間チェス・チャンピオンとして君臨した。競争が極めて激しいチェスの世界で、1位の座をこうも長く維持するのは並大抵のことではない。その強さのあまり彼は「チャンピオン中のチャンピオン」と称され、彼を打倒するためのチェス・コンピュータが作られたほどだった。カスパロフとIBM製のスーパーコンピュータ「Deep Blue」との戦いは、史上最強の「人間vs.機械」戦として伝説に残っている。
■意思決定の激戦を勝ち抜けた「意思決定」のプロ
本書のテーマは「意思決定プロセス」だ。チェスプレイヤーは、1手1手ごとに戦局を読み、戦略を駆使しながら駒を動かす判断を下す。チェスが“最も知的なゲーム”と呼ばれるゆえんはここにある。「計画、推測、戦略、分析、評価、判断」というプロセスに熟達したカスパロフは、まさに「意思決定」のプロであるといえよう。
だが、本書はいわゆるハウツーもののビジネス書ではない。確かに、カスパロフは「戦略と戦術は何が違うか」「問いを正確に設定する」といった、意思決定に関するノウハウを解説する。しかし、実例は、どこまでいっても「チェス」という、一風変わった本なのだ(邦題はなんだか普通のビジネス書っぽいが、原題は“How Life Imitates Chess”。個人的には原題の方が好きだ)。
■自分の判断に自信が持てないエンジニアへ
では、本書はチェスに興味を持つ人にしか役立たないのか? そんなことはない。われわれは、日々意思決定をする。納期までにプロダクトが仕上がらずにプロジェクトが遅延するとき、突発的なトラブルが起こったとき、プロジェクトメンバーが突然会社に来なくなったとき、顧客に改善案を提案するとき……われわれの脳内で起こっているプロセスは、チェスプレイヤーがたどるものと同じだ。
- 計画を立てる。戦略と戦術を立案する
- 相手と自分を分析し、予測を立てる
- 分析結果を評価する
- 評価に基づいて判断する
意思決定をひたすら繰り返し、その結果が勝敗に直結するチェスの世界を制覇したカスパロフの思考は、驚くほどにシンプルだ。徹底的に余計なものを削ぎ落しており、ナイフのように鋭く尖って無駄がない。
だから、本書は「どこでどう判断すればいいか分からない」「自分の判断に自信が持てない」「なんとなく判断して生きてきた」というエンジニアにおすすめだ。また、「振り返り」や「資産を見積もる」といったアジャイル的な単語も多々出てくることから、アジャイル開発に興味を持つエンジニアにも役立つだろう。彼の語る意思決定プロセスのノウハウは、仕事を改善するための示唆を与えてくれる。
●戦略をころころ変えない
戦略家は自身の戦略に対する信念と、それをやり遂げる勇気をもたなくてはならず、と同時に、変化が必要になったらすぐ気づけるよう心を開いておかなくてはならない(p.53)
戦略は、そうころころと変えるものではない。負け戦になると、人はすぐに戦略を変えたがる傾向にあるが、戦略をころころ変えるのは戦略がないも同然だと、カスパロフは忠告している。
外部環境が変わったからといって、目標をすぐに変えるリーダーは「柔軟」なのではない。「戦略がない」のだ。そして、戦略なしに戦いを挑むことは、最も避けるべき事態である。変化に対応することは重要だが、もし変化する場合は「熟慮と正当な理由」が必要なのだと、カスパロフは語る。
●プロセスが結果の勝敗を決める。プロセスを常に評価する
興味深いのが、カスパロフは結果よりも過程を重視していることだ。「結果は意思決定の質に対して得られるフィードバック」であり、意思決定の精度が低ければ低いほど負ける確率は高くなる。「プロセスより結果」ではなく「プロセスが結果を生む」という発想なのである。
これは、先に紹介した「戦略をころころ変えてはならない」という発想に通じるものがある。すなわち、事前に予測、分析して準備することが重要なのであり、相手の失敗や奇跡を待って「どうにかなったからいいや」と思考を止めてはならぬと、カスパロフは指摘している。
皆が死にもの狂いに働いて、結果としてどうにかなったプロジェクトは、往々にして「終わり良ければすべて良し」と片付けられがちだ。なぜプロジェクトが遅延したのか、どこで判断ミスがあったのか、それを評価して分析し、次回の対策を練ることが重要なのだ。
●自分の「意思決定」の癖を意識する
さらに、カスパロフは「自分の癖を意識する」重要性を指摘している。自分がどうやって判断しているか、その判断基準や癖は、普通意識しない。だが、それでは意思決定プロセスを改善することはできない。
カスパロフは、自らがどのような判断をし、どこで間違えることが多いのかを徹底的に洗い出す。本書では、幾度となく「あの対局ではこの手で間違えた」「ここで守りに入ったのが問題だった」といった自己評価が登場する。自分がやった仕事を徹底的に分析・評価し、それこそ“取りつかれたように”対策を練ってきたからこそ、カスパロフは腕を磨き続けられたのだろう。
■勝負強さの秘けつ?
本書はとにかく、ポーンやナイト、アンパサンといったチェス用語だらけではあるが、それらを理解しなくても十分に読める(もっとも、理解していた方がより楽しめるとは思う)。
カスパロフは、ダイナミックかつ勝気なプレイが得意だったらしい。本書を読んでいると、「なるほど、勝気な性格だったのだな」と思える表現にいくつも出合って興味深い。自分に自信を持ちながらも、徹底的に反省して改善を目指す姿勢が、「勝負強さ」の秘けつなのだろうかと思った。
エンジニアの仕事は、チェスのように「勝負に勝つこと」が目的ではない。しかし、プロセス改善や判断力を必要とされる場面は山とある。「頭脳戦」を生き抜くために、チェス王者に学んでみるのも、悪くはないと思う。
(@IT自分戦略研究所 金武明日香)